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第二十七話 サンタクロース
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茜が死んで二か月が過ぎようとしていた。
俺はあれから、また学校に通うようになっていた。
朝起きてから学校に行くと、退屈な授業を受け、放課後になると一人パトロールをする。
困っている人がいると手伝った。町の掲示板にチラシを張って、困りごとを募集した。その中で思い当たる。これを茜も一人でやっていたことに。あいつはどんな気持ちで学校に通い、授業を受け、放課後を一人過ごしていたのだろうか。今となってはもう知りようもない。
ある日、学校が終わり、家に帰ろうと玄関で靴を履いていた時、おばあさんに話しかけられた。
「あなたが青井くんね?」
「はい、そうですが」
誰だったか。
少し悩んで思い当たる。茜の病室で何度か見たことがある。茜のおばあちゃんだろうか。
「お話をするのは、初めましてね。茜の祖母です」
「茜の友達の、青井翼といいます」
「知ってるわ」
茜のおばあちゃんは、ゆったりと優しそうにしゃべる。
「あなたのことは、茜から毎日のように聞いてたの。あの子、あなたのことを本当に楽しそうに話すの」
「今日は、あなたに茜の話をしたくて、訪ねてきたの。あの子はあなたのことが大好きだったから、あなたにあの子のことを知っておいて欲しいと思って。本当は話そうかどうかすごく迷ったのだけれど、あなたはあの子のことを知る権利があると思って話すことにしたわ」
茜のこと?なんだ?
「あの子はね、小学校に上がる前まで血の繋がった両親に虐待されていたの」
俺は突然の告白に衝撃を隠せなかった。茜が虐待されていた?
「ひどいものだったそうよ。私は病気でずっと入院していて、あの子のことを知らなかった。私のバカ息子に子供がいたことさえ知らなかった。あの子は泣くことを許されなかった。泣くたびに殴られて、罵られ、愛情を受けずに育ってきたの。
あの子が六歳になった頃、あの子の両親は二人そろってあの子を残して消えたの。あの子は捨てられたのよ。その時初めて私はあの子の存在を知った。私が初めて会った時のあの子は酷かったわ。着ているものはボロボロで、髪の毛もボサボサ、人形みたいに表情がなかった。言葉も話せなくて、いくら話しかけてもうんともすんとも言わなかったわ。ただ、殴られないようにこちらの機嫌を伺うだけ。見ていて心が裂けそうだった。そして、私はあの子を育てることに決めたわ。最初はずっと無表情だったあの子も、私が長い時間をかけて愛情を注ぎ続けた結果、感情が豊かになって、明るい女の子に育ったわ。小学校に上がる頃には、よく笑って、表情豊かな普通の女の子になった。
ただ、一つだけ、治らなかったところがあったの。
あの子は、どんなに悲しくても、苦しくても、辛くても泣かないの。
ただ、困ったように笑うだけ。
もともと元気で明るい性格なんだけど、あの子はそれが許されない環境で育ったせいで、強くなりすぎてしまったの。いいえ。強さだけじゃないわ。あの子はちゃんとどこかで苦しんでる。私には分かるわ。ただそれをうまく吐き出せないだけ。
学校も楽しくないようで、私が学校どう?って聞くと、楽しいよってしか言わなかったんだけど、あの子の顔を見ればすぐに分かった。
でも、ある時から急に毎日楽しそうになって、あなたの話をよくするようになったの。
今日は青井くんがどうだったとか、翼くんと何をしたとか、本当に楽しそうで。茜は酷い両親のせいで、テレビもろくに見せてもらえなくて、ヒーローの存在も知らなかったの。でも、私に引き取られてすぐに、一人で遊びに行った公園で、あなたを見たらしくて、走って家に帰って来たと思ったら、ヒーローって何?って無表情だったあの子が、目を輝かせて言うのよ。それでテレビで見せたら、「茜ヒーローになる」って言いだして、それ以来どんどん明るくなっていったわ。本当にあなたのおかげなのよ。病気のことも、気にしてないように見えて、あの子は…」
「…それ以上は、言わなくても、分かります」
俺は愚かだった。星野茜は強い女の子だと思い込んでいた。
決して諦めない、普通の人とは根本から違う、不屈の心を持った、特別な人間だと思っていた。
違った。あいつも一人の人間だった。当たり前だ。あいつもずっと苦しんでいたんだ。
学校でも、独りぼっちで、毎日戦ってたんだ。自分の信念を貫き通すために、変な目で見られるのも、周囲から浮くのも、本当は気にしていたんだ。
そして、病気だってそうだ。
あいつはただの一度だって、弱音を吐かなかった。泣かなかった。当たり散らさなかった。諦めなかった。
でも、心のどこかで、たった一人で苦しんでいた。それをさらけ出す術を知らなくて、誰も見ていなくても、悲しむことも苦しむことも許されなかった。本当は、心のどこかで泣いていたんじゃないのか?あいつはああ見えて、実は繊細だったじゃないか。なぜそんなことにも気づけなかったんだ。
いつからか、よく、あいつの困ったような笑い顔を見るようになった。あれはあいつのSOSだったんじゃないのか。
あいつはよく、あいつの好きだったあの曲を聴いていた。学校でも、病院でも。
あの曲を聴くと勇気がもらえるって言っていた。戦っていたからなんじゃないのか。一人誰にも頼れずに、苦しんでいたんじゃないのか。
俺は、あいつのために、もっと何かしてやれることがあったんじゃないのか?
気づけば俺は走り出していた。
「くそおおおおおおおおおおおお!」
何が正義の味方だ。大切な人のことさえ何も知らず、救えなかった。
抑え込んでいた色んな感情が溢れ出てくる。
この一か月近く、この町を回って、強く感じた。
この町は、俺の心は、茜との思い出で溢れすぎている。どこに行っても、茜との記憶が蘇えった。放課後二人で歩いて回った記憶が、いつも俺の頭に付いて回った。
最初は話題で持ちきりだった茜の話を、もう誰もしなくなった。あんなにも茜はこの世界のためにあろうと生きたのに、この世界は、茜がいなくても、何一つ変わることなく回っている。
誰かがもう、茜のことを忘れてしまったかもしれない。
いつか、誰かが茜のことを完全に忘れてしまうかもしれない。
いつかは俺も、彼女の声を、笑顔を、匂いを、温度を忘れてしまうのかもしれない。
このまま大人になって、この気持ちも思い出に変わるのかもしれない。
茜を失ったことを、大人になったなんて言葉で済ませて乗り越えたくない。
もう一度会いたい。また、バカみたいに言い合いたい。
やり直したい。
彼女の側で、支えてあげたい。
茜っ!
茜への思いが泉のように溢れだしてきて止まらなかった。
気づけば、茜が入院していた学校近くの病院裏の廃ビルまでやってきていた。
俺は何となく、階段を上ってみる。
しばらく階段を上ると屋上に出た。
案の定、誰もいないようで、景色を見ようと柵に近づくと、どこからか声が聞こえてきた。
「柵に近づかない方がいいよ。老化してるからね」
声の主を探して、上を見ると、屋上のタンクの上に人が座っていた。
「久しぶりだね。少年」
よく見ると、以前迷子になっていた黒いハット帽の男だった。
「こんなところでなにしてるんです?」
「それはこっちのセリフだよ。僕は仕事をしに来たんだけど、君は一体何のためにこんな誰もいないはずの廃ビルに入って来たんだい?」
仕事?こんな所で?
「まあ、聞かなくても分かるか。本来ここはもう来れないはずだからね。普通の人には見えないはずだから。君は強く願ったんじゃないかい?例えば、過去に戻りたい、とかね」
「…」
男が言っている言葉の意味はよく分からなかった。雰囲気も怪しげだし、そろそろ引き返した方がいいかもしれない。
「実を言うとね、この場所は危険だから封じにきたんだよ。ほんとなら、もっと早くに終わってたんだけど、君たちの様子を見てたら、長引いちゃってね。でも、タイミングが良かったね。まだ終わってなくて良かったよ」
俺たちを見ていた?何なんだこのおっさんは。
「何の話をしてるんです?」
「この町で、こんな噂話聞いたことないかい?病院裏の廃ビルから飛び降りたら過去に戻れる、ってね」
そういえば、以前クラスの女子がそんなことを話していた。
「それが何なんです?ただの噂でしょ」
「火のない所に煙は立たぬってね。昔からよく言うじゃないか。本来ならこういうのはすぐに塞がないといけないんだけどね。今回はサービスだ。君たちには道を教えてもらった恩があるしね。僕はこう見えてけっこう義理堅いんだよ」
「話が見えませんね。あなた何者なんです?」
「分からないかい?僕はいわゆるサンタさんさ。メリークリスマス。少年」
なんだ危ないやつか。
「こんなサンタがいてたまるかよ。もう、帰っていいですか?」
「最近のトレンドだろ?ハット帽は。今時サンタ帽なんて被らないよ。いいのかい?お嬢ちゃんともう一度会いたいんだろ?」
戻りかけた足を止める。
「僕の言っていることを信じてもらうために、少し僕の話をしようか」
男は無精ひげをさすりながら、片足をもう片方の足に上にのっけた。
「僕はね、サンタが来ない子供の家にプレゼントを届けるのが仕事なんだ。今年も子供たちの笑顔を見れて良かったよ。だからね、茜ちゃんのことも知ってるよ」
なぜこいつが茜の名前を知っている。俺の目つきが鋭くなると、男はニヤッと笑った。
「あの子は六歳までひどい両親の下にいたからね。クリスマスプレゼントを貰えなかった。だから僕が代わりにあげてたんだ。毎年枕元においてあるクリスマスプレゼントにあの子は喜んでた。その反面、彼女の両親はなぜか毎年どこからか湧いて出てくるプレゼントを不快に思って、捨てたり、壊したりするんだけどね、不思議なことに次の日にはまた全く同じプレゼントが新品の状態で置いてある。気味悪く思った彼女の両親も、放っておくようになったんだよ。だから彼女はこんなに大きくなっても、僕たちのことを信じてくれていたのさ。
どうだい?少しは信じる気になっただろ?」
なぜこいつは茜が虐待されていたことまで知っている。それに、そんな親の元で育った茜がサンタクロースを信じていたのは確かに違和感がある。
だが、だからと言ってこんな噂話を信じるのか?
「他にも君のことも知ってるよ、青井翼くん。まだ、信じられないのなら君のことを離してもいいよ。君の後悔してること、君の心の傷について」
心臓がドクンと跳ねあがる。まさか。
「いや。流石にこれはやめておくか。ごめんね、僕としたことが少し意地悪だったかもしれない。まあ、何にせよ、君に任せるよ。このまま帰って今の日常を受け入れるも良し。それとも、勇気を出して、一歩踏み出すも良し。それにしても、君も罪な男だなー。女の子三人に心配かけて」
このまま帰って、また、茜のいない日常に戻る?
それとも、勇気を出して一歩踏み出して、もう一度茜に会いに行く?
会いたい。茜に。もう一度会える可能性が少しでもあるのなら。やり直せるのなら。少し前に自分で言ってたじゃないか。百万分の一の可能性でも会えるのなら、それも悪くないって。
「彼女はあまりに不憫すぎる。大きすぎるものを背負わされている。僕としても君に支えてあげて欲しいんだよね。ちなみに、安心して飛びなよ。僕がいる限り成功率は120%だ」
俺の鼓動が早くなり始める。いいのか?こんな得体の知れないやつの言うことを信じるのか?嘘だったら死ぬんだぞ?
俺の中の冷静な部分が葛藤し始める。
もし、逆の立場なら茜はどうしただろうか。
そんなの決まり切っている。
あいつなら、迷わず飛んだだろう。茜がブランコから飛び降りた光景を思い出す。あの時の茜は、まるで、本当に飛んでいるかのようだった。
俺は覚悟を決めた。
ごめん。母さん、澪。俺は茜を選ぶよ。
額から汗が流れ落ちる。呼吸も荒い。
大丈夫。俺の名前は青井翼だ。俺には翼があるじゃないか。
右足を前に出して、構える。
「いつ跳んでもいいよ。準備はできてる」
怖い。足ががくがくしてきた。全身が震え出す。
その時、二つの手らしきものが、俺の背中に触れた気がした。なぜだろう。すごく落ち着く。気づけば震えは止まっていた。
そして、その誰かが俺の背中を押してくれた気がした。
頭の中に、あいつのよく聞いていたあの音楽が鳴り響く。
ガーガガガガーッ♪ガーガガーガーッ♪ガーガガガガーッ♪ガーガガーガーッ♪
俺は前に向かって走り出す。
「ああああああああああああああっ!」
柵が壊れている所から、叫びながらそのまま空に向かって跳んだ。
俺の翼ならどこへだって飛べるはずだ。過去にだって。
俺は宙に浮いていた。
ように思った。
しかし、次の瞬間、地面に向かって落下する。灰色のコンクリートが近づいてくる。
ああ騙された。俺は飛べなかった。
そのまま地面に衝突した、と思った瞬間。
地面をすり抜けた。
真っ黒な海に沈んでいく。なんだここは。息ができない。意識が途切れ――
俺はあれから、また学校に通うようになっていた。
朝起きてから学校に行くと、退屈な授業を受け、放課後になると一人パトロールをする。
困っている人がいると手伝った。町の掲示板にチラシを張って、困りごとを募集した。その中で思い当たる。これを茜も一人でやっていたことに。あいつはどんな気持ちで学校に通い、授業を受け、放課後を一人過ごしていたのだろうか。今となってはもう知りようもない。
ある日、学校が終わり、家に帰ろうと玄関で靴を履いていた時、おばあさんに話しかけられた。
「あなたが青井くんね?」
「はい、そうですが」
誰だったか。
少し悩んで思い当たる。茜の病室で何度か見たことがある。茜のおばあちゃんだろうか。
「お話をするのは、初めましてね。茜の祖母です」
「茜の友達の、青井翼といいます」
「知ってるわ」
茜のおばあちゃんは、ゆったりと優しそうにしゃべる。
「あなたのことは、茜から毎日のように聞いてたの。あの子、あなたのことを本当に楽しそうに話すの」
「今日は、あなたに茜の話をしたくて、訪ねてきたの。あの子はあなたのことが大好きだったから、あなたにあの子のことを知っておいて欲しいと思って。本当は話そうかどうかすごく迷ったのだけれど、あなたはあの子のことを知る権利があると思って話すことにしたわ」
茜のこと?なんだ?
「あの子はね、小学校に上がる前まで血の繋がった両親に虐待されていたの」
俺は突然の告白に衝撃を隠せなかった。茜が虐待されていた?
「ひどいものだったそうよ。私は病気でずっと入院していて、あの子のことを知らなかった。私のバカ息子に子供がいたことさえ知らなかった。あの子は泣くことを許されなかった。泣くたびに殴られて、罵られ、愛情を受けずに育ってきたの。
あの子が六歳になった頃、あの子の両親は二人そろってあの子を残して消えたの。あの子は捨てられたのよ。その時初めて私はあの子の存在を知った。私が初めて会った時のあの子は酷かったわ。着ているものはボロボロで、髪の毛もボサボサ、人形みたいに表情がなかった。言葉も話せなくて、いくら話しかけてもうんともすんとも言わなかったわ。ただ、殴られないようにこちらの機嫌を伺うだけ。見ていて心が裂けそうだった。そして、私はあの子を育てることに決めたわ。最初はずっと無表情だったあの子も、私が長い時間をかけて愛情を注ぎ続けた結果、感情が豊かになって、明るい女の子に育ったわ。小学校に上がる頃には、よく笑って、表情豊かな普通の女の子になった。
ただ、一つだけ、治らなかったところがあったの。
あの子は、どんなに悲しくても、苦しくても、辛くても泣かないの。
ただ、困ったように笑うだけ。
もともと元気で明るい性格なんだけど、あの子はそれが許されない環境で育ったせいで、強くなりすぎてしまったの。いいえ。強さだけじゃないわ。あの子はちゃんとどこかで苦しんでる。私には分かるわ。ただそれをうまく吐き出せないだけ。
学校も楽しくないようで、私が学校どう?って聞くと、楽しいよってしか言わなかったんだけど、あの子の顔を見ればすぐに分かった。
でも、ある時から急に毎日楽しそうになって、あなたの話をよくするようになったの。
今日は青井くんがどうだったとか、翼くんと何をしたとか、本当に楽しそうで。茜は酷い両親のせいで、テレビもろくに見せてもらえなくて、ヒーローの存在も知らなかったの。でも、私に引き取られてすぐに、一人で遊びに行った公園で、あなたを見たらしくて、走って家に帰って来たと思ったら、ヒーローって何?って無表情だったあの子が、目を輝かせて言うのよ。それでテレビで見せたら、「茜ヒーローになる」って言いだして、それ以来どんどん明るくなっていったわ。本当にあなたのおかげなのよ。病気のことも、気にしてないように見えて、あの子は…」
「…それ以上は、言わなくても、分かります」
俺は愚かだった。星野茜は強い女の子だと思い込んでいた。
決して諦めない、普通の人とは根本から違う、不屈の心を持った、特別な人間だと思っていた。
違った。あいつも一人の人間だった。当たり前だ。あいつもずっと苦しんでいたんだ。
学校でも、独りぼっちで、毎日戦ってたんだ。自分の信念を貫き通すために、変な目で見られるのも、周囲から浮くのも、本当は気にしていたんだ。
そして、病気だってそうだ。
あいつはただの一度だって、弱音を吐かなかった。泣かなかった。当たり散らさなかった。諦めなかった。
でも、心のどこかで、たった一人で苦しんでいた。それをさらけ出す術を知らなくて、誰も見ていなくても、悲しむことも苦しむことも許されなかった。本当は、心のどこかで泣いていたんじゃないのか?あいつはああ見えて、実は繊細だったじゃないか。なぜそんなことにも気づけなかったんだ。
いつからか、よく、あいつの困ったような笑い顔を見るようになった。あれはあいつのSOSだったんじゃないのか。
あいつはよく、あいつの好きだったあの曲を聴いていた。学校でも、病院でも。
あの曲を聴くと勇気がもらえるって言っていた。戦っていたからなんじゃないのか。一人誰にも頼れずに、苦しんでいたんじゃないのか。
俺は、あいつのために、もっと何かしてやれることがあったんじゃないのか?
気づけば俺は走り出していた。
「くそおおおおおおおおおおおお!」
何が正義の味方だ。大切な人のことさえ何も知らず、救えなかった。
抑え込んでいた色んな感情が溢れ出てくる。
この一か月近く、この町を回って、強く感じた。
この町は、俺の心は、茜との思い出で溢れすぎている。どこに行っても、茜との記憶が蘇えった。放課後二人で歩いて回った記憶が、いつも俺の頭に付いて回った。
最初は話題で持ちきりだった茜の話を、もう誰もしなくなった。あんなにも茜はこの世界のためにあろうと生きたのに、この世界は、茜がいなくても、何一つ変わることなく回っている。
誰かがもう、茜のことを忘れてしまったかもしれない。
いつか、誰かが茜のことを完全に忘れてしまうかもしれない。
いつかは俺も、彼女の声を、笑顔を、匂いを、温度を忘れてしまうのかもしれない。
このまま大人になって、この気持ちも思い出に変わるのかもしれない。
茜を失ったことを、大人になったなんて言葉で済ませて乗り越えたくない。
もう一度会いたい。また、バカみたいに言い合いたい。
やり直したい。
彼女の側で、支えてあげたい。
茜っ!
茜への思いが泉のように溢れだしてきて止まらなかった。
気づけば、茜が入院していた学校近くの病院裏の廃ビルまでやってきていた。
俺は何となく、階段を上ってみる。
しばらく階段を上ると屋上に出た。
案の定、誰もいないようで、景色を見ようと柵に近づくと、どこからか声が聞こえてきた。
「柵に近づかない方がいいよ。老化してるからね」
声の主を探して、上を見ると、屋上のタンクの上に人が座っていた。
「久しぶりだね。少年」
よく見ると、以前迷子になっていた黒いハット帽の男だった。
「こんなところでなにしてるんです?」
「それはこっちのセリフだよ。僕は仕事をしに来たんだけど、君は一体何のためにこんな誰もいないはずの廃ビルに入って来たんだい?」
仕事?こんな所で?
「まあ、聞かなくても分かるか。本来ここはもう来れないはずだからね。普通の人には見えないはずだから。君は強く願ったんじゃないかい?例えば、過去に戻りたい、とかね」
「…」
男が言っている言葉の意味はよく分からなかった。雰囲気も怪しげだし、そろそろ引き返した方がいいかもしれない。
「実を言うとね、この場所は危険だから封じにきたんだよ。ほんとなら、もっと早くに終わってたんだけど、君たちの様子を見てたら、長引いちゃってね。でも、タイミングが良かったね。まだ終わってなくて良かったよ」
俺たちを見ていた?何なんだこのおっさんは。
「何の話をしてるんです?」
「この町で、こんな噂話聞いたことないかい?病院裏の廃ビルから飛び降りたら過去に戻れる、ってね」
そういえば、以前クラスの女子がそんなことを話していた。
「それが何なんです?ただの噂でしょ」
「火のない所に煙は立たぬってね。昔からよく言うじゃないか。本来ならこういうのはすぐに塞がないといけないんだけどね。今回はサービスだ。君たちには道を教えてもらった恩があるしね。僕はこう見えてけっこう義理堅いんだよ」
「話が見えませんね。あなた何者なんです?」
「分からないかい?僕はいわゆるサンタさんさ。メリークリスマス。少年」
なんだ危ないやつか。
「こんなサンタがいてたまるかよ。もう、帰っていいですか?」
「最近のトレンドだろ?ハット帽は。今時サンタ帽なんて被らないよ。いいのかい?お嬢ちゃんともう一度会いたいんだろ?」
戻りかけた足を止める。
「僕の言っていることを信じてもらうために、少し僕の話をしようか」
男は無精ひげをさすりながら、片足をもう片方の足に上にのっけた。
「僕はね、サンタが来ない子供の家にプレゼントを届けるのが仕事なんだ。今年も子供たちの笑顔を見れて良かったよ。だからね、茜ちゃんのことも知ってるよ」
なぜこいつが茜の名前を知っている。俺の目つきが鋭くなると、男はニヤッと笑った。
「あの子は六歳までひどい両親の下にいたからね。クリスマスプレゼントを貰えなかった。だから僕が代わりにあげてたんだ。毎年枕元においてあるクリスマスプレゼントにあの子は喜んでた。その反面、彼女の両親はなぜか毎年どこからか湧いて出てくるプレゼントを不快に思って、捨てたり、壊したりするんだけどね、不思議なことに次の日にはまた全く同じプレゼントが新品の状態で置いてある。気味悪く思った彼女の両親も、放っておくようになったんだよ。だから彼女はこんなに大きくなっても、僕たちのことを信じてくれていたのさ。
どうだい?少しは信じる気になっただろ?」
なぜこいつは茜が虐待されていたことまで知っている。それに、そんな親の元で育った茜がサンタクロースを信じていたのは確かに違和感がある。
だが、だからと言ってこんな噂話を信じるのか?
「他にも君のことも知ってるよ、青井翼くん。まだ、信じられないのなら君のことを離してもいいよ。君の後悔してること、君の心の傷について」
心臓がドクンと跳ねあがる。まさか。
「いや。流石にこれはやめておくか。ごめんね、僕としたことが少し意地悪だったかもしれない。まあ、何にせよ、君に任せるよ。このまま帰って今の日常を受け入れるも良し。それとも、勇気を出して、一歩踏み出すも良し。それにしても、君も罪な男だなー。女の子三人に心配かけて」
このまま帰って、また、茜のいない日常に戻る?
それとも、勇気を出して一歩踏み出して、もう一度茜に会いに行く?
会いたい。茜に。もう一度会える可能性が少しでもあるのなら。やり直せるのなら。少し前に自分で言ってたじゃないか。百万分の一の可能性でも会えるのなら、それも悪くないって。
「彼女はあまりに不憫すぎる。大きすぎるものを背負わされている。僕としても君に支えてあげて欲しいんだよね。ちなみに、安心して飛びなよ。僕がいる限り成功率は120%だ」
俺の鼓動が早くなり始める。いいのか?こんな得体の知れないやつの言うことを信じるのか?嘘だったら死ぬんだぞ?
俺の中の冷静な部分が葛藤し始める。
もし、逆の立場なら茜はどうしただろうか。
そんなの決まり切っている。
あいつなら、迷わず飛んだだろう。茜がブランコから飛び降りた光景を思い出す。あの時の茜は、まるで、本当に飛んでいるかのようだった。
俺は覚悟を決めた。
ごめん。母さん、澪。俺は茜を選ぶよ。
額から汗が流れ落ちる。呼吸も荒い。
大丈夫。俺の名前は青井翼だ。俺には翼があるじゃないか。
右足を前に出して、構える。
「いつ跳んでもいいよ。準備はできてる」
怖い。足ががくがくしてきた。全身が震え出す。
その時、二つの手らしきものが、俺の背中に触れた気がした。なぜだろう。すごく落ち着く。気づけば震えは止まっていた。
そして、その誰かが俺の背中を押してくれた気がした。
頭の中に、あいつのよく聞いていたあの音楽が鳴り響く。
ガーガガガガーッ♪ガーガガーガーッ♪ガーガガガガーッ♪ガーガガーガーッ♪
俺は前に向かって走り出す。
「ああああああああああああああっ!」
柵が壊れている所から、叫びながらそのまま空に向かって跳んだ。
俺の翼ならどこへだって飛べるはずだ。過去にだって。
俺は宙に浮いていた。
ように思った。
しかし、次の瞬間、地面に向かって落下する。灰色のコンクリートが近づいてくる。
ああ騙された。俺は飛べなかった。
そのまま地面に衝突した、と思った瞬間。
地面をすり抜けた。
真っ黒な海に沈んでいく。なんだここは。息ができない。意識が途切れ――
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