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蝶々舞う夜

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「こら、エレナ」

 扇子をやんわりと片手で払い除けながら、ドゴールは私を窘めるように名前を呼んだ。

「私は気にしていない。だからお前も気にするな」

「っ、でも……」

「良いから、折角の可愛らしいドレスも化粧も台無しだぞ」

「……はい」

 可愛い。その言葉を聞いて、胸の奥につんと針に刺されたような痛みを感じたのだった。

 二人でいる時、彼はよく私を可愛いと褒めてくれる。しかし、美しいと言ったことは一度も無かった。

 きっと私は、夫の美の基準にも当てはまらなかったのだろう。せいぜい気が向いた時可愛がる飼い猫程度の存在といったところか。

 彼に対する怒りは無いものの、‘‘基準外’’となった自分への失望は、日を追うごとに心の中に積み重なっていたのだった。

「ところでドゴール様。……肩に水たまりができてますわよ」

 見れば、ルーシアの小さな口は半開きになっており、よだれがドゴールの肩口にこぼれ落ちていた。彼のジャケットに大きな‘‘池’’が出来上がるのは、最早時間の問題だろう。

「ああ、分かってる。……端から諦めてるから、大丈夫だ」

「とは言っても、涎の染みをつけて女王陛下にお会いする訳にはいかないでしょう? 驚かれてしまいますわ」

 私は可愛らしいほっぺたを少しだけ捲り、ルーシアの頭と彼の服の間に薄い綿のハンカチを滑り込ませた。

「はい、出来上がり」

「悪いな」

「やあ、三人共よく来てくれたね」

 遠くから私達に声をかけてきたのは、ドゴールの友人である政治家のホルストとその妻のイルザであった。ちなみに彼らは、この夜会の主催者である。

 ホルストとドゴールは独立戦争中に知り合い、共に戦った戦友である。一見対称的な二人ではあるものの、戦後も交流が途切れることなく続き、家族ぐるみで仲が良いのだから不思議なものだ。

「ホルスト、久しぶりだな」

「あら、仔熊ちゃんはもうおねんねかしら?」

 仔熊ことルーシアの顔を覗き込んで、イルザは穏やかに笑った。

 ルーシアはふわふわのカールがかった栗毛色の髪を、いつも頭の高いところで二つぐくりにしている。それが熊の耳のようで、かつドゴールの妹であるため、いつしか仔熊と呼ばれるようになっていたのである。

「そうなんですの……折角、参加を快諾いただいたのに申し訳ございません」

「何、気にしなくて良いよ。それに、お嬢様からすれば格式ばった夜会よりも、お茶会の方が楽しいかもしれないしね。今度うちで茶会を開催する時は、小さなお客様あてにも招待状を送ることにするよ」

 そう言って、ホルストは笑った。

「エレナ様、今日のドレスもとっても素敵ですわ」

「ふふ、ありがとうございます」

「夜空に蝶々が舞ってるみたいで……綺麗ですこと」

 私が今日着てきたドレスには、黒の布地に小さな蝶々のビーズとクリスタルが散りばめられている。それは、結婚前からずっと気に入りの一着であった。

 季節が春ということもあり、夜会に参加している貴婦人や令嬢の多くは花柄のドレスを着ていた。加えて今季はライラック柄が流行りと聞いていたので、この夜会が‘‘花畑’’になることは目に見えていた。だから敢えて、裏をかいてみたという訳である。

 気に入りとはいえ、このドレスを着るのは結婚してから初めてのことであった。首元からデコルテまで肌が出るデザインであるため、着るのを長らく躊躇っていたのだ。今日思い切って着てみたのは、良い意味での気持ちの変化からであった。
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