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恋人ごっこの幕開け
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「ルルドの餌やり、任せて悪かったな」
夕食の席で、ヴァルタサールは私にそう言ったのだった。
「いいえ、とんでもないですわ。私も楽しんでおりますので」
「そうか。なら良かった」
夫婦二人の食事は、いつだって静かなものだ。彼は最低限のことしか私に話しかけないし、私も最低限のことしか答えない。だから、大半が互いに無言なのである。
クラリスが手に入れられなかった男は、あっさり自分の手に落ちた。しかし私達は、愛し合うとは到底程遠い関係であった。彼としては国益のため。私としては復讐のため。そこに愛が無いのは当然だろう。
事実、彼は私と手を繋ごうとすらしないのだ。夫婦としての身体の繋がりはあれど、それは明確な拒絶であると私は捉えていた。
ランダードは林業が盛んなこともあり、楽器の生産地として有名な国であった。街では腕利きの職人が多数工房を構えているため、各国の演奏家はこぞって楽器の購入や修理のためにランダードへやって来るのである。
しかし、ランダード出身の有名な作曲家や演奏家が居ないのが現状だ。ランダードに楽器と職人はいるが奏者が居ない。そんな言葉すらある程であった。
そのため義父であるランダード国王は、演奏家や作曲家の育成に力を入れていた。そんな背景もあり、私は歓迎されたのである。
「是非、我が国の音楽文化発展に協力して欲しい」
婚約が決まった際、義両親はそう言ってくれたのだった。
けれども。結婚してから、私は人前で一度も演奏していなかった。
自分の演奏に、価値が見いだせなくなっていたのだ。ルルドのためにヴァイオリンを弾く時ですら、あの日がフラッシュバックすることが多々あった。
あの子と比べたら、私なんてゴミクズも当然だわ。
そんな呪いのような一言が頭を過ぎり、手が止まってしまうのだ。クラリスの望むものを奪ったけれども、ヴァイオリン演奏を心から楽しんでいた日々が戻ることは無かった。
悪いことをした罰、かしらね。
「オリヴィア、どうした?」
ヴァルタサールに呼びかけられ、ハッと我に返る。慌てて前を向けば、感情の映らない瞳がこちらを見据えていた。
「し、失礼しました。いかがしましたか?」
「ああ、一つ報告があるんだ」
ナイフとフォークを一旦皿に置いてから、ヴァルタサールは続けた。
「来月、国内の楽器職人を招いて茶会を行うことになった」
「あら、素敵ですわ」
「折角の機会だ。楽器の修繕やメンテナンスが必要ならば、一度見てもらうと良い。話は通しておく」
「……はい?」
思わず私は聞き返した。そんな私に対して、彼はこともなさげにこう言ったのだった。
「ヴァイオリン、続けているのだろう?」
彼の言葉を聞いて、サッと血の気が引いていくのが分かった。
「……いつからそれをご存知で?」
「つい最近だ。温室に向かった時、偶然お前が弾いているのが扉越しに聞こえてきたんだ。その日は邪魔にならぬよう、そのまま帰ったが」
「……」
「盗み聞きしたようで悪かった」
彼の言葉に、私は応えを返せないでいた。
「この際だから言わせてもらう。オリヴィア、私はお前の演奏がまた聞きたい」
手に触れないくせに、演奏は聞きたい?
ふざけるのもいい加減にして欲しい。
「そのためには、どうすれば良い?」
「……」
お断りします。
そうはっきり言えたならば、どれだけ良いだろう。しかし、そんな言い方をすれば彼の機嫌を損ねてしまう。厄介なことになるのはなるべく避けたいところだ。
思考を巡らせた結果、私はある結論に至った。
断るではなく、彼に諦めてもらおうと。
「……でしたら一つ、お願いしたいことがございます」
「ああ」
「恋人のように、私を愛していただきたいのです」
私の藪から棒な物言いにも、ヴァルタサールは表情を変えることは無かった。そんな彼に内心怖気付きながらも、私はさらに続けた。
「音楽を奏でる原動力は、他者に対する気持ちだと、私は考えております」
「……ふむ」
「結婚してからヴァルタサール様とお話したりする機会も少なくて、寂しくて。今の状態ですと、きっと気の抜けた演奏しか出来ませんわ」
「成程な」
「ですので……できれば、王太子と王太子妃としてではなく、無邪気に想い合う恋人同士のように一夜だけでも深く愛してくださいませんか?」
論理の飛躍にも程がある。
我ながら、歯が浮くような台詞だ。こんな言葉を口にしている自らの姿を想像するだけで寒気がする。馬鹿げたことを言われて、流石の彼もさぞ驚いているだろう。
触れたくもない女に愛を示すだなんて、拷問に近い筈だ。合理的な彼のことだ。こんな下らないことに時間を割く位ならば諦めた方がマシだと判断するに違いない。
が、しかし。私の予想は大きく外れた。
「分かった。だったらその条件を飲もう」
「……え?」
「追加で何か要望があるならば、先に言って欲しい」
「い、いえ……」
いつの間にかヴァルタサールは、獲物を狙うような鋭い目つきとなっていた。こうなれば、今更引き返すことはできない。
こうして、望んでいない一夜限りの''恋人ごっこ''が幕を開けたのだった。
夕食の席で、ヴァルタサールは私にそう言ったのだった。
「いいえ、とんでもないですわ。私も楽しんでおりますので」
「そうか。なら良かった」
夫婦二人の食事は、いつだって静かなものだ。彼は最低限のことしか私に話しかけないし、私も最低限のことしか答えない。だから、大半が互いに無言なのである。
クラリスが手に入れられなかった男は、あっさり自分の手に落ちた。しかし私達は、愛し合うとは到底程遠い関係であった。彼としては国益のため。私としては復讐のため。そこに愛が無いのは当然だろう。
事実、彼は私と手を繋ごうとすらしないのだ。夫婦としての身体の繋がりはあれど、それは明確な拒絶であると私は捉えていた。
ランダードは林業が盛んなこともあり、楽器の生産地として有名な国であった。街では腕利きの職人が多数工房を構えているため、各国の演奏家はこぞって楽器の購入や修理のためにランダードへやって来るのである。
しかし、ランダード出身の有名な作曲家や演奏家が居ないのが現状だ。ランダードに楽器と職人はいるが奏者が居ない。そんな言葉すらある程であった。
そのため義父であるランダード国王は、演奏家や作曲家の育成に力を入れていた。そんな背景もあり、私は歓迎されたのである。
「是非、我が国の音楽文化発展に協力して欲しい」
婚約が決まった際、義両親はそう言ってくれたのだった。
けれども。結婚してから、私は人前で一度も演奏していなかった。
自分の演奏に、価値が見いだせなくなっていたのだ。ルルドのためにヴァイオリンを弾く時ですら、あの日がフラッシュバックすることが多々あった。
あの子と比べたら、私なんてゴミクズも当然だわ。
そんな呪いのような一言が頭を過ぎり、手が止まってしまうのだ。クラリスの望むものを奪ったけれども、ヴァイオリン演奏を心から楽しんでいた日々が戻ることは無かった。
悪いことをした罰、かしらね。
「オリヴィア、どうした?」
ヴァルタサールに呼びかけられ、ハッと我に返る。慌てて前を向けば、感情の映らない瞳がこちらを見据えていた。
「し、失礼しました。いかがしましたか?」
「ああ、一つ報告があるんだ」
ナイフとフォークを一旦皿に置いてから、ヴァルタサールは続けた。
「来月、国内の楽器職人を招いて茶会を行うことになった」
「あら、素敵ですわ」
「折角の機会だ。楽器の修繕やメンテナンスが必要ならば、一度見てもらうと良い。話は通しておく」
「……はい?」
思わず私は聞き返した。そんな私に対して、彼はこともなさげにこう言ったのだった。
「ヴァイオリン、続けているのだろう?」
彼の言葉を聞いて、サッと血の気が引いていくのが分かった。
「……いつからそれをご存知で?」
「つい最近だ。温室に向かった時、偶然お前が弾いているのが扉越しに聞こえてきたんだ。その日は邪魔にならぬよう、そのまま帰ったが」
「……」
「盗み聞きしたようで悪かった」
彼の言葉に、私は応えを返せないでいた。
「この際だから言わせてもらう。オリヴィア、私はお前の演奏がまた聞きたい」
手に触れないくせに、演奏は聞きたい?
ふざけるのもいい加減にして欲しい。
「そのためには、どうすれば良い?」
「……」
お断りします。
そうはっきり言えたならば、どれだけ良いだろう。しかし、そんな言い方をすれば彼の機嫌を損ねてしまう。厄介なことになるのはなるべく避けたいところだ。
思考を巡らせた結果、私はある結論に至った。
断るではなく、彼に諦めてもらおうと。
「……でしたら一つ、お願いしたいことがございます」
「ああ」
「恋人のように、私を愛していただきたいのです」
私の藪から棒な物言いにも、ヴァルタサールは表情を変えることは無かった。そんな彼に内心怖気付きながらも、私はさらに続けた。
「音楽を奏でる原動力は、他者に対する気持ちだと、私は考えております」
「……ふむ」
「結婚してからヴァルタサール様とお話したりする機会も少なくて、寂しくて。今の状態ですと、きっと気の抜けた演奏しか出来ませんわ」
「成程な」
「ですので……できれば、王太子と王太子妃としてではなく、無邪気に想い合う恋人同士のように一夜だけでも深く愛してくださいませんか?」
論理の飛躍にも程がある。
我ながら、歯が浮くような台詞だ。こんな言葉を口にしている自らの姿を想像するだけで寒気がする。馬鹿げたことを言われて、流石の彼もさぞ驚いているだろう。
触れたくもない女に愛を示すだなんて、拷問に近い筈だ。合理的な彼のことだ。こんな下らないことに時間を割く位ならば諦めた方がマシだと判断するに違いない。
が、しかし。私の予想は大きく外れた。
「分かった。だったらその条件を飲もう」
「……え?」
「追加で何か要望があるならば、先に言って欲しい」
「い、いえ……」
いつの間にかヴァルタサールは、獲物を狙うような鋭い目つきとなっていた。こうなれば、今更引き返すことはできない。
こうして、望んでいない一夜限りの''恋人ごっこ''が幕を開けたのだった。
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