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束の間の癒し、そして暗転

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「カトリーナ様、如何なされましたか?」

 ハッと我に返ると、フィーロは心配そうに化粧台の鏡越しに私を見つめていた。その目は、小動物のような混じり気の無い煌めきを孕んでいる。

「ごめんなさい、少し疲れてるみたいで」

 今日は、我が家で来客を招いての晩餐会が行われる日だ。夜会や晩餐会などの大きな行事に参加する際、毎回私は化粧師のフィーロに化粧を頼むのだった。

 化粧師は女性が多い職業であるけれども、フィーロは珍しく男性の化粧師であった。彼は元々騎士をしていたが戦争で片足を失い、それを機にこの職に就いたのだという。

「自分以外は女きょうだいばかりの家でしたので、化粧品は身近な存在でした。今では、天職だと思ってます」 

 初めて化粧を頼んだ時、フィーロはそう言って笑ったのだった。物腰が柔らかく丁寧な仕事ぶりから見るに、彼がこの職に向いているのは確かである。

「今は季節の変わり目ですから。体調を崩す方も多いと聞きますので、どうかお身体にお気をつけください」

「ふふ、ありがとう」

 力無く笑うけれども、それ以上言葉を続けられなかった。アヴラムと結婚してから半年を目前にして、既に心が限界に達していたのだ。

「本日は、口紅はどんなお色になさいますか?」 

 ベースメイクを終えたところで、フィーロは私に聞いた。先程まで病人のような肌色だったのだけれども、彼がコンシーラーや化粧下地でクマや肌のくすみを整えてくれたお陰で、顔色はかなり改善されていた。

「何も思い浮かばなくて。おまかせするわ」

「成程。でしたら、今日はこちらのお色にしましょうか」

 フィーロがメイクボックスから取り出したのは、花びらのように鮮やかなフューシャピンクの口紅だった。目を引くような可愛らしい色合いに、私は自然と頷いていた。

 リップブラシに口紅を取り、フィーロは唇の輪郭を縁取るように塗っていく。すると色素の乏しかった貧相な唇が、あっという間に生き返ったのだった。

 化粧で顔が整えられ、少しずつ元気が湧いてくるのを感じた。

「とっても素敵だわ、ありがとう」

「いいえ、とんでもないことでございます」

 鏡越しに笑うと、フィーロは少し照れたように笑い返してくれた。それだけで、傷口に軟膏が塗られたような安心感を感じたのだった。

 近頃彼とのやり取りは、日常の中の癒しとなっていたのである。

「準備は終わったか?」

 声に驚いて振り向くと、いつの間にかアヴラムが部屋に来ていたのだった。彼は不機嫌そうに、フィーロをじろりと見つめていた。

「はい。ちょうど今完成致しました」

「そうか、ところでフィーロ」

 歩み寄ってきたと思った瞬間、突然アヴラムは私を抱き寄せた。そして鎖骨へ口付けて、鬱血痕を刻んだのだった。

 デコルテの開いたドレスのため、キスマークは丸見えであった。

「……っ、アヴラム様?!」

「悪いが、コイツに付ける色はこれだけで十分だ」

 あまりのことに、フィーロは言葉を失っていた。そんな彼に構うことなく、アヴラムは私の手を引いて部屋を出ていったのである。

 そして何故か、晩餐会の会場とは正反対の方向へ歩き出したのだった。

 もうじき、招待客が到着する時間だ。慌てて私は、アヴラムに問いかけた。

「お待ちください。アヴラム様、そろそろお客様をお迎えするご準備をしなければ……」

「何、主催者が居なくても食事は出てくるし、晩餐会はできるから問題ない」

「そ、そんなこと……!!」

「酒と美味い飯にありつければ良い連中ばかりだ。そんな奴らのことを構わなくて良い」

 そう言って、アヴラムは私の言葉に一切耳を貸さなかったのだった。私の手首を握る手の力は、異様なまでに強く感じられた。

 仕事では真面目な彼がこんなことを言うなんて、にわかには信じられなかった。

 やがて私達は、寝室へと辿り着いた。そのままアヴラムは、私をベッドに押し倒したのである。
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