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その1
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時として、すすんで危地に赴いてみたくなるのだ。
おのれの度胸と武運をためしてみたくなる。 神仏の加護など信じてはいない。武運尽き死なばそれまでのこと、そう思っている。
といっても日ごろは専ら用心を心掛けている。家中のだれをも、心から信じてはいない。近習に背中から斬りつけられるかも知れないし、朝餉の汁に毒を盛られるかも知れない。宿直の小姓とて油断はならない。いつ寝首を掻かれぬとも限らない。
死は、恐ろしかった。
おのれもいつかは首台に載せられ、もとどりをつかまれて恭しく敵将の実検に供されることがあるやも知れぬと考えるだけで、眠れぬ夜すらあった。今まだ命があるのは、ただ死なぬために闘い、知恵を絞ってきた結果に過ぎぬといっても間違いではない。
しかし、風が吹くのだ。心の真ん中をひゅう、とばかりに吹き抜けてゆく。
そうすると血潮が騒ぎたち、矢も楯もたまらず気が付くと、馬腹を蹴り疾風のごとく走りだしている。
それはいつも突然であった。
命の危険すら斟酌せぬ主人の行動は、近習どもには、
――お狂いあそばされた……
とすら思えた。そして彼らは慌てて主人の後を追うのだ。
この地へもそうしてやって来た。
目前に小高い丘が広がっている。中腹には土塁に上げた矢倉が見えた。二の丸である。その左手はさらに高くなっていて本丸があるのだが、ここからは土塁の上に巡らせた柵や樹木などの蔀の間から、わずかにこけら葺の茶色い屋根がのぞいているだけであった。主殿であろうか。
そしてこの平山城の周辺を土塁と柵がくるりと囲み、その外周に深い空堀が巡っていた。
若い主人を囲むように従うは三騎。河尻与兵衛、滝川久助、前田又左衛門である。
与兵衛と久助は三十路を幾つか過ぎ、若い又左衛門はようやく二十歳になったところであった。
日差しを避けるようにすっと伸びた椋の大木の影に佇み、主従はしばしその城を見上げた。
城は、主人の父がこの地に築いた。金気くさい血の臭いがたち込める戦さ場と、陰惨な謀りごとに明け暮れた父の人生を象徴するように、城にはまるで抜き身の刃のような剥き出しの戦意が感じられた。
春はもう過ぎ行き、青葉の季節である。
城の回りには水田が広がっている。田植えが終わったばかりと見え、まだ背の低い苗が柔らかな風に揺れている。透明な水を張った田は、鏡面のように青い空を映していた。
二月に改元があり永禄元年(一五五八)となったこの年、織田上総介信長は二十五歳であった。
信長の父、弾正忠信秀はこの末盛の城(名古屋市千種区城山町)で身罷ってもう七年になる。いらい戦塵を幾度となく往来し陰謀を重ねて来た信長は、いまようやく父から受け継いだ身代を回復しつつあった。
家督は嫡男の信長が継いだが、信秀の居城であった末盛の城は同腹の弟、勘十郎に与えられた。勘十郎はその母、土田御前とともにこの城で暮らしている。
信長には二十四人の兄弟姉妹がいたと伝えられるが、同腹は勘十郎ひとりである。
信長から見た勘十郎は、
――周囲の望むようになる男
であった。
周囲の望むようになる男はつまり、望むようにしかならぬ男でもある。人の本性を見抜く天性の目を持った信長は、この表面穏やかな同腹の弟の器量を見切っていた。
しかし周囲は、信秀の重臣や一族のものたちは激しい気性の信長を嫌い、温厚な勘十郎に期待をかけた。
母の土田御前もまた、そのひとりであった。 信長は、母のあの火を含んだような目で見つめられると、いまだに肌があわ立つ思いがした。幼い日、母に疎まれた記憶は、この男の心の奥に澱のように沈んでいる。
信長にとってこの末盛の城は弟勘十郎の城というより、母の城であった。
信長は平絹の白っぽい唐織物の小袖を重ねている。下にした小袖の朱色が襟と袖から覗いていた。足くびのあたりを絞ったカルサン風の袴を履き、これも朱色の鞘の古風な太刀を佩いている。
袖を破り捨てた湯帷子に半袴を履き、腰には荒縄で巻いた火打ち袋や瓢箪をいくつもぶら下げていたという無頼の徒のごときいでたちは、さすがに近ごろは謹むようになった。
「お屋形さま、ほんに行くんかいのう」
滝川久助が言った。そしてつぶやくように「儂ゃ殺されに行くようなものじゃと思うがのう」と付け加えた。
信長はこたえない。かわって与兵衛が、
「だまれ、久助」
とたしなめた。この男、近江は甲賀の出で信長の側近く仕え、忍び仕事をよくする。後の左近将監一益である。
一陣の風がわたった。
水田の苗が緑の波となって騒ぎ立つ。信長の白い小袖に落ちていた椋の濃い影が揺れる。信長の騎乗する白い肥馬が小さく嘶いた。それが合図であったかのように、信長の馬は駆け出した。三騎が追う。
空堀を、ようやく馬一頭が渡れるほど細く埋めた土橋がありその先に二階建ての渡り矢倉門があった。
空堀は深さ三間ほどあり、乱杭が尖った切っ先を天に向けて埋め込んである。まるでそこへ人が落ち込むのを息をひそめて待っているように思えた。
門は閉ざされていた。
騎乗の三人は一瞬顔を見合わせる。
一番年下の又左衛門が目顔で「儂が行く」と言った。とことこと一騎で土橋を渡る。大きく息を吸い込むと大音声にこう呼ばわった。
「清洲のお屋形さまじゃ。開門、かいもーん」
矢倉の上から土塁の頂きへと門番の足軽が二、三人ばらばらとこぼれ出る。その者どもきっと睨みつけ、又左衛門はさらに怒鳴った。唾が飛沫となって散る。
「門を開けよ。信長さまじゃ」
破れ帷子を纏った足軽は門前に信長の姿をみとめると、あっと驚いたように口を開き、そのまま土塁の向こう側へ転がり落ちるようにして消えた。
物頭に知らせに走ったのであろう。ほどなく小袖を纏い髷を茶筅に結った士分とおぼしき男が土塁の上から顔を覗かせた。その男も信長主従の姿を見て驚いた様子であったが、さすがに士分らしく油断なくあたり見渡して、本当に供が三騎だけであることを確かめた。
閂が外される気配がして、ぎい、と鈍い音とともに戸が内側へ開かれた。
又左衛門がまず門をくぐり、続いて久助、信長、最後に与兵衛が曲輪へ入った。
くだんの士分の男が茶筅を揺らし、主従に先だって本丸へ続く坂道を駆けていく。やがて男は迫り出した二の丸の土塁の蔭に消えた。坂道は右に大きく湾曲している。
又左衛門を先頭に主従はゆるゆると切り立った狭い坂を登った。右は二の丸、左は本丸である。そのいずれも元々の地なりを利用した高台にあり周囲を土塁が囲んでいる。土塁の上には土塀が立ち、そのあちこちには狭間が穿ってある。城攻めとなればその狭間から矢や鉄砲が寄せ手に撃ちかけられるのだ。
どこかで馬が嘶く。普請をしているらしく、槌を打つ音や人足どもの立ち働く様がうかがえる。
「信長さまじゃあ、信長さまがおいでなされた」
くだんの男が叫ぶ。矢倉や土塁の蔭から男たちが顔を出す。人々の声がざわめきとなって広がっていく。
信長の表情は変わらない。
主人に従う三人の男たちは緊張した面持ちで、抜け目なく周囲をうかがっている。
又左衛門はしきりに鼻をくんくんと犬のように鳴らした。火縄は燃える時に独特の臭いを放つ。
「又左よ」
信長が声をかける。
「はっ」
「そうしていると汝はほんに犬のようじゃの」
信長の口元に笑みが浮かぶ。薄い口ひげが揺れた。前田又左衛門、幼名は犬千代である。
一同、笑った。ことに若い又左衛門は大口を開け、がらがらと笑う。どうだ、儂は恐ろしゅうないぞ、と言わんばかりに。
昨夜、舎弟勘十郎が岩倉城主織田伊勢守信賢と謀り、春日井郡の信長直轄地を横領せんと企てていることを、信長は密書によって知らされた。密書を送ったのは柴田権六勝家である。権六は信秀の死後、末盛城を受け継いだ勘十郎に付けられた宿老であった。
岩倉の織田伊勢守家は尾張上四郡を領する守護代で、下四郡の守護代清洲の織田大和守家とともに本来の守護職である斯波氏の力の衰えた尾張を支配してきた。信秀の弾正忠家は清洲織田家の三奉行のひとりにすぎなかったが次第に頭角をあらわし、やがては主家を凌ぐ実力を持つに至ったのである。
一時、信秀は尾張国中の軍勢を率いて隣国美濃や三河へ攻め入るほどの勢力を誇ったが、権力の基盤がいまだ脆弱であったためその死によって織田弾正忠家の屋台骨は揺らぎ、まさに危機的状況に陥った。家督を継いだ信長がしなければならなかったのは、反旗を翻した親族連枝や宿老どもと時に干戈を交え、時に結んで機をうかがい、少しずつおのれの力を扶植していくことだった。
やがて叔父孫三郎信光を取り込んで、清洲城主織田彦五郎信友を謀殺し、清洲城を我がものとする。尾張下四郡を叔父と分け取りするのだが、すぐに叔父をも巧みな陰謀によって殺害する。こうしてようやく尾張半国をその血塗られた手でつかみ取ったのが信長二十一歳の時。しかしその後も一族家臣の離反は絶えない。
とりわけ大きな危機が、弘治二年(一五五六)の夏に訪れた。
勘十郎を擁立すべく那古野城将の林秀貞と弟美作守そして柴田権六勝家が挙兵したのだ。
挙兵の前、勘十郎は名を信勝から達成と改めている。達成の達は、清洲大和守家の織田達定、達勝の名乗りに通じ、これは守護代家の跡目を襲おうという勘十郎の明確な意図を現している。また官名も祖父、父と同じであり相伝ともいうべき弾正忠を私称し、さらには清洲城に近い広済寺に安堵状を発給するなど、勘十郎は兄信長を逆なでするような所業を重ねていたのである。
勘十郎は信秀の葬儀にあっては、兄の破天荒な振る舞いとは対照的に、折り目正しい礼にかなった態度で臨んだことが後世にも伝えられている。温厚で荒々しい振る舞いのなかった勘十郎は母の土田御前にも愛されて育ち、家臣らの信望も厚かった。
柴田・林方の兵が千七百。一方信長が率いた兵は半ばにも満たない七百であった。両軍は尾張稲生(名古屋市西区)において干戈を交える。一時は信長方が押されたがすぐに盛り返し、最後には信長自身が敵将の林美作守を討つなどして勝利した。
この時期の信長は七百ほどの親衛隊ともいうべき兵たちを率い数層倍の敵に幾度か挑み勝利している。この兵たちは信長がいまだ若年のころ、川遊びや印地打ち(石合戦)に明け暮れ、ともに肩をくみ柿や瓜や餅までもかぶり食い町中を無頼のように歩いたという者たちの、その延長線上にある。
時には身分の垣根を超えて家来どもの中へ飛び込んでいく。ともに食い、笑い、踊る。
(信長は下戸であるので飲む、はない)
そして戦さ場では鬼神のごとき大将ぶりで、軍勢を統率し勝利に導く。
信長に接した者はみな、その器量の大きさと機知に富み情に厚い男ぶりに惹かれる。馬上の侍はもちろんのこと、足軽や小者の果てまで、この主人のためには命は惜しまなかった。
稲生における戦さにおいても、禅門という名の下人の活躍や、小者のぐちう杉若が奮戦し後に士分に取り立てられ杉左衛門尉と名乗ったことが伝えられている。信長は働きのある者ならば、門地や身分にこだわらず公平に評価し、取り立てた。信長にみとめられようと、兵たちは死力を尽くして戦った。
後にみずからを神格化しこの国に超然と君臨しようとしたその片鱗を、この時期の信長に見いだすのは難しい。
さて、稲生における戦さの後、土田御前からの申し出もあり信長は勘十郎、林、柴田らを宥した。だが、その勘十郎がまたぞろ蠢動を始めた。
二の丸の矢倉門が見える。坂の勾配は急にきつくなり、路はそこでぐっと左に折れている。馬が喘ぐ。急坂をようやく登り切るとそこは平らに開けていて、この平山城の頂きである。湾曲した分厚い土塁が視界を遮っている。丸馬出しである。合戦になれば城方の騎馬がこの丸馬出しを據として闘うのだ。
そして馬出しの向こうには内堀を経て本丸南の虎口がある。
――大手門から虎口まで、いったいどれほどの家来どもが殺されようか。この城は親父どのが心血を注いで築いた城じゃ。力攻めは無駄に家来どもを死なせるようなものだわ。
信長は考える。本丸の北にも虎口があるが、こちらには三日月堀という半月形の丸馬出しがある。いずれも攻めるは容易でない。
――末盛の者どもを敵にしてはならない……。
稲生の戦さで信長方が討ち取った首級は四百以上であった。信長はあの折の無念を思う。尾張者どうし、しかも同じ家中にありながら無駄に命を奪いあってしまった。
尾張の敵は尾張にはおらぬ。もっと遠くにいるのだ。
信長はこの時、岩倉城主織田信賢を攻める覚悟を固めていた。尾張上四郡を領する信賢を討滅すれば、尾張一国は信長のもとにまとまるのだ。それでようやく、本当の敵を迎え討つための道筋が定まる。
権六の密告に、信長は苦悩した。
時期が悪すぎた。いま勘十郎と末盛の者どもに背かれては尾張一国どころか、おのれの立場も危うい。美濃の斎藤義龍を後ろ盾に岩倉と手を結び清洲へ攻め掛かられてはたまらない。
――まず、勘十郎めを岩倉攻めの戦さに引き出さねばならぬわ。
ではいったいどうすればよいのか?
信長は懸命に思慮を巡らす。
攻城の策を考えつつも、勘十郎を戦さ場に連れ出す算段に思いを巡らす。信長は一度にいくつもの事柄を考えることができた。これは父の信秀から教えられたことである。
「一度に四つや五つの事をおんなじように考られる頭がのうては、大将はつとまらんでや」
まだ吉法師と呼ばれた幼い信長を膝に乗せ、信秀は珍しく上機嫌であった。信長は、よく顎が張り力に満ち溢れた父の顔をまぶしげに見上げた。信秀は肉親に愛情を表すことの少ない人であったから、信長はこの時の事をよく記憶していた。
だが特に真似ようとしたわけではない。後年、戦さの算段や謀に思いを巡らしている折、ふと気づくと父と同じことができるようになっていたのである。
主従は丸馬出しを避けて進む。虎口の大木戸がちょうど開いたところであった。小者どもぱらぱらと零れ出る。馬のくつわを取るためであった。
「これはこれは清洲のお屋形さま。突然のお越しで、驚きまいた」
肩衣すがたの小柄な男が信長の前へ進み出る。色白で顎が細く切れ長でやや吊り上がった目が、狐を想起させる。この男、津々木蔵人という。勘十郎の近習のひとりであったが、家中での台頭著しく、近ごろは家宰として家内の多くを取り仕切っているという。勘十郎とは衆道(男色)の関係にあった。そうしたことを信長は久助から聞いている。
馬上から信長は津々木をきっと見据えた。鋭い眼光に射貫かれたように津々木はわずかによろめいたが、その動揺を隠すように信長に笑みを返した。
信長は馬を下りる。三騎の者どもも従う。
彼は意味なく笑う男が嫌いであったので、津々木には声も掛けずに行き過ぎた。
虎口を抜ける。
いよいよ末盛城の本丸である。
城内の男どもが列を作って出迎えている。信長はひとわたり見渡して、満足そうに頷いた。男どもが頭を垂れる。むろん彼らは信長の直臣ではないが、まるで久々に帰還した城主を出迎えるかのような安堵感とほどよい緊張があった。
彼らとて主人勘十郎の逆心を知るよしもない。だがかつて謀反を起こし今だ家中に隠然たる影響力を持つ舎弟の持ち城に、わずかな供を従えたのみで現れた信長を驚きと畏敬のまなざしで見つめた。
それはまた信長の意図するところでもある。
彼は城兵どもにおのれの度胸と器量を見せつけようとしたのだ。
勘十郎を失ったのち、この城の者たちがすんなりとわが配下へ組み入れられるようにするための、布石でもあった。
本丸はこの平山城の頂上に位置する。中央に主殿、左右に武者溜、弓場、厩などが配されている。土塁の隅々に上げた矢倉の他、すべてが平屋づくりである。この頃の城にはまだ天守閣というものはない。
主殿をめがけて歩きながら、信長はまた別のことを考えていた。それは椋の木陰からこの城を見上げていた時から、いやもっと以前から考えていたことなのかも知れない。
――さあて、母者は儂を殺すであろうかの。
おのれの度胸と武運をためしてみたくなる。 神仏の加護など信じてはいない。武運尽き死なばそれまでのこと、そう思っている。
といっても日ごろは専ら用心を心掛けている。家中のだれをも、心から信じてはいない。近習に背中から斬りつけられるかも知れないし、朝餉の汁に毒を盛られるかも知れない。宿直の小姓とて油断はならない。いつ寝首を掻かれぬとも限らない。
死は、恐ろしかった。
おのれもいつかは首台に載せられ、もとどりをつかまれて恭しく敵将の実検に供されることがあるやも知れぬと考えるだけで、眠れぬ夜すらあった。今まだ命があるのは、ただ死なぬために闘い、知恵を絞ってきた結果に過ぎぬといっても間違いではない。
しかし、風が吹くのだ。心の真ん中をひゅう、とばかりに吹き抜けてゆく。
そうすると血潮が騒ぎたち、矢も楯もたまらず気が付くと、馬腹を蹴り疾風のごとく走りだしている。
それはいつも突然であった。
命の危険すら斟酌せぬ主人の行動は、近習どもには、
――お狂いあそばされた……
とすら思えた。そして彼らは慌てて主人の後を追うのだ。
この地へもそうしてやって来た。
目前に小高い丘が広がっている。中腹には土塁に上げた矢倉が見えた。二の丸である。その左手はさらに高くなっていて本丸があるのだが、ここからは土塁の上に巡らせた柵や樹木などの蔀の間から、わずかにこけら葺の茶色い屋根がのぞいているだけであった。主殿であろうか。
そしてこの平山城の周辺を土塁と柵がくるりと囲み、その外周に深い空堀が巡っていた。
若い主人を囲むように従うは三騎。河尻与兵衛、滝川久助、前田又左衛門である。
与兵衛と久助は三十路を幾つか過ぎ、若い又左衛門はようやく二十歳になったところであった。
日差しを避けるようにすっと伸びた椋の大木の影に佇み、主従はしばしその城を見上げた。
城は、主人の父がこの地に築いた。金気くさい血の臭いがたち込める戦さ場と、陰惨な謀りごとに明け暮れた父の人生を象徴するように、城にはまるで抜き身の刃のような剥き出しの戦意が感じられた。
春はもう過ぎ行き、青葉の季節である。
城の回りには水田が広がっている。田植えが終わったばかりと見え、まだ背の低い苗が柔らかな風に揺れている。透明な水を張った田は、鏡面のように青い空を映していた。
二月に改元があり永禄元年(一五五八)となったこの年、織田上総介信長は二十五歳であった。
信長の父、弾正忠信秀はこの末盛の城(名古屋市千種区城山町)で身罷ってもう七年になる。いらい戦塵を幾度となく往来し陰謀を重ねて来た信長は、いまようやく父から受け継いだ身代を回復しつつあった。
家督は嫡男の信長が継いだが、信秀の居城であった末盛の城は同腹の弟、勘十郎に与えられた。勘十郎はその母、土田御前とともにこの城で暮らしている。
信長には二十四人の兄弟姉妹がいたと伝えられるが、同腹は勘十郎ひとりである。
信長から見た勘十郎は、
――周囲の望むようになる男
であった。
周囲の望むようになる男はつまり、望むようにしかならぬ男でもある。人の本性を見抜く天性の目を持った信長は、この表面穏やかな同腹の弟の器量を見切っていた。
しかし周囲は、信秀の重臣や一族のものたちは激しい気性の信長を嫌い、温厚な勘十郎に期待をかけた。
母の土田御前もまた、そのひとりであった。 信長は、母のあの火を含んだような目で見つめられると、いまだに肌があわ立つ思いがした。幼い日、母に疎まれた記憶は、この男の心の奥に澱のように沈んでいる。
信長にとってこの末盛の城は弟勘十郎の城というより、母の城であった。
信長は平絹の白っぽい唐織物の小袖を重ねている。下にした小袖の朱色が襟と袖から覗いていた。足くびのあたりを絞ったカルサン風の袴を履き、これも朱色の鞘の古風な太刀を佩いている。
袖を破り捨てた湯帷子に半袴を履き、腰には荒縄で巻いた火打ち袋や瓢箪をいくつもぶら下げていたという無頼の徒のごときいでたちは、さすがに近ごろは謹むようになった。
「お屋形さま、ほんに行くんかいのう」
滝川久助が言った。そしてつぶやくように「儂ゃ殺されに行くようなものじゃと思うがのう」と付け加えた。
信長はこたえない。かわって与兵衛が、
「だまれ、久助」
とたしなめた。この男、近江は甲賀の出で信長の側近く仕え、忍び仕事をよくする。後の左近将監一益である。
一陣の風がわたった。
水田の苗が緑の波となって騒ぎ立つ。信長の白い小袖に落ちていた椋の濃い影が揺れる。信長の騎乗する白い肥馬が小さく嘶いた。それが合図であったかのように、信長の馬は駆け出した。三騎が追う。
空堀を、ようやく馬一頭が渡れるほど細く埋めた土橋がありその先に二階建ての渡り矢倉門があった。
空堀は深さ三間ほどあり、乱杭が尖った切っ先を天に向けて埋め込んである。まるでそこへ人が落ち込むのを息をひそめて待っているように思えた。
門は閉ざされていた。
騎乗の三人は一瞬顔を見合わせる。
一番年下の又左衛門が目顔で「儂が行く」と言った。とことこと一騎で土橋を渡る。大きく息を吸い込むと大音声にこう呼ばわった。
「清洲のお屋形さまじゃ。開門、かいもーん」
矢倉の上から土塁の頂きへと門番の足軽が二、三人ばらばらとこぼれ出る。その者どもきっと睨みつけ、又左衛門はさらに怒鳴った。唾が飛沫となって散る。
「門を開けよ。信長さまじゃ」
破れ帷子を纏った足軽は門前に信長の姿をみとめると、あっと驚いたように口を開き、そのまま土塁の向こう側へ転がり落ちるようにして消えた。
物頭に知らせに走ったのであろう。ほどなく小袖を纏い髷を茶筅に結った士分とおぼしき男が土塁の上から顔を覗かせた。その男も信長主従の姿を見て驚いた様子であったが、さすがに士分らしく油断なくあたり見渡して、本当に供が三騎だけであることを確かめた。
閂が外される気配がして、ぎい、と鈍い音とともに戸が内側へ開かれた。
又左衛門がまず門をくぐり、続いて久助、信長、最後に与兵衛が曲輪へ入った。
くだんの士分の男が茶筅を揺らし、主従に先だって本丸へ続く坂道を駆けていく。やがて男は迫り出した二の丸の土塁の蔭に消えた。坂道は右に大きく湾曲している。
又左衛門を先頭に主従はゆるゆると切り立った狭い坂を登った。右は二の丸、左は本丸である。そのいずれも元々の地なりを利用した高台にあり周囲を土塁が囲んでいる。土塁の上には土塀が立ち、そのあちこちには狭間が穿ってある。城攻めとなればその狭間から矢や鉄砲が寄せ手に撃ちかけられるのだ。
どこかで馬が嘶く。普請をしているらしく、槌を打つ音や人足どもの立ち働く様がうかがえる。
「信長さまじゃあ、信長さまがおいでなされた」
くだんの男が叫ぶ。矢倉や土塁の蔭から男たちが顔を出す。人々の声がざわめきとなって広がっていく。
信長の表情は変わらない。
主人に従う三人の男たちは緊張した面持ちで、抜け目なく周囲をうかがっている。
又左衛門はしきりに鼻をくんくんと犬のように鳴らした。火縄は燃える時に独特の臭いを放つ。
「又左よ」
信長が声をかける。
「はっ」
「そうしていると汝はほんに犬のようじゃの」
信長の口元に笑みが浮かぶ。薄い口ひげが揺れた。前田又左衛門、幼名は犬千代である。
一同、笑った。ことに若い又左衛門は大口を開け、がらがらと笑う。どうだ、儂は恐ろしゅうないぞ、と言わんばかりに。
昨夜、舎弟勘十郎が岩倉城主織田伊勢守信賢と謀り、春日井郡の信長直轄地を横領せんと企てていることを、信長は密書によって知らされた。密書を送ったのは柴田権六勝家である。権六は信秀の死後、末盛城を受け継いだ勘十郎に付けられた宿老であった。
岩倉の織田伊勢守家は尾張上四郡を領する守護代で、下四郡の守護代清洲の織田大和守家とともに本来の守護職である斯波氏の力の衰えた尾張を支配してきた。信秀の弾正忠家は清洲織田家の三奉行のひとりにすぎなかったが次第に頭角をあらわし、やがては主家を凌ぐ実力を持つに至ったのである。
一時、信秀は尾張国中の軍勢を率いて隣国美濃や三河へ攻め入るほどの勢力を誇ったが、権力の基盤がいまだ脆弱であったためその死によって織田弾正忠家の屋台骨は揺らぎ、まさに危機的状況に陥った。家督を継いだ信長がしなければならなかったのは、反旗を翻した親族連枝や宿老どもと時に干戈を交え、時に結んで機をうかがい、少しずつおのれの力を扶植していくことだった。
やがて叔父孫三郎信光を取り込んで、清洲城主織田彦五郎信友を謀殺し、清洲城を我がものとする。尾張下四郡を叔父と分け取りするのだが、すぐに叔父をも巧みな陰謀によって殺害する。こうしてようやく尾張半国をその血塗られた手でつかみ取ったのが信長二十一歳の時。しかしその後も一族家臣の離反は絶えない。
とりわけ大きな危機が、弘治二年(一五五六)の夏に訪れた。
勘十郎を擁立すべく那古野城将の林秀貞と弟美作守そして柴田権六勝家が挙兵したのだ。
挙兵の前、勘十郎は名を信勝から達成と改めている。達成の達は、清洲大和守家の織田達定、達勝の名乗りに通じ、これは守護代家の跡目を襲おうという勘十郎の明確な意図を現している。また官名も祖父、父と同じであり相伝ともいうべき弾正忠を私称し、さらには清洲城に近い広済寺に安堵状を発給するなど、勘十郎は兄信長を逆なでするような所業を重ねていたのである。
勘十郎は信秀の葬儀にあっては、兄の破天荒な振る舞いとは対照的に、折り目正しい礼にかなった態度で臨んだことが後世にも伝えられている。温厚で荒々しい振る舞いのなかった勘十郎は母の土田御前にも愛されて育ち、家臣らの信望も厚かった。
柴田・林方の兵が千七百。一方信長が率いた兵は半ばにも満たない七百であった。両軍は尾張稲生(名古屋市西区)において干戈を交える。一時は信長方が押されたがすぐに盛り返し、最後には信長自身が敵将の林美作守を討つなどして勝利した。
この時期の信長は七百ほどの親衛隊ともいうべき兵たちを率い数層倍の敵に幾度か挑み勝利している。この兵たちは信長がいまだ若年のころ、川遊びや印地打ち(石合戦)に明け暮れ、ともに肩をくみ柿や瓜や餅までもかぶり食い町中を無頼のように歩いたという者たちの、その延長線上にある。
時には身分の垣根を超えて家来どもの中へ飛び込んでいく。ともに食い、笑い、踊る。
(信長は下戸であるので飲む、はない)
そして戦さ場では鬼神のごとき大将ぶりで、軍勢を統率し勝利に導く。
信長に接した者はみな、その器量の大きさと機知に富み情に厚い男ぶりに惹かれる。馬上の侍はもちろんのこと、足軽や小者の果てまで、この主人のためには命は惜しまなかった。
稲生における戦さにおいても、禅門という名の下人の活躍や、小者のぐちう杉若が奮戦し後に士分に取り立てられ杉左衛門尉と名乗ったことが伝えられている。信長は働きのある者ならば、門地や身分にこだわらず公平に評価し、取り立てた。信長にみとめられようと、兵たちは死力を尽くして戦った。
後にみずからを神格化しこの国に超然と君臨しようとしたその片鱗を、この時期の信長に見いだすのは難しい。
さて、稲生における戦さの後、土田御前からの申し出もあり信長は勘十郎、林、柴田らを宥した。だが、その勘十郎がまたぞろ蠢動を始めた。
二の丸の矢倉門が見える。坂の勾配は急にきつくなり、路はそこでぐっと左に折れている。馬が喘ぐ。急坂をようやく登り切るとそこは平らに開けていて、この平山城の頂きである。湾曲した分厚い土塁が視界を遮っている。丸馬出しである。合戦になれば城方の騎馬がこの丸馬出しを據として闘うのだ。
そして馬出しの向こうには内堀を経て本丸南の虎口がある。
――大手門から虎口まで、いったいどれほどの家来どもが殺されようか。この城は親父どのが心血を注いで築いた城じゃ。力攻めは無駄に家来どもを死なせるようなものだわ。
信長は考える。本丸の北にも虎口があるが、こちらには三日月堀という半月形の丸馬出しがある。いずれも攻めるは容易でない。
――末盛の者どもを敵にしてはならない……。
稲生の戦さで信長方が討ち取った首級は四百以上であった。信長はあの折の無念を思う。尾張者どうし、しかも同じ家中にありながら無駄に命を奪いあってしまった。
尾張の敵は尾張にはおらぬ。もっと遠くにいるのだ。
信長はこの時、岩倉城主織田信賢を攻める覚悟を固めていた。尾張上四郡を領する信賢を討滅すれば、尾張一国は信長のもとにまとまるのだ。それでようやく、本当の敵を迎え討つための道筋が定まる。
権六の密告に、信長は苦悩した。
時期が悪すぎた。いま勘十郎と末盛の者どもに背かれては尾張一国どころか、おのれの立場も危うい。美濃の斎藤義龍を後ろ盾に岩倉と手を結び清洲へ攻め掛かられてはたまらない。
――まず、勘十郎めを岩倉攻めの戦さに引き出さねばならぬわ。
ではいったいどうすればよいのか?
信長は懸命に思慮を巡らす。
攻城の策を考えつつも、勘十郎を戦さ場に連れ出す算段に思いを巡らす。信長は一度にいくつもの事柄を考えることができた。これは父の信秀から教えられたことである。
「一度に四つや五つの事をおんなじように考られる頭がのうては、大将はつとまらんでや」
まだ吉法師と呼ばれた幼い信長を膝に乗せ、信秀は珍しく上機嫌であった。信長は、よく顎が張り力に満ち溢れた父の顔をまぶしげに見上げた。信秀は肉親に愛情を表すことの少ない人であったから、信長はこの時の事をよく記憶していた。
だが特に真似ようとしたわけではない。後年、戦さの算段や謀に思いを巡らしている折、ふと気づくと父と同じことができるようになっていたのである。
主従は丸馬出しを避けて進む。虎口の大木戸がちょうど開いたところであった。小者どもぱらぱらと零れ出る。馬のくつわを取るためであった。
「これはこれは清洲のお屋形さま。突然のお越しで、驚きまいた」
肩衣すがたの小柄な男が信長の前へ進み出る。色白で顎が細く切れ長でやや吊り上がった目が、狐を想起させる。この男、津々木蔵人という。勘十郎の近習のひとりであったが、家中での台頭著しく、近ごろは家宰として家内の多くを取り仕切っているという。勘十郎とは衆道(男色)の関係にあった。そうしたことを信長は久助から聞いている。
馬上から信長は津々木をきっと見据えた。鋭い眼光に射貫かれたように津々木はわずかによろめいたが、その動揺を隠すように信長に笑みを返した。
信長は馬を下りる。三騎の者どもも従う。
彼は意味なく笑う男が嫌いであったので、津々木には声も掛けずに行き過ぎた。
虎口を抜ける。
いよいよ末盛城の本丸である。
城内の男どもが列を作って出迎えている。信長はひとわたり見渡して、満足そうに頷いた。男どもが頭を垂れる。むろん彼らは信長の直臣ではないが、まるで久々に帰還した城主を出迎えるかのような安堵感とほどよい緊張があった。
彼らとて主人勘十郎の逆心を知るよしもない。だがかつて謀反を起こし今だ家中に隠然たる影響力を持つ舎弟の持ち城に、わずかな供を従えたのみで現れた信長を驚きと畏敬のまなざしで見つめた。
それはまた信長の意図するところでもある。
彼は城兵どもにおのれの度胸と器量を見せつけようとしたのだ。
勘十郎を失ったのち、この城の者たちがすんなりとわが配下へ組み入れられるようにするための、布石でもあった。
本丸はこの平山城の頂上に位置する。中央に主殿、左右に武者溜、弓場、厩などが配されている。土塁の隅々に上げた矢倉の他、すべてが平屋づくりである。この頃の城にはまだ天守閣というものはない。
主殿をめがけて歩きながら、信長はまた別のことを考えていた。それは椋の木陰からこの城を見上げていた時から、いやもっと以前から考えていたことなのかも知れない。
――さあて、母者は儂を殺すであろうかの。
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