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「土左衛門だあ、土左衛門があがったぞおい」
船頭の野太い叫び声が、新河岸川に響いた。 朝飯の支度の前に水を汲もうと瓶を持って井戸へ行き、ちょうど釣瓶を引き上げた時だった。
「ああ、おなごもおるわ。心中だあ」
ひさは、はっとして水が入ったままの桶を井戸へ取り落とした。
滑車がからからと音を立てた。が、それには構わずひさは勝手口から外へと駆け出していく。
「心中だあ」
各店から人々がこぼれるように出でて、福岡河岸へ集まっていく。
古市場橋の袂に人だかりができている。
人垣を縫って、ひさは橋へ近づいた。
「浜屋のおこうじゃねえかよう」
誰かが言った。
ひさは息が止まった。口がからからに乾いた。
「男の方はだれだあ」
「まあだ、若けえのによお」
ひさの前にいた男が屈んだ拍子に、前が見えた。筵の上に男と女が並んで横たわっていた。
久助はまるで阿呆のようにぽかんと口を開き、仰向けに寝転んでいた。赤ん坊のように縮めた両手を胸の前で開き、両足はやや曲がったまま固まっている。
開いたままの眼が、青い空を写していた。 その瞳からは、ここ何日かのせっぱ詰まった様子は感じられず、以前の男らしく優しい久助に戻ったようであった。
ひさはその顔をじっとみつめていた。
こころの中では言葉にも、感情にすらならぬ想いが沸き上がっていた。あの手に何度引かれて、この橋を上ってだろうか。あの背に、おぶわれたこともあった。
そしてあの腕に、抱かれたときの嬉しかったこと……。
いろいろな思い出が、浮かんでは消えていく。きっと自分もふくのように、死んだ想い人の記憶を胸にこれからずっと生きていくのだろう、と思った。
そして、おこうが憎かった。
あの時の笑い顔がよぎる。
(あのおなごは、もともと死ぬつもりだったべ。久助さを道連れにしやがったんだ)
そう思うと、死んでも夫婦のように並んで横たわっている姿が口惜しい。
どろどろと、ひさの中で心というものが溶けていくような、思いがした。
それからひさは、藤乃屋の台所へ戻り、いつも通りの仕事をこなした。
水を汲みなおし、拭き掃除をし、麦飯を炊き、漬物を出し、客にお茶と茶受けを出した。「辛かったら、休んでもいいぞ」
と言ってくれたが、ひさは首を振った。
「そっだな。こんな時は身体動かした方がええべ」
夕方になり、夕食の支度を始めた。沢庵をまな板に乗せ、包丁を入れていく。ふと、包丁を持つ手がこそばゆい。
見ると、手の項が濡れている。怪訝に思って頬を触ると、やはり濡れている。
「ひさねえ、泣いてるの」
てるが不安げに脇から見上げた。
自分が泣いているのだ、ということにひさはようやく気づいた。
顔を上げる。窓格子の向こうに夕陽を浴びた新河岸川が、まるで赤銅色大蛇のようにのたうっている姿が目に入った。
今まで蓋をして、仕舞い込んであった悲しみが、急に溢れだしてくるのを感じた。その想いには、どうにも堪えきれなかった。
久助が死んでしまったのは、自分のせいだと思った。
あのとき久助を拒まなければ、おこうとのこともなかったかも知れない。
久助があの土蔵に潜んでいることを、旦那さまに申し上げれば、何とかして下さったかも知れない。
ふたりで一所懸命に働けば、盗んだ十両は返せたかも知れない。
――少なくとも、一緒に死んであげられたかも知れない。
悲しい想いは後から後から溢れてくる。
ひさは包丁をまな板の上にほうり出した。
両手で顔を覆った。胸が、まるでひき千切れるように、苦しい。
ひさは台所の土間から外へ飛び出した。
「――ひさねえ」
てるが叫んだ。
てるの声を振り払うように、ひさは駆けていく。
船着き場を右に、坂道を上る。そのまま新河岸川に沿って少し歩く。すると川は緩やかに北へ湾曲している。
(現在は河川改修がされ、川筋は真っすぐになっている)
そのあたりが水量も多く、流れも速いことを、ひさは知っていた。そして何より、この辺りは河岸から見えないのだ。
木立を縫って、ひさは川岸へ近づいていく。
すると急に景色が開ける。新河岸川が夕陽を写し、揺れる川面がきらきらと光って見えた。
水までは四、五尺はあろうか。切り立った斜面には背の高い葦が密生している。地を蹴って飛ぼうとした時、何かが両足に絡みついた。
「やめれ、やめてくれ」
ふくだった。ふくが両足に組みついたのだ。 ふたりはそのまま葦の斜面をずるずると滑って行く。
腰のあたりまで川に浸かったところで、ようやく止まった。ふくが片腕でひさを抱き、もう一方の腕で葦をひっ掴かんでいる。葦が抜ければ、ふたりして川へ流されてしまう。
「おれが悪りいんだ。おれが久助さを死なせてしまった」
そう言ってひさは泣いた。声を上げて、泣いた。
ふくはしばらく黙っていた。そしてぽつりと、泣け、と言った。
「おれはよお、皆には死に別れたと言ってるが、本当は生き別れよ」
ふくは、まるで関係のない物語りでもするように、ゆっくりと話した。
「旦那の儀助さはよ、お父う、お母っかあがいたうちはまだよかったべ。二親がいねえようになると、急に悪さしだしてよお。酒ばかり飲むわ、働かねえわでよ。そのうち別な女さ家へ入れて、おれは三下り半をもらって追い出されたわ。乳飲み子おいてよ。これがどんなにか辛れえか、おめえにはわからねえだろうよ」
ふくはひと息入れるように、深く息をした。
「でもよお、おれはおっ死んでねえべ。生きてるべ」
ひさはふくの顔を見上げた。ふくは穏やかにほほ笑んで見せた。
「どうしてだが、わかるか。何でおれが生きていられるか」
ひさは俯いた。涙が零れる。
「それはよお、たくさん泣いたからよお。おなご衆はよ、ほんとはおとこ衆より強ええんだ。そりゃあ、大きな声で泣けるからよ」
ふくはひさを抱き寄せる。ひさは幼い子供のように、泣いた。
「みいんなこの川に流しちまえ。この川は、きっと大昔から何千、何万というおなご衆の涙をそうやって流してきたんだ」
ひさは川面を眺めた。
いま落ちようとする夕陽が、新河岸川の川面にきらめく無数の小さな船をちりばめたように見えた。
ようっこ(やまめの稚魚)が撥ねる。
ひとしきり泣くと、ひさは深く息を吸った。それはまるで生まれて初めてする呼吸のように、からだ中に清らかな空気が回っていく心持ちがした。
江戸時代の中頃から川越と江戸を流通を支えた新河岸川の舟運は、鉄道が開通した明治の末ころから衰微した
。大正の末には川筋の改修工事がすすみ、九十九曲がりといわれた川は水量を保てなくなり、船頭とともに姿を消していった。
現在はその沿岸に、新河岸、古市場、扇河岸などいった地名にその面影を残すのみである。
(了)
船頭の野太い叫び声が、新河岸川に響いた。 朝飯の支度の前に水を汲もうと瓶を持って井戸へ行き、ちょうど釣瓶を引き上げた時だった。
「ああ、おなごもおるわ。心中だあ」
ひさは、はっとして水が入ったままの桶を井戸へ取り落とした。
滑車がからからと音を立てた。が、それには構わずひさは勝手口から外へと駆け出していく。
「心中だあ」
各店から人々がこぼれるように出でて、福岡河岸へ集まっていく。
古市場橋の袂に人だかりができている。
人垣を縫って、ひさは橋へ近づいた。
「浜屋のおこうじゃねえかよう」
誰かが言った。
ひさは息が止まった。口がからからに乾いた。
「男の方はだれだあ」
「まあだ、若けえのによお」
ひさの前にいた男が屈んだ拍子に、前が見えた。筵の上に男と女が並んで横たわっていた。
久助はまるで阿呆のようにぽかんと口を開き、仰向けに寝転んでいた。赤ん坊のように縮めた両手を胸の前で開き、両足はやや曲がったまま固まっている。
開いたままの眼が、青い空を写していた。 その瞳からは、ここ何日かのせっぱ詰まった様子は感じられず、以前の男らしく優しい久助に戻ったようであった。
ひさはその顔をじっとみつめていた。
こころの中では言葉にも、感情にすらならぬ想いが沸き上がっていた。あの手に何度引かれて、この橋を上ってだろうか。あの背に、おぶわれたこともあった。
そしてあの腕に、抱かれたときの嬉しかったこと……。
いろいろな思い出が、浮かんでは消えていく。きっと自分もふくのように、死んだ想い人の記憶を胸にこれからずっと生きていくのだろう、と思った。
そして、おこうが憎かった。
あの時の笑い顔がよぎる。
(あのおなごは、もともと死ぬつもりだったべ。久助さを道連れにしやがったんだ)
そう思うと、死んでも夫婦のように並んで横たわっている姿が口惜しい。
どろどろと、ひさの中で心というものが溶けていくような、思いがした。
それからひさは、藤乃屋の台所へ戻り、いつも通りの仕事をこなした。
水を汲みなおし、拭き掃除をし、麦飯を炊き、漬物を出し、客にお茶と茶受けを出した。「辛かったら、休んでもいいぞ」
と言ってくれたが、ひさは首を振った。
「そっだな。こんな時は身体動かした方がええべ」
夕方になり、夕食の支度を始めた。沢庵をまな板に乗せ、包丁を入れていく。ふと、包丁を持つ手がこそばゆい。
見ると、手の項が濡れている。怪訝に思って頬を触ると、やはり濡れている。
「ひさねえ、泣いてるの」
てるが不安げに脇から見上げた。
自分が泣いているのだ、ということにひさはようやく気づいた。
顔を上げる。窓格子の向こうに夕陽を浴びた新河岸川が、まるで赤銅色大蛇のようにのたうっている姿が目に入った。
今まで蓋をして、仕舞い込んであった悲しみが、急に溢れだしてくるのを感じた。その想いには、どうにも堪えきれなかった。
久助が死んでしまったのは、自分のせいだと思った。
あのとき久助を拒まなければ、おこうとのこともなかったかも知れない。
久助があの土蔵に潜んでいることを、旦那さまに申し上げれば、何とかして下さったかも知れない。
ふたりで一所懸命に働けば、盗んだ十両は返せたかも知れない。
――少なくとも、一緒に死んであげられたかも知れない。
悲しい想いは後から後から溢れてくる。
ひさは包丁をまな板の上にほうり出した。
両手で顔を覆った。胸が、まるでひき千切れるように、苦しい。
ひさは台所の土間から外へ飛び出した。
「――ひさねえ」
てるが叫んだ。
てるの声を振り払うように、ひさは駆けていく。
船着き場を右に、坂道を上る。そのまま新河岸川に沿って少し歩く。すると川は緩やかに北へ湾曲している。
(現在は河川改修がされ、川筋は真っすぐになっている)
そのあたりが水量も多く、流れも速いことを、ひさは知っていた。そして何より、この辺りは河岸から見えないのだ。
木立を縫って、ひさは川岸へ近づいていく。
すると急に景色が開ける。新河岸川が夕陽を写し、揺れる川面がきらきらと光って見えた。
水までは四、五尺はあろうか。切り立った斜面には背の高い葦が密生している。地を蹴って飛ぼうとした時、何かが両足に絡みついた。
「やめれ、やめてくれ」
ふくだった。ふくが両足に組みついたのだ。 ふたりはそのまま葦の斜面をずるずると滑って行く。
腰のあたりまで川に浸かったところで、ようやく止まった。ふくが片腕でひさを抱き、もう一方の腕で葦をひっ掴かんでいる。葦が抜ければ、ふたりして川へ流されてしまう。
「おれが悪りいんだ。おれが久助さを死なせてしまった」
そう言ってひさは泣いた。声を上げて、泣いた。
ふくはしばらく黙っていた。そしてぽつりと、泣け、と言った。
「おれはよお、皆には死に別れたと言ってるが、本当は生き別れよ」
ふくは、まるで関係のない物語りでもするように、ゆっくりと話した。
「旦那の儀助さはよ、お父う、お母っかあがいたうちはまだよかったべ。二親がいねえようになると、急に悪さしだしてよお。酒ばかり飲むわ、働かねえわでよ。そのうち別な女さ家へ入れて、おれは三下り半をもらって追い出されたわ。乳飲み子おいてよ。これがどんなにか辛れえか、おめえにはわからねえだろうよ」
ふくはひと息入れるように、深く息をした。
「でもよお、おれはおっ死んでねえべ。生きてるべ」
ひさはふくの顔を見上げた。ふくは穏やかにほほ笑んで見せた。
「どうしてだが、わかるか。何でおれが生きていられるか」
ひさは俯いた。涙が零れる。
「それはよお、たくさん泣いたからよお。おなご衆はよ、ほんとはおとこ衆より強ええんだ。そりゃあ、大きな声で泣けるからよ」
ふくはひさを抱き寄せる。ひさは幼い子供のように、泣いた。
「みいんなこの川に流しちまえ。この川は、きっと大昔から何千、何万というおなご衆の涙をそうやって流してきたんだ」
ひさは川面を眺めた。
いま落ちようとする夕陽が、新河岸川の川面にきらめく無数の小さな船をちりばめたように見えた。
ようっこ(やまめの稚魚)が撥ねる。
ひとしきり泣くと、ひさは深く息を吸った。それはまるで生まれて初めてする呼吸のように、からだ中に清らかな空気が回っていく心持ちがした。
江戸時代の中頃から川越と江戸を流通を支えた新河岸川の舟運は、鉄道が開通した明治の末ころから衰微した
。大正の末には川筋の改修工事がすすみ、九十九曲がりといわれた川は水量を保てなくなり、船頭とともに姿を消していった。
現在はその沿岸に、新河岸、古市場、扇河岸などいった地名にその面影を残すのみである。
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