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その夜もひさは皆が寝静まるのを待って、梯子段を下りた。
台所は母屋と廊下でつながっている。床板を軋ませないように、息を殺してゆっくりと歩いた。店へ続く長い廊下につきあたる。すぐ右側は仏間で、その先は主夫婦が休んでいる奥の間。
ひさはすり足で、一歩いっぽ確かめるように足を繰り出している。廊下は土間で直角に折れている。
昼間は馬方や船頭、荷主などでごったがえすお店の土間も、今は静まり返って広さだけが目だった。ひさは引き戸の前に両膝をついた。引き戸をに手をかける。
この戸の向こうは、帳場だった。
低い格子の結界の中には帳場机があり、その下にはあたり箱(すずり箱)と銭箱が置いてあるはずだった。
ひさは息を飲んだ。心の臓がまるで自分と無関係の生き物のように、激しく脈打っていた。
闇がひさの身体を圧迫し、深い水底にでもいるようだった。
(何をしようとしているか、判っているのか) と、心の中で別の自分がしきりに叫んでいる。また一方で、
「借りるだけ、借りるだけだ。後で何倍にもして返す」
という久助の言葉が何かのまじないのように、何度もこだましていた。
引き戸にかけた指に力を込める。戸が、こんなにも重いものかと、不思議に感じた。戸が滑りだすと思われたその瞬間だった。
「……あんねえ」
みぞおちに冷たい刃を刺し込まれたような感覚がした。
振り返る。
てるが直角に曲がった廊下の切っ先に立っていた。両目をしきりに擦っている。
「――てる」
ひさは駆け寄った。てるを抱いた。あんねえ、と言いながらてるは身体の隙間を埋めるようにくっついてくる。
(ああ、おれはてるに救われたんだ……)
そう思った。
と、次の瞬間、中の間の引き戸ががらりと開いた。
「どうした」
中年すぎの男が顔を出して、野太い声で訊いた。主の仙蔵であった。
「旦那様すんません。てるが寝ぼけちまって」
ひさはてるの手を引いて、台所へと戻る。
その後、てるを寝かしつけたひさは再び梯子段をおりる。
握り飯をもって外へ出た。太鼓橋を渡って、久助のいる土蔵へ急いだ。
ひさが久助に気づいて五日ばかりが経っていた。夜毎に通ううち、久助の言葉を信じるようになっていたのかも知れない。
京に行きたければ、行けばよい。お旗本になれるなら、なったらいい。
でも、盗みはだめだ。
人さまの、ご主人さまのお金に手をつけてはならない。
今日こそはきちんと久助に話をしよう。源五郎親方にきちんと詫びを入れ、もう一度船に乗せてもらうように。それこそまた小僧から始めてもよいではないか。そのくらいの気構えで親方に話せば、きっとわかってくれるに違いない。
そう思った。
柳の向こうに土蔵が見える。
最初、何か妙な感じがした。それが何か、すぐにはわからなかった。
明かりがついているのだ。ほんのりと提灯のあかりが。
土蔵の小窓から中を覗く。息を飲んだ。
裸の男と女が絡み合っている。提灯の明かりに照らされて、ふたりの顔が見えた。久助とそして、おこうだった。
信じられない。が、それは目の前で起きている。どうしたらよいか、わからなかった。 風が吹き付ける。凍てつくような寒さのはずだが、感じなかった。
声がした。おこうのかん高い、さかりのついた雌猫のような声。その声を聞いていると、急に憎しみが沸いてきた。
(……おれは盗みまでしようとしたのに。それなのに……)
おこうの笑った顔がよぎる。化け物のような、あの顔。
(そうか、あのときから……)
おこうは知っていたのだ。
ひさは怒りで自分がどにかなってしまうのではないか、と思った。おこうが憎かった。
(汚らしい売女め。このままじゃあ、済まさねえ)
土蔵の入り口に回り込もうとした時、後ろから腕を掴まれた。
「こんただことだと思ったべ」
ふくだった。
(今夜は何ということだべ。さっきはてるに救われ、今度はまたふくが……)
ふくは窓からちらりと中を覗いた。
「ありま、お楽しみだこと」
小声でそういうと、ひさの手を引っ張った。そして、どんとんと土蔵から遠ざかって行った。惚けたように、ひさは従った。
もういいと思ったか、橋の近くでふくは手を離した。
「ありゃあ源五郎船の久助だね」
ひさは頷いた。
「あの男はもうだめだべ。あきらめるこったあ」
ふくはまったく簡単にそう言った。
ひさは顔を上げた。何と言っていいか判からなかった。心の中は、言葉にならぬ感情で煮えくりかえっていた。
「久助さが、悪いんじゃねえ。あのおなごが、おこうが悪りいんだ」
吃って、突っ掛かりながらやっとそれだけのことを言った。言いながら涙が溢れ出ているのに、ようやく気づいた。
ふくは先に立って橋を上っていく。
「おめえには言わねえかったが……」
ふくはあたりを見回した。人影はない。川音が、低く聞こえた。
「番頭さんに聞いたんだが、源五郎船の若い衆がセジから船頭の金を十両も盗んで逃げたそうだわ。なんでもそいつは江戸で鉄火場(博打場)に出入りするようになって、借金をこさえたらしい」
ひさは目眩がした。欄干に辛うじて掴まった。あの土蔵での思い出がよぎる。
――鬢油の香り、江戸の匂い。
「同じ村の出だしよお、源五郎旦那は番所へ届けなかったそうだよ。十両盗んだと言やあ、三尺高けえところへ、首が乗っちまうからなあ」
「……でも久助さは、京に行くって。新鮮組に入ってお旗本になるんだって」
「なあにを呆うけたことを。いっぱしの船頭にもなれん男が、なんでお侍なんぞになれるものかね」
ひさは橋の上、ちょうど太鼓のてっぺんでへたり込んでしまった。もう何も言えなかった。
このまま新河岸川へ飛び込んで、水底に沈んだまま誰にも気づかれずに、消えてしまいたかった。
台所は母屋と廊下でつながっている。床板を軋ませないように、息を殺してゆっくりと歩いた。店へ続く長い廊下につきあたる。すぐ右側は仏間で、その先は主夫婦が休んでいる奥の間。
ひさはすり足で、一歩いっぽ確かめるように足を繰り出している。廊下は土間で直角に折れている。
昼間は馬方や船頭、荷主などでごったがえすお店の土間も、今は静まり返って広さだけが目だった。ひさは引き戸の前に両膝をついた。引き戸をに手をかける。
この戸の向こうは、帳場だった。
低い格子の結界の中には帳場机があり、その下にはあたり箱(すずり箱)と銭箱が置いてあるはずだった。
ひさは息を飲んだ。心の臓がまるで自分と無関係の生き物のように、激しく脈打っていた。
闇がひさの身体を圧迫し、深い水底にでもいるようだった。
(何をしようとしているか、判っているのか) と、心の中で別の自分がしきりに叫んでいる。また一方で、
「借りるだけ、借りるだけだ。後で何倍にもして返す」
という久助の言葉が何かのまじないのように、何度もこだましていた。
引き戸にかけた指に力を込める。戸が、こんなにも重いものかと、不思議に感じた。戸が滑りだすと思われたその瞬間だった。
「……あんねえ」
みぞおちに冷たい刃を刺し込まれたような感覚がした。
振り返る。
てるが直角に曲がった廊下の切っ先に立っていた。両目をしきりに擦っている。
「――てる」
ひさは駆け寄った。てるを抱いた。あんねえ、と言いながらてるは身体の隙間を埋めるようにくっついてくる。
(ああ、おれはてるに救われたんだ……)
そう思った。
と、次の瞬間、中の間の引き戸ががらりと開いた。
「どうした」
中年すぎの男が顔を出して、野太い声で訊いた。主の仙蔵であった。
「旦那様すんません。てるが寝ぼけちまって」
ひさはてるの手を引いて、台所へと戻る。
その後、てるを寝かしつけたひさは再び梯子段をおりる。
握り飯をもって外へ出た。太鼓橋を渡って、久助のいる土蔵へ急いだ。
ひさが久助に気づいて五日ばかりが経っていた。夜毎に通ううち、久助の言葉を信じるようになっていたのかも知れない。
京に行きたければ、行けばよい。お旗本になれるなら、なったらいい。
でも、盗みはだめだ。
人さまの、ご主人さまのお金に手をつけてはならない。
今日こそはきちんと久助に話をしよう。源五郎親方にきちんと詫びを入れ、もう一度船に乗せてもらうように。それこそまた小僧から始めてもよいではないか。そのくらいの気構えで親方に話せば、きっとわかってくれるに違いない。
そう思った。
柳の向こうに土蔵が見える。
最初、何か妙な感じがした。それが何か、すぐにはわからなかった。
明かりがついているのだ。ほんのりと提灯のあかりが。
土蔵の小窓から中を覗く。息を飲んだ。
裸の男と女が絡み合っている。提灯の明かりに照らされて、ふたりの顔が見えた。久助とそして、おこうだった。
信じられない。が、それは目の前で起きている。どうしたらよいか、わからなかった。 風が吹き付ける。凍てつくような寒さのはずだが、感じなかった。
声がした。おこうのかん高い、さかりのついた雌猫のような声。その声を聞いていると、急に憎しみが沸いてきた。
(……おれは盗みまでしようとしたのに。それなのに……)
おこうの笑った顔がよぎる。化け物のような、あの顔。
(そうか、あのときから……)
おこうは知っていたのだ。
ひさは怒りで自分がどにかなってしまうのではないか、と思った。おこうが憎かった。
(汚らしい売女め。このままじゃあ、済まさねえ)
土蔵の入り口に回り込もうとした時、後ろから腕を掴まれた。
「こんただことだと思ったべ」
ふくだった。
(今夜は何ということだべ。さっきはてるに救われ、今度はまたふくが……)
ふくは窓からちらりと中を覗いた。
「ありま、お楽しみだこと」
小声でそういうと、ひさの手を引っ張った。そして、どんとんと土蔵から遠ざかって行った。惚けたように、ひさは従った。
もういいと思ったか、橋の近くでふくは手を離した。
「ありゃあ源五郎船の久助だね」
ひさは頷いた。
「あの男はもうだめだべ。あきらめるこったあ」
ふくはまったく簡単にそう言った。
ひさは顔を上げた。何と言っていいか判からなかった。心の中は、言葉にならぬ感情で煮えくりかえっていた。
「久助さが、悪いんじゃねえ。あのおなごが、おこうが悪りいんだ」
吃って、突っ掛かりながらやっとそれだけのことを言った。言いながら涙が溢れ出ているのに、ようやく気づいた。
ふくは先に立って橋を上っていく。
「おめえには言わねえかったが……」
ふくはあたりを見回した。人影はない。川音が、低く聞こえた。
「番頭さんに聞いたんだが、源五郎船の若い衆がセジから船頭の金を十両も盗んで逃げたそうだわ。なんでもそいつは江戸で鉄火場(博打場)に出入りするようになって、借金をこさえたらしい」
ひさは目眩がした。欄干に辛うじて掴まった。あの土蔵での思い出がよぎる。
――鬢油の香り、江戸の匂い。
「同じ村の出だしよお、源五郎旦那は番所へ届けなかったそうだよ。十両盗んだと言やあ、三尺高けえところへ、首が乗っちまうからなあ」
「……でも久助さは、京に行くって。新鮮組に入ってお旗本になるんだって」
「なあにを呆うけたことを。いっぱしの船頭にもなれん男が、なんでお侍なんぞになれるものかね」
ひさは橋の上、ちょうど太鼓のてっぺんでへたり込んでしまった。もう何も言えなかった。
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