レジェンド・オブ・ダーク遼州司法局異聞 2 「新たな敵」

橋本 直

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満足な海風と波乱

安心できる仲間達

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リッカが白服になって1ヶ月が経とうとしている。

しかし、火と煙のにおいにも。
肉が焦げる音も変わらず慣れる気がしなかった。
足元で黒く焦げ、6本の足と触角を丸めた死骸を見下ろして顔を顰める。

「大丈夫か、リッカ」
「お、おおおう平気だぜえ?!」
「声震えてるじゃない」

おっかない。
唇を引き結んで冷や汗を耐えた。

「こ、んなん‥慣れるわけねえじゃん‥!」

見渡す限り赤茶色。
足元いっぱいに転がる死骸はどれも丸まって事切れている。が。

「うげええええまだいるぅううううう?!!」
『ああ。残念だけど敷地いっぱいに広がってるなあ。がんばれや』

今まで目にした怪物よりは小さめ。それでも立たせれば腰までのサイズはあるそれらは出動先である植物園の敷地の一部を破壊し繁殖していた。
頭の大きな赤褐色の体。
彼らのコロニーには捕食されたらしい虫の残骸や野生動物の骨があったらしい。作られた巣の規模は想像もつかない。
インカムを通じて最悪な報告を受けたリッカはうんざりと肩を落とし、既に毒餌で弱り切ったそれを、嗚咽を耐えながら焼いていく。

「なんだよこいつら‥!」
「アズマオオズアリ。日本で分布してる一般的な蟻だよ。可愛いねえ」
「……もう一回俺の目を見て言ってみろ」

明後日の方向を見つめるイツキの、感情もなければ色もない声に思わず非難の声を上げた。
敷地を占める蟻の軍勢を可愛いと申すなら目を見て言ってみろ。テンアゲ状態のきらきらお目目で乱獲を続ける変態年下少女のように。

うっかり思い出したサイコ少女の悍ましい姿は虫宿しであるリッカに本能的な恐怖を植え付けるに十分すぎる。
急激に凍えた背筋を頭を振る箏で誤魔化したリッカは頭でっかちな兵蟻を払うように火炎放射器で一匹ずつ確実に焼き殺していく。
そんな煙のにおいの中で一際来い燃料のにおいに目を向ければキャラが槍先で転がし集めた蟻を、メグミが意気揚々と火炙りにしているようだった。
リッカやイツキを始め、多くの白服はリーチの無い武器故にメグミの物より二回り程小振りな火炎放射器が支給されている。
今までリッカは"戦闘"にしか参加してこなかったのだが、白服はもとより"害虫駆除"が主な仕事だ。
毒餌で弱らせて駆除していく。絵面は地味だがリッカがよく見る白服本来の仕事である。

「そもそも、今までがおかしいんだよな・・」

リッカは呆然と呟きながら現場を見渡した。
そんな時、リッカの火炎放射器はノズルの先から不規則に数回炎を吐き出して沈黙してしまう。

「あ」

燃料切れだった。

「悪い、イツキ。一度戻る」
「おk。ひとりで大丈夫?」
「拠点すぐそこじゃねえか。大丈夫だって」

額に滲む汗を袖で拭いながらペアで回っていたイツキに戻ることを告げ、シロハの待つ拠点へ向かった。

「白服ってこんな仕事してたんだな‥」

燃料の補給所でもある拠点があるのは蟻の被害が少なかったピクニック用の広場。高台にある芝生の広場だ。
公園を見下ろす事が出来るその場には数名の白服が戻っていて、その中にはリンの姿もある。
リンのペアはシロハだ。
シロハが拠点に居る為、リン一人で現場を回っている。
鎖は腰に巻いたまま、問答無用で焼き払う姿は容姿も相まって恐ろしかったのを思い出した。

「……蝶、なんだよな‥リンさんって‥」

リンは蝶の虫宿しだと言う。
そして、人類種最強だ。
蝶は他の虫と違って甚大な被害がある話は聞かないが、その力を持っているだけで最強と謳われるのだ。蜘蛛の力を上手く使えるのならこの蟻の軍勢すら容易く駆除出来たかも知れない。

「………」

しかし、リッカがその力を使う為には圧倒的に知識も経験も足りなかった。
ならば、と。生唾を飲み込んでシロハの前に立ち。

「…シロハさん」
「ん?なに?」
「お願いが‥」

ぎゅうとスタンガンを握りしめた。



***



「……はぁあーー‥あ‥」


どんよりとリッカの背中に影が落ち、その周囲だけ目に見えて空気が淀んでいた。
想定より早い時間に仕事を終えて帰還しているというのに。
上達したアカリのカフェオレが彼らを出迎えてくれたというのに。
駆除した蟻を報告書に纏めるリッカはどんよりと表情を曇らせている。

「ど、どうしたんだよ、お前」

そんなリッカに声を掛けたのはリッカの中でチームの良心として確定しているメグミだ。
屈強な男は太い腕からは想像出来ない程力ない声でリッカに声を掛け。

「メグミさあん‥!」
「うおっ!」

絶望に濡れた顔で椅子を蹴り倒す勢いの少年に驚愕し仰け反った。

「ど、どうしたよ‥」
「シロハさんがぁあああ‥」
「お、おい‥?」

しかし、リッカの勢いはそのまま萎んでデスクに戻っていく。

「………」
「本当にどうした?」
「シロハさんに却下されたみたいです」
「却下?」

リッカに代わって首を傾げたメグミに応えたのは眉を下げるアカリだった。

「リッカが虫の使い方をリンさんに教えてもらいたいって、シロハさんにお願いしたみたいです。……却下されたみたいですけど‥」
「…あー‥」

肩を落としたリッカの事情に納得を返した。
事情を理解したらしいメグミをちらりと覗き見、リッカのか弱い声がそれに続く。

「俺が虫宿しとして力発揮するために、リンさんに色々教えてもらえればと思ったんです‥一応、シロハさんに相談しようかと思ったんですけど‥」
「ふむ」
「「ダメ」と、一言で却下されまして‥」

「ダメ」と。たった一言で却下したシロハの声が蘇る。
笑うでも怒るでも、ましてや揶揄する様子もなく言い放った男に真意を問いただしたくても叶わなかったのだ。
ひたすら肩を落とすリッカにメグミは顔を引き攣らせた。
助け舟を求めてキャラを振り向くが顔を顰めて目を逸らされ、ため息つきながら頭を掻く。

「あ~‥と‥悪いなリッカ」
「?」
「俺も却下だ」
「「は?!」」

予想だにしないメグミの返事にぎょっと目を見張った。
リッカとアカリは飛び上がって驚き、その様子にメグミはサッと室内を見渡す。
シロハはシバタの研究所に。リンはそれに同行し、イツキは1階のコンビニ。室内に居るのは自分たちとキャラだけだ。
それを確認するやほんの僅かに目を細めて大柄な長身を折り曲げてリッカと視線を合わせた。

「リンにゃ悪いが、奴を参考にするのは俺も反対だ。虫の扱いで焦るのはよくねえ‥‥それに‥」
「?」
「……アイツを真似ると命がいくつあっても足りねえよ」
「へ?なんで?」
「………」

実力の差かとも思ったが、メグミはどうやらそのつもりはないらしい。
それ以上詳しい事は話す様子もなく、アカリがキャラを見つめるも肩を竦めて見せるだけだ。
しかし。

「ドクターに聞いてみればいいじゃない」
「ドクター・・って、シバタ先生の事ですか?」
「そもそもアンタとリンじゃ事情が違うのよ」
「事情って?」
「キャラ!」
「……さあ?」

詳しく聞き出したいが、メグミの威圧にキャラもそれ以上を話す気はないらしい。
リッカとアカリで目を合わせる答えが出せるはずも無い。
肩を落とす二人の背後で扉が開いた。

「どしたの?」
「あ、いや‥」

イツキだ。
コンビニから戻ったらしい少年は袋にパッケージのスナック菓子や炭酸飲料を詰め、ピザまんでで頬を膨らませていた。
その姿はこの空間を占めている空気に似合わない。
それは当の本人も理解していたようで、入った瞬間に狼狽を見せたイツキにリッカは首を振った。

「なんでもない」
「はぁ?」

じいとイツキを見つめるもリンに心酔している様子を見るに却って面倒な事になるかもしれない。

「はぁーあ‥」
「大丈夫よ、リッカ。メグミさんも焦るなって言ってるし、シバタ先生に一度相談してみよう!」
「ああ‥そうする‥」

ため息ついてがっかりと肩を落とすと苦笑いを浮かべたアカリの励ましに肩を叩かれる。
それに応えて眉を下げ、頷いた。

「?ま、いっか」

事情を知る由もないイツキがきょとんと目を眇めるも、大して興味はないのかデスクに戻ってポテトチップスを齧りながらディスプレイを起動し、みんなを招いた。

「ねえ、みてみて。今日の現場ニュースんなってる」

促されて覗いてみると確かに今日の現場でもある植物園だった。
大量発生した蟻を駆除する為とはいえかなりの広さの芝生を焼いたのだ。多少の苦言もあるだろう
しかし、ニュースが取り上げているのは拠点になっていた広場だった。
ピクニック広場という名の通り、あの場所は公園内を見下ろせる絶好のスポットになっていたようだ。被害も少なく、安堵の声が上がっている。

「ああ。あのちょっと盛り上がってた場所ね?」
「運が良かったのな。あそこだけ蟻の被害軽微だったんだろ?」
「拠点にする為に多少駆除したらしいけど、元々虫よけにハーブを植えてたらしいよ」

興味津々にイツキのディスプレイを覗いていた面々が次々仮説を立てていく。
虫を駆除する以外にも発生を予防するのも彼らの仕事だ。あの公園の中で唯一無事だったのならば興味を引くのだろう。アカリの淹れたコーヒーを片手に交わされる会話は残念ながらリッカには理解の及ばないものばかりで輪の中に入ることを早々に諦めてぼんやりと画面を見つめた。

「なあ、アカリ」
「ん?」
「あんな巨大な蟻に、虫よけハーブなんて効果あるのかな?」
「え?」

そして、思わず呟いた。
あの広場はリッカも何度か訪れている。しかし、虫を寄せ付けない程のハーブ畑などあっただろうか。
何度リポーターの背後に目を凝らしてもそれらしいものは何もなく、当然アカリの返事もなく。

「リッカ?」
「………」

「はぁい。みんなお疲れさまー」

アカリ以外の誰も訝しむリッカに気付く筈も無く、シロハの帰還を待ってその日は解散となった。



***


「うおおおおおお!!またやったああああ!!!」

「あれ?また風呂?」
「さっきウサギ広場で‥」
「あ~~‥またやったんか‥」

朝霧邸の夜。
夕食を終わらせたリッカは本日二度目の浴室に向かうべく疾走し、イツキとユキは顔を引き攣らせた。
急いで滑り込んだ脱衣所の扉に「女子使用中・立ち入り禁止」の札が無い。代わりにただの「使用中」の札が出ている。これは男性入居者が入浴する際に出している札だ。おそらくカホは居ないだろう。最も、彼女の場合出し忘れや窓からの侵入が十分あり得るのだが。

「居たら謝ろう!」

今はとにかく体を洗いたい。
一人呟いたリッカは床を汚さない様に服を脱ぎ、洗面台に突っ込んだ。
広い浴室は汗ばむ程の熱い湯気が満ちていてその場にいるだけで体がぽかぽかと温まっていくようだ。
暑いシャワーとたっぷりの泡で汚れとにおいを流してから一度考え、広い浴槽に沈んだ。本日二度目だ。イツキもユキもいないが、かえって静かで体の緊張が解れていく。

「あ~~‥気持ちいい~‥」

イツキもユキもいない。
そしてカホもいない。
静かな浴槽に足を伸ばして浸かり、ため息こぼして天井に昇っていく湯気を見つめた。

白服に入って1ヶ月。
それはつまりこの邸に住み始めて1ヶ月という事だ。
同じ班のチームメイトとも、朝霧邸の住民であるユキやカホとも随分打ち解けた筈だと思う。
シバタとは薬の受け渡し程度の接点しかないのだが、元々あの男は気さくだ。悪く言えば馴れ馴れしい。
最近はシロハの軽口と毒にも慣れたはずだった。しかし。

「リンさんて何者なんだろうな…」

唯一リンの事は何一つ理解できずに一つ屋根の下で一緒に住んでいるのだ。
年齢も性別も生まれも。そればかりか本名すら不明。
わかるのは「リン」と呼ばれている事。一班のNo.2で蝶の虫宿し。そして人類種最強だという事だけ。
本人の素性は一切知れず、名前に関してはイツキや他の仲間すら知らないというし、唯一知っているだろうシロハは教えてはくれなかった。
まったくもって謎である。


「わたし?」


だからこそ。



「うおおおああああああああああ!!!!????!?」

「!!?」



その人物の甘い声にリッカの絶叫が浴室内に木霊した。



「だ、大丈夫?」
「すんません。本当にすんません」
「ううん。わたしはいいんだけんど」

ああ。気まずい。
いつからそこにいたのか。気付けば隣に並んだリンと浴槽に浸かり、リッカは何度繰り返したかもわからない謝罪を再び繰り返して顔を覆った。
性別すらわからなかったリンが隣に、しかも、生まれたままの姿でそこに居る。
性別を知るチャンスだ。
しかし、凄まじい罪悪感と、あまりに強烈な違和感に頭と膝を抱えて広い浴槽内で丸く小さくなっていた。

「すんません」
「だいじょうぶ、ね?ちょっとびっくりしただけだから」
「すみまs「リッカさん」は、ははい!」

しかし、あまりにしつこすぎたのだろう。
リッカの謝罪はついに遮られ、おそるおそると顔を上げた。

「わたしこそ、おどろかせてごめんね?」
「いえ‥」

熱気でとろんと蕩けた灰色の瞳に喉を詰まらせる。

虫宿しだろうが、人類種最強だろうが、否、だからこそリンの容姿は妖しく美しい。
濡れて肌に張り付く白い髪は絹の様に艶があり。
白い象牙の肌は今は桜色に火照って一層艶かしい。
熱でぷっくり潤った唇も。雫を纏った白く長い睫も。白い背中に刻まれた蝶の羽根も。
全てが煽情的で目に毒だ。

思わず顔を逸らしていたが、怖いもの見たさの好奇心でリッカの目線はどんどん下に、湯の中へと移動した。

「………」
「…うん?」

脱衣所に女性が使う札はなかった。
ならばリンは自分と同性だ。長い二本の脚の付け根をひっそりと隠す、髪と同色の白い下生えの中には足の間に隠れてはいるが、自分と同じものがあるはず。
そうして凝視していたリッカはするりと動いた脚を見て即座に顔を逸らしていた。

「っ」
「リッカさん?」

息が切れる。
意味の分からない罪悪感で顔を逸らした直後、絶望的な後悔に襲われた。

(あと少しで確認できたのに!!!)

おそらくその機会は永遠に失われたのだ。
しかし、逆に冷静になったリッカはおもむろに顔を隠し。

「……リンさん、綺麗な人だからビックリしただけです」

消え入りそうな声でぼそぼそと呟いた。
リンが男であるなら微妙な褒め言葉かもしれない。だが、正直な感想なのだ。
思った通り頬を染めて眉を下げたリンは「ありがと」と一言呟いてはにかんだ。
既に変態的な観察をしようとしているのだ。ならば少しでもリンの事が知りたくて、リッカの視線は自然と背中の刺青に向けられた。

「リンさん、それ、入れる時痛くありませんでした?」
「ん?これ?」

それは肩甲骨いっぱいに羽根を広げた大きいものだ。
こんな機会でもなければリンの事は何も知れずに終わるだろうと思えば、可能な限りリンの事を知りたかった。
そんな好奇心で凝視するリッカに、リンは苦笑するでもなく「ああ」と呟いた。

「平気。それにこれを入れたのはシバタだよ」
「え?!」
「わたし、初期の罹患者でね。当時は駆虫薬もねがったから虫に喰われる人が多くて、虫宿しは目印の刺青を入れられたの」
「へ?」
「肉体的な接触で感染する事もあるし、自暴自棄になって他者を巻き込む人もいたんだ。そんな中で間違って感染を広めないため、だよ」

刺青の意味に言葉を失った。
本来タトゥーは宗教的な意味をもつものだ。それ以外にももちろん権力の象徴や装飾目的で入れる者もいるが、リンの入れ墨は感染者の目印だったらしい。
感染を拡げない為には仕方のない措置だったのだろうがやるせない。
想像よりも残酷な刺青に眉を顰めるも、リンはまるで何でもないように「昔の事だよ」と告げた。

「シバタが駆虫薬を開発してくれて、わたしの虫の制御もしてくれているからね。もう平気」
「……そう、ですか‥」

思わず胸を撫で下ろした。
リンが気にしていないならそれで良い。ほっと息を吐いたリッカに、リンはずいと身を乗り出した。

「っ」

頬が熱い。
仰け反るとくすりと笑う顔がリッカの顔を下から覗き込んでいる。

「で?リッカさんは、わたしに何か聞きたいことがあったんじゃない?」
「へ?」
「だって、シロハと話してて元気なくなったから…虫の事じゃねえかって思ったんだけど?」
「……うへえ」

この男は仲間をよく見ている。
思わず口元を引き攣らせたが、即座に頭は絶好の機会を認識した。
シロハ、メグミ、キャラに拒否されたのだ。半ば諦めていたが当の本人なら違うかもしれない。
最大の期待を込めて目を輝かせた。

「リンさん!俺に!虫の扱い方を‥戦い方を教えてください!」

ぽかんと。
鳩が豆鉄砲を食ったようとはよく言ったものだ。
目と口を開いてリッカを見つめたリンは少しの間をおいて申し訳なさそうに肩を下げた。

「……以前、わたし、教えてあげるって言ったもんね」
「は、はい!」

覚えていてくれたのだ。と、リンを見つめる。
しかし、リンが口にしたのはリッカを落胆させるものだった。

「ごめんねえ。シロハに怒られちゃったんだ。リッカさんに無茶させたくないって」
「……まじすか」

期待していた分落胆が酷い。
涙目のリッカを前にしてバツが悪そうなリンは少し思考した後、思いついた様に手を打った。

「リッカさんは虫を使いたいんだよね?」
「あ、はい‥」
「蜘蛛だったよね?」
「はい‥」
「ヒントなら教えてあげられる‥かな?」
「えっ?!」

打って変わって目を見開き顔を上げた。

「お願いします!」

水飛沫を立ててリンに詰め寄る。
至近距離で灰色の瞳がぱちぱちと瞬き、驚いた表情が硬く強張るが気にしてはいられなかった。
同じ虫宿しからのアドバイスだ。興奮しない筈がない。

「わ、わかったから離れて?」

それこそ鼻先が触れ合う距離で、鼻息を荒くするリッカにリンはやんわりと両手で遮った。
すぐ背後には風呂の縁がありこれ以上は下がれない。
それでも離れようとしないリッカに仕方なく手で押しのけ離れさせた。
そうして漸くリンの傍らに座ったリッカは桜色に火照った細い腕が湯桶を手繰り寄せるのをじっと見つめた。
プラスチックの湯桶はバスチェアと同じシリーズの透明感のあるブラウンカラーだ。洒落っ気のあるそれはユキが選んで揃えたらしい。
リンはその湯桶を手にリッカを仰いだ。

「見てて」

それは一瞬だ。

一般的なプラスチックの桶がぽいと投げられた。
天井ギリギリまで登った桶は勿論宙に浮く筈も無くそのまま落下していく。
その桶をじっと見つめたリンは、まるで泡を吹き飛ばすように両手を口元に上げ、ふぅと息を吐いた。
瞬間、リンの唇から細い糸が噴出し、何重にも絡まりあって桶を包んでいく。

「!!?」

桶はみるみる糸に巻かれ、タイルに落ちたそれは繭でしかなかった。

「ふぅ」
「えっ‥へ?!どうやって‥!!」
「わたしの虫は蝶だからね。頑丈な繭を作れてもリッカさんの蜘蛛のような拘束力は殆どないんだ」
「えええええ???」

リンの口元を凝視してもそこには糸の形跡もない。
呆然と見つめるリッカに微笑み、新しい桶を拾ったリンはリッカの隣に並んだ。

「いいかい?」
「?!」

至近距離にリンの吐息。
触れ合う肌はしっとりと柔らかく、滑らかだ。

(いい匂い‥!)

思わず唇を引き結んだリッカに気付いているのかいないのか、リンは目の前で桶を揺らした。

「リッカさん。ここから動かずに桶を取ってね」
「え?え??」
「おなかが空いているあなたの前に獲物が落ちてきたと思って。獲物。生餌。餌。欲しいなと思えるならなんでもいいから」
「獲物?」
「欲しがって。リッカさん」

耳が擽られる。
喉が渇く。腹が空く。
ちらりと隣を見つめれば白く長い睫が雫を落としているのがわかった。

蝶の虫宿し。
それがリンだ。

「っ」

本当にぐぅとなった腹に驚き顔を上げると既に桶は天井まで持ち上がっていた。

「あっ」

無意識に声が漏れる。
光を反射し、雫を纏ってきらきらと輝くそれはあの雨の中で見つめた蝶の羽根のようで思わず手を伸ばしていた。

(うまそう)

腹がすく。
きゅううと騒ぐ。

それを自覚した瞬間に全ての指先から瞬時に網が飛び出した。
絡まりあった強固な糸は明確な意思でもって湯桶に絡みつきながら落下した。

カツ‥ン‥

「!」

響く硬質な音に我に返る。
見れば風呂の床には捕獲ネットに似た糸に絡めとられた湯桶が転がり、振り向けばリンが手を叩いた。

「リン‥さん‥」
「成功だね。おめでと」
「せ、成功‥?」


笑顔で拍手を送るリンを前に困惑を隠せない。
無我夢中だったのだ。やり方なんて覚えている筈がない。
しかし。

「ど?なにかつかめた?」
「……は、はい‥」

何かを。感覚を掴めたような気がした。
自分が蜘蛛になった気分だったのだ。
呆然と指先を見つめ、緩慢な動きでのろのろとリンを見つめたリッカは自分の中にある飢餓感が急速に萎んでいくのを自覚した。

「ありがとうございます‥リンさん‥」
「いいえ」

確かに掴めた。
しかし、これはダメだ。
リンのやり方ではダメだ。と、痛感する。

「じゃあ先上がるね。のぼせない様に気を付けて」
「は、い‥」

どうやらリッカより先に風呂に来ていたらしいリンは少しのぼせたような浮いた足取りで脱衣所へ向かっていく。
その背中が摺りガラスの向こうへ消えたのを見送って、ようやく息を吐き出した。

「リンさん‥いつも、こんな風に戦ってたんですか?」

人類種最強。
しかし、リンの戦い方は余りに"虫そのもの"であり、人間を辞めていた。
リッカすらあの一瞬で蜘蛛に取り込まれたのだ。リンのやり方は危険すぎる。

「だから、みんなダメだって言っていたのか‥」

今更ながら納得し、リッカは自分の指先を見つめてため息を零した。

人間を辞めたくはない。
ならば、自分の力で虫を制御しなければならない。

「……よし」

リッカは一人頷いて湯船から立ち上がった。





-to be continued-
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