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95.彷徨う仔羊

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 トリスさんの私室は、現在は陰気な空間となっているが、以前は明るく配色された年頃の少女の部屋だったのだろうと想像できる。

 マーガスさんとユズルバさんは廊下で待機してもらい、約束通り、扉をわずかに開けておいた。

「今日は特に冷えるわね」

 私はそう言いながら、窓の外を覗く。家の外は庭になっていて、大きな糸杉と落葉樹が美しく配置されている。よく見れば、糸杉にはツリーハウスらしき物が取り付けられているのに気がついた。

「私も昔はおてんばでね、庭の木に登っては何度も落ちたものよ」

 砕けた口調で穏やかに話しかける。これから私が行おうといているのは、トリスさんとの信頼関係の構築だ。私の聖紋に真力を流せば、トリスさんは全面的に私に膝を屈するだろうが、そんな事をしても彼女と赤ちゃんは幸せにならない。暗闇にいる彼女を助けることができるのは、彼女自身と愛する家族だけなのだ。

 私は単なる支援者の一人として認識さえしてもらえればいい。受け入れられなくても、拒否されなければ、話は聞いてもらえるからだ。

 私の専門分野は助産であり、臨床心理士ではない。このように傷ついた少女を救うためにどこからアプローチしていけばいいのかすらわからない。

 でも、トリスさんと赤ちゃんを心配する一人の人間として彼女達を救いたいのだ。その為には、まずトリスさんの気持ちを知らなくてはならない。

「……」

 とりとめもない私の話に、トリスさんの返答は勿論ないが、話に耳を傾けている様子は見られている。

「木の天辺に登った日のことは今でも忘れないわ、驚いた姉の顔ったら――」

「幸せですか?お城で暮らせて、偉大な英雄の旦那様に愛されて、綺麗なご衣装に高価な宝飾ばかり。街中には、貧しい人々がいますのに、ご自分達だけ……」

 私の話を遮るように、硬い声が部屋に落ちた。

「勿論幸せよ。だけど、あなたの考える幸せとは少し違うわね。私の幸せは、愛する家族と府民のみなさんの幸せの上に成り立つものなの。まだ私の力不足から全ての貧しき人々を困難から守り切れてはいないけど、来年度には失業率は半分になり、赤子の死亡率は下がると思うわ」

「詭弁だわ」

 難しい言葉を知っているのね

 ここで大人の知識を振りかざして攻めてみても、トリスさんを殻に戻すだけだろう。

「そうね、現状は全ての人を救うのはとても難しいことだと思うわ。でも総督様と私は、これからも一つずつ問題を解決していく予定よ。さぁ、難しい話はもうおしまい。あなたジャージャック卿をご存知? 本棚に全巻揃っていたからもしかして好きなのかと思って! 私もね、実のところ彼の信奉者なの」

 突然笑顔になって話し始めた私に、トリスさんは目を見開いて動揺した。

「私は何と言っても三巻の赤山の戦いが好きよ。ジャージャック卿が炎の剣を振りかざすところなんか最高に興奮するわよね」

「私は……」

「やっぱり四巻の昏き水底の死者も捨てがたいわね。水の中での戦闘なんて活劇としてとても優れていると思うの」

 話始めようとしたトリスさんに構わず、私は話し続ける。ここは同じ趣味の愛好家という姿を貫くことが大切だ。彼女が興味を持ち、話を聞くのは、若年妊娠について根掘り葉掘り聞いてくる部外者ではなく、友人だけだと思ったからだ。

 しばらくロマンス小説について熱く語っていると、トリスさんの頬に赤みがさした。

「ライナ様は、活劇がお好きかもしれませんが、この物語の核は姫とジャージャック卿の恋愛です。なので、私は第六巻の花園の君を推させていただきます」

「しかし、恋愛など、ジョージャック卿の冒険のための前振りでしょう?」

「そんなことありません!この姫は――」

 水色の瞳をキラキラ輝かせて話し始めたトリスさんは、ようやく年頃の少女に見えた。私達はしばらく小説について語り合うと、そろそろ城に戻る時間となった。

「もうこんな時間なのね、それじゃ、トリスまた明日来るわ。私の意見が正しいことを証明して見せるわね。是非、四巻を読んでお待ちになっていてね!」

 そう言うと、スカートを翻して部屋を後にした。桃色の扉を閉めると、呆気にとられたユズルバさんと、マーガスさんが佇んでいた。

 私は彼女達に片目を瞑ると、城に帰るべく階段を降り始めたのだった。


「驚きました」

 ガタゴトと揺れる獣車の中で、困惑顔のユズルバさんがポツリと言った。

「相手はようやく初経を迎えたような少女です。急に妊娠や出産の話をして、母親の自覚を持たせようとしても殻に閉じこもって出てこないでしょう。まずは、話ができるように少しは信用してもらわないと」

 私にもわかっている。こんな上辺だけの繋がりで核心に迫れるわけはない。両親のマーガスさんとリンドラさんは、生まれてくる赤ちゃんを彼らの子供として育てるつもりだ。まだ少女で経済的にも両親に依存しているトリスさんには、育てられないからと判断したからだ。それに、トリスさんの今後の嫁ぎ先の問題もある。

 果たして、赤ちゃんの養育まで話ができるだろうか……

 下手をすれば、トリスさんの意思とは関係無く、大人だけの話し合いで物事が進む恐れがある。トリスさんもその方が何も見ず、感じずに済むかもしれないが、彼女の心に消えない傷が残ったままになるだろう。

 いくら幼い少女とはいえ、これから起こる出産は避けようが無い。以前十五歳で双子を出産されたレミアン様を思い出す。彼女も出産へのきちんとした心構えが無かったため、苦しい思いをしたのだ。出産に対して恐怖しかない産婦さんは、それこそ地獄のような痛みに襲われる可能性がある。

 トリスさんが、少しでも現実を見てくれるといいのだけど……

 獣車の窓に額を押し当てて、私はそっと目を閉じた。



 トリスさんの家を訪ねてから四日が経った。連日の訪問にはロワさんかスワノフさんがついて来てくれている。多忙な彼らの貴重な時間を分けていただいているため、午前中のわずかな時間だけがトリスさんと話せる唯一の機会だ。

 今回の件について、ロワさんは私の介入を出来るだけ支援してくれている。若年妊娠とはいえ、お産だけならば他の産婆さんに依頼しても良いところを、私に采配を任せてくれているのだ。ロワさんがこの件を重く見ている証拠でもある。しかし心配性なロワさんは「無理だけはするな」と毎日念を押すことも忘れていない。そんな優しい彼の信頼にも応えたくて、私はできる限りの事をしようと思った。

 あれから色々心配はしたが、通い始めて二日目に、トリスさんの方から「赤ちゃんって可愛いですか」と聞いてきた。それからあれよあれよと言う間に、彼女は心を開き始めたのだ。

 出産には前向きになったものの、妊娠させた張本人であるガイナル(トリスさんが連呼するので仕方なく覚えた)にはまだ恋愛感情があるらしく、産んだ赤ちゃんは二人で育てるものだと信じ込んでいる。ガイナルが捕らえられていることも知らないようだ。

 父親のマーガスさんが聞いたら卒倒しそうだが、ここで全否定してしまえば最初に逆戻りだ。

「ガイナル(〇〇野郎)さんが大好きなのね。そうしたら、出産後はどちらに住むの? 私も訪ねて行きたいから場所を教えておいてもらいたいわ。それでガイナル……さんのどんなところが好きなの? 何している方なの?」

「彼は、本当に夢のように美しくて優しいのです。それにとっても大人でお金もいっぱい持っています。テラ教の教師様で皆さんの尊敬を一身に集めて、あまりに美しいから色々な女が近寄ってくるけど、私だけを愛してくれているのです」

 そう昨日話していたトリスさんは、文字通り夢見る少女のようにうっとりと頬を染めていた。賢く通常の倫理観を持つ大人は、少女に手を出したりはしない。トリスさんの頬を張って、目を覚ませ!と言うのは簡単だ。ただこれから出産を控え、極度の動揺は避けたい。若年妊娠はただでさえ、胎盤異常や低出生体重児、妊娠高血圧症候群などのリスクがあるのだ。

 このまま、夢を見せたまま出産させる方がいいのか、それとも出産して落ち着いた時に真実を知らせるべきか……

 本日は四日目の訪問となる。今回はスワノフさんが護衛について来てくれていた。

 トリスさんの家に到着すると、何やら家の中が騒ぎになっていた。様子を見に行った騎士さんが慌てて戻ってくる。

「ライナ様、出産になりそうとのことです」

 私は自分の膝が震えるのを感じながら、霜の降りた前庭に足を踏み入れた。



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