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88.試練そして*

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 日の出が近いのか、鎧戸の隙間から、ぼんやりとした光が差し込んでくる。

 私は依然として縒ったシーツに掴まり、必死に痛みと戦っている。

「ふぅーっ、ふぅーっ、ぐっぅぅ!」

 耐え難い痛みが周期的に襲いくる。私の予測では子宮口はほぼ全開に近づいている筈だ。この抑えようのない肛門の圧迫感は児頭が下降してきている証拠だ。もう少ししたら本格的に怒責どせき(いきみ)を開始しよう。本当はもういきみたくて気が変になりそうなくらいなのだ。

 しかし、子宮口全開前の無理な怒責は子宮頸部の裂傷の原因となりうる。ただでさえ巨大児なのだ、頸部の裂傷が起こった場合、治癒力向上の付与があっても出血多量で死ぬだろう。

「ふぅーっ、ゔぅー、ゔぅ、」

 怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、

 “死”という言葉をきっかけとして、追い払った筈の恐怖が後から後から沸いて出る。すぐ側で暖炉が赤々と燃えているのに、私の心の中は吹雪が荒れ狂っていた。涙なのか汗なのか、それとも涎なのかわからないものがぼたぼたと敷布を濡らしていく。

 ロワさん、ロワさん、怖いよ……

「ゔゔぅ、ふぅー、うゔゔ、」

 痛い、痛い、痛い、痛い!

 脱肛するかのような凄まじい痛みが襲ってくる。疼痛時には、正常な判断がもうできそうもない……

 私は、一旦ぶら下がっていたシーツを離すと、下着を脱ぎ去り、敷布の上に四つん這いになって思い切り怒責をかけた。ここまでくると、我慢が効かず本能的にいきんでしまう。児頭が骨盤の出口部に近づいてきているに違いない。

 痛みが引いてきた一瞬の隙をついて、両手を手指消毒する。そして、おもむろに四つん這いのまま自分の股間に手を伸ばした。

 内部から盛り上がった外陰部を辿ると、中央にフサっとした触覚を感じる。

 ああっ、赤ちゃん!

 赤ちゃんの頭髪に触れた途端、私の中の母が完全に覚醒した。妊娠してから今の今まで、私のお腹の中で愛しんできた赤ちゃんがすぐそこにいると思うと、不思議な力が湧いてくる。

 陣痛の間欠時に頭が引っ込まないということは、児頭が発露していると考えられる。骨盤の最も狭い出口部で、なかなか出られず苦しんでいるのだ。

 でもあと少し!

 まってて赤ちゃん!

 今、ママが出してあげるから!

 私は呼吸を整えると、覚悟を決めて力の限りいきんだ。

「んぐ……!っはーー、んぐぅぅ……!!」

 一度息継ぎをして再度いきむと、焼けつくような会陰の痛みとともに、どるんっと大きな大きな赤ちゃんの頭が娩出した。用意していた手で受け止めると、自然にぐるりと反時計回りに回旋する。しかし、それから再度怒責をかけても赤ちゃんの肩がどうしても出てこない。

 肩甲難産だ……

「やはり」という気持ちと、「なぜ!」という思いがごちゃ混ぜになる。しかし、今は一秒も争う時なのだ、思い悩む前に行動しなければ!

 私は赤ちゃんの頭を支えながら四つん這いから、ぐっと身をおこすと、再び天井から吊るされたシーツに掴まる。そして、両足の裏をしっかり床につけると、深いスクワットの体勢をとった。それを待っていたかのように、強い陣痛がはじまる。

「ぐぅぅぅぅ、っはーー!、ぐぅぅぅぅ!」

 全身全霊を込めて怒責をかけつつ恥骨上を圧迫する。

 もう、私なんかどうなってもいい!

 股が裂けるなら裂けろ! 

 赤ちゃんでてきて!

 ぜいぜいと荒い息をつきながら、陣痛の弱まりを感じて下を覗くが、赤ちゃんの紫色の横顔が見えるだけだ。このまま時間がかかれば、赤ちゃんは……

 最悪な想像に私の心は活動を止めた。赤ちゃんの緊急事態に痛みへの恐怖はどこかに消え去り、ただ、ただ、赤ちゃんを救命するべく体が動く。

 次の怒責で産まれなかったら恥骨結合を切断しよう

 無麻酔での自己帝王切開など、赤ちゃんを危険に晒すだけだ。帝王切開以外の方法は、以前聞き齧った程度の恥骨結合の切断しかない。こんな方法は現代医療ではありえないが、やるしかない。

 裁縫用の小刀を近くに寄せると、つぎの怒責に備えてスクワット態勢に戻る。

 さあ、絶対に、絶対に産んであげるから!!

 息を吸ってー、吐いてー、吸ってー、

 いきむ!!

「……!っはーー!んぐ……」

 息を漏らさず、目を見開き臍を見る、そして全身全霊を込めた渾身の怒責をかけた!



 ずる、ずる

 大きな肩が恥骨を滑脱していくのを感じる。

 今だ!

「ああああああ!!」

 絶叫しながら腹圧をかけて、大きな児頭を引っ張り出した。再び灼熱感が会陰部に起こる。多分大きな裂傷になったのだろう。

 どるんっと大きな大きな赤ちゃんが娩出した。あまりの大きさに落としそうになって敷布の上にそっと寝かせる。

 その顔色は真紫で、四肢はわずかに屈曲しているだけだ。

 すぐに蘇生を!

 私は素早く臍帯をミルキングして臍帯血を赤ちゃんへ送ると、滅菌しておいた糸で臍帯を結紮した。臍帯の切断はせず、まだ私と繋がったまま、赤ちゃんをすぐ隣の蘇生用の敷布の上へ移動する。

 肩枕を挿入してすぐにスニッフィングポジションをとらせる。そして、清潔な手巾で全身の水分を拭き取ると同時に、皮膚刺激を行った。赤ちゃんの喉からはゴロゴロとうがいをするような音が聞こえており、気道が分泌液で閉塞していることがわかる。私は躊躇なく、赤ちゃんの鼻と口腔内に溜まった分泌液と羊水を吸い出すと、皮膚刺激を再開した。

 赤ちゃんは紫色の顔をしかめて手足をばたつかせたが、第一啼泣はまだない。鼻腔と口腔の分泌液は除去したが、啼泣しないことには、酸素化に繋がらない。臍帯の根本に触れると、百回/分程度の心拍数がかろうじてあるのがわかった。

 吸い出した分泌液を手巾に吐き出して、すぐさま人工呼吸を始める。息を吹き込むと、凹んでいた胸郭がふくーっと膨らんだ。

 フゥー、フゥー、フゥー、

 フゥー、フゥー、フゥー

 間もなく人工呼吸を初めて三十秒経つため、一度人工呼吸を中止して蘇生の評価を行う。

 自発呼吸は……無し、心拍は変わらず百回/分、筋緊張はやや回復してきているか……

 即座に人工呼吸続行の判断をして再開する。

 フゥー、フゥー、フゥー、

 ずるり、ぼたぼたた

 フゥー、フゥー、フゥー、

 人工呼吸の最中に、股の間に濡れた温かな塊を感じた。多分胎盤が出たのだろう。それに伴って溜まっていた出血が溢れ出す。まるで蛇口をひねったような強出血が始まると、途端に頻脈となった私の心臓が早鐘のように胸を叩いた。このままでは、私は間もなく出血性ショックで意識を失って死ぬだろう。

 でも、どうか……どうかその前に

 赤ちゃんだけでも!

 フゥー、フゥー、フゥ……

 ゃぁ、ゃぁ、ぎゃぁ、ぎゃぁ、ぎゃぁ

 霞んでいく視界の中で、赤ちゃんが大きな大きな声をあげる。その時、私は初めて彼・の顔を見た。

 薄暗がりの中で、アイスブルーの瞳が私に向かってゆっくり開かれる。美しい澄んだ湖水のような瞳だ。

 ああ、

 ロワさんの瞳だ

 なんて可愛い……

「坊や……あなたのママよ。美しい世界に産まれてきてくれて……ありがと……う」

 視界はすでに暗転し、自分の上体も支えられずに赤ちゃんの横に倒れ込む。どうにか震える手で赤ちゃんを掛物で包むのが精一杯だった。

 そして突然の嘔気を感じて、咄嗟に赤ちゃんと反対方向に嘔吐する。

「ごほっ、ごほっ、はっ、はっ、はっ、」

 血圧低下に伴う嘔吐だろう。頻呼吸と呼吸苦も生じている。

 寒い……

 赤ちゃん……

 暖炉の火はもうすぐ……消えて……

 薪を足して……



 薄れゆく意識の中で、地鳴りのような地響きを聞いた気がした。

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