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68.穀潰しと呼ばれて
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「うちの嫁がこちらに来ていると知らせを受けたのでね……おやまぁ!こんな粗末なところで産んだのかい。いやだねぇ、実家に帰るまで我慢できなかったの? それで赤ん坊は!?」
皺くちゃな真っ白の肌に、赤銅色の燃えるような髪を高々と結い上げた一人の老女が文句を言いながら無遠慮に入ってきた。
「おや、そこかい」
老女はナトイさんの抱く赤ちゃんに気がつくと、真っ直ぐに近寄ってきて、骨ばった手でお包みを剥がそうとした。
「こんにちは、ナトイさんのお義母様でいらっしゃいますか?」
私はナトイさんと赤ちゃんを守るため、慌てて間に身を滑り込ませる。
「なんだい、あんたは。随分と若い産婆じゃないか。ナトイ、私は産婆は頼むなって言ったはずだよ!もう五人も産んでるんだ、六人目も自分でできますって言ったのはお前じゃないのかい?」
「はい。ですが……中々生まれないので、救護院でご相談を……」
「言い訳なんて聞きたくないね。かかった費用はお前の実家に払ってもらいな。私は一銭も出さないからね。それで、男なのかい、女なのかい」
この無礼極まりない老女は確かにナトイさんのお義母さんなのだろう。だが、産褥の休息が必要な時に、母子関係を脅かす人間は家族だろうと親戚だろうと、看過できない。第一、ナトイさんはまだ血塗れで下半身も隠されていない状態だ。
「まぁまぁ、お義母様落ち着いてください。今、出産が終わったところなのですよ?準備もまだですし、別の部屋でお待ちください」
有無を言わさず廊下を指差すと、老女は私の指をばちんとはたき落した。
「私を誰だと思ってるの! オリベ商会の主人の妻のロラザンですよ。オリベのロラザンといったら、総督様も獣車も止めてご挨拶なさるほどなのよ。ただの産婆が私に意見するなんて百年早いわ。いいから赤ん坊をこちらにお渡し!」
なんと気の短いご婦人だろうか。オリベ商会は確かに大きな店だ。総督府でもかなりの力を持っている。私達の婚礼にもご主人が列席していたと記憶している。しかし、こんな気性で豪商の妻だというから驚きだ。赤い髪や私の聖紋の影響も受けない様子から、他民族であることは間違いない。
「あなたは少し興奮されています。そうそう、挨拶がまだでしたね。私はこのマンドルガを統治する総督の妻です。オリベ商会についてもよく存じておりますよ。旦那様には婚礼でお会いしましたし」
「ひっ、し、しかしなぜご夫人がこのようなところに……」
急に目をギョロギョロさせはじめた老女は、ナトイさんとそのお母さんに目を止めると、凄まじい目で睨んだ。
「お前が仕組んだんだね! きっとご夫人にあること無いこと吹き込んだに違いない!産み終えたのなら、さっさと身支度して帰ってきな、もう歩けるだろう。子も子なら親も親だよ、権力者に取り入ってお慈悲をせがむなんてね。総督夫人様、この者達の言うことなどお聞きになることはございません。所詮卑しい者達です――」
聞くに耐えない雑言に、私の堪忍袋もついに切れた。
「お黙りなさい! 産後間もない方に対して何という暴言。あなたのような家族のいる家にはナトイさん親子は到底お返しできません!とりあえずあなたは別室で頭を冷やしなさい」
怒鳴られるのには慣れていないのか、一瞬間の抜けた表情を見せたロラザン夫人は、それでもナトイさんを睨みつけると呪詛のようにぶつぶつと何かをつぶやきはじめた。
「……薄汚い泥棒猫め……この、穀潰しがぁ。そうだ、こんなこ汚い産婆が総督夫人であるはずない……」
「さぁ、行きなさい」
ロラザン夫人の肩に手を添えると、凄い勢いで振り払われ、頬を打たれた。
「あっ、」
「奥様!!」
老女のため大した力ではなかったが、打たれた衝撃で一瞬頭が真っ白になる。しかし、冷静な私がすぐに戻ってきた。
「大丈夫です、大したことありません。ユズルバさん彼女を連れて行ってください」
ユズルバさんに押さえ込まれ、悪態をつきまくる老女を半ば無理やりに別の部屋に連行していく。
扉が閉まりやっと息を吐くことができた。
いやはや、悪意の塊のような人間だ。つい怒鳴って黙らせてしまったが、手を出さなかっただけましというものだ。もう話をするのも嫌だが、ナトイさん家族の今後が心配だ。悪いが、事態を把握できるまで私の権限で別の部屋に軟禁させてもらうことにした。
息を吸うように、悪意を吐く人間を世間に解き放つわけにはいかないものね……うんうん。
とりあえず害は隔離したが、根本の解決にはいたっていない。産後の処置や、穏やかな母子早期接触が終わってから考えよう。血塗れの手を洗ってエプロンを取り替えると、ナトイさんに微笑んで見せた。
「ナトイさん、私がついています。必ずお助けしますので、今は赤ちゃんをしっかり抱きしめてあげてください。さぁ、おっぱい飲みましょうね」
戻ってきたユズルバさんとともに、ナトイさんの身を清めると、裸の胸の上にこれまた裸にした赤ちゃんをそっと乗せた。小柄な赤ちゃんは首も座っていないのに、ママのおっぱいを探して必死に頭を持ち上げようとしている。ちっちゃな足を動かして、ずりずりと乳首に向かって前進する姿はとても逞しく見えた。
「ライナ様、こんなに良くしていただいて本当にありがとうございます。ああ、坊や……」
ようやく乳首を深くくわえて吸啜を始めた息子を抱いて、ナトイさんは深い安堵の溜息をついた。目で見えなくても、彼女の中をオキシトシンが駆け巡っているのを感じる。母子は安全で安らぎのある環境にいるべきだ。不安やストレスはオキシトシンの分泌を減少させ、母乳の出を阻害し、母の精神を不安定にさせる。
んく、んくと嚥下音が聞こえはじめた。多分ナトイさんは上の子の授乳中に妊娠・出産したのだろう。通常より多めの母乳が分泌されているようだ。
穏やかな情景に一安心し、その場をユズルバさんに託して退出した。その際、話を聞くためナトイさんのお母さんにも一緒についてきていただいた。
「ライナ様、本当に本当にありがとうございます。娘と孫を助けていただいて、なんとお礼を申してよいかわかりません」
お母さんは廊下に出ると、押し殺した声で何度も何度も感謝を繰り返した。当然のことをしたまでですよと繰り返しても、お母さんは頭を下げ続ける。そんなお母さんを連れてある部屋に向かった。
私達が向った先はロワさん達のいる事務室だ。オリベ商会が絡んでいるのならば、ロワさんの判断を仰いだ方がいいと思ったからだ。
コンコンコンとノックすると、内側からドアが開いた。
「レン! お産だと聞いたが、生まれたのか……こちらのご婦人は?」
飛び出してきた旦那様は、ナトイさんのお母さんの姿を見ると、スピードを緩めた。
「先程お産されましたナトイさんのお母さんです。ナトイさんはオリベ商会のお嫁さんです。こちらに伺ったのは、お二人にご相談にのって欲しいことがあるからです。さぁ、お母さん、どうしてこんなに酷い扱いを受けることになったのかお話ください」
「恐れおおくも総督様に御目通りかないまして、ただただ驚くばかりです。しかし、私達のような下々の悩みを聞いてもらうには及びません。娘と孫を奥様にお救いいただいただけでも、奇跡が起きたとしか思えないのです」
「そうかしこまることはない。孫の誕生に立ち会われたか。子の誕生はどんな宝飾よりも価値のあるものだ。どうか祝いの言葉を贈らせてくれ」
「あぁ、なんと……ありがとうございます」
「さぁ、こちらにお掛けになって、お話しください」
総督からの祝いの言葉に恐縮しきったナトイさんのお母さんは、身を縮こまらせてどうにか椅子に座った。
「このようなお話で、尊き方々のお耳を汚してしまうのは申し訳無いのですが――」
私が薬草茶をお出しすると、勿体ないことですと礼を言って一口どうにか飲み込んだ。その後、ポツポツと話しはじめた内容は、耳を疑うようなものだった。彼女の話をまとめるとこんな感じだ。
ナトイさん親子は元々オリベ商会の使用人だった。実直なノーグマタである彼らは、主人家族と商会のために身を粉にして働いてきた。ナトイさんのお父さんはオリベ商会の番頭とも言うべき立場で、重要な取引をいくつも成功させていたのだという。
そのような家族ぐるみの関係がある中で、オリベ商会の長男であるセルヒオさんと年の近いナトイさんが恋愛関係になったのも自然な成り行きだった。
しかし、面白くないと考える人間がいた。そう、あのロラザン夫人だ。彼女はとうの昔に愛人の元に逃げ出した夫に代わって、一人息子を溺愛してきたのだ。その愛する息子が、あろうことか使用人の娘と恋仲になっていようとは……
激怒したロラザン夫人は、即刻別れて店を辞めるようにナトイさんに迫った。しかし、その時にはもう彼女のお腹には新たな命が宿っていたのだ。さらに、今まで従順だった息子のセルヒオさんが、絶対に婚姻を結ぶ!反対するなら家を出る!と言い出したため嫌々婚姻を認めることとなった。
嫌味な姑がいても、ナトイさんの愛する夫との新しい生活は順調だった。
しかしある時、ナトイさんのお父さんが率いる商隊が忽然と姿を消してしまったのだ。嘆くナトイさんにロラザン夫人が追い打ちをかけるようにこう言った。
「お前の父のおかげで莫大な負債を抱えてしまった。このままでは主人だけでなく、セルヒオまでも首を吊らないといけなくなる。だけど、私には莫大な持参金がある。これを出せばオリベ商会は助かるはずだ。お前には何ができる? お前の父親の所為で店を傾けておきながら、娘のお前はいったいなにを差し出すって言うのだ」
それからナトイさんはロラザン夫人のいいなりになった。父親の所為だとされた負債は天文学的数字で、一般庶民にはどうにもならないものだったからだ。ロラザン夫人は、セルヒオさんには一切このことを言わないでおくように釘を刺した。それもあって、ナトイさんは、セルヒオさんに義母のことを相談することはなかった。父親の商隊が消えてしまい、商会が負債を抱えたことは事実だったからだ。
元々おとなしいの性格のナトイさんは、不平を言わず黙々とロラザン夫人に尽くした。早く跡継ぎを産めと言われると、夫に懇願して毎年のように子供を出産した。しかし生まれる子は全て女児で、その度にロラザン夫人になじられた。三人目からは産婆もつけてもらえず、実家でひっそりと母親に手伝ってもらい出産した。
セルヒオさんは息子に恵まれずとも、娘達を可愛い可愛いとそれはそれは大切にしてくれていた。ナトイさんにとって、セルヒオさんと娘達と実の母親だけが唯一の癒しで救いだった。
しかし、性根の悪い人間はどこまでも意地が悪い。ロラザン夫人は次の子供が男児でなかったら、上の姉妹五人を全て自分の故郷の沈黙の家(修道院)へ送ると言い出したのだ。反対したり、セルヒオさんにこのことを告げ口したら長女に害が及ぶと脅された。長女は行儀見習いとして、ロラザン夫人と寝起きを共にさせられていたのだ。
そのようなわけで、どうしても男児を産まなくてはならなくなったナトイさんは、仕事の合間に先祖の霊廟に日参して祈りを捧げた。
そして本日、ナトイさんは運命の手に導かれるようにこの救護院で出産した。あの小さな男の子は今は母親の温かい胸で眠っているだろう。
話し終わったナトイさんのお母さんは、最後に絞り出すようにこう言った。
「どうか、娘と孫を助けてください」
怒りに震える私の手をそっと大きな手が包んだ。
そうだ、激情に走ってはいけない。きちんと真実を明らかにして、正当な処罰をしなければ。
私は大丈夫ですと、ロワさんの手をキュッと握り返した。
通りから聞こえる商いの声が、私にはどこか遠い異国のように感じられた。
皺くちゃな真っ白の肌に、赤銅色の燃えるような髪を高々と結い上げた一人の老女が文句を言いながら無遠慮に入ってきた。
「おや、そこかい」
老女はナトイさんの抱く赤ちゃんに気がつくと、真っ直ぐに近寄ってきて、骨ばった手でお包みを剥がそうとした。
「こんにちは、ナトイさんのお義母様でいらっしゃいますか?」
私はナトイさんと赤ちゃんを守るため、慌てて間に身を滑り込ませる。
「なんだい、あんたは。随分と若い産婆じゃないか。ナトイ、私は産婆は頼むなって言ったはずだよ!もう五人も産んでるんだ、六人目も自分でできますって言ったのはお前じゃないのかい?」
「はい。ですが……中々生まれないので、救護院でご相談を……」
「言い訳なんて聞きたくないね。かかった費用はお前の実家に払ってもらいな。私は一銭も出さないからね。それで、男なのかい、女なのかい」
この無礼極まりない老女は確かにナトイさんのお義母さんなのだろう。だが、産褥の休息が必要な時に、母子関係を脅かす人間は家族だろうと親戚だろうと、看過できない。第一、ナトイさんはまだ血塗れで下半身も隠されていない状態だ。
「まぁまぁ、お義母様落ち着いてください。今、出産が終わったところなのですよ?準備もまだですし、別の部屋でお待ちください」
有無を言わさず廊下を指差すと、老女は私の指をばちんとはたき落した。
「私を誰だと思ってるの! オリベ商会の主人の妻のロラザンですよ。オリベのロラザンといったら、総督様も獣車も止めてご挨拶なさるほどなのよ。ただの産婆が私に意見するなんて百年早いわ。いいから赤ん坊をこちらにお渡し!」
なんと気の短いご婦人だろうか。オリベ商会は確かに大きな店だ。総督府でもかなりの力を持っている。私達の婚礼にもご主人が列席していたと記憶している。しかし、こんな気性で豪商の妻だというから驚きだ。赤い髪や私の聖紋の影響も受けない様子から、他民族であることは間違いない。
「あなたは少し興奮されています。そうそう、挨拶がまだでしたね。私はこのマンドルガを統治する総督の妻です。オリベ商会についてもよく存じておりますよ。旦那様には婚礼でお会いしましたし」
「ひっ、し、しかしなぜご夫人がこのようなところに……」
急に目をギョロギョロさせはじめた老女は、ナトイさんとそのお母さんに目を止めると、凄まじい目で睨んだ。
「お前が仕組んだんだね! きっとご夫人にあること無いこと吹き込んだに違いない!産み終えたのなら、さっさと身支度して帰ってきな、もう歩けるだろう。子も子なら親も親だよ、権力者に取り入ってお慈悲をせがむなんてね。総督夫人様、この者達の言うことなどお聞きになることはございません。所詮卑しい者達です――」
聞くに耐えない雑言に、私の堪忍袋もついに切れた。
「お黙りなさい! 産後間もない方に対して何という暴言。あなたのような家族のいる家にはナトイさん親子は到底お返しできません!とりあえずあなたは別室で頭を冷やしなさい」
怒鳴られるのには慣れていないのか、一瞬間の抜けた表情を見せたロラザン夫人は、それでもナトイさんを睨みつけると呪詛のようにぶつぶつと何かをつぶやきはじめた。
「……薄汚い泥棒猫め……この、穀潰しがぁ。そうだ、こんなこ汚い産婆が総督夫人であるはずない……」
「さぁ、行きなさい」
ロラザン夫人の肩に手を添えると、凄い勢いで振り払われ、頬を打たれた。
「あっ、」
「奥様!!」
老女のため大した力ではなかったが、打たれた衝撃で一瞬頭が真っ白になる。しかし、冷静な私がすぐに戻ってきた。
「大丈夫です、大したことありません。ユズルバさん彼女を連れて行ってください」
ユズルバさんに押さえ込まれ、悪態をつきまくる老女を半ば無理やりに別の部屋に連行していく。
扉が閉まりやっと息を吐くことができた。
いやはや、悪意の塊のような人間だ。つい怒鳴って黙らせてしまったが、手を出さなかっただけましというものだ。もう話をするのも嫌だが、ナトイさん家族の今後が心配だ。悪いが、事態を把握できるまで私の権限で別の部屋に軟禁させてもらうことにした。
息を吸うように、悪意を吐く人間を世間に解き放つわけにはいかないものね……うんうん。
とりあえず害は隔離したが、根本の解決にはいたっていない。産後の処置や、穏やかな母子早期接触が終わってから考えよう。血塗れの手を洗ってエプロンを取り替えると、ナトイさんに微笑んで見せた。
「ナトイさん、私がついています。必ずお助けしますので、今は赤ちゃんをしっかり抱きしめてあげてください。さぁ、おっぱい飲みましょうね」
戻ってきたユズルバさんとともに、ナトイさんの身を清めると、裸の胸の上にこれまた裸にした赤ちゃんをそっと乗せた。小柄な赤ちゃんは首も座っていないのに、ママのおっぱいを探して必死に頭を持ち上げようとしている。ちっちゃな足を動かして、ずりずりと乳首に向かって前進する姿はとても逞しく見えた。
「ライナ様、こんなに良くしていただいて本当にありがとうございます。ああ、坊や……」
ようやく乳首を深くくわえて吸啜を始めた息子を抱いて、ナトイさんは深い安堵の溜息をついた。目で見えなくても、彼女の中をオキシトシンが駆け巡っているのを感じる。母子は安全で安らぎのある環境にいるべきだ。不安やストレスはオキシトシンの分泌を減少させ、母乳の出を阻害し、母の精神を不安定にさせる。
んく、んくと嚥下音が聞こえはじめた。多分ナトイさんは上の子の授乳中に妊娠・出産したのだろう。通常より多めの母乳が分泌されているようだ。
穏やかな情景に一安心し、その場をユズルバさんに託して退出した。その際、話を聞くためナトイさんのお母さんにも一緒についてきていただいた。
「ライナ様、本当に本当にありがとうございます。娘と孫を助けていただいて、なんとお礼を申してよいかわかりません」
お母さんは廊下に出ると、押し殺した声で何度も何度も感謝を繰り返した。当然のことをしたまでですよと繰り返しても、お母さんは頭を下げ続ける。そんなお母さんを連れてある部屋に向かった。
私達が向った先はロワさん達のいる事務室だ。オリベ商会が絡んでいるのならば、ロワさんの判断を仰いだ方がいいと思ったからだ。
コンコンコンとノックすると、内側からドアが開いた。
「レン! お産だと聞いたが、生まれたのか……こちらのご婦人は?」
飛び出してきた旦那様は、ナトイさんのお母さんの姿を見ると、スピードを緩めた。
「先程お産されましたナトイさんのお母さんです。ナトイさんはオリベ商会のお嫁さんです。こちらに伺ったのは、お二人にご相談にのって欲しいことがあるからです。さぁ、お母さん、どうしてこんなに酷い扱いを受けることになったのかお話ください」
「恐れおおくも総督様に御目通りかないまして、ただただ驚くばかりです。しかし、私達のような下々の悩みを聞いてもらうには及びません。娘と孫を奥様にお救いいただいただけでも、奇跡が起きたとしか思えないのです」
「そうかしこまることはない。孫の誕生に立ち会われたか。子の誕生はどんな宝飾よりも価値のあるものだ。どうか祝いの言葉を贈らせてくれ」
「あぁ、なんと……ありがとうございます」
「さぁ、こちらにお掛けになって、お話しください」
総督からの祝いの言葉に恐縮しきったナトイさんのお母さんは、身を縮こまらせてどうにか椅子に座った。
「このようなお話で、尊き方々のお耳を汚してしまうのは申し訳無いのですが――」
私が薬草茶をお出しすると、勿体ないことですと礼を言って一口どうにか飲み込んだ。その後、ポツポツと話しはじめた内容は、耳を疑うようなものだった。彼女の話をまとめるとこんな感じだ。
ナトイさん親子は元々オリベ商会の使用人だった。実直なノーグマタである彼らは、主人家族と商会のために身を粉にして働いてきた。ナトイさんのお父さんはオリベ商会の番頭とも言うべき立場で、重要な取引をいくつも成功させていたのだという。
そのような家族ぐるみの関係がある中で、オリベ商会の長男であるセルヒオさんと年の近いナトイさんが恋愛関係になったのも自然な成り行きだった。
しかし、面白くないと考える人間がいた。そう、あのロラザン夫人だ。彼女はとうの昔に愛人の元に逃げ出した夫に代わって、一人息子を溺愛してきたのだ。その愛する息子が、あろうことか使用人の娘と恋仲になっていようとは……
激怒したロラザン夫人は、即刻別れて店を辞めるようにナトイさんに迫った。しかし、その時にはもう彼女のお腹には新たな命が宿っていたのだ。さらに、今まで従順だった息子のセルヒオさんが、絶対に婚姻を結ぶ!反対するなら家を出る!と言い出したため嫌々婚姻を認めることとなった。
嫌味な姑がいても、ナトイさんの愛する夫との新しい生活は順調だった。
しかしある時、ナトイさんのお父さんが率いる商隊が忽然と姿を消してしまったのだ。嘆くナトイさんにロラザン夫人が追い打ちをかけるようにこう言った。
「お前の父のおかげで莫大な負債を抱えてしまった。このままでは主人だけでなく、セルヒオまでも首を吊らないといけなくなる。だけど、私には莫大な持参金がある。これを出せばオリベ商会は助かるはずだ。お前には何ができる? お前の父親の所為で店を傾けておきながら、娘のお前はいったいなにを差し出すって言うのだ」
それからナトイさんはロラザン夫人のいいなりになった。父親の所為だとされた負債は天文学的数字で、一般庶民にはどうにもならないものだったからだ。ロラザン夫人は、セルヒオさんには一切このことを言わないでおくように釘を刺した。それもあって、ナトイさんは、セルヒオさんに義母のことを相談することはなかった。父親の商隊が消えてしまい、商会が負債を抱えたことは事実だったからだ。
元々おとなしいの性格のナトイさんは、不平を言わず黙々とロラザン夫人に尽くした。早く跡継ぎを産めと言われると、夫に懇願して毎年のように子供を出産した。しかし生まれる子は全て女児で、その度にロラザン夫人になじられた。三人目からは産婆もつけてもらえず、実家でひっそりと母親に手伝ってもらい出産した。
セルヒオさんは息子に恵まれずとも、娘達を可愛い可愛いとそれはそれは大切にしてくれていた。ナトイさんにとって、セルヒオさんと娘達と実の母親だけが唯一の癒しで救いだった。
しかし、性根の悪い人間はどこまでも意地が悪い。ロラザン夫人は次の子供が男児でなかったら、上の姉妹五人を全て自分の故郷の沈黙の家(修道院)へ送ると言い出したのだ。反対したり、セルヒオさんにこのことを告げ口したら長女に害が及ぶと脅された。長女は行儀見習いとして、ロラザン夫人と寝起きを共にさせられていたのだ。
そのようなわけで、どうしても男児を産まなくてはならなくなったナトイさんは、仕事の合間に先祖の霊廟に日参して祈りを捧げた。
そして本日、ナトイさんは運命の手に導かれるようにこの救護院で出産した。あの小さな男の子は今は母親の温かい胸で眠っているだろう。
話し終わったナトイさんのお母さんは、最後に絞り出すようにこう言った。
「どうか、娘と孫を助けてください」
怒りに震える私の手をそっと大きな手が包んだ。
そうだ、激情に走ってはいけない。きちんと真実を明らかにして、正当な処罰をしなければ。
私は大丈夫ですと、ロワさんの手をキュッと握り返した。
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