心に傷を負った男

中野拳太郎

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十九、

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 義信は、黒色のナップザックの中に工具やら、備品を入れ、準備を進めた。そして、S&WM19を左手で握る。

 この銃はシングルアクションのため、一発撃つごとに手で撃鉄を起こす必要がある。
 先ず弾倉に弾薬を装填する。次に撃鉄を指で引き起こす。銃内部のバネを圧縮した状態で撃鉄は止まる。
 弾倉が回転し、弾薬が発射位置まで移動したところで弾倉が固定され、それで発射準備が完了する。

「お兄ちゃん」
 後ろから浩太の声が聞こえた。
「こんな感じでいいの?」

 浩太は少し上を見上げ、まるで放心状態のように口をぽかんと開けていた。
 何処か遠くを見つめる目に、力はない。浩太と義信は部屋から出てきて、建物の入り口で瑠唯を待つことにした。

「ああ、上出来だ」

 浩太はその表情を止めてから、いつもの顔に戻った。

「でも、なんで女の人の前では、今までで一番辛く、悲しい時のことを思い浮かべていなくちゃならないの?」

「それが女にモテる秘訣だ」
 義信は言った。
「ま、お前も大人になればわかるさ。だから今はその時のために練習でもしておけ」

 この状況下、悲しい顔さえしていれば、女は母性本能をくすぐられ、それで浩太に感情移入するようになる。

 壁に備えつけられた時計に目をやる。電話をしてから一時間が過ぎていた。
 JRに乗り、金山からここまで、三十分もすれば着くはずなのに、何をやっているんだ。この場には来ないつもりか、なぜ来ない?
 もしかしたら、警察を引き連れて来るのではないか、そんな不安が頭を過った。

「あ、あれ」
 浩太がまるで呼吸の途中であるかのように、言った。
「女の人がきたみたいだ」

 窓の外に視線をやる。暗闇の中、ポツリと女の姿が浮かび上がった。

「そのようだな。じゃ、さっきみたいに悲しい時のことでも思い出していろ」

 義信は、浩太の顔を見た。彼は言われたとおりに先程の顔を作った。なんとなく楽しんでいるような感じだ。

「そうだ。その放心したような顔つきだ」
 義信は微小を浮かべた。
「お前は大した奴だ。まるで魚の腐ったような目だな。いいぞ。将来きっと役者になるな、フフッ」

 浩太は親指を立て、それからニコリとした。

 変な気分だ。いつ以来だろう、こんな気持ちになったことは。
 確かに、こいつが傍にいてくれて助かった。今じゃこいつが俺の心の拠り所になっているのだから。
 それがいいことに自然に頬を緩めるなんて、自分でも信じられない。
 それを思うと、なぜかはわからなかったが、目頭が熱くなってきた。
 これもまた不思議だ。義信は頭を振った後、外を見つめ、そして女に意識を集中させた。

 灰色の空から大粒の雪が舞う中、一人の女が歩いてくるのが見えた。
 久しぶりの再会。遠くから彼女のシルエットを眼で追うと、暗闇の中、静かに聞こえるサクサクサクという足音が近づいてきたことで、彼女がすぐそこまで来ていることがわかった。

 彼女は、言われたとおり前後、左右に気をくばりながら中に入ってくる。
 義信は入口で出迎えた。真っ先に視界に入ってきたのが瑠唯のお腹だ。
 少しだけふっくらと丸みを帯びていたし、心なしか彼女自身、太ったような気もする。
 この女のお腹の中には、俺の子供が―。そう思うと目眩を感じ、しばらく動けなかった。

「この子が佐竹浩太君?」
 瑠唯は浩太を見てから、言った。

 義信は何も答えなかった。
浩太も何も答えない。ただ放心状態のままあらぬ方を見ていた。

「浩太君、大丈夫? こんなに小さな子が、こんな所にいたなんて・・・・・・。食事とかしっかり摂っているのかしら」

 だが浩太は無反応だ。

「お腹、空いてない? もう少しの辛抱よ。必ずここに警察がくるからね」

 そして、義信に目をやった。

「あなたは一体、何がしたかったの? 私のこと、騙してたの?」
 瑠唯は、服に付いた雪を払い落としながら言った。「そのことを確かめたくて、ここまで来たのよ。ずっと探してた。
 なんでこんなところにいるの。それに、今になって私のことを呼び出したりして、一体どういうこと?
 ね、教えて何もかも。あなたのことがわからないのよ・・・・・・」

 瑠唯は立て続けに質問を浴びせた後、静かに溜息をついて、義信を見た。それでも何の反応もない。

「どうして?」

 その問いには答えなかった。そして、

「俺は、思うんだ。今まで、長い旅に出ていたようだ、と」
 前方に目をやったまま、ようやく義信は喋った。

 瑠唯は黙ったままの状態で、言葉を待っているようだった。

「それで、もう、戻る時期を逸したんじゃないか、ってね。わかるだろ。
 長い旅に出ていて、気づくとスタート地点に戻るよりも、既にゴールを目指した方が近い、ということを。
 だから俺は前へ進むんだ。今までの俺の人生は、論理なんてものは存在せず、ただ貧乏なだけの日々の繰り返しだった。わかるか、お前に?」

 また沈黙が落ちた。瑠唯は、前方に視線を向けたまま動こうともしない。色々な想いが頭を過ぎっているようだ。

「―もう、俺が誰だか知っているな」

 この沈黙が耐えられず、思ってもいないことが、自然と口に出てしまった。
 いや、そうじゃない。俺はこうすることで、彼女を傷つけることを選んだはずだ。このまま続けろ。

「そう、俺のこの体の中に流れる真っ赤な血の中には、お前の父、守の血が流れているんだ。だから俺は、お前の兄貴なんだよ」

 彼女の反応を伺うが、その厚い、何重にも連なった沈黙は破れそうになかった。
 知っている、それは彼女の表情からも読み取れた。マスコミ、警察からでも知ったのだろう。
 俺の予想していた通りじゃないか。だが、なぜなんだ、この心の中に広がるぽっかりとしたものは。
 何なんだ、解せない。良かれと思い、小さな頃からこの旅を続けてきたつもりが、もしかしたら自分自身、何処かで変化を望んでいたのではないか。

 義信は沈黙が絶えられず向きを変えた。そして、浩太の手を引っ張った。

「いいか、今から俺がすることを、しっかりと目に焼き付けておくんだ。これから先、お前は一人で生きていかなければならないんだぞ」
 浩太に言って聞かせた。

 彼はキョトンとした顔を向けたまま、黙っていた。

 そして、
「恐らく、俺はここで終わることになる」
 そう呟いた。なぜだ?
 俺はなぜこんなにも弱気になっている、俺らしくもない。この旅を続けるんだ。

 肺が苦しかった。呼吸が出来ない。喉がいがらっぽく、ヒュル、ヒュルと鳴っている。
 最悪な体調だ。どうやら昔の自分に戻りつつあるようだ。何の自信もなく、いつも何かに怯えながら生きていたあのガキの頃に。

 義信は、もう一度己を奮い起こす。足を止めるわけにはいかない。俺にはやらなければならないことがある。そうだろ?
 義信は、このレインボーホールを見上げた。

 この会場は、鉄筋コンクリートで出来ており、一部鉄骨鉄筋コンクリート造屋根ドーム鉄骨造で、地上三階建ての地下一階を設けた建物となっている。
 会場であるメイン一階のアリーナは、三千六百四十六平方メートルで、観客席は一万席用意される。
 南口から出迎えた義信は、すぐ左手にある記者席の中を見るが、まだ何も用意されておらず、閑散としていた。
 更に奥へ進むと、その行く先にアリーナが見えた。通路を歩き、その巨大なアリーナの中を見渡すと、不思議な想いに駆られた。

 明日、ここからボクサーは入場していく。自分も、もしこんなことのためにボクシングをしていなかったら、また、他の何をも犠牲にしていなかったら、あるいは、純粋にボクシングをしていたのなら、俺もこの場から堂々と入場し、花道を通り、光り輝くスポットライトの下、リングで戦っていたことだろう。 

 アリーナに向かう通路は白い壁で、天井が低く感じた。そちら側へ足を踏み入れると、大きな鏡がある。
 すぐ近くにメインボクサーの控え室が用意されており、東側にチャンピオンが陣取るから、西側のここは恐らく中西英二のはずだ。明日、奴はここから姿を現す。

 義信は二人を連れ、控え室の中に入ると、そこでぐるぐると歩き回った。まるで檻の中の猛獣のように。
 全ての施設の中はもう知り尽くしているが、もう一度確認しなければならない。どんな状況になろうとも。奴を殺すためには、この確認作業の繰り返しが必要だ。
 それも、今夜で最後となる。そうだ、明日の夜は、俺にはないのだから。

「なぜあなたはここにいるの?」
 そんな時、彼女が口を開いた。
「いつからいたの?
 ていうか、どうやってこの中に入れたのよ?
 警察の警戒網をすり抜けて、とでもいうの?
 外はあんなにも厳戒態勢を敷いているのに。もう、訳わかんないよ。
 それより、早く、浩太君だけでもいいから、解放してあげて。人質は私だけで充分でしょ」

 瑠唯は未だ状況が読めず、一言口に出すと、矢継ぎ早に質問を繰り返していた。

 だが義信は何も答えない。ピリピリとしたこの空間に、瑠唯は息苦しさを感じていた。

 しばらくして義信は、瑠唯を見た。

「浩太は、俺と一緒に居たいんだ。君が口出しすることではない」

「そう。何を言ってもだめなのね」
 瑠唯は重い、溜息をついた。
「あなたの今の目を見ていると、それは深く、とても暗いわ。
 何処までも続く、先が見えない洞窟のような目をしている。
 でも、出会った頃のあなたの目は違った。もっと澄んでいた。
 あの目は― 一体何処に行ってしまったの。今のあなたはとても恐ろしく、常人でなく、危険で、まるでサイコパスだわ。
 それとも出会った頃のあなたはマスクでもつけていたの?
 あの微笑みは何?
 あり得ない。本当のあなたは、一体どんな人なの?
 私には、あなたが理解できない。まるでピエロを見ているようだわ」

 義信はその言葉には触れず、ただ
「うるさい奴だ。もっと静かな女だと思っていたのに・・・・・・」
 と呟いた。

 そして、義信はナップの中に予め用意していたロープを取り出し、瑠唯をパイプ椅子に腰掛けさせ、ここから逃げ出さないために、彼女の体をそのロープで縛り付けた。
 その後、猿轡をかまし、喋れないようにする。浩太には必要ない。もう俺たちは一心同体なのだ。

 その作業を終え、二人を控え室に残し、ナップを背負い、そこから出た。
 通路を小走りで出ていき、人に見られないよう細心の注意を促し、階段を登って、様々な部屋の中を見て廻る。ここにきてから何回もその行動をしている。

 音響装置のある部屋、照明装置、大型映像装置、そして、電工表示装置などの部屋の中を見て回り、いつもと変わりがないか、人がいないかを確認する。

 次に会場のレイアウトだ。どの場所に売店やレストランがあり、トイレがあるのか。そして、アリーナの席の配置に、防犯カメラの設置箇所。
 それらを的確に頭の中に叩き込む。もはや、ここは俺の家であり、我が家と呼んでもいいだろう。だから、いかなる状況に陥っても、ここでは、俺は思うがままに動くことが出来る。

 腹に隠し持ったS&WM19を取り出す。そして、二階席の最上段から下に向かって標準を絞る。
 その矛先には、今、必死で明日の準備に取り掛かかる若者たちの姿がある。
 この場所がカメラの死角となり、拳銃で標準を絞る絶好の立ち位置となるのだ。

 この場で、今俺が立っている場で、明日、奴が世界戦のリングに登り詰めた瞬間に、撃ち殺してやる。 
 そして、この銃を下に置き、俺と中西英二の関係を記した書置きを一緒に添えて。
 それを瑠唯に目撃させ、俺の復讐は、全てが終わりを向える。
 一発で仕留めなくてはならない。この銃はダブルアクションではないため、連射はできない。
 発砲音が響けば、すぐに居場所を特定される。失敗すれば、俺は取り押さえられて、お終いだ。

 義信の構えた拳銃の狙う先には、自分の仕事を夜遅くまで全うする若者たちがいる。
 彼らは、まるでもがいているようだった。これが正しいか、正しくないのか、という具合に。
 多くの若者は自分がしている事柄に確信を持てず、力を持て余している。
 
 社会には様々な選択肢があるというのに。インターネットの普及により、情報は莫大で、止めどとなく流れてくる。
 だが彼らには、そのどれかを選ぶ力量もなければ、この混沌とした社会を根無し草のようにしてふわふわと、まるで幽霊のように彷徨い続けるだけだ。
 いつかは他者と戦わなくてはならないのに、彼らはそのことを知らず、いや避けているのかもしれないが、自分を擁護しようとカッコいい言葉を着飾り、自分探しの旅を続けるのだという言葉に落ち着く。

 そして、自分が何をしたいのか、するべきか、そればかりを考える素振りを続けている。

 無様だ、情けない。だが俺は違う。今まで沢山の教養をつけ、体を鍛錬し、中西家に復讐するために、生きてきた。
 父の守が仕出かした、母への仕打ち。この恨み、憎しみが復讐へと導いた。 

 先ず中西守を殺し、そして、母親がされたことを瑠唯に行い、中西工業の業績を落し、その社長である光子には上司と部下の偽造の関係をネットに流し、信用を失態させた。

 そして、今度は長男の中西英二だ。奴が世界戦のリングに登った瞬間に、上から、この場から俺が撃ち殺す。
 奴は血反吐を吐き、夢を見る前に、リングの上で無様に這いつくばる。
 その姿が全国ネットで流れる。悲しかろう。ずっと夢見てきた世界が、目の前にあったのに、それを果たすことができず、死んでいくのだから。

 しかし、義信本人、ある種の違和感を覚えずにはいられなかった。目的が少しだけ変わったのだろうか。わからない・・・・・・。
 きっと小さな時から栄光を背負ってきたあいつに対しての嫉妬が、このような思惑を生んだのだろうか。
 今まで俺は、本当に母親のために生きてきたのだろうか?
 母親はこれを望んでいたのか。わからない。解せない、俺には、今一度、目的を修正する必要があるのかもしれない? 目的、目標を失った者はいずれ朽ち果てるー。 

 一時間もすると周りの電灯が落とされ、一気にこのレインボーホールが暗くなった。
 一瞬のうちに暗闇の世界へと変わった。
 義信は持っていた懐中電灯を点けた。その光を頼りに、二人のいる控え室へと戻る。
 ここに来てからは、暗闇で動くことにも慣れている。
 躓くことも、転ぶこともなく、スムーズに階段を降り、足音も立てずに、通路を歩くことができるし、走ることもできる。

 室内に入ると、電気が点いていないので暗くて、静かだった。

「もう、この中には誰もいない。俺達だけさ」

 膝に縛り付けていたバタフライナイフを取り出し、左手で巧みに操り、彼女の猿轡を解いてやった。

「灯りを点けて」
 開口一番、瑠唯は言った。
「こんな所にいると気がおかしくなりそう」

 義信は、小皿と蝋燭をナップから取り出し、火を点けた。
 蝋燭の火は弱々しく、それが幻想的な世界を創り出し、日常ではないことを知らせると共に、こんなことも思った。

 俺も左利き、あいつも・・・・・・やはり俺達は兄弟だというのか。
 あいつの笑う顔が脳内でフラッシュバックした。俺は殺る、あいつを殺るんだ。

「義信、あなたは一体何をするつもりなの?」
 瑠唯が、はっきりとした口調で訊いた。

「明日、お前に、最高のショーを見せてやるよ」

「最高のショー?」

「そうだ。中西英二を消すのさ」
 義信はポツリと呟いた。
「あいつがリングに上がった瞬間に、俺が用意したショーが始まる」

「何を考えてるの。正気? 明日はここに沢山の警察もやってくるし、兄貴には護衛もつく。そんな中、あなた一人だけで、何ができるっていうの?」

「それについては、前々からちゃんと段取りを組んである。あとは実行あるのみ。
 現に俺は、こうしてこの中にいるのだからな。それに、注目されれば、されるほど、有り難い。
 なぜなら、俺は世間に、中西英二と兄弟だと、公表するのだから」 

「そんなことをして、一体何が残るの、あなたに?」

 意外にも瑠唯のその静かな声に、義信は急速に、自分のヤル気が萎えていくような気がした。

「中西守の息子、世界を狙うプロボクサーである英二には、実は犯罪者である兄がいるんだ、とな。この汚点が奴にとって、どれだけの痛手と屈辱になるか」

 しばしの沈黙が流れた。

「そうよね。あなたはそんなちっぽけなことで、自尊心を保っているのよ。
 父親を殺し、母を奈落の底に突き落とし、私を騙した。そして、今度は兄貴を狙って・・・・・・。
 でも、そんなことをして実際、自分の気が済むのかしら」

「君に皮肉を言われようと、構わない。既に準備は整っているし、あとはその時に臨むまでだ」

 ナイフを左手でグルグルと廻してみた。このナイフの使い方も鍛錬してきた。右手にはS&WM19。何も恐れることはない、そう自分に言い聞かせた。ゴホッ、ゴフォ、ウッ。

「お兄ちゃん、どうしたの?」
 そんな時、久しぶりに浩太が喋った。

 体の変調をきたしていた。喉がヒュルヒュルと、唸り声を上げている。急いていた。体力が確実に落ちていることを、認識しているのもあろう。

「フハアァァァッ。ど・・・・・・どうも・・・・・・していない・・・・・・」

 強がった、こいつの前では弱みを見せたくない。もうこうなった以上、本当は関係のないことなのに。 
 少年が自分に似ているからなのか? 頭を振った。疲れていた、今までやってきたことに。毎日、毎日、何者かに追われているかのような、この切迫感。
 いつだって背後にまとわりつくプレッシャー。緊張に、緊張を重ね、等々―。 苦しい。

 本当は、もう、こんなことから、逃れ、たい・・・・・・。
 だって、こんなにも苦しいんだから。瑠唯が言ったように、俺のやろうとしていることは、本当は、ちっぽけなことなのかもしれないー。

「顔色が悪いよ」

「いつもこんな顔さ」

「あなたは疲れている」
 瑠唯の言葉が突き刺さってきた。

「何に?」

「その孤独によ」
 瑠唯は静かに喋り出した。
「あなたはきっと淋しかったのよ。小さな時から母親しか身寄りがなくて、本当は暖かい家庭に憧れていた」

「それがどうしたっていうんだ?」

「あなたは心の拠り所を求めて彷徨っているんだわ。そして、等々自分の自制を見失ってしまった。 
 そう。あなたの心の中には嫉妬は存在するかもしれないけど、それは憎しみとは違う。
 だからこんなやり方は間違ってる。自分の本当の生活に戻るのよ。そして、そろそろこの旅を終えるの。
 でないともっと淋しくて、浮遊物のように彷徨い続けなくてはならないわよ」

「戯言だよ」
 義信は、瑠唯を見据えた。
「今まで甘やかされ、育ってきた君にはわからないことだ。それに、俺にはもう帰る場所など何処にもない。いいんだ、これで」

「じゃ、なぜ、そこまで兄を憎むの?」

 瑠唯の憐れみにも似たその瞳に、どうしようもない虚しさを感じた。何かが、そうタガが外れたような気がした。 

「どうして?」
 真っ直ぐな瑠唯の瞳が、胸に突き刺さった。
「理由を教えて」

「―あれは、俺が二十歳の時で、あいつが十四歳の頃だったと思う」

 俺は何を喋ろうとしている? 話を訊いて貰うことに、一体何の意味があるというんだ。義信は心とは裏腹に昔を想いながら、俯いたまま、静かに喋り出していた。

「最初は、こんな些細なことだったー。
会社の入口にある自動販売機の前で、俺が金を落としたことがあったんだ。それで金は、下の隙間に入り込んでしまってな。
 たかが百円だが、俺にとっては、死活問題だった。だから地面に鼻を擦りつけて探した。
 気づくと、多くの人だかりができていた。まるで珍しい者でも見るかのように。
 だけど誰も、俺には声を掛けて来なかったが、ふとした時。
 上から見下されている気配を感じたんだ。それで俺は見上げた。
 すると窓から差す光を一身に浴び、突っ立っている少年がいたよ。その時のことは、今でも覚えている。正直、眩しかった。

[何をしているんですか、こんな所で。皆が見ていますよ]
 そう言って歯を光らせて笑いやがった。

[それに、今からお客さんが来るんです。だから、ここに居てもらうわけには・・・・・・。ぶっちゃけ困るんですよ。
 そんな恰好でウロウロされると、何と思われるのか、いい風には思われないでしょうね] 

 その顔を見ると、まだ幼い子供の顔だった。俺は、イラっときたね。
 なぜこんなガキにバカにされなくてはならないんだ、と。しばらくするとこんなことを小声で言った。

[いつも、僕のことを恨めしそうな顔で見てますよね] 

 何を言い出すのだ、と最初は思った。でも、今思うと、あいつの方は勇気を振り絞って、年上の俺に言ってきたのだろう。いっぱい、いっぱいの様子がそこにはあった。

「別に見ていない。君の思い違いだ」

[そうですか、僕の思い違いか・・・・・・]
 そう言って、奴は野次馬を眺めた。
[でも・・・・・・。ま、いいや。とにかく、僕は、何故かはわからないけど、あなたのことを目障りだと感じています]

 あの当時はわからなかったが、きっと、あいつは今まで我慢してきた一言を口にしたために、自制が利かなくなってしまったのだろう。だがその時の俺も自制は利かなかった。

「何だと! 貴様、それが年上に対しての言葉使いか」

 俺は、我を見失い、気づくと奴の肩を掴んでいた。
すると野次馬の中の何人かが出てきて、手荒く俺を引き離した。
 勿論、皆奴の味方だ。社長の息子だとわかっていたからな。
 やがて、奴はその何人かと一緒に、俺のところから去っていくが、その時に、またしても俺の耳に奴の言葉が入ってきた。

[あの人、うちの会社で働くような人じゃないよね]

[何で?]

[品がないというか、うちの会社には似合わないよ。それによくわからないけど、僕は、彼の顔を見たくない。
 言葉では、上手く言い表せないけど、どうにもあの恨めしそうな目が嫌なんだよね。
 なんかねちっこい蛇のような。で、時々、背中に視線を感じる時があるから振り返えってみると、いっつも、あの人が見てるんだよね]

[キモいな、まるでストーカーじゃないか]

 周りも、あいつのかたを持っているのがわかった。

[そんな風には、思ってないけど。でも普通じゃないね、あれは。いつも同じ服着てるし、なんかみじめったらしいよね]

[言えてる。ハッハハハハハハハッ、アッハハハ。金持ってないのかな。
 受けるよ、あいつ。あれで二十歳だろ。もっといってんのかな。
 ところで、もし、英二君があんな服着てたら、お父さんがすぐに買い替えてくれるよね。みっともないって]

 [勿論さ]

 奴は思いの外、口角を上げ、あからさまな笑顔を作っていた。
 あの時は、ああして俺に攻撃してきたのだろう、と俺は思っていた。
 あいつも、周りにいた者も、皆が俺を見て、ゲラゲラと笑っていたからだ。
 俺のプライドをズタズタにしやがって。あいつにはわからないんだ。
 貧乏人の辛さが。なぜならあいつだけが、ぬくぬくと育てられたのだから。
 他人は言うかもしれないよな。それくらいのことで、と。だが仲間と大笑いする奴の顔に、俺は、俺は、許せなかったんだ。
 なぜなら、同じ血が通っていることを知っていたから、余計に自分を惨めだと思った。
 理不尽かもしれない。でも、俺を自堕落に陥れるには、充分すぎる理由さ・・・・・・。復讐とは、きっと自堕落に陥った者がする行為なのかもしれない」

 義信はその言葉を吐くと、膝が震え出し、立っていられないくらいに疲労を覚え、壁にもたれた。が、堪えきれず、しゃがむようにして崩れていった。

「そんな事くらいで、兄貴を殺そうと―。 そんなの、淋しすぎるよ。そんなことくらいで。
 あなたが言ったように、あの時の兄貴は、自制が利かなかっただけなのかもしれないのに・・・・・・そんなことを言う人間じゃないわ、兄貴は」

 瑠唯の言葉が耳に入ったが、もはや返す余力などなかった。

 こんな肝心な時に。なんでこうなってしまうんだー。おぼろげにもわかったことがある。この場に瑠唯を呼んではいけなかったこと、それから俺には、もうこれ以上できない、ということなのかもしれない。

 苦しい。ゼェィ、ゼェイ、この息遣い。どうにもならなかった。
 今まで俺は、この日のために、この日のためだけに頑張ってきた。そうだろう。あいつを、あいつを、中西英二を倒すためだけに、俺は人生の大半を費やしてきたんだ。それなのに、こんなところでくたばってしまうのか。こんなところで―。

「やっぱり・・・・・・お前には、わからん」

 この言葉をいうのが精一杯だった。この行為が無意味なことへと変わり行くようで、どうしようもない気持ちに苛まれていた。
 
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