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十九、
しおりを挟む義信は、黒色のナップザックの中に工具やら、備品を入れ、準備を進めた。そして、S&WM19を左手で握る。
この銃はシングルアクションのため、一発撃つごとに手で撃鉄を起こす必要がある。
先ず弾倉に弾薬を装填する。次に撃鉄を指で引き起こす。銃内部のバネを圧縮した状態で撃鉄は止まる。
弾倉が回転し、弾薬が発射位置まで移動したところで弾倉が固定され、それで発射準備が完了する。
「お兄ちゃん」
後ろから浩太の声が聞こえた。
「こんな感じでいいの?」
浩太は少し上を見上げ、まるで放心状態のように口をぽかんと開けていた。
何処か遠くを見つめる目に、力はない。浩太と義信は部屋から出てきて、建物の入り口で瑠唯を待つことにした。
「ああ、上出来だ」
浩太はその表情を止めてから、いつもの顔に戻った。
「でも、なんで女の人の前では、今までで一番辛く、悲しい時のことを思い浮かべていなくちゃならないの?」
「それが女にモテる秘訣だ」
義信は言った。
「ま、お前も大人になればわかるさ。だから今はその時のために練習でもしておけ」
この状況下、悲しい顔さえしていれば、女は母性本能をくすぐられ、それで浩太に感情移入するようになる。
壁に備えつけられた時計に目をやる。電話をしてから一時間が過ぎていた。
JRに乗り、金山からここまで、三十分もすれば着くはずなのに、何をやっているんだ。この場には来ないつもりか、なぜ来ない?
もしかしたら、警察を引き連れて来るのではないか、そんな不安が頭を過った。
「あ、あれ」
浩太がまるで呼吸の途中であるかのように、言った。
「女の人がきたみたいだ」
窓の外に視線をやる。暗闇の中、ポツリと女の姿が浮かび上がった。
「そのようだな。じゃ、さっきみたいに悲しい時のことでも思い出していろ」
義信は、浩太の顔を見た。彼は言われたとおりに先程の顔を作った。なんとなく楽しんでいるような感じだ。
「そうだ。その放心したような顔つきだ」
義信は微小を浮かべた。
「お前は大した奴だ。まるで魚の腐ったような目だな。いいぞ。将来きっと役者になるな、フフッ」
浩太は親指を立て、それからニコリとした。
変な気分だ。いつ以来だろう、こんな気持ちになったことは。
確かに、こいつが傍にいてくれて助かった。今じゃこいつが俺の心の拠り所になっているのだから。
それがいいことに自然に頬を緩めるなんて、自分でも信じられない。
それを思うと、なぜかはわからなかったが、目頭が熱くなってきた。
これもまた不思議だ。義信は頭を振った後、外を見つめ、そして女に意識を集中させた。
灰色の空から大粒の雪が舞う中、一人の女が歩いてくるのが見えた。
久しぶりの再会。遠くから彼女のシルエットを眼で追うと、暗闇の中、静かに聞こえるサクサクサクという足音が近づいてきたことで、彼女がすぐそこまで来ていることがわかった。
彼女は、言われたとおり前後、左右に気をくばりながら中に入ってくる。
義信は入口で出迎えた。真っ先に視界に入ってきたのが瑠唯のお腹だ。
少しだけふっくらと丸みを帯びていたし、心なしか彼女自身、太ったような気もする。
この女のお腹の中には、俺の子供が―。そう思うと目眩を感じ、しばらく動けなかった。
「この子が佐竹浩太君?」
瑠唯は浩太を見てから、言った。
義信は何も答えなかった。
浩太も何も答えない。ただ放心状態のままあらぬ方を見ていた。
「浩太君、大丈夫? こんなに小さな子が、こんな所にいたなんて・・・・・・。食事とかしっかり摂っているのかしら」
だが浩太は無反応だ。
「お腹、空いてない? もう少しの辛抱よ。必ずここに警察がくるからね」
そして、義信に目をやった。
「あなたは一体、何がしたかったの? 私のこと、騙してたの?」
瑠唯は、服に付いた雪を払い落としながら言った。「そのことを確かめたくて、ここまで来たのよ。ずっと探してた。
なんでこんなところにいるの。それに、今になって私のことを呼び出したりして、一体どういうこと?
ね、教えて何もかも。あなたのことがわからないのよ・・・・・・」
瑠唯は立て続けに質問を浴びせた後、静かに溜息をついて、義信を見た。それでも何の反応もない。
「どうして?」
その問いには答えなかった。そして、
「俺は、思うんだ。今まで、長い旅に出ていたようだ、と」
前方に目をやったまま、ようやく義信は喋った。
瑠唯は黙ったままの状態で、言葉を待っているようだった。
「それで、もう、戻る時期を逸したんじゃないか、ってね。わかるだろ。
長い旅に出ていて、気づくとスタート地点に戻るよりも、既にゴールを目指した方が近い、ということを。
だから俺は前へ進むんだ。今までの俺の人生は、論理なんてものは存在せず、ただ貧乏なだけの日々の繰り返しだった。わかるか、お前に?」
また沈黙が落ちた。瑠唯は、前方に視線を向けたまま動こうともしない。色々な想いが頭を過ぎっているようだ。
「―もう、俺が誰だか知っているな」
この沈黙が耐えられず、思ってもいないことが、自然と口に出てしまった。
いや、そうじゃない。俺はこうすることで、彼女を傷つけることを選んだはずだ。このまま続けろ。
「そう、俺のこの体の中に流れる真っ赤な血の中には、お前の父、守の血が流れているんだ。だから俺は、お前の兄貴なんだよ」
彼女の反応を伺うが、その厚い、何重にも連なった沈黙は破れそうになかった。
知っている、それは彼女の表情からも読み取れた。マスコミ、警察からでも知ったのだろう。
俺の予想していた通りじゃないか。だが、なぜなんだ、この心の中に広がるぽっかりとしたものは。
何なんだ、解せない。良かれと思い、小さな頃からこの旅を続けてきたつもりが、もしかしたら自分自身、何処かで変化を望んでいたのではないか。
義信は沈黙が絶えられず向きを変えた。そして、浩太の手を引っ張った。
「いいか、今から俺がすることを、しっかりと目に焼き付けておくんだ。これから先、お前は一人で生きていかなければならないんだぞ」
浩太に言って聞かせた。
彼はキョトンとした顔を向けたまま、黙っていた。
そして、
「恐らく、俺はここで終わることになる」
そう呟いた。なぜだ?
俺はなぜこんなにも弱気になっている、俺らしくもない。この旅を続けるんだ。
肺が苦しかった。呼吸が出来ない。喉がいがらっぽく、ヒュル、ヒュルと鳴っている。
最悪な体調だ。どうやら昔の自分に戻りつつあるようだ。何の自信もなく、いつも何かに怯えながら生きていたあのガキの頃に。
義信は、もう一度己を奮い起こす。足を止めるわけにはいかない。俺にはやらなければならないことがある。そうだろ?
義信は、このレインボーホールを見上げた。
この会場は、鉄筋コンクリートで出来ており、一部鉄骨鉄筋コンクリート造屋根ドーム鉄骨造で、地上三階建ての地下一階を設けた建物となっている。
会場であるメイン一階のアリーナは、三千六百四十六平方メートルで、観客席は一万席用意される。
南口から出迎えた義信は、すぐ左手にある記者席の中を見るが、まだ何も用意されておらず、閑散としていた。
更に奥へ進むと、その行く先にアリーナが見えた。通路を歩き、その巨大なアリーナの中を見渡すと、不思議な想いに駆られた。
明日、ここからボクサーは入場していく。自分も、もしこんなことのためにボクシングをしていなかったら、また、他の何をも犠牲にしていなかったら、あるいは、純粋にボクシングをしていたのなら、俺もこの場から堂々と入場し、花道を通り、光り輝くスポットライトの下、リングで戦っていたことだろう。
アリーナに向かう通路は白い壁で、天井が低く感じた。そちら側へ足を踏み入れると、大きな鏡がある。
すぐ近くにメインボクサーの控え室が用意されており、東側にチャンピオンが陣取るから、西側のここは恐らく中西英二のはずだ。明日、奴はここから姿を現す。
義信は二人を連れ、控え室の中に入ると、そこでぐるぐると歩き回った。まるで檻の中の猛獣のように。
全ての施設の中はもう知り尽くしているが、もう一度確認しなければならない。どんな状況になろうとも。奴を殺すためには、この確認作業の繰り返しが必要だ。
それも、今夜で最後となる。そうだ、明日の夜は、俺にはないのだから。
「なぜあなたはここにいるの?」
そんな時、彼女が口を開いた。
「いつからいたの?
ていうか、どうやってこの中に入れたのよ?
警察の警戒網をすり抜けて、とでもいうの?
外はあんなにも厳戒態勢を敷いているのに。もう、訳わかんないよ。
それより、早く、浩太君だけでもいいから、解放してあげて。人質は私だけで充分でしょ」
瑠唯は未だ状況が読めず、一言口に出すと、矢継ぎ早に質問を繰り返していた。
だが義信は何も答えない。ピリピリとしたこの空間に、瑠唯は息苦しさを感じていた。
しばらくして義信は、瑠唯を見た。
「浩太は、俺と一緒に居たいんだ。君が口出しすることではない」
「そう。何を言ってもだめなのね」
瑠唯は重い、溜息をついた。
「あなたの今の目を見ていると、それは深く、とても暗いわ。
何処までも続く、先が見えない洞窟のような目をしている。
でも、出会った頃のあなたの目は違った。もっと澄んでいた。
あの目は― 一体何処に行ってしまったの。今のあなたはとても恐ろしく、常人でなく、危険で、まるでサイコパスだわ。
それとも出会った頃のあなたはマスクでもつけていたの?
あの微笑みは何?
あり得ない。本当のあなたは、一体どんな人なの?
私には、あなたが理解できない。まるでピエロを見ているようだわ」
義信はその言葉には触れず、ただ
「うるさい奴だ。もっと静かな女だと思っていたのに・・・・・・」
と呟いた。
そして、義信はナップの中に予め用意していたロープを取り出し、瑠唯をパイプ椅子に腰掛けさせ、ここから逃げ出さないために、彼女の体をそのロープで縛り付けた。
その後、猿轡をかまし、喋れないようにする。浩太には必要ない。もう俺たちは一心同体なのだ。
その作業を終え、二人を控え室に残し、ナップを背負い、そこから出た。
通路を小走りで出ていき、人に見られないよう細心の注意を促し、階段を登って、様々な部屋の中を見て廻る。ここにきてから何回もその行動をしている。
音響装置のある部屋、照明装置、大型映像装置、そして、電工表示装置などの部屋の中を見て回り、いつもと変わりがないか、人がいないかを確認する。
次に会場のレイアウトだ。どの場所に売店やレストランがあり、トイレがあるのか。そして、アリーナの席の配置に、防犯カメラの設置箇所。
それらを的確に頭の中に叩き込む。もはや、ここは俺の家であり、我が家と呼んでもいいだろう。だから、いかなる状況に陥っても、ここでは、俺は思うがままに動くことが出来る。
腹に隠し持ったS&WM19を取り出す。そして、二階席の最上段から下に向かって標準を絞る。
その矛先には、今、必死で明日の準備に取り掛かかる若者たちの姿がある。
この場所がカメラの死角となり、拳銃で標準を絞る絶好の立ち位置となるのだ。
この場で、今俺が立っている場で、明日、奴が世界戦のリングに登り詰めた瞬間に、撃ち殺してやる。
そして、この銃を下に置き、俺と中西英二の関係を記した書置きを一緒に添えて。
それを瑠唯に目撃させ、俺の復讐は、全てが終わりを向える。
一発で仕留めなくてはならない。この銃はダブルアクションではないため、連射はできない。
発砲音が響けば、すぐに居場所を特定される。失敗すれば、俺は取り押さえられて、お終いだ。
義信の構えた拳銃の狙う先には、自分の仕事を夜遅くまで全うする若者たちがいる。
彼らは、まるでもがいているようだった。これが正しいか、正しくないのか、という具合に。
多くの若者は自分がしている事柄に確信を持てず、力を持て余している。
社会には様々な選択肢があるというのに。インターネットの普及により、情報は莫大で、止めどとなく流れてくる。
だが彼らには、そのどれかを選ぶ力量もなければ、この混沌とした社会を根無し草のようにしてふわふわと、まるで幽霊のように彷徨い続けるだけだ。
いつかは他者と戦わなくてはならないのに、彼らはそのことを知らず、いや避けているのかもしれないが、自分を擁護しようとカッコいい言葉を着飾り、自分探しの旅を続けるのだという言葉に落ち着く。
そして、自分が何をしたいのか、するべきか、そればかりを考える素振りを続けている。
無様だ、情けない。だが俺は違う。今まで沢山の教養をつけ、体を鍛錬し、中西家に復讐するために、生きてきた。
父の守が仕出かした、母への仕打ち。この恨み、憎しみが復讐へと導いた。
先ず中西守を殺し、そして、母親がされたことを瑠唯に行い、中西工業の業績を落し、その社長である光子には上司と部下の偽造の関係をネットに流し、信用を失態させた。
そして、今度は長男の中西英二だ。奴が世界戦のリングに登った瞬間に、上から、この場から俺が撃ち殺す。
奴は血反吐を吐き、夢を見る前に、リングの上で無様に這いつくばる。
その姿が全国ネットで流れる。悲しかろう。ずっと夢見てきた世界が、目の前にあったのに、それを果たすことができず、死んでいくのだから。
しかし、義信本人、ある種の違和感を覚えずにはいられなかった。目的が少しだけ変わったのだろうか。わからない・・・・・・。
きっと小さな時から栄光を背負ってきたあいつに対しての嫉妬が、このような思惑を生んだのだろうか。
今まで俺は、本当に母親のために生きてきたのだろうか?
母親はこれを望んでいたのか。わからない。解せない、俺には、今一度、目的を修正する必要があるのかもしれない? 目的、目標を失った者はいずれ朽ち果てるー。
一時間もすると周りの電灯が落とされ、一気にこのレインボーホールが暗くなった。
一瞬のうちに暗闇の世界へと変わった。
義信は持っていた懐中電灯を点けた。その光を頼りに、二人のいる控え室へと戻る。
ここに来てからは、暗闇で動くことにも慣れている。
躓くことも、転ぶこともなく、スムーズに階段を降り、足音も立てずに、通路を歩くことができるし、走ることもできる。
室内に入ると、電気が点いていないので暗くて、静かだった。
「もう、この中には誰もいない。俺達だけさ」
膝に縛り付けていたバタフライナイフを取り出し、左手で巧みに操り、彼女の猿轡を解いてやった。
「灯りを点けて」
開口一番、瑠唯は言った。
「こんな所にいると気がおかしくなりそう」
義信は、小皿と蝋燭をナップから取り出し、火を点けた。
蝋燭の火は弱々しく、それが幻想的な世界を創り出し、日常ではないことを知らせると共に、こんなことも思った。
俺も左利き、あいつも・・・・・・やはり俺達は兄弟だというのか。
あいつの笑う顔が脳内でフラッシュバックした。俺は殺る、あいつを殺るんだ。
「義信、あなたは一体何をするつもりなの?」
瑠唯が、はっきりとした口調で訊いた。
「明日、お前に、最高のショーを見せてやるよ」
「最高のショー?」
「そうだ。中西英二を消すのさ」
義信はポツリと呟いた。
「あいつがリングに上がった瞬間に、俺が用意したショーが始まる」
「何を考えてるの。正気? 明日はここに沢山の警察もやってくるし、兄貴には護衛もつく。そんな中、あなた一人だけで、何ができるっていうの?」
「それについては、前々からちゃんと段取りを組んである。あとは実行あるのみ。
現に俺は、こうしてこの中にいるのだからな。それに、注目されれば、されるほど、有り難い。
なぜなら、俺は世間に、中西英二と兄弟だと、公表するのだから」
「そんなことをして、一体何が残るの、あなたに?」
意外にも瑠唯のその静かな声に、義信は急速に、自分のヤル気が萎えていくような気がした。
「中西守の息子、世界を狙うプロボクサーである英二には、実は犯罪者である兄がいるんだ、とな。この汚点が奴にとって、どれだけの痛手と屈辱になるか」
しばしの沈黙が流れた。
「そうよね。あなたはそんなちっぽけなことで、自尊心を保っているのよ。
父親を殺し、母を奈落の底に突き落とし、私を騙した。そして、今度は兄貴を狙って・・・・・・。
でも、そんなことをして実際、自分の気が済むのかしら」
「君に皮肉を言われようと、構わない。既に準備は整っているし、あとはその時に臨むまでだ」
ナイフを左手でグルグルと廻してみた。このナイフの使い方も鍛錬してきた。右手にはS&WM19。何も恐れることはない、そう自分に言い聞かせた。ゴホッ、ゴフォ、ウッ。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
そんな時、久しぶりに浩太が喋った。
体の変調をきたしていた。喉がヒュルヒュルと、唸り声を上げている。急いていた。体力が確実に落ちていることを、認識しているのもあろう。
「フハアァァァッ。ど・・・・・・どうも・・・・・・していない・・・・・・」
強がった、こいつの前では弱みを見せたくない。もうこうなった以上、本当は関係のないことなのに。
少年が自分に似ているからなのか? 頭を振った。疲れていた、今までやってきたことに。毎日、毎日、何者かに追われているかのような、この切迫感。
いつだって背後にまとわりつくプレッシャー。緊張に、緊張を重ね、等々―。 苦しい。
本当は、もう、こんなことから、逃れ、たい・・・・・・。
だって、こんなにも苦しいんだから。瑠唯が言ったように、俺のやろうとしていることは、本当は、ちっぽけなことなのかもしれないー。
「顔色が悪いよ」
「いつもこんな顔さ」
「あなたは疲れている」
瑠唯の言葉が突き刺さってきた。
「何に?」
「その孤独によ」
瑠唯は静かに喋り出した。
「あなたはきっと淋しかったのよ。小さな時から母親しか身寄りがなくて、本当は暖かい家庭に憧れていた」
「それがどうしたっていうんだ?」
「あなたは心の拠り所を求めて彷徨っているんだわ。そして、等々自分の自制を見失ってしまった。
そう。あなたの心の中には嫉妬は存在するかもしれないけど、それは憎しみとは違う。
だからこんなやり方は間違ってる。自分の本当の生活に戻るのよ。そして、そろそろこの旅を終えるの。
でないともっと淋しくて、浮遊物のように彷徨い続けなくてはならないわよ」
「戯言だよ」
義信は、瑠唯を見据えた。
「今まで甘やかされ、育ってきた君にはわからないことだ。それに、俺にはもう帰る場所など何処にもない。いいんだ、これで」
「じゃ、なぜ、そこまで兄を憎むの?」
瑠唯の憐れみにも似たその瞳に、どうしようもない虚しさを感じた。何かが、そうタガが外れたような気がした。
「どうして?」
真っ直ぐな瑠唯の瞳が、胸に突き刺さった。
「理由を教えて」
「―あれは、俺が二十歳の時で、あいつが十四歳の頃だったと思う」
俺は何を喋ろうとしている? 話を訊いて貰うことに、一体何の意味があるというんだ。義信は心とは裏腹に昔を想いながら、俯いたまま、静かに喋り出していた。
「最初は、こんな些細なことだったー。
会社の入口にある自動販売機の前で、俺が金を落としたことがあったんだ。それで金は、下の隙間に入り込んでしまってな。
たかが百円だが、俺にとっては、死活問題だった。だから地面に鼻を擦りつけて探した。
気づくと、多くの人だかりができていた。まるで珍しい者でも見るかのように。
だけど誰も、俺には声を掛けて来なかったが、ふとした時。
上から見下されている気配を感じたんだ。それで俺は見上げた。
すると窓から差す光を一身に浴び、突っ立っている少年がいたよ。その時のことは、今でも覚えている。正直、眩しかった。
[何をしているんですか、こんな所で。皆が見ていますよ]
そう言って歯を光らせて笑いやがった。
[それに、今からお客さんが来るんです。だから、ここに居てもらうわけには・・・・・・。ぶっちゃけ困るんですよ。
そんな恰好でウロウロされると、何と思われるのか、いい風には思われないでしょうね]
その顔を見ると、まだ幼い子供の顔だった。俺は、イラっときたね。
なぜこんなガキにバカにされなくてはならないんだ、と。しばらくするとこんなことを小声で言った。
[いつも、僕のことを恨めしそうな顔で見てますよね]
何を言い出すのだ、と最初は思った。でも、今思うと、あいつの方は勇気を振り絞って、年上の俺に言ってきたのだろう。いっぱい、いっぱいの様子がそこにはあった。
「別に見ていない。君の思い違いだ」
[そうですか、僕の思い違いか・・・・・・]
そう言って、奴は野次馬を眺めた。
[でも・・・・・・。ま、いいや。とにかく、僕は、何故かはわからないけど、あなたのことを目障りだと感じています]
あの当時はわからなかったが、きっと、あいつは今まで我慢してきた一言を口にしたために、自制が利かなくなってしまったのだろう。だがその時の俺も自制は利かなかった。
「何だと! 貴様、それが年上に対しての言葉使いか」
俺は、我を見失い、気づくと奴の肩を掴んでいた。
すると野次馬の中の何人かが出てきて、手荒く俺を引き離した。
勿論、皆奴の味方だ。社長の息子だとわかっていたからな。
やがて、奴はその何人かと一緒に、俺のところから去っていくが、その時に、またしても俺の耳に奴の言葉が入ってきた。
[あの人、うちの会社で働くような人じゃないよね]
[何で?]
[品がないというか、うちの会社には似合わないよ。それによくわからないけど、僕は、彼の顔を見たくない。
言葉では、上手く言い表せないけど、どうにもあの恨めしそうな目が嫌なんだよね。
なんかねちっこい蛇のような。で、時々、背中に視線を感じる時があるから振り返えってみると、いっつも、あの人が見てるんだよね]
[キモいな、まるでストーカーじゃないか]
周りも、あいつのかたを持っているのがわかった。
[そんな風には、思ってないけど。でも普通じゃないね、あれは。いつも同じ服着てるし、なんかみじめったらしいよね]
[言えてる。ハッハハハハハハハッ、アッハハハ。金持ってないのかな。
受けるよ、あいつ。あれで二十歳だろ。もっといってんのかな。
ところで、もし、英二君があんな服着てたら、お父さんがすぐに買い替えてくれるよね。みっともないって]
[勿論さ]
奴は思いの外、口角を上げ、あからさまな笑顔を作っていた。
あの時は、ああして俺に攻撃してきたのだろう、と俺は思っていた。
あいつも、周りにいた者も、皆が俺を見て、ゲラゲラと笑っていたからだ。
俺のプライドをズタズタにしやがって。あいつにはわからないんだ。
貧乏人の辛さが。なぜならあいつだけが、ぬくぬくと育てられたのだから。
他人は言うかもしれないよな。それくらいのことで、と。だが仲間と大笑いする奴の顔に、俺は、俺は、許せなかったんだ。
なぜなら、同じ血が通っていることを知っていたから、余計に自分を惨めだと思った。
理不尽かもしれない。でも、俺を自堕落に陥れるには、充分すぎる理由さ・・・・・・。復讐とは、きっと自堕落に陥った者がする行為なのかもしれない」
義信はその言葉を吐くと、膝が震え出し、立っていられないくらいに疲労を覚え、壁にもたれた。が、堪えきれず、しゃがむようにして崩れていった。
「そんな事くらいで、兄貴を殺そうと―。 そんなの、淋しすぎるよ。そんなことくらいで。
あなたが言ったように、あの時の兄貴は、自制が利かなかっただけなのかもしれないのに・・・・・・そんなことを言う人間じゃないわ、兄貴は」
瑠唯の言葉が耳に入ったが、もはや返す余力などなかった。
こんな肝心な時に。なんでこうなってしまうんだー。おぼろげにもわかったことがある。この場に瑠唯を呼んではいけなかったこと、それから俺には、もうこれ以上できない、ということなのかもしれない。
苦しい。ゼェィ、ゼェイ、この息遣い。どうにもならなかった。
今まで俺は、この日のために、この日のためだけに頑張ってきた。そうだろう。あいつを、あいつを、中西英二を倒すためだけに、俺は人生の大半を費やしてきたんだ。それなのに、こんなところでくたばってしまうのか。こんなところで―。
「やっぱり・・・・・・お前には、わからん」
この言葉をいうのが精一杯だった。この行為が無意味なことへと変わり行くようで、どうしようもない気持ちに苛まれていた。
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