心に傷を負った男

中野拳太郎

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六、

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 水を跳ねるタイヤの音が、はっきりと聞こえるようになってきた。
 雨足は激しく、ゴロゴロとまるでお腹を壊したように、空もうねっていた。
 マスコミが去ってから一時間が過ぎた。英二は、神谷らスタッフと別れ、瑠唯と国内線ターミナルに移動し、その中の喫茶店に話しを聞くために入店した。

 会社の方は佐竹という男に一千万円近くの金を横領され、それで会社経営が赤字となり、業績は著しく悪化。
 そればかりではなく、実はその男と母親が関係にあったということが公になり、しかもその相手の男、佐竹は自殺をした。

 しかし、母親に言わせると全くの事実無根で、何処からそのような噂が流れたのかわからないとのことだ。

 その一部始終を聞かされると目眩を起こし、吐き気を覚えたほどであったが何とか堪えた。

「おにぃ、もう少し待ってね」
 一人物思いに耽っていると、瑠唯の声で現実に戻された。
「今、スマホで彼と連絡取ったんだけど、もうそこまで来てる、っていっているから」

 会社の話だけで、瑠唯の彼氏を紹介したい、ということも上の空だった。

「おにぃ、」

「あ、何だ?」

「私の話、聞いている?」

「ああ」

「ごめんね、」

「何が?」

「おにぃがアメリカに行ってから、家が無茶苦茶になった。なのに、私のいっていること。そんな大事な時なのに彼氏のことを、おにぃに紹介しようとしている。ごめんね、疲れてるのにね」

「確かに、疲れてるよ」

「おにぃ、」
 瑠唯の声がさらに小さくなった。

「何だ?」

「今日、おにぃに彼氏のことを紹介したいのは、実は、訳があるのよ」

 その言葉の意味を少し考えてみた。

 家族がこんなことになり、自分がアメリカからたった今帰ってきたばかりというのに、普通は話をもってくるべきではない。何か、よっぽどのことがあったのだろう、瑠唯に。

「私、最近体がだるかったのね」
 瑠唯は、ぽつりと呟いた。どうも様子がおかしい。

 雲行きも怪しくなってくると、その次の言葉がなかなか出てこない。

 英二は切り出してみた。
「どうかしたのか?」

「うん」
 瑠唯は肯いた。
「それと吐き気もたまにあるし、でね、おかしいなと思って、産婦人科に行ってみたの―」

 これで謎が解けた。なぜ自分に、今こんな話をしなくてはならないのかがー。

「お前・・・・・・」

「そう」
 瑠唯は言った。
「もうすぐ、二ヶ月になる・・・・・・」

「あ、相手は今からくるっていう男なのか?」

 瑠唯は小さく肯いた。

 なんということだ、こんなことがあってたまるか。うそだろ?
 英二は握り拳を作り、机の端をコツコツと叩いていた。本当なら、思いっ切り殴りつけたかったが、どうにかそれを、理性で抑えつけた。

 丁度その時、この国内線ターミナルの中に一人の男が入ってきた。どしゃぶりの雨の中、傘も差さず、男は堂々と立つ。それを照らすように稲妻が走った。

 ドッカ―ン! 近くで雷が落ちた。

 その男は身じろぎもしない。ターミナル内をキョロ、キョロと見渡している。背が高く、がっちりとしており、英二よりも一回り大きい。

 瑠唯が席を立ち上がり、
「あれ、あれが彼氏よ」
 と言い、一旦喫茶店から出ていき、男の基に走った。
 そして、その男のところにいき、肩を叩いて知らせた。男は瑠唯に顔を向け、二人して喫茶店の中に入ってくる。
 あの男だ、まさしく。悪寒に襲われると同時に喉の渇きを覚え、唇を舐めた。そして、残り少なくなったコーヒーを飲み干す。

「このところ全然会えなかったから、言えなかったことがあるんだ―」
 瑠唯の声が近づいてきた。

 男は英二の視線と合うと、会釈した。英二は顔を反らし、窓の外を見た。すると叩きつけるような激しい雨。
 普通じゃない雰囲気があった。両腕に嫌な鳥肌が立つ。 

 男もようやく英二の顔から視線を反らし、瑠唯を見た。減量のため、あまり飲んではいけないと思いつつ、水にも手をつけていた。

「ちょっと残業で忙しかったから。それに君もわかっているだろ。うちの会社が今大変なことを」

「ええ、だけど、私の体調も、ちょっと・・・・・・」

 男は瑠唯の顔を真剣な眼差しで見た。

「獲り合えず座って」
 瑠唯が英二の席にやってくると、男に言った。そして、指差した。
「兄貴」

 男は、今度は深々と頭を下げた。
「後藤義信です。妹さんと付き合わせてもらっています」

 仕方なく肯いた。

 そして、義信が瑠唯を見た。
「さっきの話・・・・・・」

「ああ、私、産婦人科に行ったのね」
 男が、女から唐突に言われた時に見せる仕種のように、義信の顔も驚きと困惑の顔とで重なり、そして、しばし止まった。

「で?」

「で、って?」

「ああ、ごめん。ちょっといきなりで、なんていっていいか・・・・・・」

「前から相談したかったのよ。でも義信が忙しいって、全然会ってくれなかったし、私も不安だったけど、心配だったから、一人で行ってきたの。
 一人で産婦人科に行くのって凄く不安だったし、勇気が必要だった・・・・・・」

 義信が瑠唯に真剣な顔を向けた。何を喋っていいのか、どう言葉をかけてやろうか、考えているようだった。

「そ、それで?」 

「妊娠してた―」

「君は、そのことを全く知らなかったのか?」
 英二は、義信が思案している間に思わずそう問い質していた。

「す、済みません」
 義信は苦し気に言葉を振り絞った。
「仕事が忙しくて、でも、妹さんとは真剣に付き合っています」

「付き合っていますって、君はこれからどうするつもりなんだ? どう責任を―。聞くところによると、妹とはつい最近、知り合ったばかりでしょ?」

「ええ」

「第三者から見て、君は、はっきりいって、無責任なんだよ」

「済みません」
 義信は慌てて立ち上がった。
「そんな気は、いや、こうなった以上、私が責任を持って、」
 そして、深々と頭を垂れた。  

ドッカーン! 雷鳴が轟いた。
 まるで英二の心の中のように。

「責任を持って、どう責任を持つというんだ!」
 声が大きくなっていく。何でこんな男と・・・・・。

「これから瑠唯さんを、責任持って」

「責任?」

 義信に先を喋らせないよう、いや、彼の話しの先を聞くのが怖いからなのかわからなかったが、遮った。

「君は、妹と結婚をするとでもいうのか?」

 やめてくれ、この男とだけは・・・・・・。義信を見た。
 彼の全身を。それでも義信は盗み見をするように、英二を見たが、何も言ってはこなかった。
 沈黙が耐えられない。窓を叩きつける激しい雨の音だけが、いつまでも耳に響く。この嫌な空気に、溜息が漏れた。

「中西工業に勤めている、って訊いているんだけど・・・・・・」
 そして、言った。

「ええ。もう十四年になります」

 だが、こいつの顔をこれ以上見ていられなかった。これ以上見ていると、その能面のような顔を粉砕してやりたくなる。理性も限界に達しようかとしていた。

「そう」
 英二は立ち上がった。もう話す内容もないし、話したいとも思わない。それよりも、この男の基から一刻も早く立ち去りたかった。

「おにぃ、」
 瑠唯が慌てて立ち上がった。
「どうしたの?」

「今日はもう疲れたよ、ごめん」
 背中を見せ、立ち去ろうとした。伝票を取り、一人レジへ向かうと、瑠唯も一緒についてきた。
「何も考えれそうにない。それに、あの男とは・・・・・・」
 英二はできるだけ小さな声で言った。
「今までお前が付き合ってきた男のことは、何とも思わなかったが、あの男とだけは、気が進まない。嫌な予感がするんだ。だから、考え直してくれ」

 瑠唯は足を止めたが、一人でそのまま歩いた。

 疲れていた。日本に帰国した途端に、あまりにも多くの雑音が耳に入ってきた。
 人の足を引っ張る音に、人の家庭を壊そうとする音。
 それらの雑音が耳にキーンと入って来て、鼓膜が破れそうだった。ボクシングに集中しなければ。ボクシングに―。

 止まれよ、あいつはまだ座っているじゃないか。お前を待っているんだぞ。

 耳元で声がしているような気がした。それでもこの新たな音を振り払うようにして歩く。俺はこの問題から、家族に降りかかった問題から逃げ出したいのだろうか―。

 止まるんじゃない。このまま前へ進め。そうだ。そんなことはどうでもいいことだ。
 今は、今だけはボクシングのことだけを考えればいい、世界戦のことを考えろ、そのためのアメリカキャンプだったはず。ボクシング、俺のボクシング―。 

 止まれ。もう一度声がした。お前は、あいつから逃げるのか?
 身に降りかかった災難を振り解くのが男じゃないのか。それを、お前はあれがあるから、などと見て見ぬフリをし、耳を塞いでいるー。

 ―進め。―止まれ。 進め、止まれ。足元が揺らぎ出していた。地面が大きく揺れ、英二は壁に手をついて、それに必死に耐えた。どうすればいい? どうすれば・・・・・・。

 ―ハッハハハ。愉快だよ。愉快。こんなに愉快なことはない。

 く、苦しい。腹が苦しいよ。
 面白すぎて、腹が捩れそうなんだ。
 今にも泣き出しそうな妹に、苛立ちと、不安が交差し、パニックになりかけた兄、あの二人の顔を見ているだけで、たまらない気分になる。
 湧き上がるこの喜びを、義信は背中を震わせながら、噛みしめている。そうだ、もっと苦しめ。義信はテーブルに突っ伏して、笑いと喜びを必死に隠していた。

「義信、どうしたの?」
 瑠唯が戻ってきた。

「お兄さんを、怒らせて、しまったようだ。これからどうしよう、か」

 わ、笑いが、収まらない。誰か止めてくれ。頼むからそんなふうに、俺に面白い顔をするのはよしてくれ。

「一応は伝えたけど、今は、そっとしとかなきゃね。大事な世界戦があるんだから。これ以上負担を掛けたくないわ」

 瑠唯の声を聞いた途端に、ようやく我を思い出し、シリアスな顔をつくることができた。
 まだまだだよ。こんなものでは終われない。俺の母親がされた仕打ちに比べれば、大したことはない。そうだろ?

「この先、わかってくれるかな。俺たちのこと」

「わかってくれるわよきっと」
 瑠唯は言った。
「義信は、この子のこと、賛成してくれるよね?」

 お前も、もっと苦しめばいい。俺の母親のように一人で、その子供を育てればいいさ。そう、屈辱と共に、な。

「勿論だよ」
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