心に傷を負った男

中野拳太郎

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十一、

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 豊田署の刑事板垣敬三と東海新聞の皆川綾乃は、約束の時間よりも早く、佐竹の家に向かっていた。

 今日の午後八時に会うことになっている。

「中西守さんの夫人、光子さんは大学の卒業生で、その大学のテニス部の先輩と後輩の仲だったそうです。
 二人の出会いは、新入生の光子さんを、四年生の守さんが部に誘ったのがきっかけで、積極的にアプローチをした、とのことです」 

「何で君がそんなことを知っている?」

「私も光子さんに訊いてきましたから」
 綾乃はしらっと言った。

「それに、何で君がここにいるんだ?」

「いいじゃないですか」
 綾乃は微笑んだ。
「交換条件ですよ」

「何を?」

「私だってタダでとは言いません。板垣さんの情報も知りたいわけです」

「ふん」
 板垣は前を向いて歩いた。
「いい青春を送ったんだな」

「え?」
 突然何を言い出すのだろう、そう思った。

「嫉みにも似た感情が湧いてくる」

「何がですか?」

「私は、四十八年間、そんな青春を謳歌することなく生きてきた。そりや、私にも彼女が今までに二、三人はいた。いや、一人だ・・・・・・。悪いか」

「いえ」

「その彼女にも見事フラれたのだが・・・・・・。とにかく私は独身だ。
 だが家庭を創るというものに憧れていなかったわけではない。そういう環境に恵まれなかっただけのことだ」
 板垣はしんみりと言った。

 綾乃は何も言わず、聞き流すことにした。そして、
「それはそうと、光子さんに言わせると、その当時の中西守さんは随分と遊んでいる、という印象を抱いていたそうです」

「それくらいは俺でも知っている。何だ、俺の話しは訊きたくないのか」

「では、この話し、訊きたくないですか?」

 板垣は、綾乃を見て、その後変な顔をした。

「いや。続けてくれ」

「はい。光子さんは、過去にも沢山のガールフレンドがいたのを知っていましたが、守さんから真剣に交際を申し込まれ、半信半疑ながらも、付き合ってみると、実際その遊び人の影はなかったそうです」

 綾乃は言った。

「二人はデートを重ね、交際を深めました。やがて同じ道を目指すようになり、自然の成り行きに任せていると、光子さんのお腹に小さな命が宿り、最初こそ親に反対されたようですが、二人の絆は固く、学生結婚を貫き通したそうです。
 そんな彼らの結婚生活は順風でした。大学を卒業し、そのまま中西工業に就職。
 そして、三年目には副社長に就任。すると、二人目の子供ができ、やがて、父親の順三が亡くなると、守さんが社長に就き、受け継いだ会社を順調に経営し、売上を上げていった、というわけです。
 それがいいことに、二百人いた従業員も四百人に膨れ上がり、二棟の建物を四棟に増築しましたから」

「やはり女性は、女性同士だよな」

「ええ、まあ、それから守さんは、運動神経も良かったとのことで、高校生の時に、テニス部に所属しており、インターハイに出場した程の腕前だそうです。
 この運動神経の良いところを受け継いだのが、きっと長男の英二さん。しかし、頭のキレに関しては娘の瑠唯さんも受け継いだとは思えない、と光子さんは言っていました」

「他には?」

「生前、守さんの家での言動は、仕事場で見せる顔ではなく、よく喋り、笑い、普通の父親だったそうです。
 子供の教育を本人の自主性におき、長男の英二さん、妹の瑠唯さんには、やりたいようにやらせてきた。
 そんな中西守さんの性格は、温厚で優しい。そして、細かいところに目を向ける癖があり、何にでも綿密に計算し、行動する、という性格を持ち合わせていたようです。
 でも、それが崩れるようなことがあると、もろく、一旦キレてしまうと止まらない一面もあったそうですよ」 

「よく、訊き込みをしてきたね」

「有難うございます」 

 だが、板垣が知りたかったことは、そんな中西守の過去や性格だけではない。今までに憎しみをかった人間がいたか、否かである。

「俺はね、あの二年前に起こった増井病院での事件、あれは単に病院側の過失だけではないような気がするんだ」

 綾乃は、板垣を見た。

「当時の午前六時十五分。その時、看護助手が中西の病室にいき、タオルで顔を拭いたが、その際チューブは正常だった、と証言は取れている。
 だがその十五分後別の看護師が巡回にいくと、そのチューブは外れていたと、このようにその二人の証言から、十五分の空白時間が成り立つわけだが。
 勿論、その時間帯に不審者を確認することはなかった、ということだ。わかる?」

 綾乃は肯いた。

「だから、その十五分間の間に何者かが、そう、中西を憎んでいた人物が病院に忍び込み、病室に侵入し、そして、人工呼吸器のチューブを抜いて、中西を死に陥れたのではないか・・・・・・」

「やはり、板垣さんは他殺と踏んでいるのですね」

「でも、当時の捜査本部の見解では、十五分間での犯行は不可能に近く、その時間帯に不審者を見かけたという証言も取れてはいない。
 また病院内にある防犯カメラにも、怪しい人物は写っていなかった。
 勿論、エレベーターの中にも防犯カメラはある。それに、西側には非常階段があるのだが、一階から三階まで走って昇り、廊下を走り、守の部屋に忍び込んだとしても、実際、殺害は無理だ。
 シュミレーションをしたが、時間的にも無理だった。
 だから捜査線上、事故となったに過ぎない。解せない。果たして、本当に怨恨の線はなかったのであろうか。
 仮に私が思うように、何者かの犯行であったのなら、犯人はなぜそんな時間帯を狙ったのか。たとえば午前二時頃であれば、誰も巡回にはこなかったはずだ。
 なぜ、巡回と重なる時間帯の六時十五分から六時半という時間帯なんだろう」

「確かにその十五分の空白は気になりますね。まともに考えれば出来ない。でも、あえてその時間帯を狙って、行動したとしたら、できないかしら・・・・・・」

「あえて、ね。君が言うように、その時間帯を狙って行動すれば、そりゃスムーズにいったかもしれないな。その行為だけを目的としたのならば、ね」

「犯人は、巡回時間を把握していたのではないかしら。事件としては不可能に見せかけ、事故に見せかけるための、偽装? だから、その時間帯を狙った」

「それも考えられるな。いいか、看護師の証言では、患者の巡回は、大体午前六時頃に行うとのことで、犯人はあえて、その時間帯を狙った。
 そして、その空白時間を狙ったことにより、他殺の線を消した―。
 そうなれば病院内のことをよく知った病院関係者の中で、何者かが行なったという可能性も出てくる。
 それとも、空想が膨らみ過ぎかもしれんが、例えば、まったく別の人間が、病院関係者を金で雇い、殺害させたのか・・・・・・」

「そんなことが、あるのかな」

「正直わからないよ。考えれば、考えるほど真相は闇の中に沈んでいくのだから」

「そうですね」

「でもな、私も光子さんには、話しを訊いたんだが、その時、ちらりと光子さんが言った言葉が気になるんだ」

「どんな言葉ですか?」

「それは、あの人には、私や家族に言えない、隠し事があるような気がする、という言葉だよ。
 私はその言葉が今でも頭に引っ掛かっていてね。あれから二年が経つが、その現場にいた人物を尋ね廻り、訊き込みを続けているんだ。
 いいか、内科の病室は三階にあり、全部で三部屋。大部屋は、一部屋に四人が入り、個室は二部屋ある。
 そのうちの一部屋を中西が使っていた。原則的に午後九時以降は、関係者以外は出入りが出来ないことになっている。
 その当時、フロアーの入院患者は六人。看護師二人、医師一人、それから常駐している警備員が一人いたことは確認している。
 捜査はこの男性八人、女性二人を対象に行われたが、全員に、アリバイがあったし、それに動機の問題もクリアーされている。
 それでも、私は納得がいかず、病院でもらった患者の家族のリストを虱潰しに調べてみたが、結局これといった手懸りは掴めずじまいだった。
 いくら追っても容疑者の陰を踏むどころか、見ることさえできない。もしかしたら、自分の捜査方法が間違っているのか、と思い始めた矢先だったんだ」

 板垣は大きく呼吸をした。

「そんな時に、佐竹宣夫と会う約束を取り付けた。二年前に一度事情聴取をしているが、その時は確固となる証拠を引き出すことはできなかった。
 しかし、先日の再度の依頼に、彼は了承し、そして、有力な証言が得られることでしょう、と言ったんだ。
 この言葉が何を意味しているのか。二年前には気づかなかった小さなことでもいい。
 私はその言葉にすがるように、僅かな手懸りに有りつくためにいくんだ。それで、私は一人で行くつもりだったのに、君が署に来たものだからー」

「光子さんに訊き込みをしてきたんですが、って私が豊田署に行ったら、板垣さんが出掛ける、って言うんで、付いてきただけですよ」

「ま、そんなことはいい。ちょっと静かにしてくれ」

 ようやく目指す家が見えた。そして、白い建物の前で立ち止まる。
 表札に佐竹と書かれている。板垣はインターホンを押しながら周辺に目をやった。静かで閑散とした、落ち着きのある街だった。

「おかしいな」

しばらく待ってみたものの、中からは何の応答もない。

「時刻は約束した八時五分前で、時間よりも少しだけ早い。だが、家の中には誰もいないし、気配さえも感じ取れない。おかしいな」

 板垣はしばらくその場で待つことにした。

 シーンと静まり返った住宅街。
 結局十分が過ぎていた。

「誰も帰ってくる様子はないですね。一体どういうことかな。子供が何処かに行ってしまい、それで探しにいったのでしょうか。
 そうであれば、電話を入れることくらいできるでしょうに。もしかしたら、何らかの事件に巻き込まれてしまったのではないかしら」

「縁起でもないことをいうものだな。仕方ない。昨日教えてもらった携帯電話にかけてみるよ」
 そう言って、板垣は電話を掛けた。

 だが予想通り何回かけても、繋がる気配はなく、留守電にも繋がらない。―どういうことだ? 

「嫌な予感がする。もしかしたら彼が言ったように、二年前のことで何か重要な手懸りを掴んでいたのかもしれない。
 だとしたら・・・・・・どうしても佐竹氏を探さなくては。そして会わなければならない」
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