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六、
しおりを挟む十月の半ばに入ると、朝晩は肌寒く感じるようになった。
暑い夏のジリジリとする陽射しと違い、柔らかな風が頬を撫でるような、そんな心地良さを感じる季節になってきた。
その中年の男の名は佐竹則夫。
眼鏡をかけた、インテリ風な顔をした、小柄の痩身タイプだ。彼は十二歳になる息子の浩太を連れ、デパートにやって来た。
三年前の四十三歳の時。
前の会社で、二十歳下の女子社員と不倫関係を結び、細心の注意を払ってはいたが、それを妻に知られ、離婚を申し出された。
その不倫による離婚が原因で、今の中西工業に出向してきたともいえる。部署は総務課で、役職は重役に留まっている。
離婚調停時、財力のない妻が息子を引き取るといったが、佐竹はそれを阻止すべく、息子の親権を取るために精力を費やした。
妻に息子を取られれば息子の将来はない、そう思い、名の通った弁護士を用意し、裁判に力を注いだ。その甲斐あって、家裁が親権と監護権を佐竹に与えている。
しかし、親権者でない親が、同居している子供を引き渡さなかった。つまり別れた妻が子供を引き渡さなかったのだ。そして、あいつは最後に多額の慰謝料を請求してきた。
だからあの男が言ったように、俺には金が必要だった。こうでもしなければ、仕方がなかったのだ・・・・・・。
そして、俺は、気づくと、会社の金を横領するようになっていた。最初は五十万、それが上手くいくと百万、知らず知らずの間に莫大な金を横領した。正直、それが公になるとは思いもよらなかった。だが、あの男に知られてしまったのだー。
名古屋駅にあるJR高島屋に佐竹は用があった。それはある女と接触して、親密になることを指示されたからだ。
その女の名は中西光子。
中西工業の現社長だ。夫の中西守を亡くして二年。今では買い物をすることが彼女の密かな楽しみだ、とあの男は言っていた。
佐竹は白のセーターに紺色のパンツ、まるで妻とはぐれた夫という感じで、アクセサリーや婦人服コーナーを廻っていたが、漠然と指示を受けただけで、困ってもいた。具体的に何処で会えとか、彼女は必ずここに来る、ということを知らされていないのだから。
一体、あの男は何を考えているのだろう。男は言った。詳しいことを話せば、あなたはこの作戦に失敗する恐れがある、だから何も知らなくていい。ただ私の指示に従っていればいい、のだと。
#
「折り入って頼みがあります。それは社長の中西光子に接近してもらいたいのです」
と彼は切り出してきた。
「彼女は週末決まって、名駅の高島屋に一人で買い物に行きます。
そこへ、あなたは子供と一緒に行き、先ずは彼女と親しくなって下さい。前にも申し上げましたが私は、あなたが三年前に離婚したこと、裁判で息子さんを引き取ったことも知っている。
その子供を使えば、なんとかなるかもしれません。女は子供に弱い生き物ですから。あとはあなた次第です。社長はいい女ですよ、ああ見えて。あなたはそんな社長を引っ掛ければいい。例の事を公にされたくなかったらね。ま、せいぜい頑張って下さいー」
日曜日のデパートは若者ばかりだ。男一人だけでは少し抵抗を感じただろうが、このように息子と一緒であれば左程、気になることはなかった。
浩太と共に四階にあるスポーツ用品店に行くと、沢山のお客で賑わっていた。入口で野球のバットを持ち、品定めに忙しい小学生の子供に、何やら指示を出す父親。
その隣でサッカーボールを床につく小学生の息子を叱る母親。あるいは、ランニングシューズをじっくりと選んでいる女子高生に、ナイキの上下のジャージを手に、レジに向かう中年男と。店は様々な人で賑わっていた。佐竹のように父親と子供だけの姿もある。
そんな中、浩太は興味深そうにスケートボードを眺めていた。一つくらい買ってやろうか、そんなことを思いながら、浩太の肩を叩いた。
「お父さん。ちょっと喉が苦しいんだ」
「大丈夫か?」
「うん。いまのところは」
「吸入器は持っているな? 発作が出たら、使うんだぞ」
「うん。それより、」
浩太はデイスプレーに飾られた黒色のスケボーを指差した。
「これ、ずっと前から欲しかったんだ。ね、ねぇ、お願いだよ、買ってよ」
佐竹は肯いた。これくらい、いいだろう。俺に付き合ってここまできてくれたのだ。
「仕方ない、買ってやる。でもそんなに長い時間はやるんじゃない、お前は喘息もちなんだからな」
「イエッス!」
浩太はガッツポーズをして喜んだ。
「わかってるよ、そんなこと」
「本当にわかってるのか」
あどけない息子の笑顔を見ながら、佐竹は次に何処へ行くか迷った。
「ほら、レジにいくぞ」
そんな時だ。レジで清算をしていると、女の姿が視界に入った。
なんと、自分が探していた女が、様々なところに視線を巡らしながら歩いて来るではないか。
「あら、佐竹さん」
中西光子も気づいた。白のブラウスに紺色のカーディガン、そして、緑色のスカートを履いていた。顔をよく見ると、メークが少しばかり派手な気がした。会社で見る彼女と違い、垢抜けている。
「こんなところで、偶然ですね」
佐竹は眼鏡を少し上にやり、テレを隠した。
「ええ。お子様ですか?」
彼女は、浩太に目線をやった。
「こんにちは」
「こんにちは」
佐竹も浩太を見、
「ほら、挨拶しなさい」
「こんにちは」
しかし、浩太の方は父親に目をやり、しぶしぶといった感じで中西光子に挨拶をしたが、恐らくこの子は人見知りもあり、恥ずかしいのだろう。
「お名前は?」
「佐竹浩太です」
浩太は正しい姿勢をしたまま言った。
「小学生?」
「はい」
光子の優しい笑顔に、ドキリとしたようだ。前の母親はいつも何かにイライラしていたのもあり、対応に苦労しているようだった。
「六年生ですよ」
佐竹は言った。
「ここにはよく、見えるのですか?」
「ええ、大体日曜日には。あれ、確か佐竹さんは豊田市にお住まいでしたよね」
「ええ、まあ」
佐竹は、曖昧に答えた。
「今日は久しぶりに名古屋にでも行こうかと思いましてね」
そう言いつつ、横にいる浩太の異変に気づいた。
咳をしている。喉がいがらっぽいようで、少し苦しみ出していた。人が沢山いるため、埃にやられたのだろう。
「あれ、どうしたの?」
光子が心配そうに、浩太の額に手をやった。
「熱はなさそうだけど、顔色が悪いわ」
「どうした?」
佐竹は、浩太の顔を覗き込むように心配した。
「また、喘息が出たみたい・・・・・・」
「ポケットの吸入器は? ほら、出してごらん」
横目でちらりと光子を見ると、心配そうな顔を向けている。
「大丈夫ですよ」
息子のズボンのポケットをまさぐりながら言った。
「この子は喘息持ちで。二年前に入院したのですが、その当時と比べると少しは良くなっているんです。それに今では病院から、ほら、」
佐竹は、息子のポケットから白い吸入器を取り出した。
「吸入ステロイドです。気管支の緊張を緩め、狭くなった気管支を拡げて空気の通りを良くし、呼吸を楽にする働きがあります。これがあれば、なんとか治まるんです」
そして、息子の口にそれを押し込みながら言った。
「ほら、大きく息を吸い込んで」
浩太は深呼吸をするように吸入器からエアーを吸い込んだ。
「喘息は気管支に炎症が生じて、気道が狭くなり、呼吸が苦しくなる病気です。原因はアレルギー体質の他、ダニ、花粉、カビ、煙草の煙、排ガス、ストレスなど様々の要因が絡むと言われています。発作が酷い時には、死亡する時もあるんですよ」
「大変な病気ですね」
光子の心配そうな顔。そんな彼女の顔と、それから徐々に楽になっていく息子の様子を交互に見た。浩太の身体も心配だ。だがこの薬をやれば今までは大概良くなった。それより、彼女といきなり親密になれたことが有難い。これも息子のお陰だろう。
「大分楽になってきたよ」
案の定、浩太に笑みが戻ってきた。
光子はそんな浩太を見、ほっと胸を撫でおろした。
「良かったわね。もう苦しくないの?」
「うん、大丈夫。この吸入器をやれば、嘘みたいによくなるです」
「よかった、よかった」
佐竹も一安心した。
「喉渇かないか?」
「うん」
浩太は肯いた。
「お父さん、ジュースが飲みたい」
「そうだな」
佐竹は、光子を見た。
「発作が出ると喉が渇くんですよ。もし良かったら・・・・・・一緒に喫茶店で、お茶でもしませんか?」
光子はしばらく考えてから、
「ええ。連れもいませんから、喜んで」
と答えた。
佐竹は自分の思っていたよりスムーズに事が運び、思わずほくそ笑んだ。やはり子供がいるということは、使いようだな。三人はエレベーターに乗り、十二階にあるファミリーレストランに入ることにした。日曜日ということもあり、多くの客で賑わっていた。それも若年層が中心だ。
一体自分たちは彼らにどのように見られているのであろう。父親に息子。それから女房・・・・・・。自然と頬が緩んだ。
「どうかしました?」
「いや、べつに」
光子にそれを見られ、一瞬どうしていいかわからず、下を向いた。妻と別れ、三年もの間、女っ気なく、生活してきたのだ。確かに飢えている。今になってそれを感じる。
「浩太、購入したスケボー、ちゃんと持って、落とすなよ」
「うん」
浩太は、嬉しそうにスケボーを抱きしめていた。
「なんだか会社にいる時の佐竹さんとは、全然違う気がします」
「そうですか。普段からこんな感じだと思いますが」
「フフッ」
上品な微笑だ。佐竹も微笑みながら、最初は子供の話をした。浩太が入院したことを話すと、彼女の夫と同じ時に、しかも同じ病院にいたことを知り、奇遇ということから話は進んだ。
だが彼女は、夫に先立たれた経緯から最後はどうしても暗い顔になっていく。まだ二年しか経っていないのだからしょうがない。それを察知すると、終始和やかな会話をするよう心掛けた。週末は何をするのか、どんなことに興味があるか、あるいは常に会社のことだけを考えているのか、などを。
話を聞いているうちに自分と似たような環境にあるのだな、と思った。お互いが淋しかったのかもしれない。だから同じ会社にいるということで、話が盛り上がったのだろう。佐竹は、彼女と話しているうちに知らず知らずの間に、魅かれていくのを感じた。
「私、」
そんな時、光子の言葉で我に返った。
「最近ちょっと太ってきたように思うんです」
「え?」
佐竹は、彼女を見た。
「そんなこと全然ないじゃないですか」
「服の中が太っているからわからないんですよ、外からは」
彼女は苦笑いを浮かべた。
「それはそうと佐竹さん、昔言っていたじゃないですか」
「なんと言いましたか、覚えがありませんが」
「佐竹さんが一時期、昼休みにマラソンをしていた頃のことですよ」
「まあ、そんなこともあったな」
佐竹は天井を見上げ、昔を思い出した。
「今じゃ、やっていませんがね」
「ほら、あの時、私にこれでもスポーツマンの端くれだからって、いったじゃないですか」
「ああ、そんなこともありましたね」
佐竹は苦笑いした。
「私趣味も何もないですから、この際スポーツでも始めようかと思っているんです。丁度いい機会かなと思って。何がいいですかね。痩せられるスポーツって」
「んー何でしょうかね。私はたまにテニスなんかをやりますが、あれは結構いい運動になりますよ」
佐竹は足を組んだ。
「もし良かったら、今度一緒にどうですか?」
「え?」
「実は私、足田の方によくテニスにいくのですよ。そこには景色のいいコートがあるのですが、どうですか、一緒に? 気分転換になりますよ」
「テニスですか・・・・・・」
「大丈夫です。私が教えますから」
「でも・・・・・・」
「スポーツは楽しむものです。上手いだとか下手だとかは関係ありませんから」
「そんなことじゃないんです」
光子は辺りを見渡し、恥かしそうにした。
「ああ、そうそう。もし会社の人に見つかったら、なんて思っていませんか? それでしたら大丈夫です。あんなところで中西工業の人に会ったことはないですから。何しろ遠い」
ちょっと強引すぎやしないか。俺の悪い癖が出てしまったようだ・・・・・・。
「違います。本当は、テニスをやると主人のことを思い出しそうで・・・・・・。実は私、大学の時に、テニス部に入っていましてね、そこで主人と出会ったものですから。だから、その、思い出が詰まっているんです、テニスには・・・・・・」
「そうですか。残念です。無理やり誘ったりして済みませんでした」
佐竹は少し残念そうに項垂れた、というより恥ずかしくなってきたのだ。年甲斐もなく・・・・・・。俺の悪
い癖だ。こうなると収拾がつかなくなる。
「そんなこと・・・・・・。お気になさらないで」
日が陰り始めるのが早くなったのか、家に着く頃にはすっかり暗くなり、肌寒さを感じた。
あの男に言われた指令。中西光子に接近して、親しくなれ。
これからどうするのか。また来週、白々しく高島屋に行くのか? どの面、どんな理由を引っ提げて行けばいい、というのだ。とにかく、会社では社長と重役の関係だ。あの男は、俺に男と女の関係になれとでも、いうのだろうか。わからない。一体この先どうなるのか。佐竹は様々な思いを頭の中で巡らせた。
―突然、何の前触れもなくそれは現れる。
「どうでしたか?」
浩太と共に家の中に入ろうとした時、玄関先で大きな男が立っていた。大きいわりには存在感がないので、びっくりとした。
「ずっとここにいたのか?」
「いや、今さっきですよ」
「ずっと尾行していたのでは・・・・・・」
心臓が止まるのではないか、と思った。
「そんな悪趣味はありません。ま、それはあなたのご想像にお任せしますが」
紺色のジーンズに黒の薄手のジャンパーといった格好の後藤義信が立っていた。やがて、浩太がいることに気づき、視線を向けた。
「あっ・・・・・・」
浩太が短い声を発し、そして、慌てて口を塞いだ。そんな息子の様子が気になったが、今はそれどころじゃない。
「ん、どうした? 小学生かい」
義信が、浩太に近寄った。
「何年生だ?」
様子がおかしい。明らかに浩太は、この男を恐れていた。膝がガクガクと小刻みに震えている。佐竹は自分の息子を、背中に隠すように遠ざけた。
「何もしないですよ。それより早く家に入れて下さい。こんなところで立ち話なんかしていると、かえって近所の人に怪しまれますから」
義信は、声を落して言った。
招かざる客を家の中に入れると、どちらの家なのか、またどちらが上司なのかわからないくらいに彼は、ふてぶてしく、ふんぞり返っていた。
「浩太はもう寝なさい」
佐竹は危険な男から、遠ざけることにした。
「はい」
浩太は素直に返事をし、洗面所の方へと向かった。
「あの子、なかなか使えたでしょ?」
「どういう意味だ?」
「見たところ、ひ弱だ」
彼はビールを一気に飲み干した後、大きなゲップをした。
「そんな子供がいれば、女というものはそう拒否はできない。それにあの女は相当な男好きだ。過去何回か会社の人間と不倫している。ここだけの話だがな」
「君は何を考えているんだ?」
「前にも言ったじゃないですか」
彼は溜息をついた。
「それを言えば、きっとあなたは失敗する、と」
「だから、何を失敗するというんだ?」
「ま、いいでしょう。この話は私の気分を害する。そうなればあなたにもよくないことです。止めましょう。いいからあなたは、今日あったことを全て話して下さい」
佐竹は溜息をついた後、仕方なく、今日あった出来事を、きめ細かく説明した。だが緊張のためか途中、トイレに行きたくなったので、席を外す。
やっかいなことになった。これから俺は、この男にこんな風に、ずっと監視されなくてはならないのか。そもそもなぜ、横領の件がこの男にバレてしまったのか不思議だー。
トイレから戻ってくると、彼が部屋の中を歩き回り、様々な物に、勝手に手をつけている姿を見かけた。やがて佐竹に気付くと睨んできたが、すぐさま顔色を変えた。油断も隙もありゃしない。一体何を考えているんだ、この男は。
「いい電化製品が並んでいたので、色々と見させてもらっていました。私は電化製品オタクでしてね、ま、そんなことはどうでもいい。それよりも、これからのことを話し合いしましょうか。では掛けて下さい」
彼は次にどのように動けばいいのか、指示を出しながら思う存分寛いだ後、ようやく帰っていった。気づくと、部屋に飾っていたお気に入りの年代物のウイスキーが開けられていた。今更どうしようもない。後の祭りだ。
部屋の中がシーンと静まり返っていた。張り詰めた緊張の糸が緩み、佐竹は頭を垂れ、弛緩した。しばらくは動くことができない。浩太の様子を確かめようと立ち上がりかけたはいいが、腰が砕けたように倒れ、自然と、微睡の中に落ちていった。
えらいものに引っ掛かったようだ。蛇に睨まれた蛙のように、委縮するばかり。どうすることもできない。あの男に弱みを握られ、何も言えやしない。動くことも、ましてや拒否することも。まるで遠くの山奥に連れて来られた小学生だ。
俺の人生、一体何処で、何を間違え、こんな迷路の中に入り込み、苦しむことになったのか。人生、駄目になるのはいつだって女だ。女というものは、男の足を引っ張ることしか考えていないのだろう。その魔物に手を出さなければ、こんなことにはならなかった。一時の快楽に身を委ねたばかりに。今、後悔しても遅い。それは分かっている。でも・・・・・・。
―どれくらい眠っていただろう。物音を感じ、目が覚めた。居間に誰かが入ってきたのを感じた。意識が混沌としながらも、浩太の顔を確認することができた。
「どうした?」
眠い目を擦った。
「今何時だと思っているんだ」
「うん、なかなか眠れなくて・・・・・・」
「また喘息でも出たのか?」
「違うよ」
浩太は俯いて、ドア口に突っ立っていた。
仕方なく、佐竹は重い腰を上げ、ソファから起き上がる。体がソファに根付いたように身体が重かった。
「さっきの人、誰?」
息子は俯いたままの状態で、少し震えていた。
「会社の人だよ」
佐竹は、ようやく浩太の前にいく。
「あの人の前では言えなかったけど、僕、さっきの人、病院で見たことがあるんだー」
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