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三、
しおりを挟む―あの日は特に暑い日で、自分にとって、決定的な日となった。
日が陰る頃に家に着き、玄関を開け、いつものように、真っ先に母の顔を見にいく。
これが最近の日課だ。
だが、そこで足が止まる。
母の様子に違和感を受けたからだ。
そっと近づいてみる。だが、いつもの苦しそうな息遣いが全く聞こえない。
実際は、わかっていた。
前々からいつかはこうなることが。
でも、その現実に目を背けていたかった。
いざ、それが実際に起こると、背中が熱く、血液が逆流する。
生まれて初めて経験するこの不安、何とも捕えようのない悲しみ、それらをこの小さな体で抱えることで、自分の体が奈落の底に落ちていくような恐怖を感じた。身体が震え、全くゆうことを利かない。
義信は勢いよく布団をたくし上げた。
その布団の下にある現実を受け入れることができずに叫んでいた。
アッアアアアアッ!
そこには苦悶に歪む顔があった。
血の気の失せた肌に、冷たい頬。すでに死んでいることがわかった。
嘘だろ、こんなことって―。
それでも体を揺すり、脈を取り、見よう見まねで心臓マッサージをした。
「しっかりしてよ。お母さん、お母さん。お願いだから、帰って来てよ・・・・・・」
今までの母との思い出が走馬燈のように蘇ってきた。小さなケーキを買い、それを二人で食べた誕生日会。部屋に装飾を飾り、楽しんだクリスマス会。
手を繋ぎ動物園を散歩したこと。
それから、二人で商店街を歩いていた時。突然雨脚が激しくなり、鞄を頭にやって、雨宿り出来るところを探し、必死で走ったこと。
その必死さに二人は、同時に互いの顔を見ながら笑い合ったこと。
いずれも母は笑顔で、優しく接してくれた。その笑顔が歪み、やがて壊れていくー。
この狭い部屋、すぐ後ろには壁がある。義信はその壁に後頭部を打ちつけた。
脳内にまで痛みが走ったが、義信は二度、三度、四度、五度と打ちつけていた。どうしようもない、この理解できない怒りを壁に向けて。
まるでスイッチが入ってしまったかのように。
母は一人で苦しみ、のた打ち回って死んだ。言葉を失う。
叫ぶことも、唸り声すらも上げることができなかった。体の力がスーっと抜けてしまい、取り残された抜け殻だけがこの空間に、まるで浮遊物のようにして漂っている。
辛かっただろう、淋しかっただろう。
義信は、その現実を直視できず、両肩をワナワナと震え上がらせた。
誰にも看取られず、あの世に逝ってしまった母は、孤独だったはず。あの男は―。
俺の父親は何をしているんだ、こんな時に。
「なぜ出てこない! なぜ助けてくれないんだ!」
義信は、今度は固く、固く拳を握り締めていた。そして畳の上に拳を振り下ろす。
何度も、何度も。一度付いたその破壊的リズムは止められず、畳を殴りつけた。そのうち両拳はヒリヒリし、内出血を帯びたが、それでも構わず、叩き付けた。止められなかった。
この痛みに血が熱くなり、それが真っ赤に染まっていく。後頭部と拳がジンジンと痺れていた。義信は笑った。声を上げて笑っていた。これが生きている証拠なのだ。
でも・・・・・・母親には、もう、それが、ない。その後、泣いていた。ひっそりと、憎しみを抱へー。
「中西工業で働いてみないか。考えが、ないわけではない」
と気づくと、義信はじいさんの言葉を口にしていた。
―義信は、暗い過去を思い出していた。
母親のことを思い出すと、それと同じく、じいさんの言葉も一緒になって頭に浮かぶ。母親の春江を喪い、十二年が経っていた。
その間、人には言えない苦労をしてきた。誰のことも信じられず、細い目は吊り上り、更に人相が悪くなっていた。そのため真面目を装うべく、眼鏡をはめ、後藤義信は、中西工業で働く。
中西工業はプレス加工とを用いて、自動車部品を中心とする機械部品を製造する会社である。
プレス加工とは、板材に力を加え、曲げ、絞り、打ち抜きなどにより所望の形状に成形する加工法だ。
そして、鍛造とはバルク材、所謂かたまりの材料に力を加え、所望する形状に成形する加工法であるが、加工の際材料に熱を加えるか否かにより、、冷間鍛造とに分けられる。
先ず熱間鍛造は、金属が溶け始めるぐらいの温度まで熱する。
そのため金属が軟らかくなり、変形はさせやすいが、設備は大掛かりになり、高熱のため金属は傷みやすい。そこで中西工業の加工法は冷間鍛造が用いられている。
これは材料に熱を加えず、室温のまま加工する方法だ。そのため金属は硬いままで、非常に大きな加工荷重を必要とする。
また、あまり大きな変形を与えようとすると、所望の形になる前に材料が割れてしまうデメリットもあるが、熱間と比べると加熱のための設備は不要で、安く加工できるという利点を生かしている。
この工場で働くようになり、十二年が過ぎれば義信もベテランの域に達し、大概のことは一人で出来るようになっていた。
今まで組織の一員として、言いたいことを我慢し、歯車を壊すことなく、働いてきた。なぜならそうやって毎日を送ってさえいれば、ちゃんと給料が入ってくる。今はそれでいい。少しずつ進めばいいのだから。
昼休みの終りを告げるチャイムが鳴った。
この音を聞くにつれ自然と体が動く。義信は自分の持ち場に戻り、四百トンプレス(プレスが加工中、安全に発生しうる最大能力のことをいう)の前に立つ。
シャー、シャー、シャー、ウィーン、ガシャーン。
機械の加工音が耳を劈く。
それから油の異臭。まるで雨の日の溝の中から臭ってくる異臭そのもの。
あるいは単調に続く、プレスの上下する可動のリズム、それらは永遠に終わることのないものに思えた。
耳元で風の音を感じたので、振り返った。
自分の横をすり抜けていった一人の男に視線をやる。
その男は、隣の二百トンプレスを可動させる男に向かい、大声で喚くように喋りかけた。
「社長が倒れて、増井病院に運ばれたそうだ。前々から悪いとは、訊いていたんだが等々・・・・・・。意識もないみたいなんだよ」
背中に電流が流れた。眼鏡の奥に隠された義信の目が光を帯びる。
どうやら惰性の日々から卒業のようだ、義信は機械を停め、そして、歩き出していた。偶然とは、必然への道しるべでもある。この降って湧いたかのようなチャンスをどう生かすのか、義信は考えを巡らせた。
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