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八、怒りの女ボクサー、柔道家に立ち向かう
しおりを挟む私の大事な、明を・・・・・・。
こんな風にして・・・・・。
彩加は、猛烈な怒りを覚えていた。
この子、きっと今日のことをトラウマにしてしまう。
何でこの男は、こんなことも分からないのだろうか。
明は、父親のことを、怖がっている。今までは、我慢できたのかもしれない。だから月に一度、会いにいっていた。
それも今の鬼の形相を見た明は、藪押のことを恐怖として捉えているに違いない。
だからあんな風に泣いたのだ。今までに聞いたこともないような鳴き声だった。
彩加は半身になり、ファイテイングポーズをとった。これ以上、この子を悲しませるようなことをさせたくない。守らないといけない。明のことを。私が、どんなことになってもいい。この子さえ無事であれば。そう強く念じた。
そして、彩加は走り出していた。明を見ている藪押の背中に向かって。
幸いなことに藪押は、こっちを見てはいなかった。走り出した彩加には、全く気づいていない。
彩加は、サイドに素早く廻って、そして、右ストレートを頬の辺りに見舞った。
バチーン!
物凄い音がした。
藪押は、いきなりのことで体勢を崩し、右膝を床についた。人間は予想外の出来事に関しては脆く、大きなダメージを受ける。
藪押は、ゆっくりと頭を振った。唇から血が滲み出てきた。
それでもこの男の回復力には驚かされた。
「何のつもりなんだ?」
ゆっくりと、怒りを押し殺した表情で、言った。
「俺に、こんなことをして、ただで済むと思っているのか」
藪押は、ゆっくりと立ち上がった。まるで後頭部から湯気が立っているかのように。彼が、怒っていることがわかった。恐怖を感じた。
彩加は、構えた。なるべく重心を低くし、後ろの右足の踵に力を入れた。そこに体重を乗せ、いつでもパンチを出せる状態にして、待ち構える。
来た。怒りの表情で藪押が突進してきた。
怖い。そう思った。
大男が自分に向かってくるのだ。薮押が右を振ってきた。真っ直ぐのパンチではない。
彩加は左のガードを上げ、藪押のパンチを受け止めた。
吹っ飛んだ。何という衝撃。こんなパンチを食らえば、殺されてしまうかもしれない。
やはり男と女とでは、勝負にならないのだろうか。それに藪押は、元柔道選手で、インターハイ王者なのだ。常識的に見ても歯が立たないのではなかろうか。
いや、待て。相手は十五年程のブランクがある。高校を出てから全く柔道、いやスポーツをやってないはず。
その内息が上がるだろうし、動きも重く、素早く動けないだろう。それに比べ、私は毎日身体を動かしている。大丈夫だ。やれる。そう信じ、自分を奮い立たせる。
そりゃ、階級の上の者とやれば体格の違いから押し潰されるかもしれない。そして、技をかけられ、投げ飛ばされるかもしれない。あるいは、パンチを受ければ、それなりに衝撃を受けるかもしれない。
しかし、体重の軽い者の利点はスピードが違うところにある。できるだけ頭を振って、相手に的を絞らせず、自分の動きを止めないことだ。
フットワークを駆使し、時にはフェイントを使い、相手を翻弄させる。彩加は、左足を思い切り、蹴って、前に出ていった。
「何の真似だ?」
藪押は、構えるでもなく、半ばバカにしたような顔で、ちょこちょこ動き廻る彩加を眺めていた。
彩加は藪押の中に切り込んでいき、左のジャブを出した。一発目がヒットしたが、浅い。
二発目、三発目をウイビング、ダッキングで避けられてしまった。
目を疑った。藪押がなぜそんな動きが出来るのかに対して。
彩加がバランスを崩し、前につんのめっていくと、藪押に頭を押さえつけられた。
「何でこんなに短く髪の毛を切ったんだ」
藪押は、必死に彩加の髪の毛を掴もうとするが、このベリーショートの髪の毛を掴むことが出来ず、手こずっていた。
「あんなに長くて、艶のあった黒髪を、こんな男か女なのか分からないヘアースタイルにしやがって。どういうつもりだ、何のつもりなんだ!」
「いや! 何すんのよ。放して」
彩加は、壁際まで投げ飛ばされた。
無様だった。あれほどまでに練習を重ねてきたのに、何て呆気ないのだろう。
「女が男に勝てると思っているのか」
藪押が、壁際までやってきた。
あんなに練習してきたボクシングで勝てないのならー。
彩加は、向かってくる藪押の膝頭を蹴りつけた。
藪押は、前のめりの重心を蹴られたため、身体がバウンドし、その後、崩れていった。そして、左膝を床につく。
「面白いじゃないか。さっきからお前は何をする気なんだ。ええっ。言えよ。言えっていってんだよ! 今のお前は、俺の知っている彩加じゃない。一体どうしたんだ」
藪押は、変な唸り声を上げ、立ち上がった。
「そこに寝ている情けない男の影響で、そんな変な風に変わってしまったのか。まったく、だから俺と別れることはなかったんだ。
別れなければ、もっと女らしく生きれたのにな。お前は、女らしい、とってもいい女だったんだ。今ならまだ、間に合う。取り戻せ、自分を取り戻すんだ!」
彩加は歯を食い縛り、そして、構えた。
「あなたと別れて、正解よ。明のためにも」
「何を言っているんだ。そんなぼろ雑巾みたいな男が明の父親だと。間違っている。間違っているぞ。お前の、その考え方は」
「間違ってもいないし、あなたと寄りを戻すことも、一切考えていないから」
彩加は言い放った。
「お願いだから、もう、私たちに関わらないで」
彩加が、藪押に向かっていった。小刻みな、回転の速いジャブを繰り出した。
それでも藪押は、笑いながらダッキング、ウイビングで交わしていった。そして、左手を前に出し、彩加の頭を押さえつけてしまった。
彩加は恐怖を感じた。藪押が右を振り抜いた。彩加は、目を瞑ってしまった。
左頬に強い衝撃を受けた。
藪押に頬を張られたのだ。頬が真っ赤に染まり、ジンジンしてくる。
このままでは駄目だ。彩加は慌てて後ろに下がり、体勢を整えた。駄目だ。ブランクを感じさせない。いや、私がそれまでいっていないのかもしれないが。
藪押がやってきた。無言のプレッシャーを感じる。ジリジリと彩加がそれに怯え、下がっていく。
藪押が何度も、何度も左を出してきた。いや、性格には相撲取りのように張り手で、何度も頭を叩かれた。屈辱だった。私にはパンチを出すまでもない、と思われているのだろう。いいさ。必ず何処かに突破口があるはず。そこを探すんだ。
彩加は、右腕を上げ、ガードをした。そして、中に踏み込んだ。
そして、左アッパーを藪押の鳩尾に、力一杯叩き込んだ。藪押は、うっという呻き声を発し、慌てて後ろに下がった。初めて藪押にパンチを入れた。
「どういう神経をしているんだ。女のくせに・・・・・・」
藪押も構えた。
藪押の身長は百七十六センチ、彩加は百五十六センチ、二十センチの身長差がある。
やはり雰囲気がある。オーラ―もある。先程までとは違うものを感じた。どうやら彼を本気にさせてしまったようだ。
彩加はガードを上げ、両腕で顔を隠すようにした。そして、その間から藪押を見、左へと廻りながら、フットワークを使った。
藪押は隙を見て、彩加を掴みにかかろうとする。彩加は、先ずは軽く様子を窺うようにジャブを打っていった。
すると相手はストレート系のジャブを力いっぱいに出してきた。素人特有の曲がったパンチだが、そんなパンチでも、もらうわけにはいかない。
大きなフックが飛んできた。
右のガードでそれを防いだが、何というパワーだ。これじゃ中に入ることが躊躇われる。
しばらくはジャブの差し合いで、お互いが様子見に徹しているようだった。
体重差があれば、パワーも違う。しかし、動きは大きい。そこをつけばきっと勝負になるはずだ。
一発打ってきたら、こっちは二発、三発と打ってやる。相手をスピードで翻弄してやるのだ。それしか方法はない。
オーソドックススタイルの彩加は、時計廻りに左、左へと廻っていくのが基本だ。
藪押も同じオーソドックスのため、動きが同じになる。だから、一瞬の差で勝負が分かれる。
速いワンツゥ―を打った。藪押の顔面にヒットした。薮押の顎が上がった。練習の賜物だ。スピードが乗ってくる。顔を振って、相手に的を絞らせない。
藪押の左フックが飛んできた。軌道が読めたので、ダッキングでそれを避けた。
いいぞ、いいぞ。勝てるかもしれない。
彩加は、やや左へ体重をシフトチェンジし、すぐさま腰を捻りながらフックを叩き込んだ。
藪押のこめかみにヒットした。手応えを感じた。
だが藪押は、すぐにステップバックした。
そして、首を振り、何事もなかったような顔で、またジャブを突いてくる。藪押は、彩加の放ったフックに怯むことなく更に回転を上げてきた。
ジャブ、ジャブで顎を上げられ、右ストレート。
鼻っ面に受け、鼻血が噴き出した。形勢が一気に逆転した。
後ろに壁があり、もはや逃げ場がないことに気づいた。亀のようにガードを固めるが、薮押の集中砲火によって腕が、赤く腫れ上がってきた。このまま上げていることができなくなってきた。危ない。やはり、この男には、敵うはずもなかったのかー。
あんなに練習を積んできても、男と女は勿論のこと、体重差、格闘家としてのキャリアが違ったのだ。
いくら藪押にブランクがあろうとも、簡単に跳ね返されてしまった。これが現実だ
左のガードを吹っ飛ばされ、続けざまに右ストレートを食らった。顔が吹っ飛んだ。ガーン、ガーンと頭の芯にまで響いてくる。鼻頭も熱かった。
彩加は壁まで吹っ飛ばされ、そこで頭を打ち、等々気を失ってしまったー。そして、力なく、体がどさりと沈んでしまった。
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