時空の歪み

中野拳太郎

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### 俺は兎  9

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       ー 一月二〇日 ー




         一宮の実家。



「ね、」

「え?」

「元旦の日に電話があったでしょ」

「まあね」

「鴨川君とかいったよね」

「ああ」

「あれ以来電話とか、何かしらのコンタクトあった?」

「いや、ないけど。何で?」

「別に。ただ、眞人君の友達だから。だって、眞人君気にしてたもん。あいつは明るい奴なのに、なんか塞ぎ込んでいたって」

「そうなんだ。あれ以来、連絡がないんだよね。だから、俺、気になって、何回も電話をかけてるんだけど、全く繋がらない状態なんだ。どうしたんだろう。
 こんなことは一度だってなかったんだ。心配になってきた。でも、だよ。俺たちは大人なんだし・・・・・・。あいつにも生活はある。それ以上踏み込んでいいものかって、ね。正直、悩んでいるんだ」

 俺はいつからこんな風にかっこいい言葉を着飾り、正統派を気取っているのだろう。本当は、ただ、面倒なことから逃げたいだけじゃないのか。じゃなければ、心配だったら、あいつの家に行って、確かめればいいだけのことなんだ。そして、笑顔を交え、飲みにいけばいい。そうすればお互いのしこりも消えるはずなのに、なぜ行かない。

 今は、俺に彼女が出来た。千晶と一緒にいることが幸せだし、あいつのことが重荷になっていたんじゃないのか。あいつのために、自分の時間を割くことが。

 だから俺はあいつに対し、態度が変わってしまったのだろう。それをあいつは感じ取ったから、自分から消え、俺の前から姿を消した。
 あいつは、ああ見えて、繊細なんだ。それを知っていたのに、俺は知らないフリをした。それが楽だったからじゃないのか。
 もし、このままあいつが消息を消したままの状態が続いたら、どうする? あるいは本当にもう二度と俺の前に姿を現さなかったら。

 それは、それでしょうがないことのような気もする。だって、あいつがそう決めたことなんだ。それを誰にも止めることはできない。俺が思っていたよりも、実のところ、あいつは、俺を良く思っていなかった、のかもしれない。
結局、現代社会に生きる俺たちは、他のことに目を向けている時間などないのだ。自分の生活を守るだけで、精一杯なのだから。





「なんか緊張するな」

「そんなに緊張する家じゃないよ、うちは。昭和の匂いのする家で、とにかく古い家なんだからさ」

「そういう意味じゃなくて」

 千晶が睨むように見てきた。

「わかってるよ。俺はただ。千晶の緊張を解そうとしてさ」

「もう。初めて眞人君の実家にいくのに・・・・・。結婚の話しをするだなんて。とにかく、急な話しで、正直、私、まだ戸惑っているのよね」

 わかるよ、お互いが不安ばかりだっていうことが。その言葉を俺は、胸に仕舞い込む。俺は、この人だって直感で思ったんだ。その直感を信じたいし、男として、ぐだぐだと、いつまでも悩むのが嫌だった。男だったら、すぐに決断をし、行動するのがカッコいいと思っている。だから・・・・・・。

 俺は、千晶と共に実家を訪れることにした。名鉄の一宮駅から歩いて実家まで二人で歩いて行く。最初は娘さんを下さいと、千晶の方の家にいく気でいた。でも、千晶の実家は静岡県にあり、遠く、都合がつかないということもあり、俺の実家から挨拶をすることになったのだ。

 そんなことで、今となっては、もはや、鴨川のことは、頭の中にこれっぽっちもなかった。

「戸惑ってるって、俺たちの結婚に何か不安でもあるの? 元旦、あんなに喜んでいたのに・・・・・・」

 そして、腹の中の思いとは、違う言葉を口にしていた。

「そりゃ嬉しかったわよ。でも、ね、現実なことを考えると、ほら、お互い、知り合ってまだそれ程日が経ってないし。それにお金のことだってあるじゃない。
 結婚をすれば、家族になって、子供だって出来るかもしれないし、お互いの家族とも付き合わなくてはならないのよ。それらを全部ひっくるめて、二人で乗り越えることができるのかな、って」

 もう、こういう時に困るのよね。相手が年下だと。まるで子供を慰めるような、この感じ。男の人ってもっと現実を考えてほしいわ。何でこう、夢ありきで、事を進めていこうとするんだろう。

「できるさ。千晶と一緒なら何だって」

 ほらほら、ロマンでこの結婚を乗り越えられる、と思っているんだから。私だって、そうしたいわよ。でもね、この先の現実を考えると・・・・・・。

「はっきり、いうけどさ、そうやって、眞人君みたいに夢物語ばかりじゃいけないのよね。少しは現実も考えないと」

 ちょっと言い過ぎかしら。

 懸念していたことが・・・・・・。彼の顔色が変わった。ああ、段々怒りモードになってきた。そうやってすぐに怒るところが、私には不安なのよね。

「それじゃ、千晶さんは俺と一緒になることを、望まない、ということなのか?」

「すぐにそうやって短気を起こす・・・・・・」

 ああ、火に油を注いじゃった。言っちゃ悪い、とは思っても、私だって今、ナーバスなのよ。わかって。
眞人君は、きっと俺がここまでやってやるんだから、嬉しいはずだ、って思ってるんでしょうけど。でもね、女は将来のことも考えるのよね。冷静に。現実的な生活やお金のことなんかを。

「起こしてないさ。ちょっと、がっかりしただけだよ。俺は、てっきりこうやって結婚話しを進めていけば、千晶さんが喜んでくれるとばかり思っていたから・・・・・・」

「嬉しいわよ。ただ」

「ただ、何?」

「だから、不安なのよ。期待もあるけど、実際は、不安の方が、大きいのかもってね・・・・・・」

 それに、私だって、自分の両親を差し置いて、眞人君の方から挨拶をしにきたんだからね。それも、わかってよ。口では言わないけど。

「結婚って、焦ってするものかしら、ってね。そう思ったの。もう少し、お互いデートだとかさ、色々な所にいって、色々なことを体験して、美味しいものを食べて、楽しんでからでも、良かったかなって。
 だってさ、結婚すると遊んでばかりは出来ないのよ。ちゃんと現実と向き合って、一緒に生活していかなきゃならないんだから。
 私たちって、まだ出会ったばかりでしょ。だから、まだ楽しんでないような気もするんだ。
そんな中、私たち、他のカップルがやっていることなんかをやらないで、犠牲を払えるのかなって・・・・・・」

「それも、一理あるかな。でもさ、この人だと、俺は思ったんだ。だから、この人を逃したくない、って思ったから、すぐに言ったんだよ」

「それは、嬉しいわよ。でも、私何処にもいかないから。眞人君の傍から絶対に離れない」

「それは分かってるさ。だから、俺は、形として、それを手に入れたいって思ったんだ」

「形ね・・・・・・」

「そう形として。結婚しても、色々な所に連れていくし、美味しいものだって食べて、体験だってすればいい」

「そうしてくれる?」

 千晶の顔がようやく明るくなってきた。

「ああ」

「お金かかるわよ。ちゃんと稼いできてよ」

 千晶が悪戯っぽく微笑んだ。

「もう、すぐにお金のことをいう」

 結局、私の方が折れた。だって、これから眞人君の家に行くのに、二人していがみ合っていたら、お父さんやお母さんどう思うかな。はぁっ。緊張と溜息が混じり合った。これから先、思いやられる感じがした。

 目の前に昭和ながらの瓦屋根の家が見えてきた。

「ここだよ」

 俺は、彼女の手を握った。

「入るか?」

「うん」

 彼女が俺の手を握り絞めてきた。

「そのために来たんですもの」

 私だって、覚悟はしてきたわよ。眞人君と結婚したい。だから、頑張るしかない。





「いらっしゃい」

 チャイムを鳴らすと、母親と父親が玄関先まで出て来て、俺たちのことを迎え入れてくれた。

「早く入って。今日はお寿司を取ったから」

 挨拶も程々ほどに、俺たちは半ば強引に居間まで連れて行かれた。中に入ると、香ばしい匂いが鼻腔を擽り、俺の胃を刺激してくる。テーブルに乗りきらない程の料理が並べられ、それを見た俺たちは圧倒された。

「凄いじゃないか。おおご馳走だ」

「当たり前じゃないか。お前が婚約者を連れてくるっていうんだから。
こっちはどんな彼女を連れてくるんだろうと思って、楽しみに待っていたら、こんな可愛らしい彼女を連れてきたんだ」

 親父のこんな笑顔を、初めて見たような気がする。

「加納千晶と申します。栄で、川本病院の医療事務をやっています」

「こんなにいい子を家に連れてきてくれて。さ、さあそんな所に立ってないで、座ってお食事にしましょうよ」

 母親も、嬉しそうだった。



 寿司で持て成してくれた。それだけではない。ビールを酌み交わし、世間話から始まり、お互いの家族のこと、それから俺たちがどのように出会い、今に至るのかなどを話した。
 次々に出される料理を平らげていく。千晶がお腹を押さえているにも限らず、豪華なデザートまで出してきた。コーヒーとショートケーキ。こうなってくると一種の拷問なのではないかとさえ思えてくる。

 挙句の果てに、親父が盆栽に興味を持ったことを話し始めた。そして、昔から花に興味を持っていた母親は、庭に綺麗にガーデニングをしているのだが、その隙間を、親父の新しい趣味の盆栽が、徐々に進出してきて、自分のテリトリーが侵され始めたことを、笑いながら話していた。 
 今ではこの庭のスペースを取り合っていることを、お互いが笑顔を浮かべながら語っているのを見ると、満更でもなさそうで、幸せなんだな、と思った。

 両親に千晶のこと、結婚を前提とした付き合いを報告すると、この場にいる全員が喜んだ。俺は恥ずかしさを押し殺すのに必死だったが、悪い気はしない。
 皆が笑顔。まさに幸せの一時だったように思える。心の底から喜べた。それがいいことに千晶もこの家に入る前の少し緊張で暗かった顔も、今では彼女らしい、弾けるような笑顔を見せるようになっていた。打ち解けたようだ。それを見て、俺は安心した。

 ここに連れてきてよかったんだ、とつくづく思える。千晶が結婚に繋がる道を一つ乗り越えた。そう思った。次は、俺の番だ。





「もうこんな時間」

 バラエティーの番組が終わっていた。ふと、母親が柱に吊るした時計に、目をやると九時を過ぎていた。

「そろそろ帰ろうか」

 テレビは、また新しい番組に変わっていく。そんな時に、俺は千晶に言った。

「ええ」

 母親と父親の顔に影が広がった。楽しい時間もやがて終わりを向えようとしていた。もう少し、俺たちを引き留めたい、そんな顔だった。

「一度、千晶さんの家族とも、食事を共にしたいわね」

「そうですね。今度親に訊いておきます」

 ハキハキと答える千晶。俺の自慢の彼女。この先、いつまでも手放したくないから、俺は結婚を決めたんだ。俺のこの決断に間違いはない。 

「先ずは、眞人君がうちにきてからね」

 少しだけ、ほっとできたような気がする。これで第一関門を突破することができた。

「眞人、まだ千晶さんの所には行ってなかったのか?」

 親父が申し訳なさそうに言った。

「千晶が、先ずはうちからって、いうから」

「先ずは、そちら様からいくべきだったのよ・・・・・・」

 母親が言った。

「いいんですよ。うちは。それに家族も眞人君の方から先に行きなさいって、言ってましたから」

 千晶がお辞儀をした。

「今日は本当に有難うございました。これからも宜しくお願いします」

「また、いつでも来なさい。こっちはいつでもウエルカムなんだから」

「はい。では、また」





 いい嫁になるな、そう思った。俺には勿体ないほどの女性だ。

 本当は、女性側の実家から挨拶にいくのが筋なのだろう。しかし、俺は結局のところ、面倒なことを後回しにし、いや、逃げているだけなのかもしれない・・・・・。逃げてばかりいると、楽しいこと、それは得てして、長くは続かないものなのかもしれない。

 ふと、そんなことを思うと、何となく寒気を感じた。



「―ね、」

「は?」

「さっきから喋っていたんですけど。一人何か考えていて、ちっとも私の話しを訊いてなかったんだから」

 千晶の怒った顔も魅力的だった。

「ごめん。少し考え事してたから。何?」

「やっぱ訊いてなかったんだ。あのね、ようやく一つクリアーしたな、って言ったのよ。私たちの結婚話し」

「ああ。でもうちのは全然気にすることないから、ああいううちだから」

「そう言うけど、私かなり緊張してたんだからね。私のこと悪く見られたりしたら、どうしようかって。大丈夫だったかな」

「見られるわけないよ。千晶だよ。俺自信持って紹介できたもん。それより、今度は俺の番だ。来月にでも、千晶の家に行き、ちゃんとご両親に挨拶するからね」

「うちこそ大丈夫だよ。ちゃんと眞人君のいいところを伝えているし、お母さんなんか、早く見たいなって言ってるもん」

「やっぱ、最初は千晶の家から行くべきだったんだ」

「いいって、お母さんが眞人君の方からいってらっしゃい、って言ってたんだから」

「じゃ、お父さんは?」

「お、お父さん?」

 千晶の目が泳いだ。



「やっぱり・・・・・・・」

「だって、お父さんは、いつもお母さんの言うことを訊いてくれるから・・・・・・」

「ああ、もう」

「いいのよ。うちは後からで」

 千晶が笑顔を浮かべ、俺の腕を組んできた。

「急がなくていいよ。ゆっくり進めばいいの。だって、なるようになる。それに、急ぐと、ろくなことにならないから」



 それだけでいいよ。眞人君が気にしていてくれただけで。ここに来て良かったって、本当に思う。だって、素晴らしい家族だっていうことがわかったもの。
 だから、私の目に狂いはなかったのよ。どんなにカッコよくて、優しくて、いい男でも、親を見ればすぐにわかる。
 そう私の父親は言っていた。そうだと思う。眞人君の親は、あんなにも優しくて、お互いのことを分かり合っている、いい夫婦だった。だから私たちも、あんな風に、いつまでも仲良く暮らせるわ、きっと。











 ― 風が舞った。黒い物体が動いた。

 黒い車が、物凄い勢いで駅に向かって走ってくる。

 最初は音も立てずに。まるでジャングルの中、黒ヒョウが獲物を追い詰めていくように。
 忍び寄る危険。危険というものは、得てして、そういうものなのかもしれない。最初は何も気づかないものだ。





 自分でもなぜかは分からなかったが、俺は急いでいた。急いで駅に向かっていた。

「眞人君、そんなに急がないで。何をそんなに急いでるの」

「時間は待ってはくれない。さ、早く、電車に乗り遅れるから」

「別にいいじゃない。電車は十分単位でくるんだから、乗り過ごしても、次乗ればいいわ。急ぐ必要なんかないよ。もう相変わらず忙しない人なんだから」

 まさに幸せの絶頂だった。これ以上にないくらいに。千晶は慌てて付いていく。口ではああは言ったが、やはり引っ張って行ってくれる男の方がいい。もじもじしている男なんかは、頼りないし、時間を無駄にしている気もするー。



「相変わらず、千晶は、のんびりしてるというか、ま、いいや」

それでも俺は急ぐ足を止めることなく、先を急いだ。千晶が遅れ始める。彼女は速足でついてくる。

「もう、待ってよ」

その様が愛おしくて、俺は頬を緩めながら、横断歩道を渡る。

 前方にまごついている老婆の姿を見た。俺はその背中を避け、速足で抜いていく。夜も遅いのに、老婆がこんな所を一人だけで、そう思ったが、そのまま前へと進んでいった。何処かで見たような、そんな老婆だったような気がした。ま、もっともあれくらいの年齢になってくると、大体あんな感じだ。ちょっと腰が曲がり、足元も覚束ない。

「早くこいよ」

 俺が振り返って、千晶に手を振る。千晶に目を奪われ、前を見ていなかった。それくらいに俺の中では、千晶が大きな存在になっていた。

 千晶のその笑顔、いつまでも見ていたい。彼女が悲しむ顔なんか見たくはない。だから、いつまでも笑っていてほしい、そう願う。ああ、もうすぐ俺たちは一緒になれるんだ。
 朝起きれば、隣に千晶がいる。そして、一緒に朝ご飯を食べ、俺のことを会社に送り出してくれる。そして、会社から帰ってこれば、俺は風呂に入り、その間に千晶は夕飯の支度をする。そして、美味しい夕ご飯で持て成してくれる。そして、そして・・・。
  
 まだ、実感がわいてこない。でもいずれはそうなるんだ。俺たちの明るい未来。どんなものが待っているんだろう。例え難しい難題が俺たちに降りかかってこようと、俺と千晶の二人の力で、何とか乗り越えていけるに違いない。

 他のものなど目に入らなかったー。

 やがて状況が変化していくのを感じた。な、なんだ? 何が起こるんだ? 

 近くで悲鳴が起きた。誰の悲鳴かもわからなかった。こんな時間帯に悲鳴を聞くことで、俺はパニックになり、身体が硬直して、動けなかった。



 その時には遅かったのだ。大きな音でハッとした。気づいた。だが、近くに、猛然と襲い掛かってくるその黒い物体に、俺は、何もできずに、体を震わせていることしかできなかった。

 目の前で起きようとする出来事が信じられなかった。

 あまりの恐怖に金縛りに合ったかのように、身体を動かすことも出来なかった。

 後ろから猛スピードで、不可解な運転の乗用車、黒のクラウンが突っ込んでくる。横断歩道を渡り切ろうとする俺の目の前に。
 足が竦み、動けない俺が突っ立っているガードレールの前に向かって、ブレーキを掛けることなく、スピードを緩めずに向かってくるー。
  
 なぜだ? 何でこんな所でスピードを緩めることなく、突っ込んでくるんだ? 


 パァァァァ~ン!


「キヤァァァアッー」
 
 ようやくわかった。悲鳴の主が千晶であることに。

 クラクションの大きな音で、我が身に迫る恐怖が近づくのを知った。

 どうしようもなかった。何もできなかった。自分の小ささを呪ってみても、どうにもならない。

 近づく物体。差し迫る凶器―。物凄い風、物凄い音が近づいてくるー。

 嘘だろ。輝く俺のこの先の未来。それが暗い闇に葬りさろうとされている。目の前に押し迫って来る黒い物体に、俺は、俺は、パニックになった。

 何も出来なかった。人間、真近に迫る恐怖を目の当たりにすると、委縮するばかりで、動くこともできないのだな、そんな風に、この逼迫した状況下、考えるようになっていた。

 俺は目を瞑った。それしかー・・・・・・。出来なかったー。

             
 パアァァ~ン!





 千晶は、動けなかった。

 手を伸ばせば、届く所に彼はいる。なのに、私は指を(くわ)銜えて立っているだけだった。
 いつだってそうだった。私は、自分からは、何もできなかったし、動けなかった。
 いつも、眞人君が私を突き動かせてくれたよね。動けない私の背中をそっと押してくれた。でも、何で!

 これは、一体どういうこと? 大事な人が目の前で亡くなっていくのを目の当たりにし、声が、声が出なくなってしまった。どうしたらいいのかも分からないー。 

 ―もう少しで幸せが手に入る所だった・・・・・・。

 なのに、こんなのってあり、私の目の前で、愛する人が亡くなるなんて。これ以上の悲しみなんてないわ。千晶は肩を震わせ、その現場まで行くことができず、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 周りに人が集まってきた。そして、救急車や警察を呼んでくれたりした。ようやく周辺にいる人たちを掻き分け、彼の基へいった。

 彼は頭から血を流し、目を瞑っていた。あまりのショックでパニックてしまった。自分でも訳わからずに叫んでいたかに思う。一体、何を叫んでいたのかもわからない。だって、今まで幸せの絶頂にいたのだから。それが今、いきなり奈落の底に突き落とされてしまったのだー。

 それでも千晶は、後頭部から血を流し、倒れている彼を抱き締めていた。自分の白いブラウスが、彼の真っ赤な血で染まってしまっても、それでも彼を抱き締めていた。誰にも渡したくない。他の誰をも、彼には触れさせなかった。だって、この人は、この人は、私の、私だけのものなのよ。だから、他の誰をも触らせたくないの・・・・・・。

「せっかく、お父さんやお母さんに認められたのに・・・・・・。どうして、どうして!」

 千晶は叫んでいた。

「返してよ、返してよ、私の眞人君を! お願い、返して!」

 泣きながら、何度も、何度も千晶は叫んでいた。

「私は、これから、どうやって生きていけば、いいのー」

 周辺にいた人、それから警官や救命士の人でさえ、彼らの近くにはいけなかった。

 狂気じみ、泣き叫び、倒れた青年を、抱き締めている女を、誰も、何もしてやれなかったし、できなかった。 

「眞人君! 眞人君! お願い、目を開けてよ。お、お願いだから。いっちゃ、だめぇぇぇぇぇっ!」





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