時空の歪み

中野拳太郎

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   二、

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  俺は、とぼとぼと歩き、さっきまでの余韻に浸りながら、家に帰っていった。
  だが、自分のアパートが近づくにつれ、なんか、余所の家に向かうかのように、落ち着きがないのを感じる。
  これは一種の贖罪の気持ちがあるのであろうか。俺も、違う女と食事をした。やっていることは、由梨と同じことなのかもしれない。そんなことを考えながら、俺は、九時過ぎに帰宅をした。

  玄関の前で立ち止まる。何となくそうしたかった。いつもならすぐにチャイムを鳴らすのだが。自分が他の女性とご飯を共にしたからなのか、それとも・・・・・・。



「うん、うん。そう思うわ。違う・・・・・・。そうじゃないよ」

 由梨の声が聞こえてきた。電話か何かだろう。時折笑い声も聞こえ、何やら楽しそうだった。

「タカトシ・・・・・・」

 男? 俺は、チャイムを鳴らすことなく、ドアの鍵を解除し、中に入っていった。



「ま、まさと・・・・・」

 由梨の驚愕にも似た顔。

  左手で持ったスマホを耳に当て、口を開けたまま俺の顔を見ていた。
  さっきまでの贖罪の気分が一気に消え失せ、自分が優位に立ったかのように、怒りの顔を浮かべ、勢いよく、部屋の中に入っていった。

「おい、由梨、どうしたー?」

 受話器越しから間の抜けた、笑い声の混じった男の声が聞こえてきた。再びあの時の象さんが脳裏に甦ってきた。怒りが込み上げてきた。しばらくは由梨を睨みつけていた。その怒りに任せ、殴りつけてやろうかと思ったほどだ。
  でも、そうはしなかった。そんなことをすれば、さっきまで一緒にいた千晶が受けたことと同じになってしまう。それだけは、絶対にあってはならない。

 由梨は、そんな俺の形相に慄き、スマホを落してしまった。初めて見せるその俺の形相に。

「まだ、続いていたんだな」

 やがて、俺は、肩を落し、力のない声で言った。もうどうでもいいと思った。そして、これで、この一件で、由梨に対し、俺の中には、感情の欠片も残っていないことを知った。
 もう終わりだ。あれだけ言っていたのに、本人も、もう会わない、と言っていたのに。こいつは俺のことを裏切った。

「お前、あの夜、もう、二度とその男と連絡をしない、って泣いて謝ったよな。それなのに、またー どういうことだよ、どういうことなんだ!」

 心の何処かで、加納千晶の顔が浮かんでいたことはある。でも、俺の中にある怒りはまだ、胸の中で存在していた。だから、だからー。

「出ていけ! もうお前の顔を見たくない」

 俺は、怒りに任せ怒鳴りつけていた。もう限界だった。お互い信じられるから、一緒に暮らしていたはずだ。でも、こんなの・・・・・・。
 まったく。信じられないじゃないか。こいつは、俺を騙していたのだ。赦せるはずがない。俺の心が揺れていた。
  それを自分でもわかっていた。でも、本当に、それだけか?
 もしかしたら、俺の気持ちは、もうここにはなく、加納千晶にあるんじゃないのか。むしろ、丁度いい理由ができた、とでも思っているのかもしれない・・・・・・。
  荒れ狂った怒りの心と、意外にも冷めた感のある冷静な心が、俺の中で競作していた。どうなるんだろう。この先・・・・・・。




「何処に行けばいいのよ」

 由梨は、開き直り気味に言った。もう、終わりよね。こんなところを聞かれたんだから。

 何で、やめられなかったんだろう。昔から難しい問題には背を向けていた。そうすればいつだって、親が優しくて、何とか回避させてくれたし、守ってもくれた。
  だから私は、何もしなくてよくなっちゃったんだ。厳しい現実も知らず、今まで生きてきた。今になるまで、どうしようもなくなるまで、そのことに気づかずに生きてきたんだ。

 時間とタイミングって、ほんとやっかいなものね。

  あの日、ほんというと、私はあいつと別れることにしてたんだ。でも、自分の弱い気持ちが頭を出した。
  そして、一緒にお酒を飲み、寛いだ。ただ、それだけだよ。ホテルには、行かなかった。こんなこと自慢することじゃないけど、でも、私は、ブレーキをかけたつもりだった。馬鹿だよね。食事だって、止めとけばよかったのに。
  いつもそうだ。あいつと会う前には、もう駄目よ。手を切るんだ、と思っていくんだけど、実際あの軽い表情で来られると、すぐに心を許して、笑いながら話しをするようになる。
  私みたいな女は、眞人とは合わないし、お互いにとっていいことないわね。



「男の家にでも、いけばいいじゃないか」

「男は、実家で暮らしているのよ」

「じゃあ、お前も実家に帰るんだな」

「そんなこと、できるわけ・・・・」

 それしかないのかもしれない。もう、我がままをいっている分際ではないのだから。

「俺の知ったことじゃない。もう終わりだよ。これからの俺の人生、どれ程の道のりがあるか分からないが、金輪際、もう、お前とは進みたくないんだ。顔も見たくない。だから・・・・・・」

 この後は、自分で行動してくれ。これ以上俺に言わせないでくれ。心の中で叫んでいた。





「わかった。もう、顔も見たくないんだよね。だったら、残った荷物は、送ってくれればいいから。身の回りが整理できたら、メールする」

 由梨は言った。

「あの時。二週間前の夜は、有難う。私、本当に嬉しかった。今頃そんなこといっても、信じてくれないかもしれないけど、私、ほんと嬉しかったんだよ。
 私が、あんなことをして、部屋を追い出されるのはわかっていたけど、実際外に出て、行く宛てもなく、寒さに震え、途方に暮れていたら、あなたが迎えに来てくれた。こんな悪いことをしたのにね」

 何の返事もなかった。当たり前だ。もう、本当に、駄目なんだ・・・・・・。

「あなたは、眞人は本当に優しかった。私は、そんなあなたにいつも、甘えているだけだった。だから、また、同じことを繰り返してしまったんだわ。 
  きっと、私という女は病気なのよ・・・・・・。行くねー。今まで、本当に有難う」

 由梨は、力の限り笑顔を浮かべ、言った。

涙は流れていた。でも、終わる時には、笑っていたい、そう思っていたから、だから私は、悲しいんだけど、笑うことにしたんだよ。
 じゃあね。元気でー。








  俺は、しばらく放心状態のまま、カーペットの上で、スーツを着たまま寝そべっていた。しばらくは動けなさそうだった。今までの疲れがどっと出てきた。

「今、由梨と別れたんだ・・・・・・。そして、出ていってもらった」

 だが、気づくと鴨川に電話をかけていた。

「もしかして、こないだの電話、お前、由梨が浮気をしている、ということを、俺にいいたかったんじゃないのか?」

「まあな。あの時、時間もなかったし・・・・・・」

「ああ。確かに、急いでいたよな。でも、もっと、心に余裕を持たせていれば、お前の忠告も聞けたのにな」

「気づいたんだな」

「ああ」

「でも、お前にちゃんと忠告をしておくべきだったんだ。ごめん」

 もう寝ていたのか、声のトーンがいつもと違い、低く、しきりに堰をしていた。

「しょうがないさ。お前が謝ることではない。でも、どうして分かったんだ?」

「理恵に訊いたんだよ。最近は疎遠だったらしいんだけど、あいつら、やっぱ友達だから、そうゆう肝心な所では繋がってんだよ」

 だんだん目が覚めたのか、いつものトーンが戻ってきた。

「ふ~ん、そうか」

「呑みにいくか? それともお前ん家で呑むか?」

 不要な前置きなんかはいらない。それが、親友なんだ。

「ああ。でも、お前、寝てたんじゃないのか?」

「何言ってんだ。まだ十時前だぜ。ちょっとウトウトしてただけだ。で、どっちだ?」

「どっちって?」

「だから、部屋で呑むのか、外で呑むのか、だよ」

「ああ。家から出るの、めんどくせぇな」

「そっか。分かったよ。じゃ、俺がコンビニで調達してくっから、金は後からもらうぞ」

「ああ。頼むよ。悪いな」

「気にすんな。俺も嫌じゃなければ、いかねぇよ。じゃ、待ってろ。すぐに行くから。久しぶりに泊まらせてくれよ」

「ああ」

「珍しく、弱気なんだな」

「そういう時だって、あるんだよ」

 本当は、気が晴れていた。





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