今までの人生の中で、1日だけ戻れるとしたら

中野拳太郎

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第五章 結婚

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 彼是、洗面所の前で三十分は自分の顔を見ていた。
 髭の剃り残しはないか、ヘアースタイルに問題はないか。

 今日は運がいいこともあり、外は快晴で、それはちゃんと整っていた。
 浩一郎の髪の毛は癖毛ということもあり、湿気が多いと纏まらない。

 時計をはめ、財布に、携帯電話に、それから煙草をショルダーバックの中に入れた。
 その中には筆記用具も入っている。これは街の中で思ったことや景色、通行人の様子などを書き留めておくものだ。

 浩一郎は、一人で旅をするようになって、作家になることを夢見るようになっていた。
 昔から口下手で、自分の思いを相手に伝えることが苦手だったが、頭の中で物事を考え、組み立て、それを文章にすることで、意思表示がスムーズになることを見出した。
 それはまったく苦にもならず、むしろ自分の気持ちが止めどとなく出てくることを知った。

 その日はいつもより念入りに準備をした。何となく、予感めいたものがあった。
 具体的に何と、訊かれても困るが、何となく、だ。そろそろ家を出ないことには、待ち合わせ時間に遅れることになってしまう。時間を確認し、家を出た。

 名古屋駅までは家から三十分で着く。その間に色々なことを考えた。これからのことを。

 彼女とはいい関係を築くことができている。お互いいい年齢だ。芸能人がよく口にする、初めて会った時からピーンときた、まさにそんな感じだった。
 彼女と付き合うようになり、しばらくすると将来像が描けるようになった。それは一つの部屋で、二人が炬燵の中に足を入れ、ミカンを食べながら、TVを見ている画が脳裏を過ったのだ。こんなことは今までになかった。
 彼女は二つ年上だが、まったくそんな印象はなく、子供のように笑い、夢を持ち、それに様々なことに感動する正直な女性だ。浩一郎はそこに惚れたのだ。

 それに、自分の描いた下手糞な小説。それを何人かの友人に読んでもらっていたが、皆が社交辞令で褒めるだけだった。それでも彼女だけは違った。
 ごめんね、私正直だから。文章がまったくなってない。はっきり言わせてもらうと、くどいし、ストーリーにしても有り得ないことが多い。ま、趣味としてやるならいいんじゃない。

 ガツーンと後頭部を殴られたような気がした。こんなことを言われたのは、初めてだった。普通だったら怒って、その時点で別れていたかもしれない。  
 でも、それより他の人と違う魅力を感じたのは正直あった。もしかしたら彼女といると、今まで自分が見たことのない違う世界が見られるのではないか、という期待感の方が大きかった。

 その日は暑い日だった。少し歩いただけで、玉のような汗が出た。それがTシャツにじわじわと滲んでいく。なるべく汗が出ないようにゆっくりと歩いていくが、油断すると、どっと出てくるので質が悪い。

 名駅に着いた。強烈な日差しが、アスファルトを照らし、道路が歪んで見えた。それでも一旦外に出て、灰皿の所に行き、そこで煙草を吸った。暑くても煙草は吸いたい。一服すると、落ち着いてきた。

 今日は土曜日だ。周りに視線を送ると、学生服を着た高校生たち、スーツ姿のサラリーマン、浩一郎のようにこれからデートにでも行くような、ちょっと力の入った男、それから肩を寄せ合う仲の良いカップル。

 彼らは一体今からどのような一日を過ごすのだろう、なんて煙草を吸いながら人物描写をしていると、つくづく今日は休みなんだなと実感し、それで癒される。
 休日が本当に有り難い、と思える。このように一緒に過ごしてくれる彼女がいるだけでも幸せだ。

 まるで時間が止まったかのように、無風であった。

 しかし、アスファルトからはジリジリと灼熱の炎を受け止めた熱を、熱風に変え、それを徐々に上へと送り返している。
 額に汗が滲むことで、時間は止まっていないんだ、ということを知る。

「ごめん!」
 地下鉄出口から彼女が急いでやってきた。
「待った?」

 彼女の名は中田ルリ子。三十歳。
 身長が高く、浩一郎の目の辺りくらいまであり、そして手と足も長く、透き通るような色白な女性だ。目はやや細いが真面目そうな顔をしている。細いわりに、よくゴミが入るんだよ、と笑いながら言っていた。

「うん、ちょっとね」

「ごめんね。寝不足で、支度に時間かかっちゃったの。それより、何考えてたの?」
 ルリ子はニコリとした。
「遠くの方見てたから」

「ルリ子と出会って一年半以上が経つなって・・・」

 ルリ子との出会いはアメリカだ。
 といっても劇的な出会いではない。
 偶然が重なり、それが必然へと変わっていったのだろう。
 確かにインパクトは、異国の地で出会ったのだから大きい。
 浩一郎は二年前の年末、休みを利用して、バック一つで放浪の旅をするバックパッカーとしてアメリカのロサンゼルスにいた。
 一方、ルリ子の方は友人と二人でのパック旅行で、同じホテルのカワダホテルに泊まっていたのだ。
 浩一郎は、受付クラークのルぺというメキシコ系のアメリカ人女性と仲良くなり、その日の昼に喋っていた。
 この街のいい所、観光スポットなどを訊き、それから行ってはならない危険な場所などを教えてもらっていたのだ。

 その時に、二人の日本人が受付にやってきた。一人は背が高く、しっかりとした印象の子。それに清潔感のある子だな、と思った。こっちがルリ子だ。
 もう一人は背が低く、おとなしそうな、それでいて印象の薄い子だった。
 その二人はクラークのルぺに用事があるようで、浩一郎は少し離れて、彼女たちの様子を見ていた。
 手振り、身振りでルぺに何やら説明をしていたが、まったく伝わっていなかった。
 英語が苦手なのか、何を言っていいのか分からず、しまいには二人共焦り始めてしまった。

 そこで浩一郎は良い所を見せようと、先ずは二人から事情を訊いた。
 彼女たちはこのホテルに着き、ガイドとも別れ、そこでトラブルが起きたようだ。
 その事情というのが、小さなことで、単に部屋のトイレの水が流れにくい、とのことだ。
 日本のトイレの性能は良く、世界の中でもトップクラスだ。だから海外旅行で困るのが、トイレのトラブルが多いことである。
 彼女たちはその事情よりも、自分の意思が相手に伝わらないことの方が、このような焦りを生んだのだろう。

 浩一郎は、クラークのルぺに、彼女たちの事情を説明してやると、横にいた彼女たちの顔がほっとしていくのが分かった。
 クラークのルぺは、早速業者に連絡を取り、トイレのメンテナンスに向かわせる手筈を整えた。
 彼女たちは何度も礼を言い、しきりに英語ができる人はいいな、それから一人で旅をするなんて、すごい、と言っていた。
 浩一郎は謙遜して、部屋へ戻りかけた。そして、別れ際に自分の部屋番号を伝え、
「もし困ったことがあれば、いつでも相談に乗るよ」
 と言った。

 エレベーターの所で、受付の方を振り返ってみると、彼女はずっとこっちを見ており、目が合うと会釈をしてきたので、会釈を返した。

 なんかいいな、見送られるのは。そう思った。
 一人で旅をしていると、見送られることなどなかった。
 最後までカッコつけようとしていたが、エレベーターのボタンを押した時だ。
 バチッと静電気が走った。浩一郎は思いの外、肩をピクリと跳ね上げ、驚いてしまった。
 カルフォルニア州は雨が少なく、余所の州から水を供給していることもあり、そこは大変乾燥しており、すぐに静電気を起こすのだ。
 さっきのその動作が恥ずかしく、後ろの彼女たちに見られてないか、また振り返って確認した。
 案の定、彼女はそれを見ていたようで、微笑んでいた。
 浩一郎は頭を掻きながら、やって来たエレベーターの箱の中にいそいそと入っていった。このようなことを気にするのも久しぶりに思えた。一人で旅をしていれば、少々の恥など気にならなかったのだから。

 その夜。早速部屋のノックがあった。
 誰かと思い、慎重にドアを開けると、二人の女が立っていた。
 昼間の子だ。大体話しかけてくるのはルリ子の方だった。
 もう一人の子は後ろで、もぞもぞとしているだけの控えめな子だった。

「夕食を摂りたいんだけど・・」
 ルリ子は不安そうに言った。
「この辺り、とっても真っ暗で、店も頑丈な鉄格子なんかで閉まってるでしょ。雰囲気が怖くて、どうしようかと思って・・」

「あ、俺も丁度夕食まだだし、それじゃ案内しようか?」

「もし、迷惑でなければ・・」

「全然。でも、レストランとかじゃなく、テイクアウトだけど、いい?」

「明子、それでもいい?」
 ルリ子は、友達に訊いた。

 友達もそれに同意した。

「いいよ。全然」

「ヒスパニック系がやってるタコスの屋台が、ここから歩いて七分くらいの所にあるんだ。そこでいい?」

「うん。いいけど、ヒスパニック系って?」
 友達も初めて自分から会話に参加してきた。

「ここLAに沢山いる中南米系の人種だよ。今じゃ白人をも恐れさせる程の勢力を持っているんだ。
 もしかしたら、この辺りでは白人の数よりも多いかもしれないね。不法滞在者もいるから、気を付けた方がいいよ」
 
 その二日後。
 また偶然が天から降ってきた。
 その日も天気が良く、乾燥していた。それでも観光する時には雨の心配もなく、傘が不要のため荷物が少なくて済む。
 浩一郎は、その日はアメリカでも有数の金持ちや著名人が暮らしているビバリーヒルズの街を散策していた。
 その時に、カワダホテルにいた時と違い、少しめかし込んでいるルリ子と友人を見かけた。
 浩一郎は道路を渡り、弾む気持ちを抑え、彼女らに近づいていくと、途中で彼女らも気づいた。

「あっ、偶然。しかもこんな所で」
 ルリ子は微笑みながら言った。

 できれば、帰国しても、また会いたいな、そう思った。友達も何か喋っていたが、その時は耳に入らなかった。

「ここまでは何できたの?」

「俺はバスだけど」

「すごーい。よくここまで来れたね?」

「うん。まあ、いろんな人に尋ねながらだけどね。意外とアメリカの街は区画毎に整理されていて、ほら、道が真っ直ぐだから日本よりは分かり易いかも」

「さすが」
 ルリ子は、浩一郎を見ながら言った。
「安いでしょ、バスって」

「うん。庶民の足だからね」

「そうだね。で、ここには、何時までいるの?」

「もうそろそろ帰ろうかと思ってるんだ」

「そうなんだ。実は私たちも帰ろうかと思ってるんだけど、良かったら、また案内してくれない。なんか面白そうだし。あ、迷惑?」

「いや、全然」

 そして、三人は途中、スタバでコーヒーを飲みながら、バスでホテルへ帰っていった。
 その途中、彼女が名古屋出身であることを知り、早速携帯電話の番号を交換し合った。

 この旅は本当に楽しかった。
 今までは一人で、旅を続けてきたが、今回はこのように一緒に街を散策することができたし、男の目でしか知らなかったロスの街を、女の目で知ることもできた。

 途中雑貨屋があれば、そこで立ち止まり、一緒にあれはかわいいとか、言いながら店内を見て廻っていると、デートでもしているかのような錯覚に陥り、楽しかった。
 男一人では、こんな店には入らず、ただ外から覗くくらいだっただろう。

 雑貨にしても、よく見ると馬鹿にはできない。いくら小さなものでも、ちゃんとそこには命が吹きかけられているのだ。全てが違い、同じものなど一つもないのだから。
 人間、自由でいることへの憧れはあるが、いざその自由に浸り続けていると、やがて居心地が悪くなり、その自由でいることへの暴走を止めてほしい時がくる。

 一人旅での一番の恐怖は孤独だ。誰も自分の行動には何も言わず、困った時にも助けてもらえず、ましてや励ましてくれる人もいない。
 そう実感するのがホテルの自分の部屋に帰り、ベッドに一人でいる時だ。
 夜は孤独な人間にはとてもやっかいで、恐ろしいものである。だから人恋しくなるのが、その暗闇の中にいる長い夜の時だった。

 帰国し、最初に電話を掛けたのが浩一郎であった。
 すぐに電話を掛けるのはどうかと思い、一週間程我慢し、それから電話を掛けた。
 その一週間は随分とやきもきとし、長い、長い一週間で、仕事も身が入らなかったほどだ。それから、三回目の電話でついに会う約束を取り付けることに成功した。
 出会いというのは偶然が重なり、それがいつしか必然へと変わっていくものなのだな、そう思った。

「私と出会って、良かった?」

「勿論」

「本当?」

「本当」

「良かった。それより、映画の時間まで、まだ間があるよね」

「ああ」

「お茶でもしようか、それまでは」

「そうしよう。何処にする?」

「こっち、こっち」

 都会に住む彼女、ルリ子は田舎に住む浩一郎よりも道、店もよく知っているので、それに従うしかない。

「映画まであと一時間くらいでしょ、だからあまり遠くまでは行けないし、正味四十分くらいしか中にいれないよね。だから、そのへんのことを考えて、ここでいい」

 二人が入った所はカフェドクリエ。コーヒーのファーストフード店だ。座席も空いていたし、値段も手頃だ。文句はない。
 ルリ子がカフェラテを注文し、浩一郎がブレンドを、それを手にし、二人は奥の席に行き、そこに腰かけた。

「お盆休みは八月十一日土曜日から十九日の日曜日まで?」
 椅子に座るなり、浩一郎は訊いた。

「うん。でもね、途中の十六、十七日は出勤なの。もう、やんなっちゃう」

「頑張って下さい。その間しっかりと休んでいますから」

「ずる~い」
 ルリ子は口を尖らせた。
「もう、私が一生懸命働いている時に、のんびりしてるなんて、考えられない」

「俺は働いてもいいんだけど、会社の方が休んでくれっていうんだ」

「もう」
 ルリ子はまだ怒り顔だ。
「それより浩一郎、海とプールに行きたいって言ってたけど、私、色が白いから日に焼けるのはね、ちょっと・・」

「お願い」
 浩一郎は両手を顔の前で合わせ、懇談した。

「もう、しょうがないな。こうゆう時困るんだよな、年上って」
 ルリ子はカフェラテを美味しそうに飲みながら、微笑んだ。笑顔が弾けるって、このことをいうんだ、かわいいな、そう思った。

「さ、そろそろ行こう」
 浩一郎が急かした。
「もうすぐ映画が始まる時間だ。早く行かないといい席が取れないから」

「まだ入ったばかりじゃない」

「もう三十分は経ってるって」

「もう少し大丈夫だよ」

 他愛もない話を続け、しばらくして二人は店を出て、大通りに出た。

「暑いね」

「うん。このまま溶けちゃいそう」
 ルリ子は言った。
「私ね、あまりにも暑いと、気を失うから。それでね、強制終了させられちゃうんだ、きっと。だからちゃんと見ててね」

「ほんとかよ」

「ほんと、ほんと」
 ルリ子が浩一郎の手を取り、歩く。
「夏は虫が出るわ、紫外線はきついわで、いいことないんだから」

「そんなことないよ。日が長いし、夏祭りや花火といったイベントが盛り沢山で、それに海がある」
「ごめん。私は冬がいい。イベントという点からもね。気が合わないね」

「ま、冬も捨てがたいけどね」
 どうしても彼女のペースになってしまう。それでも悪い気はしないのだから不思議だ。
 映画館にやってくると沢山の人でごった返していた。二人は映画のチケットを購入し、館内の扉が開くのを列に並んで待った。

 時間が経つうちに、さっきまでよく喋っていたルリ子の口数が減ってきているのに気がついた。
 これが列に並ぶ人が多くて、時間が思いの外かかっているためなのか、分からなかったが。

「ね、どうしたの?」

「え、別に」
 ルリ子は浩一郎を見た。
「ちょっと考え事してたの」

「どんな?」
 しばしの間、沈黙が落ちた。

 行列に並ぶ人たちはザワザワと騒がしかったが、二人の間は静かだった。

「浩一郎とこうやってデートするの、楽しいよ。でも、それだけで済んでしまう程私若くはないわ。学生じゃないんだし・・」

「え、どうしたの、急に」

 とは言ったものの、予感めいたものはあった。
 男っていうものは、こんなものなのかもしれない。女に核心に迫られると、一度一歩引いてしまうようになる。
「浩一郎、私のこと、どう思っている? ああ、いいの・・」
 ルリ子は俯いた。
「もし、その気が、ないのなら、もう私のこと、こうして誘わないでね」

「え?」
 浩一郎は動揺した。
「何、このディープな雰囲気は」

「ただ、遊んでる時間はないし。それに私、傷つきたくないの。今だったらまだ間に合うと思うし・・。そりゃ、悲しくはなると思うけど。
 このあたりが私の限界だと思うの。もう少し浩一郎と付き合って、思い出を重ね合って、それで別れてしまったら・・。私、立ち直れないと思うの。この先、きっと、廃人になってしまうかも」

 え、え。一体何がどうなったんだ?

 今日は話題の映画を見ること、そして夏休みの計画を立てようとしただけなのに・・。
 頭の中が、パーツが崩れ、混乱を生じてきた。そして消失感にも似た感情が湧いてきた。
 これってもしかしたら、俺の人生の中で大きな選択なんだろうか。ルリ子と一緒になるか、彼女を失うか。
 結婚して所帯を持つか、それとも独身のまま身軽で、自分のやりたいことだけをやるか。

 浩一郎は、いつだって難しい選択を強いられた時には、なるべく判りやすくなるよう二択選択を用いた。
 そして、今回もそれでしばらく考えてみる。無邪気に笑いながら、まるで何の悩みのない人々、そんな行列を見ながら。

 若いカップルが多いな。十代、二十代、三十代そこそこまでのようだった。
 映画が始まる前にトイレに行っておこうと、えらい奇抜な格好をした男の子たち。
 その子たちが大声で喋り合っているので、それを見ているしかめっ面の三十代のカップル。
 それとは反対にニヤニヤしている女の団体客。それらを浩一郎とルリ子は眺めていた。

「ルリ子のことは好きだよ」
 浩一郎は、ルリ子の瞳を見た。綺麗な瞳だった。「いや、愛してる。大事な人だ。だから、これからも一緒にいたい」

「本当に?」
 ルリ子の瞳孔が爛々と輝き出した。

「ああ、こんな所で言うことじゃないかもしれないけど、」
 ルリ子も浩一郎の瞳を見返してきた。

「どうだろう、プールとか海もそうだけど、もっと、そうだな、俺と一緒に海外旅行に行かないか?」

 ルリ子の顔がみるみる明るんでいき、そして、顔が和らいでいった。
 まるで、美味しいものを口の中に含んで、それを咀嚼すると、そこがじわっとその味で、満たされていくのが分かった時のように。

 彼女もかまをかけてみたはいいが、実際は不安もあったかもしれない。その表情が見て取れた。

「それって、もしかしてプロポーズ?」
 ルリ子の顔が高揚した。

「ま、そうなるかな。何か、今日は、こうなるような気がしてたんだ、実は。どうかな?」
 浩一郎の顔もまた薄っすらと赤かった。

 ようやく行列に動きがあったようだ。群衆がぞろぞろと動き出す。映画館の扉が開き、順番に前の列から館内に入り、席に着いていく。
「いいよ」
 嬉しそうにルリ子は返事を返した。
 浩一郎は、暑く、火照ってきたので、夏用の上着を脱いだ。

「ちょっと貸して」

「どうするの?」

「うん。これ、洗濯できるかどうか」
 ルリ子は上着を受け取り、首の後ろにある表示を見た。
「できる。丸洗いオーケーね」

「それも、洗濯してもらうことになるな」
 浩一郎は照れながら言った。
「嬉しい?」

「うん」
 ルリ子は、上着に視線をやりながら言った。
「ね、しっかりとプロポーズしてよ」

「さっき言ったじゃないか」

「あれ?」

「そう。一緒に海外旅行に行こうって」

「そんなのプロポーズじゃないじゃん」

「じゃ、俺の味噌汁を作ってくれ」

「ダサい」

「わかったよ」
 浩一郎は真剣な顔つきをした。
「俺と結婚をしてくれ」

 やがて館内の照明が落とされ、暗くなった。いよいよ映画が始まる。
 浩一郎はそっとルリ子の手を握った。

「お願いします」
 ルリ子もその手を握り返してきた。

 映画が始まっても、二人はしばらく、長い時間手を握り合ったままスクリーンを見ていた。彼女の手が湿り気を帯びてきた。
 私、緊張するとすぐに手に汗をかくんだ、といって
いたのを思い出す。

 映画が終わり、二人は名古屋駅の象徴的となったツインタワーの高島屋に移動し、ファミレスのロイヤルホストで夕食を摂っていた。

「ね、結婚って色々な犠牲を払わなくちゃならないものなのよ」

「犠牲って?」
 浩一郎は首を傾げて、疑問をぶつけた。

「大事なことよ。結婚って。恋愛の延長ってわけにはいかないの。だって他人同士が一緒に暮らし、そして家族になっていくんだから」

「うん。わかるよ。これから大変なことくらい」

「本当に? 今までのように甘チャンじゃいけないのよ。浩一郎の給料って安いじゃない」

「相変わらず、思ったことを正直に・・」

「ごめんなさい。私B型だから」
 ルリ子は続けた。
「でね、小遣いいくらほしい?」

「五万円程・・」

「そんなの、家計が成り立たないよ」

「だったら?」

「ま、二万円」

「え~。少ないよ。煙草だって月に結構かかるし、それに競馬だって・・」

「やめろとはいわないけど、その二万円の範囲内でやって」

「厳しいな」

「それが結婚よ。それともやめる?」

「男に二言はない」
 浩一郎は言った。
「それじゃ、小説を書くということは?」

「どうして辞めないとならないの。いいことじゃない。続けなさいよ。ものにはならないと思うけど・・」
 そう言って、ルリ子は小悪魔のようにクスリと笑った。
「でもね、夢や趣味を持つということはいいことだよ。人生に励みを持つことになると思うし、会社でする仕事の他に、そうやって心の拠り所を持つことができる」

「拠り所? 結構きついこと言うね。ものにならないだとか」

「だって本当だもん」

「ハハハッ」
 浩一郎は苦笑いを浮かべた。

「ウッフフフ」
 ルリ子も笑った。
「それはそうと今日の映画の内容、全然理解できなかったね」

「どうして? じっくり見てたのに」

「スクリーンだけはね。だって浩一郎が、映画の前にあんなこと言うんだもん」

 ルリ子は俯き、顔を真っ赤にした。
「もう、それで頭の中が真っ白になっちゃって・・・」

「実は、俺も」

 ルリ子に惚れたのは、容姿とか清潔的なことばかりではなく、自分にないものを持っているところに惚れたのもある。
 浩一郎はポジティブに、思ったらすぐに動くという行動派だが、ルリ子の方は逆に、頭を使って慎重に行動する理論派だ。
 それと彼女は、のんびり屋な分、それを補うためなのか、時間を読むことに長けている。
 このように別々のタイプが合わさることで、互いがないものをフォローし合い、やがてどんな逆境や苦難でも乗り越えていけることだろうし、お互いが大きくなれる、そう思ったのだ。
 何も正面からまともにぶつかっていくばかりが、芸ではない。
 時には立ち止まることも必要だ。ルリ子と知り合ってそのことを知った。

 結婚とは好きだから一緒にいたい、ではないように思う。同じ趣味を持ち、同じ服を着て、同じ所に行く、恋愛ならそれでいいだろう。

 だが結婚はこの先長いものだ。好き、だけではお互いが成長できないし、やがては尊敬する気持ちも薄れていきかねない。しかし、自分にないものを持っているパートナーであれば、相手を尊敬できるし、それを取り入れてみようとする向上心も湧いてくる。

「ん~。お前と違って愛に真っ直ぐな男だな」
 キケロはテンガロンハットを正面にし、被り直した。

「どういう意味だ?」
 ソファに腰かけていたカエサルは、足を組み直した。

「お前は手当り次第に女を口説いていたじゃないか」

 キケロもカエサルの隣に腰を下ろし、足を組んだ。いちいち相手を見ずしても何処にいるのかは分かる。

「そうゆうお前は、文人気取りでお高く留まっていたが、実はむっつりだった、ということを俺は知っていたがね」

「何!」
 キケロが叩く真似をした。

「お前なんか背が高いから、その禿げ頭を見事に隠すことができたよな。しかもその禿げを隠すために、いつも上ばかり見てたじゃないか」

「そんなに禿げ、禿げ言うな。ま、いい。それより、醜い言い合いをしてる場合じゃない」
 カエサルは少し、キケロを見、それから目を逸らしてから、話を変えた。
「この爺さんは、ルリ子にプロポーズをするよう仕向けられたが、あの時、言葉を濁していたら、きっと彼女は爺さんの前から去っていっただろうな」

「俺もそう思う。男と女の付き合いはこのように行方を読み、決断することが重要なんだ。
 それを逃した、できなかったがために結婚できなかった。
 それとは別の話しになるが、仕事でのチャンスを逃した、または勝負での勝ちを逃した、ということにもなりうる。
 そうじゃないか。ここがチャンスをものに出来る人と出来ない人の違いなんだろうな」

「ああ」
 カエサルはテンガロンハットを外し、頭を掻きながら言った。
「それより、この女性のことはよく知っている。それとあの約束も・・」

「ようやく思い出したようだな。もう少し、この女性のことを、爺さんに考えてもらうことにしよう。約束はそれからだ」
 キケロは、浩一郎を見ながら言った。

「それより、お前さっきから何を食べているんだ?」

「あられだよ。美味いな、これ」

「人の物だぞ、それは。勝手に食うんじゃない」

「いるか?」

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