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罠
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随分と不用心だな。兄の声が聞こえてくるかのようだ、えなは平然と他人を他人の部屋に残して去っていった。いや、もっと平然としているのは崢だな。ベッドに座りながら篤史は思った。えなを使って監督を陥れ、学校から消したのちには何事もなかったように篤史の投手コーチになり、いいぞ、いい球だ、さすがだ、そう言って笑った。俺の篤史だ、そう言ったことさえあったか。
桐原がおまえに教える投げ方な、いつか肘を痛めるぞ。
兄の言葉が蘇る。
すべてが繋がっていくのである。まるでパズルだ、ピースがはまった。少しばかり頭の回転が鈍くともそれくらい分かった。
あいつはそのフォームを意図的におまえに仕込んだ。
不明なのはその理由のみである。
魚に聞いたとて返事が来るわけもないのである。まさにメルヘンの世界。篤史の周りで魚達は素知らぬ顔をして涼しげに泳いでいる。金魚達は飯をよこせと大騒ぎだ。さっき食ったんだろ、と聞いてみる。知らないとのことである。おまえらの主人は何を考えているのか聞いてみる。知らないとのことである。
何も答えぬ魚達。そんな彼らの向こう側、つまり水槽の向こう側、そこに彼の顔が見えた気がした。
笑わぬ顔。何も言わぬ、静寂の目。その奥にある、確かなる意図。理由の不明な――
桐原は危険人物だ。
突如として蘇った。その瞬間、戦慄が走った。
自分だって随分と不用心なのだ、玄関の鍵が開きっぱなしだった。物音がした。帰ってきたのだ。なぜだか勝手に左手が右の肘を掴んでいた。いつか痛めることになる、右肘。ここは密室だ、いつの日か壊す、なんてそんなまどろっこしいことをせずともここなら一発で壊すことが可能だ、何といっても計画通りに、一発で目標を学校から消すことに成功した男だ、きっと何だってやる、実に飄々と。
足が見える。裸足だ、音もなく迫っていた。ベッドのほうへ。ベッドの下に身を隠した篤史のもとへ。目を瞑った。瞑ったことで視界は真っ暗になった。自分の存在さえ消えた気がした。気がしただけだ、そんなメルヘンは起こらない。
「不法侵入者か」
低い声が滑り込んでくる。思わずひっと声が出た。
「現行犯逮捕だ」
右肘を掴まれた。しまった、そう思ってももう遅かった。とんでもない握力だ、壊されるのだ、まさに今、右肘を壊される。
「離せ」
自分でも驚くほどでかい声が出た。崢にしてもさすがに驚いたのか一瞬黙った。そののちにやって来るのは笑いであった。くっくっ、との、もはや癖なのであろう、喉のあたりで笑う、崢の笑い方。
「どうしたか。俺だよ」
実に可笑しそうに崢は言う。
いつもの崢であるようだ、篤史のよく知った崢。だから篤史はゆっくりと目を開けた。視界にはやはりいつもの崢がいた。身をかがめてベッドの下を覗き込む崢、可笑しくてたまらないとの様子の。
「なんだ、本気でびびったか」
急に恥ずかしさがこみ上げてくる。自分は一体いくつだったか。たぶん、十六。ベッドの下に潜り込むのは一体何年ぶりであろうか。兄とよくやった、室内かくれんぼ。
「こんなとこで何してんだ。と言うかこんな狭い所によく入れたな」
火事場の馬鹿力というやつか。いかにして潜り込んだのか自分でもよく分からない。と言うより記憶がない。そしてなかなか身が出てこない。
「自分で入っといて出てこれなくなったわけか。あほじゃねえの」
可笑しさに顔を歪めながら崢が篤史をベッドの下から引きずり出す。世話の焼ける、と言って。確かな筋力なのだ、もう現役ではないというのにその筋肉は彼の身に確かに残っていた。
無事に救出されたわけである。埃まみれだ、と崢が言った。確かにそのようだ、くしゃみが出た。
「なんだ、俺に会いたくなったか」
不貞腐れたかのごとく床にあぐらをかく篤史、その前に便所座りをして崢が言う。その手がすっと篤史の頭に触れた。
「毎日会ってるくせにな」
崢の指が埃のかたまりをつまむ。こいつはでかい、崢は埃をそう描写した。そうして笑った。そこにはやはり風鈴の音があった。
何しに来たのかを一瞬忘れた。風鈴の音が忘れさせたのか、それともその元となる、この切れ長の目が、穏やかに笑むこの目がそうさせたのか。
桐原は危険人物だ。
その言葉はまるで絵空事と化した。先ほどまで猛威をふるいながら篤史に襲いかかってきた言葉であるというのに。今や篤史の左手は崢の前で右肘を守ることもない。
「聞きたいことがあった。だから来た」
「うん、何」
崢が床にあぐらをかく。笑いながら篤史の質問を待っている。
「一つ目」
質問を始めながら思った。あれはきっとえなの戯言だったのだと。もしかしたら酔っぱらっていたのかも。確かにそんな様子だった、だからきっとこのばかげた質問を崢は一蹴するだろう。
「あの事件、意図的に起こした?」
すっ、と、崢の目から笑みが消えた。
それで知るのである、えなの戯言ではなかったと。
「なんだ、あいつが喋った? まさかな」
崢の声からも笑みが消えた。
桐原がおまえに教える投げ方な、いつか肘を痛めるぞ。
兄の言葉が蘇る。
すべてが繋がっていくのである。まるでパズルだ、ピースがはまった。少しばかり頭の回転が鈍くともそれくらい分かった。
あいつはそのフォームを意図的におまえに仕込んだ。
不明なのはその理由のみである。
魚に聞いたとて返事が来るわけもないのである。まさにメルヘンの世界。篤史の周りで魚達は素知らぬ顔をして涼しげに泳いでいる。金魚達は飯をよこせと大騒ぎだ。さっき食ったんだろ、と聞いてみる。知らないとのことである。おまえらの主人は何を考えているのか聞いてみる。知らないとのことである。
何も答えぬ魚達。そんな彼らの向こう側、つまり水槽の向こう側、そこに彼の顔が見えた気がした。
笑わぬ顔。何も言わぬ、静寂の目。その奥にある、確かなる意図。理由の不明な――
桐原は危険人物だ。
突如として蘇った。その瞬間、戦慄が走った。
自分だって随分と不用心なのだ、玄関の鍵が開きっぱなしだった。物音がした。帰ってきたのだ。なぜだか勝手に左手が右の肘を掴んでいた。いつか痛めることになる、右肘。ここは密室だ、いつの日か壊す、なんてそんなまどろっこしいことをせずともここなら一発で壊すことが可能だ、何といっても計画通りに、一発で目標を学校から消すことに成功した男だ、きっと何だってやる、実に飄々と。
足が見える。裸足だ、音もなく迫っていた。ベッドのほうへ。ベッドの下に身を隠した篤史のもとへ。目を瞑った。瞑ったことで視界は真っ暗になった。自分の存在さえ消えた気がした。気がしただけだ、そんなメルヘンは起こらない。
「不法侵入者か」
低い声が滑り込んでくる。思わずひっと声が出た。
「現行犯逮捕だ」
右肘を掴まれた。しまった、そう思ってももう遅かった。とんでもない握力だ、壊されるのだ、まさに今、右肘を壊される。
「離せ」
自分でも驚くほどでかい声が出た。崢にしてもさすがに驚いたのか一瞬黙った。そののちにやって来るのは笑いであった。くっくっ、との、もはや癖なのであろう、喉のあたりで笑う、崢の笑い方。
「どうしたか。俺だよ」
実に可笑しそうに崢は言う。
いつもの崢であるようだ、篤史のよく知った崢。だから篤史はゆっくりと目を開けた。視界にはやはりいつもの崢がいた。身をかがめてベッドの下を覗き込む崢、可笑しくてたまらないとの様子の。
「なんだ、本気でびびったか」
急に恥ずかしさがこみ上げてくる。自分は一体いくつだったか。たぶん、十六。ベッドの下に潜り込むのは一体何年ぶりであろうか。兄とよくやった、室内かくれんぼ。
「こんなとこで何してんだ。と言うかこんな狭い所によく入れたな」
火事場の馬鹿力というやつか。いかにして潜り込んだのか自分でもよく分からない。と言うより記憶がない。そしてなかなか身が出てこない。
「自分で入っといて出てこれなくなったわけか。あほじゃねえの」
可笑しさに顔を歪めながら崢が篤史をベッドの下から引きずり出す。世話の焼ける、と言って。確かな筋力なのだ、もう現役ではないというのにその筋肉は彼の身に確かに残っていた。
無事に救出されたわけである。埃まみれだ、と崢が言った。確かにそのようだ、くしゃみが出た。
「なんだ、俺に会いたくなったか」
不貞腐れたかのごとく床にあぐらをかく篤史、その前に便所座りをして崢が言う。その手がすっと篤史の頭に触れた。
「毎日会ってるくせにな」
崢の指が埃のかたまりをつまむ。こいつはでかい、崢は埃をそう描写した。そうして笑った。そこにはやはり風鈴の音があった。
何しに来たのかを一瞬忘れた。風鈴の音が忘れさせたのか、それともその元となる、この切れ長の目が、穏やかに笑むこの目がそうさせたのか。
桐原は危険人物だ。
その言葉はまるで絵空事と化した。先ほどまで猛威をふるいながら篤史に襲いかかってきた言葉であるというのに。今や篤史の左手は崢の前で右肘を守ることもない。
「聞きたいことがあった。だから来た」
「うん、何」
崢が床にあぐらをかく。笑いながら篤史の質問を待っている。
「一つ目」
質問を始めながら思った。あれはきっとえなの戯言だったのだと。もしかしたら酔っぱらっていたのかも。確かにそんな様子だった、だからきっとこのばかげた質問を崢は一蹴するだろう。
「あの事件、意図的に起こした?」
すっ、と、崢の目から笑みが消えた。
それで知るのである、えなの戯言ではなかったと。
「なんだ、あいつが喋った? まさかな」
崢の声からも笑みが消えた。
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