先生は海の匂いがした 〜兄は僕を愛し、支配した。そんな兄が殺された。殺したのは兄の教え子であり、僕の同級生だった〜

西浦夕緋

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 何事もなかったわけか。無罪放免だ、さんさんと降り注ぐ太陽の下、えなは水しぶきを上げながら泳いでいる。

 幽霊部員だよと崢は言う。気が向いた時だけああして泳ぎに行く、と。中学の頃からあの調子だ、そう言って笑った。

 もとよりえなを疑っていたのか。ちょっと家の用事がある、篤史にそう嘘をついて部室に戻ったのも証拠なるものを掴む為だったか。いずれにしてもえなは崢を裏切ったあばずれなのだ、いつの日か篤史は崢にそう言った。しかしながら崢はゆるく笑うだけなのだ、であるから篤史は聞いた、その目を見据え。許すの? と。

 いいんだよ、と崢は言った。それだけだった。

 笑うだけの目、そこに鳴るものは風鈴の音か。まるで感情というものがないわけか、それとも感情を打ち消されてでもいるのか。そこに流れるものはえなの手を離すことのない情け、それに乗っかるものはえなの横着というやつか。

 別れろよ、と篤史は言った。いつの日かえなを捕まえてそう言った。さすがにあばずれとは言わなかったが篤史の目は確かにえなに対してそう言った。しかしながらえなの世界にはやはり何事もなかったのだ、篤史を見返しゆったりと笑って、あんなことで切れる仲じゃないの、そう言った。

 確固たる自信というやつか。教室で目すら合わさない、もちろん言葉を交わしもしない、そんな二人の間に流れるものはまぎれもなくそれなのだ。

 プールサイドに上がったえながペットボトルに口をつけている。スクール水着に身体のラインがまざまざと浮かび上がっていた。

 何も心配いらない、と崢は言う。そうして篤史の肩を抱く。監督はしばらく不在になるが、俺がおまえのコーチになる。耳元で崢は囁いて、篤史をグラウンドへと連れてゆく。




 あー、耳がやってる、なんて彼らは言う。粋な奴らだ、と言うより粋がっているのか、制服をだらしなく着崩し顎などを突き出しながら廊下を広がって歩く連中、実際に経験があるのかどうか分からない、何しろ自己申告であるからだ、それでもあるように見せて、つまり粋がって、片手に持ったスマートフォンから大音量で流行中の音楽などを流し、それを教師に注意されれば、へへっ、なんて笑って無視、そうして彼らは、あー、いい、耳がやってる、そう言って笑う。

 耳がやってる、それも粋な表現だ。というよりSNSでそうした表現は目にした。であるからそれは見知らぬ粋な奴の受け売りのようなものなのだ、篤史は小さく笑ってしまう。

 いずれにしても、である。耳がやってる、か。自分の場合は、右腕がやってる、だ、確かにそこには楽園があった。夜な夜な布団の中に籠ってやるあれなんかより、と言うよりまるで比較にすらならない、崢のもたらす、右腕の快楽。

 つい最近まで篤史を確かに囲っていた、監督の両腕。するりと勝手に消えていった。だから篤史は再び崢と逢瀬した。そうして崢の両腕に囲われた。

 思い出したか、と崢は言う。この感覚だ、と。篤史の指に、手首に、肘に、肩に、時には腰にも脚にも触れながら彼は篤史に変化球を浸透させた。見事なまでの投手コーチであった。ともすれば怒鳴るような、違うとか馬鹿とか、上のほうから篤史を見下ろし引っ張り上げようとするような監督の教えとは程遠い、まるで共同作業、つまり篤史の内部に入り込みその結果二人の作品が生み出される、そんな具合であった。

 きっと自分は忘れていたのだ、確かに右腕がやっていた。監督に仕込まれたものでは満足できなかった、それを思い知った。崢のものでなければだめだったのだ、崢でなければ右腕は枯れた。崢を注ぎ込まれる右腕はまさに水を得た魚となり、快楽の果てにキャッチャーミットを唸らせて、さすがだ、センスがある、俺の篤史だ、崢からそんな言葉を受けてなお悦んだ。

 バックネット裏にえなを見つける。ここは暇な女子のたまり場のようになっていて、誰々せんぱーい、だとか、桐原くーん、だとか、そのおまけのように西山くーん、が聞こえてくるわけだが、えなはおそらく誰かの付き添いだ、それとも本当に暇なのか、いややはり崢をその目に映し込む為にやって来たわけか。教室などでは目を合わすこともない、しかしたびたび彼を見やっているように、ここでもまた、それをやる。水槽の中をせわしなく泳ぎ回る金魚のような女子達、その中に混じった、確実に金魚ではない、えな。まさに、えん姉さん、つまりいつもの調子、気怠そうなさまだ、しかしながらその目は確かに崢を見ていた。

 あんなことで切れる仲じゃないの。えなはそう言った。そうして笑った。まさに余裕の笑みというやつか。

 口元だけで篤史は笑う。ゆったりと振りかぶり、崢との作品をまたひとつ生み出す。

 こちらだって簡単には切れない。いいや、篤史の体内に入り込んだ崢は篤史の血液と混じり合い、切れることなど到底ない、もはや切れるという概念がない。

 右腕が快楽に震えて、この気持ちよさはえなには到底得られないのだ、篤史は確かにそう思った。

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