先生は海の匂いがした 〜兄は僕を愛し、支配した。そんな兄が殺された。殺したのは兄の教え子であり、僕の同級生だった〜

西浦夕緋

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誓いのキス

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 崢の瞳に海を見た。そこには風があって、実に静かに波を寄せながらただひたすらに篤史の目を見ていた。
「俺、もう野球やらないんだ。家庭の事情ってやつだ」
 静かに笑いながら崢はそう言った。
 あまりにも唐突である。魔王が魔王でなくなる時を見た。不意打ちだ、まさに突然に進路を変える崢の魔球そのものであった。
「やめるの?」
 聞いていた。すでに答えを聞いた後での問いだ、阿呆のように響いた。崢は頷いた。それからゆるく笑った。

 なぜ笑えるのか。そう問いたかった。すぐ近くに崢の右手があった。変化球を知り尽くした手だ。この手はすでにそれを手放していたのだ、篤史の知らぬところで、ひっそりと。つまり崢がマウンドに立つ日などもうないのである。あの魔球を見ることはもうない。崢はあれを捨てたのである。

 捨てるのならくれ、そう言いそうになっていた。まさに馬鹿げた一言だ、崢が捨てたとしても誰も拾うことなどできない、つまり誰一人として崢の習得した技を奪い取って自分のものにすることなどできやしないのである。分かりきった現実だ。魔球はこの世から去り、それで終わる。それが現実である。消えた天才、なんて密かに囁かれた兄のように、崢も消えるわけか、家庭の事情なる、何とかすれば何とかなりそうなものの為に。

「だからさ、」
 崢は言った。
「変化球を教えてやろうか」
 またしても唐突な一言であった。その唇が楽しげに笑った。
 雲がちぎれて晴れるのである。掴もうと精一杯手を伸ばしても届かなかった、というより同じ土俵にすら立っていなかった、つまり篤史が手にすることなど到底できなかった、あの、まさに喉から手が出るほどに欲した魔球を所持する男がここにいて、篤史にそれを伝授しようとしている。
「兄ちゃん、教えてくれねえんだろ」
 崢は言った。何でも知っていると言わんばかりの目だ。

 自分のクラスの担任教諭であるからそうなのか、その知ったような目も口ぶりも。それともこうして二人並んで狭いベッドに座りながらその目に篤史の目を取り込んで、すべてを吸収していくわけか、これぞ他校のエースだった、変化球の魔王だった者のなせる業か。

「教えてくれねえどころか禁止されてるわけだよな。おまえの監督にまで禁止させてた」
 くっくっと崢が笑っている。
「モンスターブラザーってやつか。とんだ過保護な兄ちゃんだな」
 まだ早い、と兄は言う。もう遅い、と篤史は思っていた。中学生で変化球を投げるのは当たり前だ、あと半年と少したてば高校生になる。兄は慎重過ぎるのだ、自分が故障したことで弟の未来に対してあまりにも慎重なのである。
「俺さ、」
 崢は言った。
「誰かに変化球を伝授することで野球を続けたいと思ってるよ」
 窓から入り込む夜風にその髪が静かになびいた。その目は笑いながらあまりにも静かであった。

 古びた小さな台所、その近くにある壊れかけたちゃぶ台、テレビのない部屋、黄ばんだ壁の向こうから聞こえてくる放屁らしき破裂音。隣のじいさん、またぶちかましやがった。崢がぼやく。たまに屁の音で夜中に目が覚めるんだよ、何食ったらあんなにでかい屁が出るんだ。崢のぼやきの間にももう片方の壁から女の喚き声が聞こえてくる。喘ぎではない、それはもう済んで今度は痴話喧嘩か。あまりにも壁が薄いのだ、ここの住民たちが豊かでないのは確かだった。

 家庭の事情。崢はそう言った。野球をやるにはあまりにも金がかかり過ぎるという現実が関係しているわけか。自身の意に反してやめなければならなくなったのであろう、野球。マウンドに立てずとも野球と共生したいとの願いが、変化球を教えてやろうか、との提案に繋がったわけか。
「無料で?」
 篤史の口をついて出た質問に崢が吹き出した。
「金くれるんならくれてもいいけど」笑いながら崢は言った。「出世払いでいいよ」
「なんで、」
 篤史は問う。崢の笑った目を覗き込みながら。
「なんで俺を選んだの?」
 目の前にあるその目からふと笑いが消えた気がした。気がしただけだ、すぐにそれはまた笑った。
「学校終わったらここに来いよ、そこの公園で練習だ。引退してどうせ暇だろ」
 答えは来なかった。誰かに変化球を伝授することで野球を続けたい、という言葉の、誰か、に篤史を選んだ理由、それを再度聞くのも憚られ、
「暇じゃない」むっつりと篤史は答える。「大事な時だ。強豪から誘いが来てるから」
「受験勉強の必要もない。しばらく試合もない。どうせ彼女もいないんだろ」
「どうせって何だよ」
「篤史はウブだって先生言ってたよ」
 事あるごとに兄が出てくる。先生、であったり、兄ちゃん、であったりその時々で表現が変わるが、話に兄が登場するのは何回目になるか。崢は兄とよく話をするのだなと篤史は思った。教諭としての兄の姿は見たことがないから知らないが、教諭と生徒として二人は放課後の教室だとか廊下だとか、色々な場所で話をしているのだろう、そう思った。
「穢れを知らないんだ。誰にも汚されてない」
 ゆったりとした言葉の流れと共に崢の右手が伸びてくる。篤史の頬に触れた。ふわりと笑った目が篤史の目を見ていた。突如として自分が幼子になったような気がする。
「さわんな」
 その手を払いのけた。同時にベッドから立ち上がろうとする。
「ごめん」
 笑った声が追ってきた。篤史の背後から崢の両方の手が回ってきて篤史の肩を抱いた。
「怒ったか」
 耳元に崢の声がかかる。鼻腔に崢の匂いがかすめた。
「ごめんて」
 崢の指が後ろから篤史の頬をつねった。ますます幼子となった。同い年だ、ライバルとしてぶつかり合ってきた男同士のはずである。背後の男からは余裕というものを感じた。そうだ、合点がいった。崢の飄々としたさま、その理由、それはおそらくこの余裕だ、彼の身から漂うこの得体の知れぬいい匂いと似たような、なんとも表現しがたいもの。確かに彼が纏うもの。
「いい匂いがする」
 耳のそばでゆうべ言われたのと同じ言葉を囁かれた。その手が篤史の胸元に降りた。

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