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誓いのキス
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しおりを挟む「来ないかと思ったよ。返事すらよこさなかった」
笑いの混じった声である。穏やかに笑っている。
「良かった」
崢は言った。その目に風鈴の音を聞いた。
その音があまりにも心地よいからか、それともその笑みが伝染するわけか、篤史の頬は自然に緩んだ。
「兄ちゃん何か言ってた?」
水槽の魚達に餌をやりながら崢は言う。競い合うように魚達が水面で餌をつついた。
「別に」
ベッドの上で体育座りをして篤史は答える。そうか、と崢は言った。
「可愛い弟だからな、心配したはずだ」
「学校で兄ちゃん何か言ってた?」
「別に」
互いに、別に、である。そして互いにふっと笑った。なんだか可笑しかった。
今夜もここに崢の親はいない。昨日兄に聞くのを忘れた、崢の両親はどんな人なのか。と言うより崢の名をあれ以上出すことは憚られたわけだ、兄の目がそれを制した。理由など分からない。今日にしてもランニングを装ってここまで来たわけだ、だから時間を見計らって帰る予定にしている。
「西山龍也」
だしぬけに兄の名がフルネームで呼ばれた。敬称略である。崢は水槽をひとつひとつ回りながら魚達に餌を与えていた。
「甲子園を沸かせた名ピッチャーだ。えげつない球を投げてたな」
ほら、喧嘩すんな。崢の爪が水槽のガラスをつつき、魚達が逃げてゆく。
「あの球速のフォークを投げる高校生なんて後にも先にも先生しかいない」
兄を先生と呼んで、崢は餌の箱を水槽台の中にしまった。
「な」
崢が篤史の隣に腰をおろす。ベッドがぎしりと唸った。
「おまえの兄ちゃんは、いかれてんだよ」
そう言って崢は笑った。
至って普通の笑みである、そこには何の意図もない。ゆうべ篤史はまさしくここに張り倒されたわけだ、しかしながら篤史の手首を掴んだあの握力などどこかへ消えていったか、それともあれは幻想であったか。ともかく崢は何でもないふうに篤史の隣にあぐらをかき、右膝の上に右手を乗せて、宙でボールを握った。長い指だ。改めてそう思った。
フォークの握りである。よく知った握りなのだ、試合で幾度も投げてきた。中学生にフォークなんざ投げさせるもんじゃない、と篤史の監督は頻繁に囁いたものだ。故障のもとだ、と。その証明となるものが兄の肘であった。しかしながら兄は教え子に技を伝授した。甲子園で活躍した兄をよく知る篤史の監督は遠回しに兄の指導を批判しつつも、投げる崢を眺めながらぽつりと呟いたことがある。西山龍也の再来だな、と。
篤史や崢は兄の十三歳下だから兄が甲子園で躍動した頃は三歳あたりだった。だからリアルタイムで兄を知らない。だが崢はあたかも自身の目で最盛期の兄を見たかのような口調で兄を語った。動画を見たのだろう、自分もそうだった。
崢は兄の再来であるという。球速は兄に劣るがフォームも変化球の具合も球のキレも兄そのものであるらしい。日頃から滅多に人を褒めない篤史の監督がそう言ったのだからそれは最高の褒め言葉となる。西山龍也の再来。崢がそうであれば自分は何か。天井からぶら下がる蜘蛛の糸を眺めながら篤史はひとりごちる。
「西山龍也の弟ってだけだな、俺は」
自嘲気味に笑う結果となった。
「俺には武器がない。変化球がない。直球しかない。かと言って球速があるわけでもない。ボールから声が聞こえただけだな」
そうだ、崢の言うメルヘンの世界そのものだ。そこに兄は何を見たのか。おまえは特別だよ、と兄は言った。
窓の外で犬が吠えている。やかましい、との人間の声もする。なお一層犬が声を張り上げる。今何時だろうかと篤史は思った。壁を見回すも時計が見当たらない。水槽の中を優雅に漂うエンゼルフィッシュと目が合った。もう片側からも魚の視線を感じた。魚たちに取り囲まれながら崢は毎晩ここで眠るわけだ。なぜこんな構図で水槽を配置したのだろうか。眠りにつくその瞬間まで魚たちの呼吸を感じたいのか、目を覚ました瞬間にもその姿を瞳に映したいわけか。自分は一人ではないとでも思いたいのか、そこに存在するものは、寂しさ、なるものであるのか。他校のエース、変化球の魔王なる異名を持つ男が。
篤史の目のあたりに視線が来ていた。隣のほうから、じっと。魚たちの視線ではなかった。まぎれもなく崢のそれだった。
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