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風の章
太郎の婚礼
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信虎は甲斐統一後、相模の新興大名・北条氏と抗争を続けていた。この抗争を有利に進めるために駿河・遠江を支配する名門・今川氏と和睦する。更に北条と対立を深めていた扇谷上杉氏と手を結ぶことにしたのだった。
「ふむ、朝興殿には娘がおるか……」
「はい。ちょうど年の頃は若殿と同じ頃だとか」
「なるほど……」
信虎は扇谷上杉家の当主である武蔵国川越城城主である上杉朝興に太郎との婚姻を打診したのだった。上杉にとっても敵対勢力である北条への牽制としてこの婚姻は大いに役立つと考え、二つ返事で了承したのである。
天文二年(1533年)、太郎は上杉朝興の娘・阿佐を正室と迎える。
「上杉朝興が娘。阿佐にございます」
乳母に背中を押され、舌っ足らずながらも挨拶をする朝興の娘・阿佐。周りはむさ苦しい武者ばかりで恐れおののいているようだった。
それに気づいたのだろう。控えていた乳母が言葉を継いで信虎に挨拶をする。
「阿佐姫様は父上様にとっては『掌中の珠』でございましたので、本日はこれにて下がらせていただきとうございます」
「御館様。私もそれがよろしいかと思います」
大井の方が助け船を出すように助言を発する。信虎は眉を寄せたが、大井の方が目配せをして阿佐姫が信虎を恐れて震えていることを伝えた。
(儂の顔はそれほどまでに恐ろしいのか?)
少々納得のいかぬ思いであったが、阿佐姫が川越に逃げ帰ることになるようなことになっては元の木阿弥。
「長旅ゆえ疲れたであろう。婚礼まで日にちもある。下がってゆるりとされるが良かろう」
信虎はできるだけ優しい声で語りかける。阿佐姫はその声にホッとしたのか、笑顔になり乳母共々宛がわれた自室へと下がったのだった。
その夜、信虎は信方・虎康を呼び、酒を酌み交わす。此度の婚礼が武田にとって良き縁となることを祝ってのことだった。
「なんとも可愛らしい姫君でございますな」
「うむ。あれならば太郎とも気が合うであろう」
「これでお二人に子が出来れば盟約も強固な物になりますな」
虎康の言葉に信虎は頷く。
(あとは太郎が阿佐姫を気に入れば万事上手くいく)
信虎の頭の中で描くは信濃進攻の手順だ。此度の婚礼で北条を牽制し、肥沃且つ広大な信濃の地を武田の支配下に置くことを目論む。この先、どうすべきかを思案しているのだった。それを遮るように信方が進言してくる。
「御館様、若殿は阿佐姫様とお会いになってから祝言を挙げた方がよろしいのでは?」
「そうだのぉ」
信方の進言に信虎は顎に手を当てながら考えを巡らせる。
太郎は元々人見知りが激しい方で国人衆と顔を合わせてもすぐに信方や大井の方の後ろに隠れてしまう。物怖じしない次郎とは対照的である。それを考えると、信方の言うとおりまずは二人を会わせた方が良いだろう。そう結論づける。
(この婚姻は是が非でも成さねばならぬ。武田の行く末がかかっておる)
信虎はすぐに信方に命じて二人を祝言前に会わせる段取りを整えるように命じたのだった。
数日後、太郎は信方に連れられて阿佐姫の部屋を訪れた。阿佐姫は乳母に物語を読んで貰っているようだった。時折、屈託のない笑みをこぼしている。
「……」
「若殿?」
廊下に佇む太郎は信方の声に何も反応しない。こちらの気配に気づいた乳母が慌てたように頭を下げる。阿佐姫もそれに倣い、姿勢を正し、頭を下げる。
それに対して太郎は何も言わず、立ち去っていった。
「若殿!」
太郎は信方が引き留めるのも聞かず、廊下を引き返す。突然立ち止まったかと思うと庭へと降りる。底には小さな白い花が咲いていた。太郎は腰を下ろし、その名も知れぬ花を一輪手折る。それを手に取ったまま再び廊下を歩き始める。信方は太郎の真意を測れず困惑したままその後に続いた。
太郎がたどり着いた先は阿佐姫の部屋だった。そこで漸く信方は太郎が何のために立ち去ったのか、思い至る。
太郎は無言で座り、胡座を掻く。目の前に現れた夫となる少年の行動にどう対応して良いのかわからない様子の阿佐姫は乳母に助けを求めるように視線を投げかける。だが、乳母は困った顔を見せるだけで何も言ってはくれない。
「これを……」
「え?」
「そなたにはこの花が似合うと思ったから」
「あ、ありがとうございます」
太郎は先程手折った花を阿佐姫に差し出したのだ。阿佐姫は驚きのあまり瞬きを繰り返すが、それを受け取ると礼を言い頬を染めて俯く。その反応に太郎は愛おしさがこみ上げ、柔らかな笑みを浮かべるのだった。
「いやはや、どうなることかと思いましたわ」
信方は信虎に太郎と阿佐姫の対面の経緯を話す。一緒に聞いていた虎康も安堵の表情を浮かべていた。
「これならば心配はいりませぬな」
「うむ。早々に祝言の日取りを決めねばなるまい」
「夫婦は仲睦まじいことに越したことはございませぬからな」
虎康の言葉に信方も信虎も笑みを浮かべずにはいられない。その夜に酌み交わした酒の味は殊の外美味かった。
初対面から三日後。太郎と阿佐姫の祝言が執り行われる。幼い夫婦はままごとの延長線上のようであるが、武田家にしても扇谷上杉家にしても大きな意味がある。それはこの時代の武家にとっては当たり前のことであった。その中から己の幸せを見出すのである。
太郎と阿佐姫もその幸せを手にするための第一歩を踏み出したのである。その先に悲劇が待ち構えていることなど知りもせずに……。
「ふむ、朝興殿には娘がおるか……」
「はい。ちょうど年の頃は若殿と同じ頃だとか」
「なるほど……」
信虎は扇谷上杉家の当主である武蔵国川越城城主である上杉朝興に太郎との婚姻を打診したのだった。上杉にとっても敵対勢力である北条への牽制としてこの婚姻は大いに役立つと考え、二つ返事で了承したのである。
天文二年(1533年)、太郎は上杉朝興の娘・阿佐を正室と迎える。
「上杉朝興が娘。阿佐にございます」
乳母に背中を押され、舌っ足らずながらも挨拶をする朝興の娘・阿佐。周りはむさ苦しい武者ばかりで恐れおののいているようだった。
それに気づいたのだろう。控えていた乳母が言葉を継いで信虎に挨拶をする。
「阿佐姫様は父上様にとっては『掌中の珠』でございましたので、本日はこれにて下がらせていただきとうございます」
「御館様。私もそれがよろしいかと思います」
大井の方が助け船を出すように助言を発する。信虎は眉を寄せたが、大井の方が目配せをして阿佐姫が信虎を恐れて震えていることを伝えた。
(儂の顔はそれほどまでに恐ろしいのか?)
少々納得のいかぬ思いであったが、阿佐姫が川越に逃げ帰ることになるようなことになっては元の木阿弥。
「長旅ゆえ疲れたであろう。婚礼まで日にちもある。下がってゆるりとされるが良かろう」
信虎はできるだけ優しい声で語りかける。阿佐姫はその声にホッとしたのか、笑顔になり乳母共々宛がわれた自室へと下がったのだった。
その夜、信虎は信方・虎康を呼び、酒を酌み交わす。此度の婚礼が武田にとって良き縁となることを祝ってのことだった。
「なんとも可愛らしい姫君でございますな」
「うむ。あれならば太郎とも気が合うであろう」
「これでお二人に子が出来れば盟約も強固な物になりますな」
虎康の言葉に信虎は頷く。
(あとは太郎が阿佐姫を気に入れば万事上手くいく)
信虎の頭の中で描くは信濃進攻の手順だ。此度の婚礼で北条を牽制し、肥沃且つ広大な信濃の地を武田の支配下に置くことを目論む。この先、どうすべきかを思案しているのだった。それを遮るように信方が進言してくる。
「御館様、若殿は阿佐姫様とお会いになってから祝言を挙げた方がよろしいのでは?」
「そうだのぉ」
信方の進言に信虎は顎に手を当てながら考えを巡らせる。
太郎は元々人見知りが激しい方で国人衆と顔を合わせてもすぐに信方や大井の方の後ろに隠れてしまう。物怖じしない次郎とは対照的である。それを考えると、信方の言うとおりまずは二人を会わせた方が良いだろう。そう結論づける。
(この婚姻は是が非でも成さねばならぬ。武田の行く末がかかっておる)
信虎はすぐに信方に命じて二人を祝言前に会わせる段取りを整えるように命じたのだった。
数日後、太郎は信方に連れられて阿佐姫の部屋を訪れた。阿佐姫は乳母に物語を読んで貰っているようだった。時折、屈託のない笑みをこぼしている。
「……」
「若殿?」
廊下に佇む太郎は信方の声に何も反応しない。こちらの気配に気づいた乳母が慌てたように頭を下げる。阿佐姫もそれに倣い、姿勢を正し、頭を下げる。
それに対して太郎は何も言わず、立ち去っていった。
「若殿!」
太郎は信方が引き留めるのも聞かず、廊下を引き返す。突然立ち止まったかと思うと庭へと降りる。底には小さな白い花が咲いていた。太郎は腰を下ろし、その名も知れぬ花を一輪手折る。それを手に取ったまま再び廊下を歩き始める。信方は太郎の真意を測れず困惑したままその後に続いた。
太郎がたどり着いた先は阿佐姫の部屋だった。そこで漸く信方は太郎が何のために立ち去ったのか、思い至る。
太郎は無言で座り、胡座を掻く。目の前に現れた夫となる少年の行動にどう対応して良いのかわからない様子の阿佐姫は乳母に助けを求めるように視線を投げかける。だが、乳母は困った顔を見せるだけで何も言ってはくれない。
「これを……」
「え?」
「そなたにはこの花が似合うと思ったから」
「あ、ありがとうございます」
太郎は先程手折った花を阿佐姫に差し出したのだ。阿佐姫は驚きのあまり瞬きを繰り返すが、それを受け取ると礼を言い頬を染めて俯く。その反応に太郎は愛おしさがこみ上げ、柔らかな笑みを浮かべるのだった。
「いやはや、どうなることかと思いましたわ」
信方は信虎に太郎と阿佐姫の対面の経緯を話す。一緒に聞いていた虎康も安堵の表情を浮かべていた。
「これならば心配はいりませぬな」
「うむ。早々に祝言の日取りを決めねばなるまい」
「夫婦は仲睦まじいことに越したことはございませぬからな」
虎康の言葉に信方も信虎も笑みを浮かべずにはいられない。その夜に酌み交わした酒の味は殊の外美味かった。
初対面から三日後。太郎と阿佐姫の祝言が執り行われる。幼い夫婦はままごとの延長線上のようであるが、武田家にしても扇谷上杉家にしても大きな意味がある。それはこの時代の武家にとっては当たり前のことであった。その中から己の幸せを見出すのである。
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