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序章
甲斐源氏 武田信義
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時は平安末期。保元・平治の乱を経て隆盛を極める平家に対し、衰退の一途を辿る源氏。そんな中、新羅三郎義光の血筋は関東・甲信へと広がった。そして、紆余曲折を経て甲斐国へと根付いたのは義光の孫・源清光だ。その次男として生まれたのが武田信義である。
治承四年(1180年)、その信義の元に以仁王からの令旨(皇族の命令書)が届く。そこには『平家追討のため源氏に挙兵せよ』とのものであった。
「殿、どうなさいますか?」
「好機と見て起つべきであろう。皆はどうか?」
「儂は異存はない」
「それがしも異存ありませぬ」
双子の兄・逸見光長、弟の加賀美遠光、安田義定らの同意を得た信義はすぐさま甲斐全土に号令を発した。四月、信濃・伊那郡に出兵し、平家方の菅冠者を討つ。これにより木曽義仲を牽制し、彼は北陸より上洛する道を取らざるを得なくなる。
その後、信義は一族を率いて挙兵。平家本陣到着前に駿河に侵攻して占拠したのだった。
「父上、佐殿(頼朝)率いる鎌倉の軍勢は富士川に陣を張るようです」
「そのようじゃのぉ」
「我らも向かいますか?」
「当然であろう」
嫡男・一条忠頼と安田義定を引き連れた信義はそのまま富士川の戦いに参戦する。合戦は早朝の水鳥の羽音を敵襲と勘違いした平家方大将・平維盛の退却命令に大混乱となり、戦わずして源氏の勝利となった。
この戦いの後、信義は木曽義仲・源頼朝と並び『武家の棟梁』としての地位を確保する。だが、それは甲斐源氏が衰退する原因にもなった。
二十年近い幽閉生活によって頼朝は猜疑心の強い男になっていた。それ故、同格の存在を排除もしくは屈服させるという路線を取り始める。信義は頼朝にとって障害となってしまった。折しも、それまで結束の固かった甲斐源氏は足並みが乱れ、分裂していたことが頼朝の策を後押しした。
養和元年(1181年)、後白河法皇が信義に頼朝追討使に任じたという噂がまことしやかに鎌倉に流れた。これにより自らの武功で手に入れた『駿河守護』を解任されたうえ、鎌倉に召還されたのだった。
「信義、何故ここに呼ばれておるかわかっておるだろうな」
「佐殿はあのような戯れ言を真に受けておられるのか?」
だが、頼朝はそれに答えず、一番のお気に入りと言われる工藤祐経に命じて紙と硯を目の前に置いた。
「己の潔白を証明するのであれば、今この場で『子々孫々まで弓引くこと有るまじ』と起請文をしたためよ」
その場に居合わせた妻の政子、舅の北条時政が驚きのあまり息をのむ。ただ、頼朝だけは微動だにせずに細めた目で冷酷に信義を見つめている。信義は屈辱に耐え、両の拳を握りしめる。震える手で筆を執り、言われたままにしたためる。最後に歯で親指を噛み、それを己の署名の下につく。出来上がった起請文を祐経が手に取ると頼朝に差し出す。それに目を通して漸くニヤリと笑った頼朝。その姿に信義は薄ら寒いものを感じたのは言うまでもない。それと同時にあることを感じ取る。
(源氏の再興、なり難し)
そんな思いを抱えながらも一族を守るため、頼朝に膝をついた信義は悔しさを滲ませながら鎌倉をあとにしたのだった。そんな失意の信義に追い打ちを掛ける事件が起きる。
元暦元年(1184年)六月の鎌倉。嫡男である一条忠頼は宴席に呼ばれていた。だが、この宴席は忠頼を暗殺するために開かれたものだったのだ。
「一条忠頼、覚悟せよ!!」
忠頼は無残にも滅多斬りにされ討ち取られたのだった。
「父上!! あ、兄上が……」
「兼信、如何した?!」
次男・板垣兼信が部屋に飛び込んで来るなり、一通の書状を差し出す。それに目を通し信義の顔はみるみるうちに青ざめていった。
「馬鹿な……」
書状が手から滑り落ちる。そこが起点であったかの如く、甲斐源氏は頼朝によって切り崩されていった。気づけば信義は頼朝と同格の『武家の棟梁』ではなく『鎌倉殿(頼朝)の御家人』という扱いに転じたのだった。
あれから数年の時が経つ。信義は遂に死の床についた。甲斐源氏の嫡流として隆盛を誇っていた武田はその地位を加賀美に奪われつつあった。
「やはり以仁王は疫病神であったわ」
「父上……」
「あの令旨を奉って兵を挙げたばかりにこのような……」
「父上、お忘れか」
「信光?」
四男で武田の次期当主となることが決まっている信光が父の手を取り励ます。
「その昔、我らが祖・新羅三郎義光公は策を弄すも失敗し、常陸に落ち延びました。ですが、野心を忘れずおられたそうです」
「おお、そうであったな」
「そうです。まだ諦めるのは早うございます」
次男・兼信も手を重ねて励ます。それを信義は嬉しそうに目を細めた。
「天下を手に入れるためには『地の利・人の輪・天の時』が必要と申すではございませぬか!」
「そうであった」
「我らにはその『天の時』は手に入りませなんだが、必ずや後世その『時』を捕まえるものが現れましょう」
「そうでございます。我らはそのものが現れることを信じ、この血を伝えて参りましょう。そのための屈辱なら甘んじて受けましょうぞ」
「心配はいりませぬ。我らには御旗楯無がございます。必ずや我が武田が『武家の棟梁』となりましょう」
息子たちの力強い言葉に信義の頬には涙が伝い落ちた。
それから数日後。武田太郎信義はこの世を去った。息子たちに後事を託し、その先に必ずや天下を手中に収めるものが現れることを信じて……。
治承四年(1180年)、その信義の元に以仁王からの令旨(皇族の命令書)が届く。そこには『平家追討のため源氏に挙兵せよ』とのものであった。
「殿、どうなさいますか?」
「好機と見て起つべきであろう。皆はどうか?」
「儂は異存はない」
「それがしも異存ありませぬ」
双子の兄・逸見光長、弟の加賀美遠光、安田義定らの同意を得た信義はすぐさま甲斐全土に号令を発した。四月、信濃・伊那郡に出兵し、平家方の菅冠者を討つ。これにより木曽義仲を牽制し、彼は北陸より上洛する道を取らざるを得なくなる。
その後、信義は一族を率いて挙兵。平家本陣到着前に駿河に侵攻して占拠したのだった。
「父上、佐殿(頼朝)率いる鎌倉の軍勢は富士川に陣を張るようです」
「そのようじゃのぉ」
「我らも向かいますか?」
「当然であろう」
嫡男・一条忠頼と安田義定を引き連れた信義はそのまま富士川の戦いに参戦する。合戦は早朝の水鳥の羽音を敵襲と勘違いした平家方大将・平維盛の退却命令に大混乱となり、戦わずして源氏の勝利となった。
この戦いの後、信義は木曽義仲・源頼朝と並び『武家の棟梁』としての地位を確保する。だが、それは甲斐源氏が衰退する原因にもなった。
二十年近い幽閉生活によって頼朝は猜疑心の強い男になっていた。それ故、同格の存在を排除もしくは屈服させるという路線を取り始める。信義は頼朝にとって障害となってしまった。折しも、それまで結束の固かった甲斐源氏は足並みが乱れ、分裂していたことが頼朝の策を後押しした。
養和元年(1181年)、後白河法皇が信義に頼朝追討使に任じたという噂がまことしやかに鎌倉に流れた。これにより自らの武功で手に入れた『駿河守護』を解任されたうえ、鎌倉に召還されたのだった。
「信義、何故ここに呼ばれておるかわかっておるだろうな」
「佐殿はあのような戯れ言を真に受けておられるのか?」
だが、頼朝はそれに答えず、一番のお気に入りと言われる工藤祐経に命じて紙と硯を目の前に置いた。
「己の潔白を証明するのであれば、今この場で『子々孫々まで弓引くこと有るまじ』と起請文をしたためよ」
その場に居合わせた妻の政子、舅の北条時政が驚きのあまり息をのむ。ただ、頼朝だけは微動だにせずに細めた目で冷酷に信義を見つめている。信義は屈辱に耐え、両の拳を握りしめる。震える手で筆を執り、言われたままにしたためる。最後に歯で親指を噛み、それを己の署名の下につく。出来上がった起請文を祐経が手に取ると頼朝に差し出す。それに目を通して漸くニヤリと笑った頼朝。その姿に信義は薄ら寒いものを感じたのは言うまでもない。それと同時にあることを感じ取る。
(源氏の再興、なり難し)
そんな思いを抱えながらも一族を守るため、頼朝に膝をついた信義は悔しさを滲ませながら鎌倉をあとにしたのだった。そんな失意の信義に追い打ちを掛ける事件が起きる。
元暦元年(1184年)六月の鎌倉。嫡男である一条忠頼は宴席に呼ばれていた。だが、この宴席は忠頼を暗殺するために開かれたものだったのだ。
「一条忠頼、覚悟せよ!!」
忠頼は無残にも滅多斬りにされ討ち取られたのだった。
「父上!! あ、兄上が……」
「兼信、如何した?!」
次男・板垣兼信が部屋に飛び込んで来るなり、一通の書状を差し出す。それに目を通し信義の顔はみるみるうちに青ざめていった。
「馬鹿な……」
書状が手から滑り落ちる。そこが起点であったかの如く、甲斐源氏は頼朝によって切り崩されていった。気づけば信義は頼朝と同格の『武家の棟梁』ではなく『鎌倉殿(頼朝)の御家人』という扱いに転じたのだった。
あれから数年の時が経つ。信義は遂に死の床についた。甲斐源氏の嫡流として隆盛を誇っていた武田はその地位を加賀美に奪われつつあった。
「やはり以仁王は疫病神であったわ」
「父上……」
「あの令旨を奉って兵を挙げたばかりにこのような……」
「父上、お忘れか」
「信光?」
四男で武田の次期当主となることが決まっている信光が父の手を取り励ます。
「その昔、我らが祖・新羅三郎義光公は策を弄すも失敗し、常陸に落ち延びました。ですが、野心を忘れずおられたそうです」
「おお、そうであったな」
「そうです。まだ諦めるのは早うございます」
次男・兼信も手を重ねて励ます。それを信義は嬉しそうに目を細めた。
「天下を手に入れるためには『地の利・人の輪・天の時』が必要と申すではございませぬか!」
「そうであった」
「我らにはその『天の時』は手に入りませなんだが、必ずや後世その『時』を捕まえるものが現れましょう」
「そうでございます。我らはそのものが現れることを信じ、この血を伝えて参りましょう。そのための屈辱なら甘んじて受けましょうぞ」
「心配はいりませぬ。我らには御旗楯無がございます。必ずや我が武田が『武家の棟梁』となりましょう」
息子たちの力強い言葉に信義の頬には涙が伝い落ちた。
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