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陰の章
井伊谷の危機
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永禄十一年(1568年)十二月。信玄は甲府を出陣し駿河へと侵攻した。それに対して今川氏真は清見寺に出陣して薩田埵山倉沢で武田を迎え撃った。
「御館様、朝比奈信置・葛山氏元らがこちらに寝返ると知らせてきました」
「ほう、それは僥倖。それで、氏真はどうしておる?」
「先の両名が寝返ったことで駿府に撤退したようです」
信玄はその報告を受けながら、義信に耳打をした。
「いくら何でもやり過ぎではないか?」
「致し方ありませぬ。徳川との盟約もありますので……」
信玄は複雑な思いであった。氏真が出陣してくるとは思っていなかった。武田の大軍に恐れをなして降伏すると踏んでいたのだ。
「氏真殿にも当主の意地があるのでしょう」
「そうか……」
「それに武田に降るを良しとしない家臣もおります。それらを納得させるにはこうするより仕方ないのです」
義信の意見に信玄は頷くより仕方なかった。
「それよりも徳川の動きが気になります」
「あの若造か!」
信玄は三河の若き領主の事を思いながら腕を組む。義信はもたらされた情報を元に地図を指さしながら徳川の侵攻経路を予測していく。
「義信、井伊谷へは知らせておるのか?」
「はい。信之の勧めでコナーに向かって貰いました。コナーの馬ならば井伊谷まですぐにたどり着けます」
「確かに」
「何かあったとしてもコナーは一騎当千の強者でございます。勝てる者はそうはおりませぬ」
「うむ、そうであるな」
義信の明るい顔に信玄も納得するのであった。
一方、コナーは信之の依頼で井伊谷に向かっていた。
「コナー殿、この先は徳川の斥候がおるやもしれませぬ」
「その時はコイツで切り伏せる」
腰に下げた直剣を差し示す。それを見てため息をつく男は勝頼の無二の親友・真田昌幸に仕える望月仁左衛門。滋野三家・望月氏の庶流の出で、剣の腕もさることながら、情報収集能力にも長けていた。
「コナー殿、それは最終手段ですぞ」
「勿論だ」
「この森を抜ければ井伊谷……」
そこで仁左衛門は何かに気付いたように木の陰に身を隠した。すると、すぐ側を馬の嘶きと蹄が大地を蹴る音が聞こえる。どこかの伝令役であることは間違いない。
「あれは……」
「どちらだ?」
「徳川の者でしょう」
コナーは剣の柄に手をかけた。それを仁左衛門が止める。
「今は井伊谷に急ぎましょう。城主の直虎殿に会うのが先です」
仁左衛門の言葉にコナーは頷くのだった。
同じ頃、井伊谷城では家老・小野政次と城主・直虎は意見を交わしつつ、対応に追われていた。
「それで、太守様は?」
「朝比奈様、葛山様ら多くの家臣が武田に降ったことで早々に駿府に撤退されたそうです」
「他に何か掴んだことは?」
「徳川がこちらに向けて進軍をしていると」
「徳川様が!?」
直虎は頭を抱えた。井伊家は義元亡き後、常に綱渡りをしてきた。そして、今回が最も危険な綱渡りになることは間違いない。
「太守様は何故に御出陣されたのか……」
そう嘆く直虎を叱咤する政次。その目には何としても井伊家を守るという強い意志があった。
「殿、嘆いていても何もかありませぬ」
「そうですね。なんとかこの難局を乗り切らなくては……」
そんな二人の元に転がり込むように伝令役がやってきた。
「どうしました?」
「た、武田の……」
そう言いかけたところで大きな手がその伝令役の肩を掴んだ。
「お前は休んでいろ。あとは我々が直接話す」
「コナー殿?」
「今すぐにこの城を出ろ」
直虎が返事をする前に政次が進み出て拒絶した。
「この城を明け渡すなど、あり得ん!!」
「お気持ちは分かりますが、すぐそこまで徳川が迫っております」
コナーの後ろから現れた仁左衛門が道中で見かけた徳川の斥候の話をする。みるみる政次の顔が青ざめていく。
「どうやら、決断をするしかないようですね」
「殿……」
「政次、そなたは軍勢を率いて駿府に行きなさい」
「殿はどうなさるのです!?」
「城を明け渡し、百姓にでもなりましょう。元々尼僧だったのです。侘しい暮らしなど何するものです」
「殿……」
直虎はニコリと微笑む。だが、次の瞬間には険しい顔になり、家臣を広間に集め命令を発したのだった。
「義信様と盟約を結んだ以上、徳川に従う訳には参りません」
「殿ぉ……」
広間にはすすり泣く声や顔を伏せ拳を握りしめる姿があちこちに見受けられる。その中にあっても直虎は顔を上げ、説き伏せる。
「ここで井伊家が終わる訳ではありません」
「それは……」
「忘れたのですか? 我らには虎松と亥之助がおります。あの二人が必ずや井伊家を再興してくれるでしょう。その時、はせ参じて盛り立てて欲しいのです」
その言葉から今は耐えるときであると察したのだろうか。家臣たちは互いに顔を見合わせ、やがて気力を取り戻したかのように立ち上がった。
「そうですな! 我らには虎松様がおられます!!」
「そうじゃ、そうじゃ。何度も危機を乗り越えてきたんじゃ。これしきのこと!!」
その姿にホッとした直虎は政次に視線を送る。政次は心得たとばかりに頷いた。
「コナー殿。我らが城を出るお手伝いをしていただけないでしょうか?」
「無論、そのつもりだ。そのために俺はここに来たのだ」
「それは有り難い。では、すぐに支度をします故……」
「わかった」
こうして、直虎たちは井伊谷城を放棄し、野に下った。井伊家が抱えていた足軽などは政次に率いられ、駿府へと向かう。
入れ替わるようにして、徳川の軍勢が現れる。城のあちこちに徳川の旗がはためいた。
「悔しいですな……」
「仕方の無いことです」
「とはいえ、望みはあります!」
「そうですね。虎松が戻ってくれば取り返せるでしょう」
「そのためにも生き残らなくてはなりませんな!」
一人の老臣が鼻息も荒く宣言する。その姿に直虎は思わず吹き出したのだった。それに誘われるように皆にも笑顔が戻る。
「徳川など、何する者ぞ。必ずや井伊家の恐ろしさ、見せてやりましょう」
「そのためにも我らは生き残らねばなりません」
直虎の決意に皆が頷き合う。そして、もう一度井伊谷城を見上げた。まるでその姿を目に焼き付けるように……。
「さぁ、参りましょう」
仁左衛門に促され、井伊家の面々はその場を後にしたのだった。
(必ずや、井伊谷を取り戻してみせる。たとえ、どのような手を使ったとしても……)
最後にもう一度だけ城を振り返った直虎は誓いを新たにするのだった。
「御館様、朝比奈信置・葛山氏元らがこちらに寝返ると知らせてきました」
「ほう、それは僥倖。それで、氏真はどうしておる?」
「先の両名が寝返ったことで駿府に撤退したようです」
信玄はその報告を受けながら、義信に耳打をした。
「いくら何でもやり過ぎではないか?」
「致し方ありませぬ。徳川との盟約もありますので……」
信玄は複雑な思いであった。氏真が出陣してくるとは思っていなかった。武田の大軍に恐れをなして降伏すると踏んでいたのだ。
「氏真殿にも当主の意地があるのでしょう」
「そうか……」
「それに武田に降るを良しとしない家臣もおります。それらを納得させるにはこうするより仕方ないのです」
義信の意見に信玄は頷くより仕方なかった。
「それよりも徳川の動きが気になります」
「あの若造か!」
信玄は三河の若き領主の事を思いながら腕を組む。義信はもたらされた情報を元に地図を指さしながら徳川の侵攻経路を予測していく。
「義信、井伊谷へは知らせておるのか?」
「はい。信之の勧めでコナーに向かって貰いました。コナーの馬ならば井伊谷まですぐにたどり着けます」
「確かに」
「何かあったとしてもコナーは一騎当千の強者でございます。勝てる者はそうはおりませぬ」
「うむ、そうであるな」
義信の明るい顔に信玄も納得するのであった。
一方、コナーは信之の依頼で井伊谷に向かっていた。
「コナー殿、この先は徳川の斥候がおるやもしれませぬ」
「その時はコイツで切り伏せる」
腰に下げた直剣を差し示す。それを見てため息をつく男は勝頼の無二の親友・真田昌幸に仕える望月仁左衛門。滋野三家・望月氏の庶流の出で、剣の腕もさることながら、情報収集能力にも長けていた。
「コナー殿、それは最終手段ですぞ」
「勿論だ」
「この森を抜ければ井伊谷……」
そこで仁左衛門は何かに気付いたように木の陰に身を隠した。すると、すぐ側を馬の嘶きと蹄が大地を蹴る音が聞こえる。どこかの伝令役であることは間違いない。
「あれは……」
「どちらだ?」
「徳川の者でしょう」
コナーは剣の柄に手をかけた。それを仁左衛門が止める。
「今は井伊谷に急ぎましょう。城主の直虎殿に会うのが先です」
仁左衛門の言葉にコナーは頷くのだった。
同じ頃、井伊谷城では家老・小野政次と城主・直虎は意見を交わしつつ、対応に追われていた。
「それで、太守様は?」
「朝比奈様、葛山様ら多くの家臣が武田に降ったことで早々に駿府に撤退されたそうです」
「他に何か掴んだことは?」
「徳川がこちらに向けて進軍をしていると」
「徳川様が!?」
直虎は頭を抱えた。井伊家は義元亡き後、常に綱渡りをしてきた。そして、今回が最も危険な綱渡りになることは間違いない。
「太守様は何故に御出陣されたのか……」
そう嘆く直虎を叱咤する政次。その目には何としても井伊家を守るという強い意志があった。
「殿、嘆いていても何もかありませぬ」
「そうですね。なんとかこの難局を乗り切らなくては……」
そんな二人の元に転がり込むように伝令役がやってきた。
「どうしました?」
「た、武田の……」
そう言いかけたところで大きな手がその伝令役の肩を掴んだ。
「お前は休んでいろ。あとは我々が直接話す」
「コナー殿?」
「今すぐにこの城を出ろ」
直虎が返事をする前に政次が進み出て拒絶した。
「この城を明け渡すなど、あり得ん!!」
「お気持ちは分かりますが、すぐそこまで徳川が迫っております」
コナーの後ろから現れた仁左衛門が道中で見かけた徳川の斥候の話をする。みるみる政次の顔が青ざめていく。
「どうやら、決断をするしかないようですね」
「殿……」
「政次、そなたは軍勢を率いて駿府に行きなさい」
「殿はどうなさるのです!?」
「城を明け渡し、百姓にでもなりましょう。元々尼僧だったのです。侘しい暮らしなど何するものです」
「殿……」
直虎はニコリと微笑む。だが、次の瞬間には険しい顔になり、家臣を広間に集め命令を発したのだった。
「義信様と盟約を結んだ以上、徳川に従う訳には参りません」
「殿ぉ……」
広間にはすすり泣く声や顔を伏せ拳を握りしめる姿があちこちに見受けられる。その中にあっても直虎は顔を上げ、説き伏せる。
「ここで井伊家が終わる訳ではありません」
「それは……」
「忘れたのですか? 我らには虎松と亥之助がおります。あの二人が必ずや井伊家を再興してくれるでしょう。その時、はせ参じて盛り立てて欲しいのです」
その言葉から今は耐えるときであると察したのだろうか。家臣たちは互いに顔を見合わせ、やがて気力を取り戻したかのように立ち上がった。
「そうですな! 我らには虎松様がおられます!!」
「そうじゃ、そうじゃ。何度も危機を乗り越えてきたんじゃ。これしきのこと!!」
その姿にホッとした直虎は政次に視線を送る。政次は心得たとばかりに頷いた。
「コナー殿。我らが城を出るお手伝いをしていただけないでしょうか?」
「無論、そのつもりだ。そのために俺はここに来たのだ」
「それは有り難い。では、すぐに支度をします故……」
「わかった」
こうして、直虎たちは井伊谷城を放棄し、野に下った。井伊家が抱えていた足軽などは政次に率いられ、駿府へと向かう。
入れ替わるようにして、徳川の軍勢が現れる。城のあちこちに徳川の旗がはためいた。
「悔しいですな……」
「仕方の無いことです」
「とはいえ、望みはあります!」
「そうですね。虎松が戻ってくれば取り返せるでしょう」
「そのためにも生き残らなくてはなりませんな!」
一人の老臣が鼻息も荒く宣言する。その姿に直虎は思わず吹き出したのだった。それに誘われるように皆にも笑顔が戻る。
「徳川など、何する者ぞ。必ずや井伊家の恐ろしさ、見せてやりましょう」
「そのためにも我らは生き残らねばなりません」
直虎の決意に皆が頷き合う。そして、もう一度井伊谷城を見上げた。まるでその姿を目に焼き付けるように……。
「さぁ、参りましょう」
仁左衛門に促され、井伊家の面々はその場を後にしたのだった。
(必ずや、井伊谷を取り戻してみせる。たとえ、どのような手を使ったとしても……)
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