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陰の章
信長の上洛
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永禄十一年(1568年)二月。信玄は三河の徳川家康と誓詞を交わし、駿河侵攻の協力を約束した。
「では、大井川を境とし、東を武田、西を徳川で国分けするということで宜しいか?」
「それで構いませぬ」
こうして、駿河侵攻は着々と進められる。
三月、信玄は工藤昌秀に信濃にある深志城の普請を督促する。
「義昭様があちこちに上洛と将軍職就任の協力を求めておるようだ。上杉は関東管領。恐らくは真っ先に動くであろう」
「これを機に攻め入ってくることも考えられます。城普請を急がせます」
「うむ。頼むぞ」
信玄は信濃の防備を固めると供に上杉輝虎の動きを牽制すべく、策を練るのだった。
その頃、北条に嫁いだ梅の元を一人の男が訪ねてきていた。
「勘助? 一体どうしたのです?」
「箱根で湯治をしておりましたが、熱海にも傷に効く湯があると伺い……」
「まぁ、それではここまで来るのは大変でしたでしょう」
「熱海の湯が体に合ったのでしょう。それほど苦労はございませんでした」
「それはよかった」
梅はホッとしたが、すぐに厳しい表情に代わる。
「それで用向きは何ですか?」
「その前にお人払いを……」
勘助の鋭い視線にただならぬものを感じ、梅は一人を残し侍女たちを下がらせる。
「梅様……」
「案ずることはありません。信頼の置けるものです」
「しかし」
「この者は鈴。武田家に長らく仕えてきた素波の出で、父上がわたくしの身を案じて遣わせた侍女です」
「鈴と申します。以後、お見知りおきを……」
「左様でございましたか」
勘助は安堵の表情を浮かべ、鈴が同席することを許した。
「それで、父上は何と?」
「御館様はいよいよ駿河侵攻を決断なさいました」
「そうですか……」
「それに際しまして、梅様には覚悟していただきたく」
「分かっております。武田と北条は手切れということですね」
勘助は静かに頷いた。察しは付いていたとはいえ、梅の心は引き裂かれそうなほど痛む。
「わたくしも覚悟はしております」
「御館様は【暫くの辛抱である】と……」
「え?」
勘助は懐から一通の書状を取り出し、差し出した。梅はそれを手に取り、一気に読み進める。その内容に目を見開かざるを得なかった。
「御本城様(北条氏康)もご承知の事なのですか?」
「はい。此度の侵攻を隠れ蓑に上杉乗っ取りを実行に移されるつもりです」
「そのために敢えて北条と手を切るとは……」
「そうまでせねば、天下人にはなれぬと仰せです」
「天下人!?」
「新羅三郎義光公以来の武田家の悲願。何としても叶えると……」
「そういうことですか」
「氏政殿と仲睦まじい夫婦であると覗っております。御館様もそれを引き裂くことは心苦しいのです。ですが、その先にある平穏な世を作るために心を鬼にして挑まれる所存と……」
「分かりました。わたくしもその礎になりましょう」
梅の決意に勘助は両の拳を握りしめる。その拳に梅が手を重ね、笑みを向けた。
「梅様?」
「わたくしは氏政様の妻であると同時に武田の姫です。見事に立ち回ってみせましょう」
梅の強い決意に感服する勘助だった。
瞬く間に時は過ぎる。足利義昭が望んでいた北条・武田・上杉の和睦は信長をもってしてもならなかった。木下藤吉郎からのもたらされた報告がそれを如実に現している。
「上杉の家臣・本庄繁長が反旗を翻し、それに呼応するように加賀・越中の一向宗が越後に攻め込んだそうにございます」
「信玄はそれにかこつけて信越国境に進攻し、更に越中の神保長職父子も呼応したようです」
「では、上杉・武田はあてに出来ぬか……」
「信玄は駿河に侵攻する素振りもあります。そうなれば、北条と手切れとなるやもしれませぬ」
「面倒なことになるな……」
柴田勝家・丹羽長秀と供に信長は頭を悩ませる。三人の口から漏れるのはため息ばかりだ。そこへ明智光秀がやってくる。
「義昭様がお呼びです」
「やれやれ、また癇癪を起こされたか……」
信長が深いため息をつき立ち上がる。勝家・長秀に目配せをして下がらせる。藤吉郎に何事か耳打をして下がらせると、自身は義昭の元に向かう。
「光秀。俺は何か聞いておくことがあるか?」
「いつも以上にだだをこねておられます」
「やれやれ……」
「わたくしも何とかお諫めしたのですが……」
光秀が申し訳なさそうに眉を下げる。信長は肩をすくめて、苦笑するのだった。
光秀の案内で義昭の部屋に入ると、部屋は散らかり放題であった。どうやら目にとまる物を手当たり次第投げ散らかしたのだろう。その惨状に信長も眉をひそめる。光秀が詫びるように目を伏せる。
(足利の嫡流でなければすぐにでも追い出すところだ)
信長は拳を握りしめ、目を細めた。
「信長!! これはどういうことか!?」
「どういうことかとは?」
「なぜ、上杉も武田も余の上洛に協力しない」
義昭は肩で息をしながら、怒りを露わにする。それを信長は冷ややかに見つめる。だが、義昭はそれにすら気付かず、わめき散らすのだった。
「義昭様、皆それぞれ事情があるのです」
「余の上洛以上に大事なことか!?」
義昭は手にした扇を折れよとばかりに握りしめる。信長はこれ見よがしにため息をついて胡座を掻くと義昭に進言する。
「ご案じめさるな」
「どういうことか?」
「この上総介信長、全身全霊をもって義昭様を将軍職にお就きになる手伝いをいたします」
信長が深々と頭を下げるのを見て、義昭の溜飲が下がる。
「幸い、美濃は京に近く、浅井も協力を惜しまぬと申し出ております」
「支度が調い次第、上洛じゃ!!」
「ハッ」
信長が自分の意見に同意したことを喜び、義昭は意気揚々と部屋を後にした。
「光秀」
「何でございましょう?」
「そなた、どちらに付くか考えておいた方が良いぞ」
肩越しに振り返った信長の視線は冷たかった。それが何を意味するのか分からぬ光秀ではない。
「分かっております」
「上洛するまでに考えを纏めておくことだ」
信長の冷ややかな言葉に光秀はただ頷くだけだった。
秋の気配が迫った九月。信長は義昭を奉じて上洛を開始。北近江の浅井長政は信長の妹・お市を娶り、縁戚となり同盟を結んでいたためさほど苦労なく洛中に入ることが出来たのだった。その後、義昭は正式に征夷大将軍の任官を受け、名実ともに室町幕府十五代将軍となったのだった。将軍となった義昭は幕府再興に向けて動き出すのだった。
「やれやれ、誰のおかげで今の地位に就けたと思われておるのか……」
「ただの【神輿】だと分からぬとは哀れな方だ」
「捨ておけ。今は使える物は全て使う。我らが思う通りに動くうちは放っておけ」
信長は家臣たちにしばらくは義昭の自由にさせてやるように申しつけた。同時に光秀には常に目を光らせるように命じた。
「勝手な真似をするようであればすぐに知らせろ」
「御意……」
光秀は複雑な表情でその命令を受け止めたのだった。
十月、信玄の駿河侵攻が現実味を帯びていた躑躅ヶ崎館には多くの足軽が集められ、馬の嘶き、諸将への指示が次々と発せられていた。
「今川は国境を封鎖したようですな」
「簡単には降伏せぬか……」
「どうやら、輝虎とも誼を結び、背後を牽制させようとしているようです」
信玄はどうしたものかとうなじを撫でる。
「義信、駿府を明け渡すとの話は真であろうな?」
「間違いありません。ただ……」
「ただ?」
「世間の目を欺くためにはそれらしく振るわなくてはなりません」
信玄はため息をついた。義信の言わんとしていることが分かったからだ。
「天下人の道はやはり厳しいのぉ」
信玄は諦め気味にぼやく。だが、次の瞬間にはその目を見開き全軍に号令する。
「支度が調い次第、駿河に侵攻する!」
家臣たちはそれを待っていましたとばかりに、鬨の声を上げるのだった。
「では、大井川を境とし、東を武田、西を徳川で国分けするということで宜しいか?」
「それで構いませぬ」
こうして、駿河侵攻は着々と進められる。
三月、信玄は工藤昌秀に信濃にある深志城の普請を督促する。
「義昭様があちこちに上洛と将軍職就任の協力を求めておるようだ。上杉は関東管領。恐らくは真っ先に動くであろう」
「これを機に攻め入ってくることも考えられます。城普請を急がせます」
「うむ。頼むぞ」
信玄は信濃の防備を固めると供に上杉輝虎の動きを牽制すべく、策を練るのだった。
その頃、北条に嫁いだ梅の元を一人の男が訪ねてきていた。
「勘助? 一体どうしたのです?」
「箱根で湯治をしておりましたが、熱海にも傷に効く湯があると伺い……」
「まぁ、それではここまで来るのは大変でしたでしょう」
「熱海の湯が体に合ったのでしょう。それほど苦労はございませんでした」
「それはよかった」
梅はホッとしたが、すぐに厳しい表情に代わる。
「それで用向きは何ですか?」
「その前にお人払いを……」
勘助の鋭い視線にただならぬものを感じ、梅は一人を残し侍女たちを下がらせる。
「梅様……」
「案ずることはありません。信頼の置けるものです」
「しかし」
「この者は鈴。武田家に長らく仕えてきた素波の出で、父上がわたくしの身を案じて遣わせた侍女です」
「鈴と申します。以後、お見知りおきを……」
「左様でございましたか」
勘助は安堵の表情を浮かべ、鈴が同席することを許した。
「それで、父上は何と?」
「御館様はいよいよ駿河侵攻を決断なさいました」
「そうですか……」
「それに際しまして、梅様には覚悟していただきたく」
「分かっております。武田と北条は手切れということですね」
勘助は静かに頷いた。察しは付いていたとはいえ、梅の心は引き裂かれそうなほど痛む。
「わたくしも覚悟はしております」
「御館様は【暫くの辛抱である】と……」
「え?」
勘助は懐から一通の書状を取り出し、差し出した。梅はそれを手に取り、一気に読み進める。その内容に目を見開かざるを得なかった。
「御本城様(北条氏康)もご承知の事なのですか?」
「はい。此度の侵攻を隠れ蓑に上杉乗っ取りを実行に移されるつもりです」
「そのために敢えて北条と手を切るとは……」
「そうまでせねば、天下人にはなれぬと仰せです」
「天下人!?」
「新羅三郎義光公以来の武田家の悲願。何としても叶えると……」
「そういうことですか」
「氏政殿と仲睦まじい夫婦であると覗っております。御館様もそれを引き裂くことは心苦しいのです。ですが、その先にある平穏な世を作るために心を鬼にして挑まれる所存と……」
「分かりました。わたくしもその礎になりましょう」
梅の決意に勘助は両の拳を握りしめる。その拳に梅が手を重ね、笑みを向けた。
「梅様?」
「わたくしは氏政様の妻であると同時に武田の姫です。見事に立ち回ってみせましょう」
梅の強い決意に感服する勘助だった。
瞬く間に時は過ぎる。足利義昭が望んでいた北条・武田・上杉の和睦は信長をもってしてもならなかった。木下藤吉郎からのもたらされた報告がそれを如実に現している。
「上杉の家臣・本庄繁長が反旗を翻し、それに呼応するように加賀・越中の一向宗が越後に攻め込んだそうにございます」
「信玄はそれにかこつけて信越国境に進攻し、更に越中の神保長職父子も呼応したようです」
「では、上杉・武田はあてに出来ぬか……」
「信玄は駿河に侵攻する素振りもあります。そうなれば、北条と手切れとなるやもしれませぬ」
「面倒なことになるな……」
柴田勝家・丹羽長秀と供に信長は頭を悩ませる。三人の口から漏れるのはため息ばかりだ。そこへ明智光秀がやってくる。
「義昭様がお呼びです」
「やれやれ、また癇癪を起こされたか……」
信長が深いため息をつき立ち上がる。勝家・長秀に目配せをして下がらせる。藤吉郎に何事か耳打をして下がらせると、自身は義昭の元に向かう。
「光秀。俺は何か聞いておくことがあるか?」
「いつも以上にだだをこねておられます」
「やれやれ……」
「わたくしも何とかお諫めしたのですが……」
光秀が申し訳なさそうに眉を下げる。信長は肩をすくめて、苦笑するのだった。
光秀の案内で義昭の部屋に入ると、部屋は散らかり放題であった。どうやら目にとまる物を手当たり次第投げ散らかしたのだろう。その惨状に信長も眉をひそめる。光秀が詫びるように目を伏せる。
(足利の嫡流でなければすぐにでも追い出すところだ)
信長は拳を握りしめ、目を細めた。
「信長!! これはどういうことか!?」
「どういうことかとは?」
「なぜ、上杉も武田も余の上洛に協力しない」
義昭は肩で息をしながら、怒りを露わにする。それを信長は冷ややかに見つめる。だが、義昭はそれにすら気付かず、わめき散らすのだった。
「義昭様、皆それぞれ事情があるのです」
「余の上洛以上に大事なことか!?」
義昭は手にした扇を折れよとばかりに握りしめる。信長はこれ見よがしにため息をついて胡座を掻くと義昭に進言する。
「ご案じめさるな」
「どういうことか?」
「この上総介信長、全身全霊をもって義昭様を将軍職にお就きになる手伝いをいたします」
信長が深々と頭を下げるのを見て、義昭の溜飲が下がる。
「幸い、美濃は京に近く、浅井も協力を惜しまぬと申し出ております」
「支度が調い次第、上洛じゃ!!」
「ハッ」
信長が自分の意見に同意したことを喜び、義昭は意気揚々と部屋を後にした。
「光秀」
「何でございましょう?」
「そなた、どちらに付くか考えておいた方が良いぞ」
肩越しに振り返った信長の視線は冷たかった。それが何を意味するのか分からぬ光秀ではない。
「分かっております」
「上洛するまでに考えを纏めておくことだ」
信長の冷ややかな言葉に光秀はただ頷くだけだった。
秋の気配が迫った九月。信長は義昭を奉じて上洛を開始。北近江の浅井長政は信長の妹・お市を娶り、縁戚となり同盟を結んでいたためさほど苦労なく洛中に入ることが出来たのだった。その後、義昭は正式に征夷大将軍の任官を受け、名実ともに室町幕府十五代将軍となったのだった。将軍となった義昭は幕府再興に向けて動き出すのだった。
「やれやれ、誰のおかげで今の地位に就けたと思われておるのか……」
「ただの【神輿】だと分からぬとは哀れな方だ」
「捨ておけ。今は使える物は全て使う。我らが思う通りに動くうちは放っておけ」
信長は家臣たちにしばらくは義昭の自由にさせてやるように申しつけた。同時に光秀には常に目を光らせるように命じた。
「勝手な真似をするようであればすぐに知らせろ」
「御意……」
光秀は複雑な表情でその命令を受け止めたのだった。
十月、信玄の駿河侵攻が現実味を帯びていた躑躅ヶ崎館には多くの足軽が集められ、馬の嘶き、諸将への指示が次々と発せられていた。
「今川は国境を封鎖したようですな」
「簡単には降伏せぬか……」
「どうやら、輝虎とも誼を結び、背後を牽制させようとしているようです」
信玄はどうしたものかとうなじを撫でる。
「義信、駿府を明け渡すとの話は真であろうな?」
「間違いありません。ただ……」
「ただ?」
「世間の目を欺くためにはそれらしく振るわなくてはなりません」
信玄はため息をついた。義信の言わんとしていることが分かったからだ。
「天下人の道はやはり厳しいのぉ」
信玄は諦め気味にぼやく。だが、次の瞬間にはその目を見開き全軍に号令する。
「支度が調い次第、駿河に侵攻する!」
家臣たちはそれを待っていましたとばかりに、鬨の声を上げるのだった。
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