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陰の章

松姫の婚約

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永禄十年十月、躑躅ヶ崎つつじがさきやかた美濃みのから使者が到着する。それは斉藤さいとう龍興たつおきを破り、美濃を手中に収めた織田信長の家臣であった。

「武王丸様のご誕生、おめでとうございます」
「かたじけない。織田殿に宜しゅうお伝え下され」

信玄は型通りの挨拶を交わしながら使者の真意を探るように睨みつける。だが、使者は臆することなく目録と称して文箱を差し出したのだった。

「これは主君・信長より信玄公へ直々にお渡しせよと申し使ったものにございます」
「おお、それはかたじけない」

信玄は控えていた工藤昌秀に目配せして、その文箱を自分の元へ引き寄せる。中を確認する間、使者は平伏していたがその視線は鋭かった。
恐らく、使者は武王丸誕生の祝いを口実にやってきたのだ。密命を帯びているに違いない。だが、信玄はそれに気付いていないフリをしながらにこやかにもてなした。

「御使者殿は険しい山道を越えて来られた。今宵は甲府の秘湯に浸かり疲れを癒やされると良かろう」
「お気遣い、痛み入ります」

使者は案内されるままに広間を後にしたのだった。



信玄は奥の間に弟の信廉のぶかどの他、義信・信之・工藤昌秀くどうまさひで山縣昌景やまがたまさかげだけを呼び入れ、目録と供に文箱に入っていたもう一通の書状を取り出した。

「これは?」
「信長は余程儂が恐いらしい」

信玄はそれを広げると皆の前に投げ出す。それを信廉が手に取り、義信・信之と順に目を通した。

「自身の嫡男・奇妙丸の嫁に二人の姫のうち一人をよこせと言うてきおった」
「菊か松を嫁にくれと? それはまた無謀な……」

信之の言葉に皆苦笑せずにはいられなかった。何と言ってもあの二人のじゃじゃ馬ぶりは家臣団のだれもが知ることだ。それを思えば当然の反応だと言えた。

「信長は義昭様を奉じて上洛する腹づもりのようだ」
「如何いたします?」
「断る理由もない」
「では、どちらを……」
「それについては儂に一任してくれ」

それだけ言うと信玄は書状を懐へしまい、話を打ち切った。



北の方へと下がった信玄が見つけたのは庭で剣術のまねごとをしている松だった。虎松や亥之助いのすけの姿も見える。

「亥之助、今度こそ一本取れよ!」
「そんなこと言われても……」
「お前は井伊の家老になるんだぞ! 松なんかに後れを取るな!!」
「ひぃぃぃ」

虎松にせっつかれて仕方なく木刀を手にしている亥之助。対するはたすき掛けしていつでも勝負出来るとばかりに気合い十分の松。

「松、亥之助なんか吹っ飛ばして良いからね」
「そのつもりです」

そんな松を菊が囃し立てる。そして、勝負は始まった。松はとても六つとは思えぬ足運びで間合いを詰めていく。対する亥之助は及び腰で切っ先が震えていた。

「たぁ!!」
「ぐえぇ」

勝負はあっさり決まる。松の木刀が素早く振り下ろされ、亥之助のそれを弾き飛ばしたのだ。その拍子に尻餅をついた。

「あたたた……」

亥之助が尻をさすっていると松がのぞき込んでくる。

「亥之助……」
「はい?」
「もう改名した方が良いんじゃない?」

亥之助が呆気にとられていると、松はニコリと笑みを浮かべてトドメの言葉を告げた。

いのししよりも、柔らかくて丸い餅にすれば」
「へ?」

それに吹き出しす虎松と菊。

「餅之助って……」
「ブッ」

余程、笑いのツボにはまったのか。菊と虎松は腹を抱えて笑い出した。それをガックリ項垂れて聞いている亥之助だった。
不意に松が何かに気付いたように視線をあげる。そこに父の姿を見つけ、気まずそうに目を逸らすとあらぬ方向へとかけ出してしまった。

「松?」

菊や虎松が止めるのも聞かず、松は「遠乗りにいく」と言い残して走り去ったのだった。信玄は侍女の千枝を呼び、三人を着替えさせるように命じる。そして、自身は松の後を追ったのだった。



松は甲府の街を見下ろせる丘に来ていた。そこは以前母に連れてきて貰った場所でお気に入りでもあった。

「こんなところで何をしておる」
「父上……」

信玄は膝を抱えて座り込む松の隣に胡座を搔く。松はチラリと視線をよこしただけで信玄の顔を見ようとしない。

「父上……」
「うん?」
「勝頼兄様は本当は母上の子なんですか?」
「松……」

信玄はどう話すべきか、逡巡する。松の真っ直ぐな瞳に下手な嘘は通じないと感じ、真実を話すことにした。

「父上?」
「そうだ。勝頼と絵里は実の親子だ。訳あって、そなたが生まれる前から他人であるように振る舞っておる」
「何故です?」
獅子しし身中しんちゅうの虫、という言葉を知っておるか?」

突然話が変わったので松は困惑したように信玄を見上げ、首を横に振る。信玄は松の頭を優しく撫で、その意味を教える。

「獅子は王者の事よ。そして、その内に潜む悪しき者を獅子身中の虫というのじゃ」
「武田にもそのような者がおったのですか?」
「おった。それも簡単には追い出せぬほど武田の奥深くを知る者だった」
「そのために母上は他人に?」
「そうじゃ、父が至らぬ故な」

信玄は悲しげな笑みを浮かべる。その表情からどうしようもなかったことを悟る松。それでもやるせない気持ちは変わらず俯く。

「この先ずっと他人のフリを続けるのですか?」
「そんなことはさせん!」
「でも……」

松は無理だと言わんばかりに見上げる。それを見て信玄は意味ありげな笑みを浮かべる。

「儂が天下人になって二人は親子じゃと言えば良い。天下人の言うことに文句を言う者はおらぬからな」
「それはどのくらい先のことですか?」
「そ、それは……」

信玄は口籠もる。信玄は既に四十五を過ぎ、壮年の域に達している。家督を継ぎ信濃を平定するまでに二十年以上費やして来た。それゆえ、はっきり言うことが出来なかった。

「難しい問いじゃ」
「なんで?」
「天下を取るには必要なものが三つある」
「三つ?」
「【地の利】【人の輪】【天の時】。この三つがは揃って初めて天下人となれる」
「父上はどれも持ってないって事?」
「残念ながらそうじゃ」

信玄は素直に認めるが決して諦めた訳ではないことを示すように胸を張って続けた。

「まず【地の利】。甲斐には金山があり、馬が多い。これを使って人を増やし、兵を強くすることが出来る。だが、京からは遠い。故に上洛じょうらくがなかなか叶わぬ」

信玄は敢えて長所短所を語って聞かせる。松はそれを黙って聞いている。

「次に【人の輪】。ようは人手だ。川のつつみを整え、田畑を増やし、人々が安心して暮らせるようにした。そのことで人は増えた。だが、その者たちを正しく導く者がまだ足らぬ。儂の命令を間違いなく伝えて従わせる者がな」
「でも、父上にはたくさん家臣がいるでしょ?」
「天下を治めるにはまだまだ足らぬ。ましてや、戦で失った者もおる。更には儂に刃向かったので追い出した者もおる」

信玄は若き日の失敗で命を落とした板垣信方いたがきのぶかた甘利虎康あまりとらやすの顔を思い浮かべた。二人は自分の可能性を信じてその命を戦場で散らした。川中島で重傷を負った信繁のぶしげや勘助。更に二年前の騒動で追放せざるを得なかった飯富虎昌おぶとらまさ
その力を引き出しきれなかったことを信玄は悔やんでいるのだ。

「父上?」
「誰一人として同じ者はおらぬ。故になかなか儂の思う通りに人が集まらぬのよ」
「ふ~ん……」
「最後の【天の時】。これが一番難儀なんぎでな。余程のことがなければ手に入らぬ」
「そんなに難しいのですか?」
「難しいぞ。なんせ、儂らのご先祖様は何度も失敗しておる。それで悔しい思いをされてきたのだ」
「それでは父上も無理って事?」
「かもしれぬ。【地の利】【人の輪】が未だ揃わぬからな」

その言葉に松は目を伏せ、溢れそうになる涙を見せないように俯く。そんな娘の頭を信玄は優しく撫でてやる。

「松よ。父は決して諦めた訳ではない」
「え?」
「人の輪は繋がりが大事じゃ。だからこそ、養子に出したり嫁に送り出したりしておる」

松は顔を上げて、父の心を読み取ろうとした。

「私もお嫁に行くのですか?」
「そうなる」
「父上のために?」
「武田のため、天下のためだ」

信玄は大げさに話をしてみる。その方が松の心に響くと思っての事だった。その目論見は当たり、松は神妙な顔つきになった。

「松は不細工は嫌です」
「とびきりのいい男を見つけてやろう」
「頭が悪いのも嫌いです」
「それも抜かりない」
「剣も馬も得意でないと嫌です」
「大名の子息なれば大丈夫じゃ」

松はチラリと父の顔を覗う。信玄は問いきりの笑みを浮かべて頭を撫でてやる。松はその父の懐に飛び込んでギュッと抱きついた。

「素敵な婿様を見つけてきて下さい」
「案ずるな。既に目星は付けてある」
「え?」
「美濃を獲った織田信長が嫡男の嫁にそなたか菊をと所望してきた」
「父上は……」
「織田信長と言えば【尾張の大うつけ】と呼ばれた男。その息子となれば相当肝の据わった女子でなければ嫁は務まらぬだろう」

勘の鋭い松には父が言わんとしていることが分かった。

「お名前は……、何とおっしゃるのですか?」
「奇妙丸、と申したか……」
「奇妙丸?」

松の眉間に皺が寄る。当然の反応ではある。奇抜なその名に信玄も苦笑せざるを得ない。

「問題は中身じゃ。今、織田の使者が来ておるから問い詰めてみるか?」
「うん!」

松の顔に笑顔が戻った。信玄も安心したように優しい笑みを浮かべる。二人は轡を並べて館へと戻ったのだった。



翌日、織田の使者は信玄から直々に呼び出されたことで良い返事を貰えるものと意気揚々と現れた。だが、待っていたのは松からの膨大な質問であった。

「それで奇妙丸様はどんなお方なのですか?」
「織田家の嫡男です」
「それ、答えにになっていない」
「えっと……」

松の鋭い指摘に使者はタジタジだ。それを傍目に見ている菊たちが必死で笑いを堪えている。

「特技は?」
「剣術や馬術でしょうか……」
「武家の嫡男だから当たり前でしょ」
「そ、そうですな」
「他には?」
のうに興味がおありのようです」
「能?」
「はい。ですが、父君は武将の好むものではないと窘めておられて……」

松は納得いかなそうな顔で文句を言い始める。使者は困ったように頭を搔き助けを求めるように視線を彷徨わせていたのだった。

「なんだか、話がすり替わってしもうたわい」
「そうみたいですね」

松の様子を見ながら困惑気味の信玄とそれに寄り添う絵里の姿があった。

「子供とはよく見ておる者なのですね」
「ああ。儂も直見に指摘されるまで気付かなかなんだ」
「ですが、良い方向にいきそうですね」
「だと良いが……」

信玄は絵里を抱き寄せながら、質問攻めにする松の姿を見守るのだった。



それから三日後。信玄は使者に信長の申し出を受け入れ、松を嫁に出すと返事をしたのであった。

「主君・信長も喜びますでしょう」
「しばらくはこちらで預かるということで良いか?」
「それは構いませぬ」
「奇妙丸様、元服の暁にはお迎えいたすということで……」
「ふむ。では、そのように話を進めて下され」

使者は信玄からの色よい返事に満面の笑みを浮かべ甲府を後にしたのだった。


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