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陰の章

井伊谷の女地頭

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永禄十年(1567年)三月初旬。かねて上野へ侵攻していた武田は真田幸綱の策により、白井城を攻略していた。そして、上杉輝虎が越後に帰国したのを見計らい西上野にしこうずけへと出陣する。

箕輪城みのわじょうへ移り、春日虎綱(香坂から復姓)とよくよく相談して普請・知行の下知を受けるように」

信玄は真田幸綱・信綱父子に白井城攻略を賞するとともにそう命じたのであった。



「御館様……」
「なんだ?」

いつになく神妙な面持ちで声をかけてきた幸綱に信玄は問い返した。幸綱の表情に思い当たるものがあり、信玄は人払いを命じる。

「聞きたいことがあるのならば、遠慮無く申せ」
「では、遠慮無く……」

幸綱は一度大きく息を吸ってから、信玄に問いただした。いつまで義信を幽閉するつもりなのか、と。

「そのことなのだが……」
「御館様?」

信玄は困ったように丸めた頭を撫でる。その様子に幸綱は首をかしげるのだった。



季節が春から夏へと移り変わる五月、高遠城たかとうじょうでは城主・勝頼に男児が誕生し、歓喜に沸いていた。というのも、義信・信親・信之にいずれも男児はなく武田にとって次代を担う若君の誕生となったため、皆から祝福を受けていたのである。

「ほう、これはなんとも玉のような若君にございますな」

龍に抱きかかえられた男児・武王丸をのぞき込むのは勝頼の近習である跡部右衛門尉昌忠だ。勝頼も嬉しそうにしている。

「まさかこれほど早く男児を授かるとは思ってもみなかった」
「しかし、また風当たりが強うなりますな」

昌忠の言葉に勝頼は苦笑する。信玄暗殺騒動から既に二年近くが経とうとしているが、勝頼への風当たりは強かった。その証拠に武王丸誕生を快く思わない者が幾人かいたのである。

「そのようなこと気にしても始まりますまい。民も喜んで、祝いの品を届けてくれています。それに礼を述べるのが先にございましょう」
「左様でございますな」

龍の言葉に昌忠も頷き、その処理のために下がっていった。その姿を見送りながら、勝頼は申し訳なさそうに眉を下げる。

「気を遣わせたか?」
「いえ、嫁いできたときから分かっていたことですので……」

龍は優しい笑みを浮かべた。その笑みに勝頼は救われる。息子共々抱き寄せ、何としてでも守り抜くと決意を新たにする。キツく抱きすぎたせいか、武王丸がぐずり始めた。

「強く抱きすぎたか?」
「お腹が空いたのでしょう」
「そうか……」

龍が着物をはだけ父を含ませる。すると、武王丸は勢いよく吸い始めた。そんな息子の姿を微笑ましく見つめる勝頼。

(この幸せをなんとしても守らねば……)

思いも新たに拳を握りしめた。すると、後ろに気配を感じる。勝頼はその他だなならぬ気配に身構えた。

「そう、身構えずとも良い」

苦笑しながら現れたのは東光寺に幽閉されているはずの長兄・義信だった。頬が少しこけ、髭も伸び放題のその顔にさすがの勝頼も驚いた。

「大兄上……」
「幽霊でも見たような顔だな」

義信が苦笑に困惑気味の勝頼。そんな夫の姿に気を遣ってか、龍が武王丸を寝かしつけるといってその場を離れた。

「折角の家族団らんを台無しにしたか?」
「そのようなことはございません」
「そうか……」

義信はホッとしたように笑みを浮かべる。

「どうやって東光寺を?」
「ああ、私の幽閉は【表向き】だからな。いつでも抜け出せる」
「何かの策でございますか?」
「そんなところだ」

義信の答えに勝頼はただ頷いた。

「それで、用向きは?」
「そなたに聞きたいことがある」

義信の表情が一変したので勝頼は気を引き締める。

「そんなに硬くなるな」
「ですが、これはお家の一大事に関わることでございましょう?」
「まぁ、そうではあるが……」

義信は仕方ないといったふうで尋ね始める。それは遠江の情勢であった。今川の粛正で三河の徳川家康(先年、松平元康から改めた)に内通する者が増えてきている。

「その急先鋒だったのが井伊いい家ですが……」
「どうした?」
「当主であった直親なおちかが五年前に朝比奈泰朝に攻め滅ぼされました」
「そんなことがあったのか」
「まぁ、当然の報いでしょうけど」

勝頼の当然といわんばかりの表情に義信は訝しんだ。勝頼は井伊家の事情を説明する。

井伊家の先代当主であった直盛なおもりには一人娘しかおらず、男子がなかった。そこで年の離れた従弟である直親を一人娘・とわと娶せることで嗣子とすることに決めたのだ。
ところが直親の父・直満なおみつ(直盛にとっては叔父)が筆頭家老の小野政直の讒言ざんげんにより義元に誅殺される。連座による処罰から逃れるために直親は井伊谷から連れ出され、信濃の伊那いなにかくまわれた。このとき直親の生死が秘匿されたため、許嫁いいなづけであったとわは出家することになる。
その後、弘冶元年に直親が井伊谷に帰還する。だが、許嫁であったとわは出家していたため、直親は一族の奥山朝利の娘を妻に迎え、井伊家の嗣子として返り咲こうとした。
これに強く反発したのは小野政直の嫡子・政次である。政次は相続の条件であるはずのとわとの婚姻を【出家したから】と反故にすることに難色を示したのだ。元々仲の悪かった二人のこの対立により、あわや井伊家お取り潰しかと思われた。実際、義元はその方向で朝比奈泰朝に手配をさせていた。結局は直親が折れ、とわが還俗し夫婦となることで収まった。
漸く落ち着いたかに見えた井伊家であったが、桶狭間の戦いで直盛が討ち死にし、直親が家督を継ぐ。だが、【遠州錯乱】と呼ばれる混乱が続いたために反今川か親今川かで揺れる。
直親は勢いのある徳川に付くべきと考え始める。それを察知した小野政次は今川の当主となった氏真に松平と内通していると讒言する。親戚であった新野にいの親矩ちかのりの取りなしで釈明をするために駿府へ向かったが、途中で殺害されたのだった。
その混乱を治めるために妻であるとわが【直虎なおとら】と名乗り、井伊家の家督を継いだのである。



「直親のせいで井伊家は翻弄され、身動きが取れない状態のようです」
「それで、そなたはどう見ているのだ?」
「恐らく、井伊は徳川に付くでしょ」
「何故そう思う?」
「新野親矩が亡くなってしまったので今川との繋がりが薄くなっています。直親のあの死に様では今川に従い続けることに不安もありましょう」
「そうか……」
「今の当主である直虎は領民からも慕われておりますし、小野政次もこの女地頭には従っておるようです。建前上反対はするでしょうが、徳川に付くのは時間の問題かと」

それを聞いて義信の頭には一つの案が浮かぶ。この井伊直虎なる女地頭を説き伏せて味方に引き入れば徳川を牽制するにはちょうど良いのではないかと考えたのだ。

「勝頼、その女地頭に会うことは出来ないだろうか?」
「その辺は兄上の伝手を辿った方が宜しいかと思います」
「私の?」
「ええ、家老の政次は今川に近い者ですから、そちらから上手く取りはからえるでしょう」
「氏真殿との縁を頼るか」
「氏真殿は幽閉当初から兄上の解放を求めておられます。それだけ親密な間柄となれば政次も特に疑うこともないでしょう」
「だが、何と言って近づく?」

勝頼は暫し考えた後、一つの提案をする。それは【父・信玄を止めるために甲府を密かに脱出したが、兵を集める時間を稼ぐために匿って欲しい】というものだった。
それで上手くいくか半信半疑であったが、一番分かりやすい理由の方が疑われにくいとの結論に達し、その線で行くことに決めた。

「しかし、単身で乗り込むのは危険です。誰か供を着けましょう」
「誰かいるのか?」
「うってつけの者がいます」

勝頼が満面の笑みを浮かべているのが、逆に不安になる義信。だが、今は背に腹は代えられぬとそれに従うのだった。



数日後、義信は高遠城を発ち、伊那郡を抜けて遠江の井伊谷を目指した。供をするのは上原城から呼び寄せ得た異国の戦士コナーである。

「ととと……」
「大丈夫か?」
「ああ、この高さに慣れぬだけだ」

義信は初めて乗る異国の馬はいつも乗っているそれよりかなり大きい。並足で進んだとしても手綱を取られそうになる。それに気付いたコナーが手綱を抑えてくれるという有様だ。

「ヨシノブ、お前はタケダの跡取りなのだろう? こんなことをしてて良いのか?」
「良くはないが、武田が天下を取るための下準備だ」
「そうか……」

どこか悲しげに笑うコナーの姿に義信は出立前に言われたことを思い出した。

『婚約者だった娘の命日が近く、今の時期物思いに耽ることが多いらしいのです』

預かっている頼貞も気晴らしに鷹狩りに誘ったりしてみたが上手くいかなかった。勝頼も遠乗りにさそってはみたがなしのつぶて。ユアンに相談したところ、何か任務を与えてやる方が良いとの返答だった。そこへ義信が供に着けたという訳である。

「気遣いは無用だ」
「コナー?」
「ユアンから事情を聞いたんだろう?」

嘘が苦手な義信は苦笑いを浮かべ肩をすくめた。

「俺の婚約者は名前をイライザといった。一族のシャーマン、この国でいうところの巫女だった」

不意にコナーが語り始めた。義信はその話に耳を傾ける。

コナーの婚約者・イライザは故郷を追われてからの長旅が体に悪影響を及ぼした。どうやら、流れ着いた先の水が合わなかったらしい。そこで大陸でも温暖な気候のイスパニアを目指したのだという。

「一時は快方に向かったのだが、それまでの旅が長すぎた。容体が急変してそのまま……」
「そうだったのか」
「イライザは最後に助言をくれた。東に向かえ、と。その先に俺たちの安住の地があると言い残した」
「それを信じてここまできたのだな」
「ああ、その言葉は間違いなかった。ノブユキが連れてきてくれたスワは故郷によく似た土地だ」
「それなら良かった」
「ヨシノブ、俺はこの地でお前たちの助けになりたい。そのためなら協力は惜しまない」
「では、遠慮無く頼りにさせて貰う」

その言葉にコナーは頷いた。

「さぁ、井伊谷まであと少し。今宵の宿を探すか」

義信はコナーに笑みを向けたのだった。



一方、井伊谷では駿府からの使者に家老・小野政次が応対していた。

「間違いなく直虎殿にお渡しくだされ」
「承知いたしました」

政次は恭しく手渡された書状を受け取ると、使者を見送ったのである。
その後、もたらされた書状に目を通す。そこには武田義信をしばらくの間匿って欲しいというものであった。

「ふぅ、殿にどう伝えるべきか……」

腕組みして思案する政次。

「私に何を伝えるというのです?」

政次はその声に驚き、振り返るとそこには直虎が立っていた。直虎は政次と向き合う形に座ると目の前に置かれている書状に視線を落とす。

「これは?」
「太守様(今川氏真)からの書状です」

直虎はそれを手に取り読み進める。その表情は徐々に困惑したものへと変わる。読み終えたところで大きなため息をついた。

「また難儀なことを……」
「しかし、これを受け入れねば、どんな難癖を付けられるかわかりませぬ」
「痛いところを突かれたわね」

書状を戻しながら、直虎は主君の意向に対してどうすべきか悩む。政次も考え込んでいるようでしばしの沈黙が続く。

「今更悩んでも仕方が無いわね」
「殿?」
「太守様の言われる通りにしましょう」
「ですが!」
「あれこれ先回りして上手くいった試しはないでしょ?」

政次は口を紡ぐしかなった。直虎はクスリと笑うと立ち上がる。

「さぁ、お迎えの支度をしなくては……。義信様は明日にも到着されぬかもしれぬ」
「左様にございますな。早速手配いたしましょう」

政次はその場を辞した。あとに残った直虎の胸中に不安がよぎる。この五年、求められるままがむしゃらに井伊家当主をこなしてきた。それはギリギリの綱渡りだった。

「母上……」
虎松とらまつ、どうしたのです?」
「政次が恐い顔をしてた……」

直虎にしがみついてきたのは六つになったばかりの息子・虎松だった。その瞳は不安に彩られていた。

「太守様の命でお客人をもてなすことになったのです」
「どんな方なのです?」
「太守様の妹婿殿だそうです」
「偉い方?」
「そうですね。下手をすれば井伊家がお取り潰しになるかも」

直虎の言葉に虎松はゴクリと唾を飲み込んだ。その顔を見れば前身から冷や汗が吹き出しているのは一目瞭然だ。

「ですが、しっかりおもてなしすれば、太守様の覚えめでたく井伊家の立場がぐんと上がることでしょう」
「じゃ、しっかりおもてなししなきゃ!」
「そうですね」

直虎はそう微笑みかければ、虎松の顔がパッと明るくなる。

「皆のお手伝いをしてきます」

そう言い置いて、虎松はかけ出す。その姿にホッとした直虎だったが次の瞬間には気を引き締めた。

「何としても乗り切らなければ……」

直虎は庭に出て、空を見上げる。爽やかに吹く風は夏の気配を運んできていた。

直虎たち井伊家と義信たち武田家の出会いが何をもたらすのか。
その答えが出るのはまだ先のことである。


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