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陰の章

知り難きこと陰の如く

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東光寺に幽閉された義信は写経の日々を送っていた。そんな彼の元を弟の信之が訪ねてくる。

「兄上……」
「信之か」

義信は一心不乱に筆を動かしている。

「何の用だ?」
「父上から預かってきた物があります」

義信は筆を置き、信之に向き合う。いかにもばつの悪そうな顔をしている弟に義信は微笑みかけた。

「少し痩せましたか?」
「かもしれぬ。体を動かさぬせいで食も進まぬから」
「ここに籠もってずっと写経を?」

義信はただ頷いた。
信之は立ち上がり、庭に面した戸を開け放った。そこは冬を目前に最後の力を振り絞るかのように紅葉が紅く色づいていた。

「たまには外の空気も吸わねば!」
「信之……」
「庭に出ましょう、兄上!」

義信は信之に手を引かれ、仕方なく庭へ出る。すると、そこには武田の軍旗が掲げられていた。黒地に金の箔押しを施されたその旗は【孫子の兵法】を刻んだものであった。

「【孫子の兵法】か。懐かしいな……」
「【ゆえに其のはやきこと風の如く、静かなること林の如し、侵掠しんりゃくする事火の如く、動かざること山の如し】でしたか?」
「そうだ」

義信は旗を見上げながら懐かしむように目を細めた。

「この孫子の兵法には続きがあるのだ」
「続き?」
「知り難きことかげの如く、動くこと雷霆らいていの如し」

それを口にしたところで義信はハッと息を飲んだ。それはこの旗を軍旗に染め上げると決めたとき、自身が父に進言したことであった。

『陰と雷は一門衆のみが知り得る秘策と……』

【旗に染め上げるには長いから】と最後と二つを省いた。そしてそれを一門衆の秘策にと自らが申し出たのだ。

「そうか! そうであったか!!」

義信は信玄の意図することを読み取った。そして、一刻も早く父に詫びを入れなければと思い立つ。そこへ虎昌の使者と名乗る者が現れた。

「これを若殿にお渡しするようにと……」
「私に?」
「はい。お読みいただければお分かりいただけるとおっしゃいました」

差しだされた文を読み進める。すると、義信の顔色がみるみる青ざめる。それに気付いた信之は訝しみ、声をかけた。

「信之、父はいずこにおられる」
「確か、窪八幡に参拝されると……」

それを聞き、義信は飛び出していった。信之は驚きの余り、呼び止めた。

「兄上! 如何されたのです!?」
「父上の命が危ない!」
「何ですと!!」
「兵部は父上を殺す気だ」

義信は馬の用意を命じる。すぐに馬が用意され、窪八幡へ向けて走らせる。

「俺も一緒に行きます!!」

二人は窪八幡へと急行したのであった。



一方、信玄は予定通りに窪八幡を訪れていた。

「これからが正念場。どうか我らにご加護を……」

信玄は静かに祈りを捧げた。そこへ現れたのは虎昌である。いつになく硬い表情に信玄は意味深な笑みを浮かべた。

「そろそろ来る頃だと思っていた」
「御館様……」
「そなたに見せたい物がある。ついて参れ」

信玄に促され、虎昌はその後に続いた。信玄は本殿の奥から漆塗りの文箱を取り出す。

「虎昌、覚えておるか?」
「?」
「義信に偏諱を願い出た折、亡き公方様から近江朽木に呼び出されたときのこと……」
「勘助殿と工藤のみを供に向かわれたというアレでございますか?」

信玄は頷くと手にした文箱を虎昌に差しだす。困惑する虎昌が信玄を見やると【開けてみろ】と言わんばかりに視線で促される。
虎昌はそれを恐る恐る開ける。取り出した書状を広げ、目を通していく。読み進める虎昌の表情がみるみる変わり、読み終えると呆然となる。

「御館様……」
「儂もそれを手渡されたときは驚きに声も出なかった」
「ま、真にございましょうか?」
「間違いない。なにしろ、それは公方様自ら手渡された物だからな」

虎昌は更に目を瞠り驚いている。その表情から上手く説得が出来ると確信を持った信玄はニヤリと笑みを浮かべた。

「妙な噂が流れておるそうだが……」

そう話し始めた信玄に虎昌はばつが悪くなり目を伏せる。

「次の当主は義信以外にあり得ぬ」
「御館様……」
「織田と同盟を結は飛騨に手出しをさせぬ為だ。勝頼に縁組したのは手頃な相手がいなかっただけだ。信之は雑賀の娘を嫁に連れ帰ったからな」
「だからといって今川を……」
「今川は在りし日の今川ではない。確かに綱紀粛正は出来よう。だが、その先にあるのは主君を諫めることの出来る者がいなくなるということだ」

その言葉に虎昌はハッとする。それがどういうことか思い至ったからだ。諫める者がいなくなれば、主君の暴走が始まりかねない。その結果、領民たちが苦しみ内乱が起きる可能性が大きい。それを好機と取り、松平に付け入る隙を与えるだろう。

「そのために儂が動くのだ」
「しかし!!」
「確かに誹りは免れぬ。だが、父を追い出して家督を簒奪した悪党の儂が、今更一つ二つ悪名が増えたところで変わらぬ。だが、子らは違う」

そこで言葉を切った信玄。その表情は険しい。それに気付いて虎昌は息を飲む。

「今の世から戦が無くなった後、必要なのは義信のような誠実な主君よ。だからこそ、【泥】を被るのは儂の役目。駿河を獲るのはその一歩と心得よ」

その言葉に虎昌は恥じ入った。多重の甘言に踊らされ、主君を暗殺しようとしたからだ。虎昌はすぐに本殿から外に出て、座り込み脇差しを目の前に置いた。

「虎昌……」
「御館様の真意に気づけぬとは、この飯富兵部虎昌一生の不覚。腹掻っ捌いてお詫びいたします」

脇差しを逆手に持ち、切腹しようとする虎昌を信玄は殴りつけた。

「馬鹿者! そなたは義信の傅役であろうが!!」
「御館様……」
「誰が義信を導くのがそなたの役目であろう」

信玄のその言葉に涙し、脇差しを落とす虎昌。そこへ義信と信之が駆けつけた。

「父上!!」
「義信……」

義信が馬を下り駆け寄る。その後ろから信之もやってきた。

「間に合って良かった」
「若殿、申し訳ございませぬ」
「兵部……」

側に抜き身の脇差しが落ちていることに気付き、何が起きたのか察した義信。信玄の前に進み出ると深々と頭を下げた。

「父上のお心を読み取れず申し訳ありませぬ」
「どうやら、儂の思いは伝わったようだな」

信玄はホッとしたように笑みを浮かべた。

「父上、これは一体……」
「虎昌が詰まらぬ事を申したので殴り飛ばしたところよ」
「殴り飛ばした!?」

信之の問いに笑って答える信玄。その様子に信之は困惑するのだった。

「虎昌、これからも武田のために働いてくれるな」
「ハッ」
「では、物陰に隠れておる連中のこと、任せるぞ」
「!!」

虎昌は驚き顔を上げた。信玄は全てを知っていたのだ。それでもなお、武田に仕えるようにと命じる。その懐の深さに虎昌は感銘を受けた。

「お任せ下さい」

虎昌は涙を拭い、力強く返事をしたのだった。

「では、帰るか……」

信玄は義信と信之を連れ、窪八幡を後にしたのだった。



信玄は館にはすぐに帰らず、東光寺で一服する。

「父上、兵部の処遇はどうなさるおつもりですか?」
「国外追放を考えておる」
「追放ですか……」

義信はやりきれない思いで俯き、拳を握りしめた。信之が励ますように肩に手を置いた。

「表向きは、な」
「え?」

二人が驚いて顔を上げると、信玄は悪戯っぽい笑みを浮かべた。それが何を意味するのか図りかね、二人は顔を見合わせる。

「虎昌には追放を口実に駿河へ向かって貰おうと思う」
「駿河へ?」
「そうだ。元々親今川派を纏め上げておったのだから、あちらに取り入るのは造作も無いことであろう」
「確かに……」

信玄は今川を内部から操ろうと考えていた。そのために、暗殺計画に加わった者たちを追放し、それを今川が受け入れる。

「兵法にある【埋伏の毒】である」
「敢えて、敵に仕官させ、内部から食い破るように仕向ける」
「そんなところだ。虎昌たちには氏真殿を説得し、戦わず武田に降るよう説得して貰うつもりだ」

その策の最終目標は駿府城の無血開城だった。

「他の者への見せしめとして追放を言い渡し、その裏で駿河を獲るための人員とする」
「考えましたな!」
「父上、その策を確実にするためにも私はこのまま幽閉としてください」

その申し出に信之も信玄も驚く。義信は笑みを浮かべて先を続ける。

「ここに閉じ込められているふうを装い、氏真殿と直接交渉します」
「なんだと!?」
「実は数日前に氏真殿から書状をいただきました。これを使わない手はありませぬ」

義信は氏真が妹であり、義信の正室である嶺に宛てた書状が届いたことを説明した。その中には義信のことを案じていること、信玄を説得し義信を解放して貰えるように説得を試みるとの旨が記されていた。義信はこれを上手く使い、氏真を説得したいと考えたのだ。

「兵法の基本、【敵を欺くにはまず味方から】でございます」
「それも一理あるな」
「何より父上にはそれ以外の思惑もおありなのでは?」

信玄は不敵な笑みを浮かべた。

「実は北条殿から越後乗っ取りを持ちかけられたことがある」
「越後乗っ取りですか!?」

信玄は頷いた。
それは善徳寺の会盟の後、北条氏康に持ちかけられたものであった。
当時は長尾景虎と名乗っていた上杉輝虎は【生涯不犯】を誓い測妾どころか正室もいなかった。そうなると持ち上がるのは後継者問題だ。一番の解決法としては養子を取ることである。そこに目を付けた氏康は後継者の問題が浮き彫りなる頃を見計らって養子を送り込み、最終的に乗っ取ることを考えついたのだ

「ですが、それでは武田と手を結ぶ意味がないのでは?」
「可愛さ余ってなんとやらだ」

氏康がこの思惑を信玄に語ったのは蜜月が長ければ長いほど、断絶したときの憎しみは計り知れない。それにより、北条が上杉と手を結びやすくなる。その考えからである。

「香坂からの知らせによると、姉の夫・長尾政景の溺死の件で姉弟に不和が起きておるらしい」
「確か、政景の次男を養子にしたと……」
「その通り」
「それと上杉乗っ取りとどう関係してくるのですか?」

義信も信之も未だ真意が見えぬようで困惑気味である。どういうことか説明するべく信玄は紙と筆を用意させた。

「まず、輝虎には同腹の姉・綾御前がおる。この綾御前は長尾政景に嫁ぎ、二男一女をもうけた。そして、次男が養子として上杉家に入った」

信玄は更に続ける。
氏康が信玄と袂を分かった場合、挟撃する為にも輝虎と同盟を結ぶだろう。その際、人質として自分の子供を養子として送り込む。ここで肝心なのは綾御前の娘である。この娘を娶れば姻戚になり、後継者候補の一人になる。

「それでは北条ばかりが得をするだけにございましょう」
「まぁ、そう急くな。話はここからだ」
「父上?」
「先に話した通り、輝虎は姉から不信感を持たれておるようなのだ。そこが狙い目なのだ」

信玄は香坂虎綱から政景の溺死が輝虎の陰謀によるものだと囁かれていることを掴んだ。それにより、出家して仙桃院を名乗っている綾御前が養子に出した息子を案じ、不安に思っているのだ。

「それでもし、北条との同盟が現実となったならば……」
「仙桃院殿の不安は益々深まりましょう」
「輝虎のことだ。それを和らげるために姪を嫁がせ一門に迎え入れるだろうな」
「とはいえ、母親の不安はそのくらいでは拭えますまい」
「その通りだ。そこで我らの出番だ」

信玄は仙桃院の不安に付け入ろうというのだ。自分たちが後押しして、北条から迎えた養子ではなく、仙桃院の息子が後継者になるように密約を結ぶ。そのために菊姫と仙桃院の息子の婚約を考えている。後ろ盾となり、上杉を乗っ取る。それが信玄の考えであった。

「輝虎を戦場で討ち取るのは至難の業。だが、【生涯不犯】という誓いで子を成さないのならば、それに付け入って乗っ取る。儂にとっては上杉の力を削げれば良いのだ」
「つまり、誰が上杉の家督を継ごうが問題は無いと?」
「氏康殿の望みは関八州の平定。それ以上のことは望んでおられぬ。それを上手く利すれば、儂らは労せず関八州を手に入れられる」
「そうなれば、天下人への道は一気に広がりますな!」

義信も信之も明るい顔になる。それを見て信玄は拳をあげ、誓いを新たにした。

「何としてでも、我が武田が天下に号令するのだ。そのためにもそなたらにはより一層励んで貰うぞ」

二人は神妙な顔で頷いた。

「だが、その前に詰まらぬ策を弄する女狐を懲らしめるか……」

信玄の瞳に不穏な色が浮かぶ。二人は唾を飲み込むが、異論を唱えることは出来ず、俯くより他なかった。


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