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山の章
血戦 雨中の桶狭間
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永禄三年(1560年)、北陸で動きがあった。越中の神保長職が長尾景虎に攻め込まれたのである。これは長職が武田に呼応して動いていたためだった。長職は居城の富山城を捨て、増山城に籠城した。
「それで、増山城はどうなった?」
「何とか持ち堪えたようです」
「そうか……」
景虎は結局増山城を落とすことが出来ず、越後へと撤退したのだった。だが、喜んでばかりもいられない。禰津の放った素波によれば、帰国した景虎は上杉憲政の求めに応じて関東出兵を決めたらしい。
「厄介なことになりますな」
「まぁ、その辺りは北条殿に任せておけば良かろう」
「確かに……」
「だが、いざとなれば我らも出ぬ訳にはいかぬ。準備だけは怠るな」
各々が気を引き締めるように頷いた。義信や信親ら若者たちも緊張で強ばる。信玄はそれぞれに指示を出し、この日の表情は終了したのであった。
「それで三郎……、信之は何と申してきた」
「今しばらく紀州に留まるそうです」
「やれやれ……」
義信から聞かされて、大きなため息をつく信玄。それを三条や信親がクスクスと笑っている。先年、名代として上洛した信之はお礼参りに信太森神社へ向かった。
その後、予定通り堺の今井宗久を訪ねたのだが、そこで引き合わされた雑賀衆の娘に一目惚れしてしまったのだ。その娘を追って紀州まで押しかけて口説いているらしい。
「余程、雑賀の娘が可愛らしいのでございましょう」
「女にかまけるなど……」
信玄は眉をひそめて悪態を付く。そんな夫の頬を思いっきり抓った三条。これには驚いた信玄は飛び上がりそうになった。恨みがましく見やると逆に睨み返される。
「あら、御館様はとやかく言えるほど誠実なお方でしたか?」
「ぐっ」
向けられた冷ややかな視線に返す言葉のない信玄だった。
「それにしても、気になるのは今川の動きですな」
「いよいよ上洛するか」
「そのようです。家督を氏真殿に譲られてからは専ら三河の仕置きを成されておるとか」
今川義元は【海道一の弓取り】との渾名が示す通り、その優れた指導力を発揮していた。外交・内政・軍事全てにおいて武田の先を行っている。大軍を動かし、上洛の手筈を着々と整えているのは当然と言えた。
「口惜しいが仕方あるまい」
「父上……」
「信繁叔父上が穴山に今川動向を探るように指示されました」
「そうだな。今は大人しゅうしておくか」
事態が動いたのは六月。遂に今川義元が上洛のために駿府を発った。その数二万。彼らの最初の標的は尾張であることは間違いない。
「遂に【尾張のうつけ者】も討ち滅ぼされますか……」
「さあ、どうであろう?」
「御館様?」
「あの若者がそう易々と討ち取られるとは思えん」
以前出会った信長という若者は一歩先を進んでいるように思えた。常識では考えられない【手】で今川の大軍を打ち負かす気がしてならなかった。
「窮鼠猫を噛む、と?」
「そうなるやもしれん」
信玄の確信に満ちた言葉に一同は顔を見合わせる。そして、それは現実のこととなるのだった。
義元は三河・岡崎城城主であった松平広忠の嫡子・元康に先陣を任せた。
「今こそ三河武士の意地、見せるときぞ!!」
そんな元康の号令一下、元康率いる松平勢が織田勢に襲いかかる。勇猛果敢で名の知れた三河の武士たちはここぞとばかりに畳みかける。
元々、今川の大軍に恐れをなしていた織田勢は為す術もなく敗北していくのだった。
「ほうほう、元康もやりおるか」
「はい。鳴海砦・沓掛城・大高城と立て続けに落としております」
「それは良い」
「殿、あの【うつけ者】を叩きのめすためにも、沓掛城に本陣を構えるべきかと……」
「皆に任せる」
義元は家臣に任せ、自分は高みの見物と洒落込んだのだった。
「松平元康、そなたらの活躍は殿の耳にも届いておる」
「はっ!」
慇懃無礼に告げる今川の家臣たち。彼らは元康に大高城へ兵糧を運び込むように指示すると本陣へと戻っていった。
「今川のあの言いよう、なんとかなりませぬかな」
元康に代わって文句を言うのは酒井忠次だ。彼は今川の人質として駿府に入った元康を常に支えてきた古参の将である。
「よせ、忠次」
「しかし!」
「所詮、我らはよよそ者。今は望まれる武功を立てることを第一とせよ」
「……」
元康の言葉に憤慨しかけた忠次であったが、主の目に映るうつろな影を見て取り口を噤んだ。
(一番悔しいのは元康様ご自身なのだ……)
忠次は目の前の若き主君を何としてでも支えようと固く決意をするのだった。そして、それを行動で持って示す。
「かかれ、かかれ!!」
元康率いる松平の軍勢が織田方の丸根・鷲津の両砦を攻めたたてる。その怒濤の勢いに砦は陥落するより他なかった。
「松平元康殿、丸根・鷲津の砦を落とされた良し!」
その吉報が沓掛城にもたらされる。義元は大高城へ本体を移動させることを決める。いよいよ、織田の命運はつきようとしていた。
丸根・鷲津の砦が攻められる少し前のこと。
織田の本拠である清洲城では篭城か出陣かで家中が揉めていた。どちらの意見も一長一短、決定力を欠き、話は纏まらずに時だけが過ぎていった。
「今川の先鋒、松平元康の軍勢。丸根・鷲津に攻め寄せたよし」
その報が信長の元に寄せられたのであった。
信長は一人広間で胡座を掻き、瞑想する。その胸中はいかようであるか。誰も知ることは出来ない。ただ一人、妻である帰蝶を除いては……。
「殿」
「帰蝶か……」
帰蝶はスッと茶碗の乗った盆を差しだした。信長は目を開け、茶碗の中身を確認する。それは湯漬けだった。信長はニヤリと笑みを浮かべ、その茶碗を手に取り、流し込むように掻き込んだ。
「帰蝶、鼓を打て」
「はい……」
信長は扇を取り帰蝶の鼓に合わせて舞う。それは幸若舞・敦盛。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば……」
帰蝶の鼓の音が強くなる。
「夢幻の如くなり~~」
信長は舞い続ける。それは自分の意志を固めるためのものだった。
「一度生を得て、滅せぬもののあるべきか~~」
信長は扇を大きく振り上げる。
「滅せぬもののあるべきか~~~」
帰蝶の鼓が一際大きな音と立てた。信長は大きく息を吐く。その瞳は決意の色が浮かんでいた。
「帰蝶、俺の具足を持て」
「殿……」
「出陣いたす!!」
その顔には悲壮感は一切ない。むしろ、戦を待ち望むかの如く、輝いていた。
「出陣じゃ! 皆のもの出陣じゃ!!」
筆頭家老の柴田勝家がその大音声で以て城中に振れて回る。大方のものが篭城であろうと見ていたために驚きは隠しきれない。清洲城は一気に慌ただしくなった。
「権六! まずは熱田神宮へ向かう。支度が出来たものから順次ついて参れ!!」
「承知!!」
かくして、信長は馬上の人となった。
向かった先は三種の神器・草薙剣を祀る熱田神宮。信長はここで戦勝祈願をしたのである。
(熱田大神、どうか力を貸して下され。俺はまだここで死ぬ訳にはいかぬのです)
信長はいつになく神妙に祈った。それは果たさねばならぬ約束があったからだ。そのためにも、今ここで死ぬ訳にはいかない。
するとどうであろう。にわかに雲が立ちこめ始め、やがて大粒の雨が降り始めた。
「殿! この雨は天の恵みに相違ございませぬ!!」
「うむ、そうだな」
勝家の言葉に信長は頷く。そして、鬨の声を上げ、戦場へとかけ出したのであった。
その頃、今川勢は丸根・鷲津の砦が陥落したことで進軍を止め、休憩を取ることにした。そこは桶狭間山の麓、田楽狭間と呼ばれる開けた場所でであった。
「殿、これで我らを阻むものはなくなりましたな」
自らの勝利を疑う者は誰一人いない。義元は謡を謡わせくつろいでいたのである。そこへ雨が降り始めた。
「やれやれ、興ざめじゃ」
「左様にございますな」
義元が扇で口元を隠し、眉間に皺を寄せる。
だが、雨は止むどころか酷くなる一方であった。運命の時が刻一刻と迫る。
熱田神宮を出発した信長は丹下砦から中島砦を抜けて進軍を続けていた。
「今川の本隊は桶狭間山の麓、田楽狭間で休憩を取っておりまする」
黒い頭巾で顔を隠した小柄な男が信長に報告する。その報告に信長がほくそ笑んだ。
「この雨だ。田楽狭間は足を取られるほどに泥濘んでおろう」
「好機にございます」
「この雨音では我らの足音も聞こえますまい!」
信長は頷いた。そして、気を引き締め、全軍に檄を飛ばす。
「狙うは義元ただ一人! 皆のもの、俺に続け!!」
信長は義元のいるであろう本陣めがけて突っ込んだのだった。
突然、降って沸いた鬨の声に驚いた今川勢は迎え撃つ用意が出来ていなかった。本陣の横っ腹をつかれ、右往左往するしかない。おまけに突然の雨で足元が泥濘み思うように動けない。
「な、何事であるか!?」
【海道一の弓取り】と称される義元もこれには動揺を隠せなかった。
悪いことは重なることである。勝利を確信していた義元は馬ではなく輿に乗って進軍していた。輿は担ぐ者がおらねば動かせぬ。つまり、義元は混乱した戦場で身動きが取れなくなったのだ。そこへ一人の足軽が迫ってくる。
「我が名は毛利信助。その首、頂戴いたす!!」
義元は愛刀の左文字を抜き、応戦する。だが、型通りの剣術しか身につけていない義元が実戦をくぐり抜けてきた信助に勝てるはずもなかった。
「ぐはっ!」
義元は断末魔をあげ、その場に崩れ落ちる。信助はその首を切り落とし、高々と掲げ叫んだ。
「今川義元、討ち取ったり!!!」
その声に今川が総崩れとなったのは言うまでもない。
「殿が討たれた……」
頭を失った今川勢はほうほうの体で戦場から逃げ出す。信長は追撃はせずに逃げるに任せた。こうして、今川勢を退けたのだった。
「殿、勝ち鬨を!」
勝家に促され、信長は勝ち鬨を上げた。その声は雨音を切り裂いて辺りにこだまする。二万の大軍を僅か三千で退けた織田の大勝利であった。
後の人々はこの戦いを【桶狭間の戦い】と呼んだ。それは時代の転換点を示す戦いであり、信玄たち武田の野望に暗雲をもたらした戦いでもあった。
「それで、増山城はどうなった?」
「何とか持ち堪えたようです」
「そうか……」
景虎は結局増山城を落とすことが出来ず、越後へと撤退したのだった。だが、喜んでばかりもいられない。禰津の放った素波によれば、帰国した景虎は上杉憲政の求めに応じて関東出兵を決めたらしい。
「厄介なことになりますな」
「まぁ、その辺りは北条殿に任せておけば良かろう」
「確かに……」
「だが、いざとなれば我らも出ぬ訳にはいかぬ。準備だけは怠るな」
各々が気を引き締めるように頷いた。義信や信親ら若者たちも緊張で強ばる。信玄はそれぞれに指示を出し、この日の表情は終了したのであった。
「それで三郎……、信之は何と申してきた」
「今しばらく紀州に留まるそうです」
「やれやれ……」
義信から聞かされて、大きなため息をつく信玄。それを三条や信親がクスクスと笑っている。先年、名代として上洛した信之はお礼参りに信太森神社へ向かった。
その後、予定通り堺の今井宗久を訪ねたのだが、そこで引き合わされた雑賀衆の娘に一目惚れしてしまったのだ。その娘を追って紀州まで押しかけて口説いているらしい。
「余程、雑賀の娘が可愛らしいのでございましょう」
「女にかまけるなど……」
信玄は眉をひそめて悪態を付く。そんな夫の頬を思いっきり抓った三条。これには驚いた信玄は飛び上がりそうになった。恨みがましく見やると逆に睨み返される。
「あら、御館様はとやかく言えるほど誠実なお方でしたか?」
「ぐっ」
向けられた冷ややかな視線に返す言葉のない信玄だった。
「それにしても、気になるのは今川の動きですな」
「いよいよ上洛するか」
「そのようです。家督を氏真殿に譲られてからは専ら三河の仕置きを成されておるとか」
今川義元は【海道一の弓取り】との渾名が示す通り、その優れた指導力を発揮していた。外交・内政・軍事全てにおいて武田の先を行っている。大軍を動かし、上洛の手筈を着々と整えているのは当然と言えた。
「口惜しいが仕方あるまい」
「父上……」
「信繁叔父上が穴山に今川動向を探るように指示されました」
「そうだな。今は大人しゅうしておくか」
事態が動いたのは六月。遂に今川義元が上洛のために駿府を発った。その数二万。彼らの最初の標的は尾張であることは間違いない。
「遂に【尾張のうつけ者】も討ち滅ぼされますか……」
「さあ、どうであろう?」
「御館様?」
「あの若者がそう易々と討ち取られるとは思えん」
以前出会った信長という若者は一歩先を進んでいるように思えた。常識では考えられない【手】で今川の大軍を打ち負かす気がしてならなかった。
「窮鼠猫を噛む、と?」
「そうなるやもしれん」
信玄の確信に満ちた言葉に一同は顔を見合わせる。そして、それは現実のこととなるのだった。
義元は三河・岡崎城城主であった松平広忠の嫡子・元康に先陣を任せた。
「今こそ三河武士の意地、見せるときぞ!!」
そんな元康の号令一下、元康率いる松平勢が織田勢に襲いかかる。勇猛果敢で名の知れた三河の武士たちはここぞとばかりに畳みかける。
元々、今川の大軍に恐れをなしていた織田勢は為す術もなく敗北していくのだった。
「ほうほう、元康もやりおるか」
「はい。鳴海砦・沓掛城・大高城と立て続けに落としております」
「それは良い」
「殿、あの【うつけ者】を叩きのめすためにも、沓掛城に本陣を構えるべきかと……」
「皆に任せる」
義元は家臣に任せ、自分は高みの見物と洒落込んだのだった。
「松平元康、そなたらの活躍は殿の耳にも届いておる」
「はっ!」
慇懃無礼に告げる今川の家臣たち。彼らは元康に大高城へ兵糧を運び込むように指示すると本陣へと戻っていった。
「今川のあの言いよう、なんとかなりませぬかな」
元康に代わって文句を言うのは酒井忠次だ。彼は今川の人質として駿府に入った元康を常に支えてきた古参の将である。
「よせ、忠次」
「しかし!」
「所詮、我らはよよそ者。今は望まれる武功を立てることを第一とせよ」
「……」
元康の言葉に憤慨しかけた忠次であったが、主の目に映るうつろな影を見て取り口を噤んだ。
(一番悔しいのは元康様ご自身なのだ……)
忠次は目の前の若き主君を何としてでも支えようと固く決意をするのだった。そして、それを行動で持って示す。
「かかれ、かかれ!!」
元康率いる松平の軍勢が織田方の丸根・鷲津の両砦を攻めたたてる。その怒濤の勢いに砦は陥落するより他なかった。
「松平元康殿、丸根・鷲津の砦を落とされた良し!」
その吉報が沓掛城にもたらされる。義元は大高城へ本体を移動させることを決める。いよいよ、織田の命運はつきようとしていた。
丸根・鷲津の砦が攻められる少し前のこと。
織田の本拠である清洲城では篭城か出陣かで家中が揉めていた。どちらの意見も一長一短、決定力を欠き、話は纏まらずに時だけが過ぎていった。
「今川の先鋒、松平元康の軍勢。丸根・鷲津に攻め寄せたよし」
その報が信長の元に寄せられたのであった。
信長は一人広間で胡座を掻き、瞑想する。その胸中はいかようであるか。誰も知ることは出来ない。ただ一人、妻である帰蝶を除いては……。
「殿」
「帰蝶か……」
帰蝶はスッと茶碗の乗った盆を差しだした。信長は目を開け、茶碗の中身を確認する。それは湯漬けだった。信長はニヤリと笑みを浮かべ、その茶碗を手に取り、流し込むように掻き込んだ。
「帰蝶、鼓を打て」
「はい……」
信長は扇を取り帰蝶の鼓に合わせて舞う。それは幸若舞・敦盛。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば……」
帰蝶の鼓の音が強くなる。
「夢幻の如くなり~~」
信長は舞い続ける。それは自分の意志を固めるためのものだった。
「一度生を得て、滅せぬもののあるべきか~~」
信長は扇を大きく振り上げる。
「滅せぬもののあるべきか~~~」
帰蝶の鼓が一際大きな音と立てた。信長は大きく息を吐く。その瞳は決意の色が浮かんでいた。
「帰蝶、俺の具足を持て」
「殿……」
「出陣いたす!!」
その顔には悲壮感は一切ない。むしろ、戦を待ち望むかの如く、輝いていた。
「出陣じゃ! 皆のもの出陣じゃ!!」
筆頭家老の柴田勝家がその大音声で以て城中に振れて回る。大方のものが篭城であろうと見ていたために驚きは隠しきれない。清洲城は一気に慌ただしくなった。
「権六! まずは熱田神宮へ向かう。支度が出来たものから順次ついて参れ!!」
「承知!!」
かくして、信長は馬上の人となった。
向かった先は三種の神器・草薙剣を祀る熱田神宮。信長はここで戦勝祈願をしたのである。
(熱田大神、どうか力を貸して下され。俺はまだここで死ぬ訳にはいかぬのです)
信長はいつになく神妙に祈った。それは果たさねばならぬ約束があったからだ。そのためにも、今ここで死ぬ訳にはいかない。
するとどうであろう。にわかに雲が立ちこめ始め、やがて大粒の雨が降り始めた。
「殿! この雨は天の恵みに相違ございませぬ!!」
「うむ、そうだな」
勝家の言葉に信長は頷く。そして、鬨の声を上げ、戦場へとかけ出したのであった。
その頃、今川勢は丸根・鷲津の砦が陥落したことで進軍を止め、休憩を取ることにした。そこは桶狭間山の麓、田楽狭間と呼ばれる開けた場所でであった。
「殿、これで我らを阻むものはなくなりましたな」
自らの勝利を疑う者は誰一人いない。義元は謡を謡わせくつろいでいたのである。そこへ雨が降り始めた。
「やれやれ、興ざめじゃ」
「左様にございますな」
義元が扇で口元を隠し、眉間に皺を寄せる。
だが、雨は止むどころか酷くなる一方であった。運命の時が刻一刻と迫る。
熱田神宮を出発した信長は丹下砦から中島砦を抜けて進軍を続けていた。
「今川の本隊は桶狭間山の麓、田楽狭間で休憩を取っておりまする」
黒い頭巾で顔を隠した小柄な男が信長に報告する。その報告に信長がほくそ笑んだ。
「この雨だ。田楽狭間は足を取られるほどに泥濘んでおろう」
「好機にございます」
「この雨音では我らの足音も聞こえますまい!」
信長は頷いた。そして、気を引き締め、全軍に檄を飛ばす。
「狙うは義元ただ一人! 皆のもの、俺に続け!!」
信長は義元のいるであろう本陣めがけて突っ込んだのだった。
突然、降って沸いた鬨の声に驚いた今川勢は迎え撃つ用意が出来ていなかった。本陣の横っ腹をつかれ、右往左往するしかない。おまけに突然の雨で足元が泥濘み思うように動けない。
「な、何事であるか!?」
【海道一の弓取り】と称される義元もこれには動揺を隠せなかった。
悪いことは重なることである。勝利を確信していた義元は馬ではなく輿に乗って進軍していた。輿は担ぐ者がおらねば動かせぬ。つまり、義元は混乱した戦場で身動きが取れなくなったのだ。そこへ一人の足軽が迫ってくる。
「我が名は毛利信助。その首、頂戴いたす!!」
義元は愛刀の左文字を抜き、応戦する。だが、型通りの剣術しか身につけていない義元が実戦をくぐり抜けてきた信助に勝てるはずもなかった。
「ぐはっ!」
義元は断末魔をあげ、その場に崩れ落ちる。信助はその首を切り落とし、高々と掲げ叫んだ。
「今川義元、討ち取ったり!!!」
その声に今川が総崩れとなったのは言うまでもない。
「殿が討たれた……」
頭を失った今川勢はほうほうの体で戦場から逃げ出す。信長は追撃はせずに逃げるに任せた。こうして、今川勢を退けたのだった。
「殿、勝ち鬨を!」
勝家に促され、信長は勝ち鬨を上げた。その声は雨音を切り裂いて辺りにこだまする。二万の大軍を僅か三千で退けた織田の大勝利であった。
後の人々はこの戦いを【桶狭間の戦い】と呼んだ。それは時代の転換点を示す戦いであり、信玄たち武田の野望に暗雲をもたらした戦いでもあった。
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