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山の章

三郎の旅立ち

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三郎の旅立ち

永禄二年(1559年)二月。前年に続き軍事行動は控え、外交・内政に力を入れていた晴信は長善寺の岐秀ぎしゅう元伯げんぱくを導師として出家し、【徳栄軒信玄】と号した。

「益々威厳が出て宜しゅうございますな」
「そうか?」

晴信改め信玄は丸めた頭をさすりながら、渋い顔をしている。それを信繁は【気になさいますな】といって諫める。

「それより、だ」
「兄上?」
「善光寺如来の移転は如何か?」
「万事滞りなく」
「そうか……」

信玄はホッと一息ついた。
先年より信濃善光寺の本尊・阿弥陀如来を甲府に移す作業を進めていた。甲府の人々は諸手を挙げて喜び、歓迎したのだった。

「まだ、堂宇の建設は完了しておりませぬが、人々の心が明るくするためには本尊を安置しておいた方が宜しいでしょうね」
「うむ。あとは信濃にあった頃より素晴らしいものにせねばならん」
「左様でございます。武田の威信にかけて!」

弟の力強い言葉に信玄は誇らしく思えた。

「父上……」
「義信か。如何した?」

義信の顔は少し暗い。信繁の顔をチラチラ見ており、二人だけで話したい様子だということがわかる。信繁も察したのであろうか、信玄と目を合わせると肩をすくめる。

「そういえば、香坂こうさか海津かいづの城普請の件で話があるとか申しておりました」

わざとらしく手を打って、立ち上がりそそくさと広間を出て行く。すれ違い様、義信の方をポンッと叩いたのだった。

「兄上には思うことを遠慮なく伝えるのだ」
「叔父上……」

信繁は義信に笑いかけ、その場を後にしたのだった。



「義信、何があった?」
「……」

二人きりとなったにも関わらず、義信は切り出しにくそうに眉根を寄せた。信玄の心に一抹の不安がよぎる。
義信は一度大きく息を吐き、意を決したように顔を上げた。

「三郎のことです」
「三郎がどうした? まさか、また……」

信玄は青ざめた。
幼少期、体の弱かった三郎は今でこそ健康で、義信や信親も追い越すくらいの大柄に育った。だが、時折咳き込むことはある。例の丸薬が効いているとはいえ、健康の不安はついて回っていた。

「いえ、体の方は心配ありませぬ。むしろ、元気が有り余っておるくらいでして……」
「そうか。なら、一体どうしたというのだ?」

義信はいいにくそうに後ろ頭を掻いている。その様子を信玄は訝しむ。

「父上は【傾き者】なる輩をご存じで?」
「あれか、奇抜な格好をしては街を闊歩かっぽしておる……」
「はい。そういった輩と三郎がつるんでおるようなのです」

信玄は驚きの余り目を瞠る。

「しばらく会わぬうちに、そのようなことになっておるとは……」
「どうやら、西保で何かあったようです」

信玄は考え込むように顎に手をやった。
命の危険の脱した三郎は元服し、一門衆の西保家を継承、西保信之と名乗る。その後も何度か高熱を出して寝込むことはあったが、そう心配するほどのことでもなかった。
特に知らせもないことから、信玄は無事に過ごしていると思っていたのだ。

「実は穴山信君のぶただから三郎が何か思い悩んでいるようだと……」
「悩み事か」
「はい。それを上手く解決出来ぬようで、傾いて父上の目にとまりたいと思うているのでしょう」
「それで、お前は儂にどうしろと?」
「一度、三郎と腹を割ってお話していただきたいのです」
「腹を割って、か……」

義信は懇願するような目を向け、その拳を強く握りしめていた。晴信は了承の返事をするのだった。



その夜、信玄は久しぶりに夢を見た。
何もない白い世界。その中を信玄はただ真っ直ぐに歩を進める。すると、人影が見えてきた。それは始祖・義光と初代・信義であった。

「久しいのぉ」
「義光公……」
「何やら難しいことにぶち当たったか?」
「初代様……」

二人はしたり顔で信玄のことを見つめている。

「立ち話もなんだ。そこへ座れ」

義光に促され、胡座を掻いた。

「頭の痛いことだのぉ」
「自分にも心当たりがあります故、なんとも言い難く……」
「そうであった。そなたは父の気を引くためにわざとあのような振る舞いをしておった時期があったな」

信玄はこくりと頷いた。
それはやり直す前の幼少期のこと。父・信虎は書物を読みふける自分を忌み嫌い、弟を可愛がっていた。それを羨ましく思い、気を引きたい一心からわざと馬から転げ落ちたり、持ち上げられるはずの岩を持ち上げられなかったりと愚息のフリをした。だが、結果は惨憺さんたんたるもので益々嫌われることとなったのだ。

「あのような思いは自分一人で十分です」
「その通りじゃ」
「ですが、何故三郎は……」

信玄は不思議に思わずにはおられなかった。家臣団の結束を高めるために三郎に西保を継承させた。それは二郎が海野を継いだことと変わりないことだ。決して、厄介払いをしたとか疎んじたからということではない。

「恐らくは、大きな仕事を任されぬことが気に入らぬのであろう」
「大きな仕事?」

信玄はそこでハッとする。二人が何を言わんとしているか、察したのだ。

「兄たちがそなたの力となっておるというのに、自分は何もさせて貰えぬ。そう思っておるのであろう」
「なるほど……」
「まぁ、要するに拗ねておるのよ。自分も同じことが出来る、と」
「とはいえ、何を任せて良いやら」

そこで義光が扇をならして信玄に告げた。

「そなた、大事なことを忘れておるぞ?」
「?」
「信田の葛葉との約束じゃ」
「ああ!!」

信玄は今思い出したとばかりに膝を打った。

『その子が無事成人した暁に信田稲荷に桔梗の花といなり寿司を納めてくれれば良い』

三郎が熱病にうなされ、生死の境を彷徨っていたのを助けてくれた信田の葛葉はそう言い残して去って行ったのだ。

(三郎は元服して大人の仲間入りをした。ならば、今こそそのお礼参りに行かねば……)

信玄の顔が明るくなる。それを見て取って二人はそれまでの険しい表情が和らぎ、笑みを浮かべた。

「それを上手く使い、我が子を旅立たせると良かろう」

そう言い残して二人は立ち去っていったのだった。



信玄は鳥の囀りと戸の隙間から差し込む朝日で目が覚める。隣には絵里が寝顔があった。

「御館様?」
「晴信で良い。昔、そう申したであろう?」
「ですが……」
「ここには儂とそなただけだ。二人でおる間だけは今まで通りに呼べ」
「はい」
「それでいい」

信玄は絵里を抱き寄せ、その額に口付けを落とした。

「一つ聞いても良いですか?」
「なんだ?」
「名を呼ぶことをお方様や直見殿にも許されておるのですか?」

信玄は返事に詰まる。誤魔化すように視線を逸らせば、絵里の手が下へと降り、逸物を強く握りしめた。

「いっ!」
「お二人とも仲良うなさって下され」
「絵里……」

ふて腐れて絵里が褥から抜け出す。それを引き留めるように信玄は彼女の手を掴み引き寄せた。

「きゃっ」

絵里はそのまま信玄の胸に倒れ込むような格好になる。

「仕方があるまい。儂はそなたら三人を等しく愛さねばならぬ」
「……」
「聞き分けてくれ」
「分かっております!」

絵里は再び信玄の腕の中から抜け出し、寝所を出て行こうとした。だが、戸を開けたところで立ち止まり、ぼそりと呟いた。

「私が一番晴信様を愛しています。その思いは誰にも負けませぬ」

それは聞き取れないほど小さいものであったが、信玄の耳には届いていたのだった。



六月に入り、武田にとって面倒な状況が起きる。それは将軍・義輝が甲越一和こうえついちわの命令に従わない信玄を非難してきたのだ。そればかりか、景虎に信濃諸侍を援助し戦うことを認めたのである。

「父上!」
「仕方があるまい。信濃守護職の補任の条件が長尾との和睦だったからな」
「ですが、到底受け入れられませぬ」
「確かに……」
「何とか、公方様のお気持ちを変えていただかなくてはなりませぬ」

重臣一同どうしたものかと頭をひねる。すると、末席に座っていた三郎改め信之が口を開く。

「恐れながら申し上げます」
「三郎?」
「それがしを公方様の元へ遣わして下さい」
「何か策があるのか?」
「ありませぬ」

信之は言い切った。あまりの言葉に皆呆気にとられる。だが、信之の瞳には確かな自信が浮かんでいた。

「策はなくとも心を込めて父上の、武田の義を説けば公方様もお分かりいただけましょう」「そう上手くいくか?」
「そこはこの信之の腕の見せ所にございます」
「ほほう。言うではないか」

信玄は信之が大口を叩くことを嬉しく思った。

(ここは三郎に任せてみるか……)

信玄は信之の言葉を受け入れ、上洛するように命じたのだった。



その夜、信玄は信之を隠し湯のある別邸に呼び出した。義信からすすめられたように腹を割って話をするためだ。

「三郎……」
「今は信之にございます」
「ははは、そうであったな」

信玄が苦笑いを浮かべ、頭を掻く。その間、信之は口を真一文字に結んだままだった。

「そう、固くなるな」
「別に……」
「悪かった」
「え?」
「そなたはそなたは武田一門の要の一人だ」
「父上……」

信之の瞳が揺れる。恐らく、その言葉をずっと待っていたのだろう。信玄は柔らかな笑みを浮かべ、言葉を繋ぐ。

「此度の上洛、そなたに他にも頼みたいことがある」
「なんでございましょう」
「堺の今井宗久を訪ねよ」
「あの豪商と名高い今井殿を、ですか?」

信玄は頷く。

「公方様の説得は勿論大事なことであるが、それは申し開きの書状を手渡すだけで良い」
「ですが!」
「どうせ、我らに対するお気持ちは変えられぬ」

信玄が肩をすくめて、ため息をつけば信之はガックリと項垂れた。そんな彼の肩に手を置き、信玄は別の命を伝える。

「そなたは信田稲荷にお礼参りと称して向かい、そのまま堺で宗久と会うのだ」
「何の為に?」
「鉄砲よ」
「鉄砲?」

信玄は信之に聞かせる。先の長尾との戦いで鉄砲の有用性に気付いた。だが、それを手に入れる為の独自の販路がない。だから、信之の上洛にかこつけて紀州の雑賀さいか衆と接触するようにということだった。

「雑賀衆ですか……」
「あそこは根来衆と併せてどこにも属しておらぬ。上手く渡りを付けて質の高い鉄砲を手に入れるのだ」

信之はゴクリと唾を飲み込む。確かに、父の気を引きたいが為に傾いてみるなどという天邪鬼を演じた。だが、それと引き換えに手にしたのは武田の命運を握るような大仕事だった。体の震えが止まらなかった。

「なんだ、恐ろしいのか?」
「こ、これは武者震いにございます!」

少しばかり声が裏返ったが、信之はその命を受け入れたのだった。

「そなたは見聞を広めよ。きっと良き出会いが待っておろう。それがいずれ武田を助けることになる」
「父上……」
「そなたには期待しておるぞ」
「はい!」

父からの信頼に信之は力強く返事をしたのだった。

それから三日後。
信之は信玄から手渡された将軍・義輝への書状を携えて旅立ったのだった。
その心は晴れやかであり、希望に溢れていた。
だが、この旅によって手に入れたものが武田の命運を大きく左右するなど、このときは誰も知るよしもない。
それが現実となるのはもう少し先の話である。


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