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山の章
景虎との三度目の戦いと五郎の誕生
しおりを挟む弘冶三年(1557年)三月。信濃国水内郡の葛山城を攻略し、落合氏を滅ぼした晴信たちの元に北信濃の木嶋出雲守・原左京亮が【長尾景虎出陣】を注進してくる。
「長尾も懲りぬな」
「御館様、此度こそは完膚なきまでに叩きのめしてやりましょう!」
晴信は直ちに出陣した。だが、実際には景虎自身は出陣していなかった。とはいえ、長尾の軍勢が迫っていることには変わりなく、晴信は先の葛山城攻略の際に敵将・小田切駿河守を討ち取った大須賀久兵衛尉に褒賞を与える。
「これで士気も高まるだろう」
「左様でございますな」
だが、長尾勢の攻勢は変わらなかった。
四月、遂に長尾景虎が動いた。深雪を冒して信越国境を越えてきたのだ。武田方の山田要害・福島城を攻略し、善光寺に着陣した。
「御実城様、武田は浮き足立っておりますぞ」
「うむ」
「まさかこの雪に中を進軍してくるとは思わなかったのでありましょう」
「この程度の雪で我らは止められぬ。今度こそ武田を信濃から追い払うぞ!」
景虎は家臣たちを鼓舞し、攻め寄せたのだった。
その頃、晴信は義信を伴い出陣することを決める。そのために守矢頼真に書状を送り、諏訪大社への戦勝祈願を依頼した。
「父上、此度も一筋縄ではいかぬようですな」
「そうだな。調略も講じておるようだ。足をすくわれぬようにせねば……」
「頭の痛いことです」
「北条殿に援軍を頼むことも考えねばなるまい」
その言葉に義信も同意見であった。
六月、晴信の予感は的中する。市河藤若の調略のために高梨政頼が遣わされたと報じられたのだ。
「飯山城に帰陣したそうだが、ここに来て市河の調略に動くとは……」
「御館様、調略に応じぬよう市河に書状を送りましょう」
「そうだな。近日中に援軍を送るとも添えておけ」
「御意」
すぐに市河藤若の元に書状が届けられる。それと併せて守矢頼真に長尾景虎退散と武運長久の祈願を依頼した。
その後、北条の援軍として北条綱成が到着した。だが、野沢に布陣して市河を攻めていた景虎は既に飯山に撤退した後であった。
「塩田の足軽衆も間に合わなかったそうです」
「なんとも口惜しいことよ」
「【兵は神速を尊ぶ】と申します。兵部に市河から要請があったときは父上の下知を待たずに出陣するように伝えるべきでしょう」
義信の意見に晴信も同意し、塩田城の飯富虎昌に指示を出し、勘助を使者に立てその旨を市河にも知らせたのだった。
七月、晴信たち武田勢は安曇郡の小谷城を攻め陥落させた。その効果であろうか、敵方の春日氏・山栗田氏が没落、善光寺寺家衆が人質を進上してくる。更に島津氏の家臣の投降、東城氏や綿内井上氏も真田幸綱に内通してきた。
「虎満に知らせてやりましょう!」
「すぐに書状を送れ」
晴信はこの報を出陣中の小山田虎満に知らせたのだった。併せて、晴信は越後衆の出陣を考え網島ではなく佐野山城に在陣することにしたとも伝える。
八月に入り、晴信たち武田勢は川中島や北信濃で軍事行動を展開する。晴信は千曲川の浅瀬で渡河地点を調査させる。
「御館様、やはり決戦は上野原でしょう」
「今度こそ、長尾に目にもの見せてやろうぞ」
晴信は拳を握りしめ、決意を新たにする。それを義信以下家臣団も肝に銘じ、鬨の声を上げた。
六月下旬、遂に両軍が激突する。一進一退の攻防となり、またしても明確な勝敗がつかない。
結局、九月に入り景虎が越後へ帰国したことでこの三度目の川中島での戦いは終わったのであった。
晴信は甲府に帰還する。待っていたのは油川の姫として晴信の五男を産んだ香であった。
「無事のご帰還、祝着にございます」
一瞬、【香】と呼びかけ、晴信は咳払いをする。改めで【絵里】と呼ぶ。
「息災であったか?」
「はい。禰津殿と北の方様のおかげで……」
「そうか。ところで五郎はいずこに?」
絵里が目配せして、侍女に赤子を連れてくるように命じる。真新しい産衣に包まれた赤子はすやすやと眠っていた。
「ほう、またこれは綺麗な顔をした子だ」
「父上たちに似たのでしょう」
「そうかもしれぬ」
晴信は優しげに微笑んだ。だが、すぐに険しい表情となる。
(この子もいずこかへ養子に出さねばならぬかもしれぬ)
未だ信濃制覇が敵わぬとあってはそれもやむなしと言える。一枚岩ではない家臣団だ。新たに降ってくるものも多い。それらを懐柔するには子供らを養子に出すなり嫁がせるなりして縁戚となり、繋ぎ止めるよりない。
「もうこの子の養子先でも考えておられますか?」
「ハハハ……」
どうやら顔に出ていたようで絵里に言い当てられてしまった。晴信は誤魔化すように後ろ頭を掻くのだった。
十月、安曇郡の千国谷に武田勢による乱暴狼藉を禁じる札を立てる。
その後、真田幸綱に長尾景虎が飯山に移動したことを知らせ、在城する尼飾城を堅固に守り、在番中は城普請に励むように要請する。
「幸綱殿なれば、心配はいりませぬな」
「うむ。あの者なれば早々に長尾も動けまい」
評定でも異議を唱えるものはいなかった。
そんな中、躑躅ヶ崎館に嬉しい知らせが届く。
それは北条に嫁いだ長女・梅の懐妊であった。先に生まれた子は夭折し、夫婦の落胆ぶりに心を痛めた晴信は梅の安産と無病延命を祈願して富士御室浅間神社に願文を奉納した。
「此度は元気な子が生まれてくれば良いが……」
「そうですね」
晴信は久しぶりに三条の笑顔を見た気がした。この二年は奥向きがゴタゴタしていた。特に絵里として再び躑躅ヶ崎館に戻ってきた香のことに複雑な思いは消えない。その上、禰津家から直見という掴み所のない姫まで側室として上がってきたとあっては穏やかとは言い難かった。
「すまぬ」
「晴信様?」
「そなたには頭の痛いことばかりであろう」
「絵里殿と直見殿のことですか?」
「ああ」
三条は涼しげな笑みを浮かべて首を横に振る。その様子に少しばかり晴信は驚いた。
「あの妙な噂が流れたのは私が至らぬせいです」
「それは!」
晴信が反論しかけたが、三条は夫の唇に人差し指を当て制した。
「お気遣いいただかずとも良いのです」
「だが……」
「いずれ、私自身の手で決着を付けます。それまで二人に手出しはさせませぬ」
「三条……」
三条はもう一度笑みを浮かべた。その笑みはどこか悲しげだった。恐らく、苦渋の決断が迫っていると感じているのだろう。晴信は抱きしめてやることしか出来なかった。
「今しばらくは時間がありましょう」
「そうであると良いのだが……」
二人の思いが通じたのか、奥の不穏な空気はそれ以降なりを潜めたのだった。
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