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山の章

諏訪御寮人の死

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改元から僅か一月のこと。油川氏の屋敷に移った諏訪御寮人こと香姫の死が躑躅ヶ崎つつじがさきやかたに伝えられる。禰津ねづの姫・直見を新たな側室として迎える準備に慌ただしくしていたため、館は上を下への大騒ぎとなった。

「諏訪の方様が亡くなられた、だと?!」
「禰津殿には申し訳ないが、日延べを願うしかあるまい」

家臣団の中では動揺が広がり、評定にまで影響を及ぼし始めていた。

「父上……」
「捨て置け」
「しかし!!」

義信がにじり寄るが晴信は冷淡にはねつけるだけだった。そんな父が許せない義信はその背中をただ睨みつける。

「父上は変わられてしまったのだろうか……」
「それはありますまい」
兵部ひょうぶ?」
「御館様の心根は変わりませぬ。ただ、周りの状況が変わっておるのです」
「周りの状況、か……」

義信は漸く合点がいった。父は多くのものを背負っている。それ故に取捨選択を強いられる。その優先順位を間違えれば武田はあっという間に崩壊する。そう考えているのだろう。

「早く世を変えねば……」
「そのために我らがおりまする」
「そして、私もそのために精進せねば!!」

義信は決意を新たにするのだった。



一方、油川屋敷では麻績おみ氏の縁者・青柳あおやぎ清長きよなが禰津ねづ元直もとなおが【香姫の葬儀のため】と称して頻繁に出入りしていた。

「それで、晴信様はどうするおつもりなのですか?」
「我が娘と貴女様を入れ替わるという策をお考えです」
「そのようなことでだませると?」
「確かにすぐに見破られましょう」
「それについては禰津のお婆様からお話があるそうです」

この屋敷の当主である油川あぶらかわ信守のぶもりは香姫を奥の部屋へと案内した。戸を開けるとそこには禰津元直・直見父娘と老婆がいた。

「お初にお目にかかる。それがしは禰津元直。こちらは娘の直見。そして、我が一族の長老であるかね婆様だ」

香は紹介されてただ静かに挨拶を交わした。自分の後ろには信守と青柳清長が守るように控えている。だが、兼と名乗る老婆の眼力なのか、心細くなる。

「そう、心配せずとも良い。取って食うたりはせぬ」
「お婆様……」
「直見や。婆の代わりに説明してやっておくれ」
「承知しました」

今度は直見が香と向かい合い、ことのあらましを話し始める。その途方もない計画に声が出なかったのはいうまでもない。

「それで上手くいきましょうか?」
「時間を稼ぐことは出来よう」
「その間に御館様も手を打つつもりです」
「そうですね」

香姫もホッとしたようにその策に乗るべきだと思い始めていた。だが、そのために必要な痛みがあることを兼は話し始めた。

「じゃが、一つだけそなたに決断をして貰わねばならぬことがある」
「四郞と縁を切る、そういうことですね」
「……」

きっぱりと言い切った香に兼は目を瞠る。それに対し彼女は少しだけ悲しい笑みを浮かべるも、すぐに真剣な顔になり言い返す。

「その昔、晴信様は親不孝者と後ろ指を指されようともお父上を追い出し、妹の禰々様に鬼と誹られようとも諏訪を手に入れるための策をとられました」
「そうであったな……」
「その決断に比べれば、此度のことは安いものでしょう」
「覚悟は出来ておったか」
「高遠を出たときから……」

そう言い切った香の表情には何の迷いもなかった。兼は大きなため息をつくと、あることを買って出てくれた。それは高遠にいる四郞に事の次第を伝えるというものだった。

「後のことはこの婆に任せるのじゃ」
「はい。よろしくお願いします」

香は深々と頭を下げたのだった。



こうして、香姫の葬儀は密かに執り行われた。それは少しばかり寂しいものであったが、今後のためにそうせざるを得なかった。

「母上……」

四郞は一人位牌を見つめ座っていた。その後ろには真田源五郎がグッと拳を握りしめて座る。

「四郞の様子はどうだ?」
「御館様……」

晴信は源五郎を迎えに来たらしい幸綱に声をかけた。幸綱は一度目を伏せ、悲しげに首を横に振った。その瞳は悲痛な色が浮かんでいる。晴信は手にした数珠を握りしめるより他になかった。

(本当にこれで良いのか? 儂は子供たちにばかり辛い思いをさせて……)

晴信は我慢出来ず、四郞に真実を語ろうと一歩踏み出した。
だが、自分が声をかけるより前に一人の老婆が四郞に声をかけた。禰津の兼婆だ。

「若君、いつまでも泣いておっては母君も浮かばれませぬぞ」
「母上は許して下さる」
「若君……」
「大丈夫だ。四十九日が過ぎればもう泣かぬ」
「それは良き心掛けじゃ」
「母上はいつもおっしゃっていました。【四郞は武田晴信の子、虎の子】だと……」
「ほう、虎の子とな」
「虎の子は母の元を巣立てば一人で生きていかねばならぬ。だから、四郞が泣くのは今だけです」

それが強がりなのは分かる。だが、その決心を兼は思いやった。その嗄れた手が四郞の頭を優しく撫でた。

「そなたは虎の子であるか。なれば、辛き運命も変えてみせよ」
「はい!」
「そのためには友を作りなされ」
「友?」
「そこにおる童のような友をな」

兼が源五郎に視線をやる。その視線を受ける源五郎は力強い光をその双眸に湛えていた。

「若君、辛き運命を変えられたら、母君ともう一度会えましょう」
「え?」
「詳しいことはそなたの父に聞けば良い」

それだけ言い残すと兼はその場を後にしたのだった。



「父上、先程のお婆様がおっしゃっていたのは……」

四郞が不意に聞いてきたので晴信は辺りを警戒するように見回す。すると、どこからともなく現れた勘助が頷き、この場で話をしても大丈夫であることを確信する。

「四郞、詳しいことは奥で話そう」
「はい」

晴信は部屋に入ると人払いを勘助に命じる。それに伴い源五郎も席を外そうとしたが、同席するように説き伏せた。

「御館様、大事な話なれば若君とお二人だけでされるべきと存じますが」
「真田源五郎、これよりそなたは四郞にとって【股肱ここうの臣】であり【竹馬ちくばの友】となって貰いたい。それ故、この場に同席せよ」

晴信の言葉に源五郎がゴクリと唾を飲む。幸綱の子とはいえ幼い源五郎にこのような物言いは酷かもしれない。だが、四郞の支えになって欲しいとの思いが強かった。

「香姫のことだが……」
「父上?」
「死んではおらぬ」
「「!!!」」

二人は絶句し、互いの顔を見合わせる。

「死んだのは油川の姫のほうだ」
「それはいったいどういう……」

晴信は今回の経緯を分かりやすく且つ掻い摘まんで話す。
死んだ油川の姫を香として葬る。代わりに香が油川の姫として晴信の側室にあがる。油川は一門衆であるから香の正体に気付いたとしても迂闊に手出し出来ない。それを利用して時間を稼ぐという。

「そんなこと出来ましょうか?」
「出来る出来ないの話ではない。やらねばならぬのだ」
「父上……」

晴信の言葉に四郞はすくみ上がったのであろうか。唇を噛み、俯く。膝に置いた両の拳は固く握りしめられていた。
晴信は胸が締め付けられ、四郞を抱きしめたくなる。だが、それより先に源五郎が動いた。

「御館様」
「なんだ?」
「それは若君が油川の姫にお目にかかっても他人のふりをせねばならぬということですか?」

晴信は静かに頷いた。それを目の当たりにした四郞の両目は涙で潤む。

「若君! 【敵を欺くには味方から】と申します。今は耐えましょう!」
「源五郎?」
「この源五郎が力になり、再び【母上】とお呼び出来るようにいたします」
「そんなことが出来るのか?」
「必ずや」

その力強い言葉に四郞の顔が明るく輝いた。それを見て晴信はホッとしたのだった。

「では、手始めに若君にはしばらく悲しみに暮れる日々を過ごしていただきましょう」
「それでは四郞が弱虫だと思われる!」
「それで良いのです」
「え?」
「敵を欺くのですから……」

源五郎の言葉に四郞のみならず晴信も驚いた。

(この真田源五郎という童は将来武田になくてはならない存在になるやもしれん)

晴信はそう思うと笑みがこぼれた。

「御館様、何を笑われておいでですか?!」
「あ、いや、これは……」
「源五郎、余り父上を困らせるな」
「しかし!!」

晴信は眉を下げてひとしきり詫びる。四郞の説得もあって、納得した源五郎は【これよりは如何なる時も若君のおそばを離れぬ】と宣言したのだった。

「真田源五郎。四郞のこと、よろしく頼む」
「お任せ下さい」



こうして、弘冶元年は暮れていく。
四十九日の過ぎた弘冶二年初め、まずは禰津の姫・直見が側室に上がる。そして、香姫の一周忌の法要が済んだ十一月に油川の姫・絵里となった香が側室に上がったのである。



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