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山の章

寅王の元服

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天文二十四年、武田は安曇郡北部や川中島方面に攻勢をかける。四月には善光寺ぜんこうじ別当・栗田鶴寿かくじゅが武田方に転じ、いよいよ信濃制覇が現実味を帯びてきた。
だが、そうはさせぬと越後の長尾景虎が動く。すぐさま出陣し、善光寺に布陣したのだ。

「やはり、動きましたか……」
「栗田はどうしておるか?」
「旭山城に籠城したようです」
「そうか……」

晴信はその報告を受けて如何に対処すべきか、重臣たちと合議する。

「籠城となりますれば、やはり弓が必要でしょう」
「それだけでは足りますまい」
「では、鉄砲三百挺、弓八百張を携行させよ」

晴信は鉄砲と弓を携行させた援軍三千人を送り込む。自らも本陣を大堀館に置き、犀川を挟んで長尾勢と対峙した。後の世に【第二次川中島の戦い】と称されるこの戦はお互いに決定力を欠き、戦線は膠着こうちゃくする。
季節は春から夏へと移り変わり、暑い盛りも過ぎようとした七月。遂に両軍が激突する。

「やはり長尾は一筋縄ではいきませんな」
もあらん。あの男は自らを【毘沙門天の化身】と称しておるからな」
「確かに……」

晴信は大きく息を吐くと、戦功のあった物へ感状を与えるように命じた。長引く戦況で士気が落ちることを恐れてのことであった。



八月に入っても勝敗はつかなかった。そんな中、次男・信親が諏訪の嫡男・寅王とらおうを伴い陣中見舞いに訪れた。

「父上!」
「信親、息災であったか?」
「はい! 海野の皆様はよくして下さいます」
「そうか……」

晴信は信親の自信に満ちた表情に安堵する。すると、もう一人の少年が進み出る。その目元は諏訪頼重によく似て涼やかであった。

「お久しぶりです、伯父上」
「もしや……」
「はい、寅王です」

少年は満面の笑みを浮かべた。晴信はその頭を撫でてやる。寅王は頬を赤らめ嬉しそうだ。

「道中、大事なかったか?」
「はい、幸綱殿が護衛してくれましたので……」

よく見れば、真田幸綱が後ろに控えていた。晴信と目が合うと片膝をつき一礼をする。

「して、此度はどうした?」
「陣中見舞いです。戦況が芳しくないと小耳に挟んだので……」
「すまぬ。そなたにまで心配をかけたか」
「やはり、長尾は強いですか?」
「うむ、戦上手ゆえ攻めあぐねておるところだ」

晴信は顎をさすりながらため息を零す。

「伯父上は諏訪明神様のご加護がおありですので気に病むことはありませぬ」
「ハハハ、頼もしい言葉だ」

寅王の言葉に力が湧く思いだった。だが、よく見ると寅王の瞳に悲しげな光を見つけた。晴信は訝しみ、問いかけずにはいられなかった。

「寅王、如何した?」
「伯父上……」

寅王はその優しい声音にワッと泣き出したのだった。晴信は抱きしめてやるのだった。



ひとしきり泣いた寅王は落ち着きを取り戻し、顔を上げた。その瞳は縋るような色が浮かんでいる。晴信は胸が締め付けられ、目を閉じてその痛みを逃がそうとした。

「諏訪の叔父上はこのところ伏せっておいでで……」
「薬師は何と?」

晴信が聞き返すと、信親も寅王も俯いて口籠もる。その様子から頼重の体調が芳しくないことを悟った。

(子供たちがこの様子では諏訪に不安が広がるのも時間の問題。そうなると士気が下がるのは必定。何か手を打たねば……)

晴信の考えを見抜いたかの如く、幸綱がある申し出をしてきた。

「御館様、これを機に寅王様の元服の儀を執り行っては如何かと……」
「寅王の元服か」

晴信は顎に手を当て、考えを巡らす。寅王は諏訪の嫡男だ。頼重の体調不良で民心が揺らぐのであれば、寅王の元服という慶事で払拭するのは理に適っている。更に伯父である自分が差配を取れば士気を高める上でも良き方向に進むだろう。

「幸綱、そのように手配せよ」
「はっ」

幸綱は一礼して、その場を立ち去った。後に残った信親と寅王が不安にならぬよう晴信は二人の頭を撫でてやる。

「寅王、そなたの元服の儀を執り行うことにした」
「伯父上?」
「元服は大人の仲間入りを意味する。そなたの立派な姿を見れば頼重殿も諏訪の民も安堵しよう」

晴信はそう微笑みかける。寅王はつられるように笑みを浮かべた。隣に立つ信親もホッとした様子だった。

「祝い事は人を明るくする。良き日を選び、元服の儀を行えば皆の士気も上がろう」
「寅王、父上の言う通りだ。お前がいれば諏訪も安泰と思わせ、長尾を越後に追い返そう!」
「はい!」

二人は先程までとは打って変わり、満面の笑みを浮かべていた。晴信は二人の様子を眺めながら【子供はこうあるべきだ】と思うのだった。



翌、八月。晴信は上原城に入る。そこで病に伏す頼重と対面したのだった。
その姿はいつ命の灯火が消えてもおかしくないほど痩せ細っていた。起き上がるにも妻・禰々に背を支えられねばならないほど弱っている。

「晴信殿、このようなみっともない姿で申し訳ない」
「何を言われるか。無理をさせて命を縮めたとあっては禰々にどのような恨み言を言われるか……」

頼重は困ったような笑みを浮かべている。だが、その顔はすぐに暗く陰る。

「それがしの命、そう長くはないようだ」
「頼重殿……」
「だが、私には寅王がいる。行く末は明るい。ましてや、晴信殿が後ろ盾となって下さるなら、これほど心強いことはない」

頼重は晴信の手を取り、握りしめる。ただジッと頼重の瞳を見つめ、力強く頷いた。頼重はフッと笑みを浮かべて、頷き返したのだった。

「殿、そろそろ横になられた方が……」
禰々ねね、すまぬな」
「いえ……」
「頼重殿、今は休まれよ。寅王の元服は儂や頼高殿に任せてくだされ」

晴信はそう言葉をかけると、その場を後にする。
帰り際、晴信は禰々にも声をかける。子供や家臣の手前、気を張っていたのだろう。兄である晴信の優しい言葉に涙をこぼす。

「禰々、人はいずれ死ぬ」
「兄上……」
「だが、血は繋がっていくのだ。寅王がこれより諏訪を率いてくれる」
「はい」
「立派に成長した嫡男の姿を見れば頼重殿の気力も戻ってこよう」
「そうですね」
「そのためにもそなたは明るく振る舞わねばならぬ。勿論、儂らもその手伝いは惜しまぬ」

晴信は禰々を励ますように両肩に手を置いた。その大きな手の温もりが励ましとなったか、禰々は笑みを浮かべたのだった。



八月二十日、寅王の元服の儀は諏訪上社にて執り行われる。病を押して列席した父・頼重野ほか、大祝である叔父・頼高、真田幸綱、信繁も参列した。
晴信は烏帽子親として寅王に真新しい烏帽子を被せたのだった。

「これよりは諏訪頼貞よりさだと名乗るがよい」
「はい!」

晴信がそう告げると、寅王改め頼貞は深々と頭を下げたのだった。
その日、祝いとして老若男女に関係なく餅と酒が振る舞われた。上社の境内では夜を徹しての宴が開かれ、歌い踊りと賑やかに過ごす。



頼重は一足先に上原城へ戻り、縁側に座り一人庭を眺めていた。

「殿……」
「禰々か」

禰々はそっと寄り添い、肩を預ける。頼重は黙って抱き寄せた。二人に言葉は必要なかった。どちらともなく、夜空を見上げる。そこには優しい光を湛えた月が昇っていた。

「今宵は満月か……」
「ええ」
「頼貞は立派であった」
「左様でしたか」
「あれなら諏訪も安泰だ」

頼重は嬉しそうに微笑んだ。だが、その直後に咳き込む。禰々はその背をさすり、心配そうに眉根を寄せた。それを手で制し、今一度夜空を見上げる。

「禰々、何があっても晴信殿を信じよ」
「殿?」
「晴信殿は皆が笑って過ごせる世の中を作られようとしておられる。困難な道だが、怯まず突き進まれておる。諏訪はそれを信じて従うのみ」
「はい……」

頼重はもう一度笑みを浮かべ、禰々を抱き寄せた。それは別れを惜しむ抱擁でもあった。禰々は涙を堪え、微笑み寄り添った。

それから十日ほど立った九月の初め、頼重は静かに息を引き取る。嫡男・頼貞の立派な姿を目にした為か、その死に顔は笑みを浮かべていたのだった。


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