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火の章
葛尾城の攻防と太郎の偏諱授与
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天文二十二年(1553年)三月。
遂に、晴信率いる武田軍が村上に攻勢をかける。晴信は深志城から進み、苅屋原城を包囲する。
「早々に片を付ける。周辺に火を放て」
晴信はそう命じて城の近辺に火を放つ。それが功を奏し、四月初めに陥落させ、城主・太田長門守を生け捕りにしたのだった。同じ頃、塔原城も自落、塔原海野氏が降る。
「御館様、幸先ようございますな」
「ああ、これも例の軍旗のおかげかもしれんな」
晴信は本陣から遠く先を行く騎馬隊を見つめる。彼らに従う足軽には太郎が発案した【孫子の旗】を持たせた。黒地に金文字で箔押しされたその軍旗は敵味方に関係なく驚きを以て迎えられる。そして、馬蹄を響かせ怒濤の如く攻め上がる。その動きはまさしく【孫子の兵法】通りであった。
「兵たちにあの一文を説いて聞かせた甲斐がありましたな!」
先行させていた一門の於曾源八郎が満面の笑みを浮かべている。晴信はそれに対し、頷き返した。
「これも全ては飯富兄弟の賜物である」
「では、勝利の暁には彼の兄弟に秘蔵の酒を振る舞ってやらねばなりませぬな」
「では、葛尾城を落とした暁にはたんまり振る舞ったやろう」
晴信の言葉に源八郎は【御館様は太っ腹ですな!】と豪快に笑ったのであった。
その後、晴信は攻撃の手を緩めることなく、進軍する。その様子に恐れを成したのか、村上義清の家臣・屋代政国が武田に内通する。
「葛尾城を目指すのであれば、桑原辺りは安全にございます。こちらから攻めるのが宜しいかと……」
政国はそのように注進してきた。晴信はそれに従い、葛尾城攻略の最終準備に取りかかる。信繁を上使として遣わし、今福石見守を苅屋原城主に任じた。
「いよいよですな!」
信繁と共に葛尾城攻略の最後の詰めを行う晴信であった。
一方、葛尾城の村上義清は苛立ちを隠せずにいた。
「殿! 屋代政国が武田に内通した良し!」
「なんだと!!」
「そればかりではありませぬ。塩崎氏も武田に内通した、と……」
この報告には、信濃四大将の一人として【北信にこの人あり】と言わしめてきた義清にとって愕然となる注進であった。
「おのれぇぇぇぇ」
義清の地を這うような低い唸り声に家臣も後ずさる。義清は手にしていた鞭をへし折ると吐き捨てるように告げる。
「城を捨てる!」
葛尾城放棄の決定を下してからの義清の行動は早かった。城を捨てて逃亡を図ると、中野の高梨政頼と共に越後の長尾景虎を頼ったのである。
「景虎殿の噂はかねがね覗っております。先祖伝来の所領回復のため是非ともご助力いただきたい」
「心中、お察し申し上げる。この景虎、いくらでも力を貸しましょうぞ!」
「それは心強い!!」
景虎が義清の両手を取って励ます。義清は景虎の力強い眼差しに感謝を述べる。そして、捲土重来を誓うのであった。
後に残った村上旧臣たちに義清の思いが届くことはない。取り残された彼らはここで生きていくより他ないからである。そんな彼らが選ぶのは武田への降伏であった。石川氏を始め、更級郡の香坂氏も武田へと出仕してきた。
晴信は苅屋原城の城番に秋山虎繁を任じ、信繁と駒井にその心得などを指示した。小県郡の室賀信俊まで出仕してくると、いよいよ完全制覇へと動き始める。八幡方面に出陣させたのだ。
「これで信濃制覇は間違いございませぬな」
「そうだと良いのだが……」
晴信のその危惧は的中する。村上・北信濃国人衆の連合軍・五千が迫ってきているとのもうこくが入ったのだ。それにより、降っていた石川氏を始めとする村上旧臣が反旗を翻す。これにより葛尾城は奪還され、守備についていた於曾源八郎が戦死した。
「無闇に戦を仕掛けるは得策ではない」
「しかし、於曾殿が!!」
「今は体制を整えることを第一とせよ」
「御館様……」
「一旦、苅屋原へ戻る。源八郎の死を無駄にするな」
晴信は苅屋原城へと撤収する。その後、麻績・青柳・大岡の守備を固める。やがて戦況は好転する。大須賀久兵衛尉が内通し、孤落城の小島兵庫助らを討ち取ったのだ。
五月に入り晴信は深志城へと戻る。すると、屋代政国から更なる朗報がもたらされた。
「御館様、麻績氏も武田方に加えて欲しいと願い出てきました」
「それは願ってもない申し出。すぐに出仕いたすよう伝えてくれ」
政国は麻績氏へ晴信からの返事を以て深志城を後にする。これにより、晴信は一定の成果を得たとして甲府へと帰還した。
「麻績氏も武田に付いたとなれば随分と楽になりますな」
「うむ。これからどう攻めるかだが……」
六月に入り晴信は村上旧臣の仕置きを続ける。それと併せて軍議を開き、塩田へ進攻するこうすることを決めたのだった。
「そういえば……」
軍議が終わった後、何気なく口を開いたのは真田幸綱であった。晴信はその考え込むような仕草が気になり、視線を向ける。
「どうした?」
「いえ、麻績氏と言えば、諏訪の方様のご生母の実家ではなかったかと……」
「そうなのか?」
「人聞き故、不確かですが。確かそうであったはずです。一度、頼重殿のに確かめられては如何でしょう?」
「そうだな……」
晴信は幸綱の勧めに従うことにした。同時にあることを思いついたのだった。
(麻績氏が香の母の実家というのであれば、あの計画を実行する上で後ろ盾に出来るかもしれない)
そんな思いが晴信の頭によぎった。すぐに勘助を上原へと向かわせる。頼重を甲府に呼び、詳細を確認するためだ。
「確かに、香の母親は確かに麻績の出です。それが何か?」
「実は近々四郞共々、高遠に移そうと考えておりまして……」
晴信は頼重にあのとき素戔嗚尊に勧められた策を話す。頼重は驚き、動揺したのは言うまでもない。
「香を甲府から追い出すというのですか?!」
「そうではないのです」
「では、一体?!」
晴信は一度、大きく息を吐く。頼重の顔をしっかりと見つめ、事の次第を打ち明けた。
「実は香のことを快く思っていない者が家中にいるのです。それもかなり近いところに……」
「まさか、三条殿の……」
「頼重殿、声が大きい」
晴信がそう制すると、頼重は済まなそうにして辺りを見回した。
「恐らく、頼重殿の思われておる通りでしょう。ですが、相手は三条が幼い頃から仕えておる者。おいそれと追い出すわけには生きませぬ」
「だから、香たちを高遠へ移すというわけですか……」
晴信は頼重の言葉に頷いた。すると、頼重は顎に手を当て、何かしら考えを巡らし始めた。しばらく、眉間に皺を寄せ考え込んでいたが、顔を上げ笑みを向けてくれた。
「頼重殿?」
「麻績には私から話を付けておきましょう。ただし、そのためには知行の安堵などの見返りが必要ですが、宜しいか?」
「分相応のものであれば、かまいませぬ」
「では、早速話を付けます」
頼重はそう言い残し、上原へととって返したのだった。晴信は祈る気持ちで見つめたのだった。
一息ついたところで自分の背中に向けられる視線に気付いた晴信。振り返れば難しい顔をした太郎が立っていた。
「どうした?」
「父上……。四郞を高遠にやるというのは本当なのですか?!」
晴信は悲しげに眉根を寄せると静かに頷いた。すると、太郎が駆け寄り、胸ぐらを掴んで声を荒らげた。
「四郞はまだ八つです。同腹の兄弟もおらぬのに追い出すように高遠にやるなど!!」
「一人ではない。香も一緒だ」
「父上は母子共々甲府から追い出すのですか?!」
「……」
「あんなに父上のことを思うておられると言うに……」
太郎はそれまでが嘘のように力なく項垂れた。その様子に心を痛めるが毅然とした態度を取らねばと奮い立つ。と、懐から何かが落ち、ゴトリと音を立てて床に転がった先に気付きたたろうが拾い上げる。それは津島神社で素戔嗚尊から渡された濃紺の勾玉であった。
「これは?」
太郎はそれを手に取りまじまじと見つめている。晴信はこのときになって素戔嗚尊から告げられていたことを思い出す。
「それは津島神社で素戔嗚様からいただいた物だ」
「素戔嗚様から?」
「そうだ。村上のことですっかり忘れておった」
「父上!どうしてそんな大事なことを忘れるんですか?!」
「すまぬ……」
憤慨する太郎に対し、晴信は眉を下げてひたすら謝る。
「父上、四郞の高遠行きには何か理由があるのではないですか?」
「ああ……」
「私に話していただけますね?」
「わかった」
晴信は素戔嗚尊とのやりとりを太郎に話して聞かせる。自分がやり直しの人生を送っていることだけは伏せてではあるが、概ねあのときと同じ事を話した。
「香姉様が、二年のうちに亡くなるなど……」
「だが、心当たりがあるだけに否定は出来ぬ」
「それは、そうですが……」
「だが、素戔嗚様はそれを覆す方法を諏訪の建御名方様に探すように命じておられるそうだ」
「それだけが救い、というわけですか」
晴信は頷いた。太郎は手にした勾玉を握りしめながら、眉間に皺を寄せる。自分の無力さに悔しさを滲ませているようだ。
「それはお前が持っておけ」
「え?」
「素戔嗚様よりそれをお前に渡すように言われた。お前に降りかかる災いから守ってくれるそうだ。肌身離さず持っておくようい、と」
「はい……」
太郎はもう一度勾玉を強く握りしめた。そんな息子の肩を抱き寄せ、励ます晴信。無理矢理に笑みを作り、話題を変える。
「それより、間もなく偏諱授与の使者が参るそうだ」
「偏諱授与……」
「そうだ、その後はそなたの初陣のことも考えねばな」
「初陣?!」
「兵部から聞いておるぞ。そなた自ら騎馬隊を編制し、共に鍛えておるそうではないか」
「はい。あの軍旗を提案したのは私ですから、俺に見合う活躍をと思い……」
「それは良き心がけだ」
晴信の言葉に少し照れた笑みを浮かべる太郎。
「まずは己の出来ることからなすしかない。その先に未来があると信じて進むのみ」
「そうですね!」
「そのために四郞たちを高遠に移すのだ。あそこは下社に近い。下社の八坂刀売姫が守って下さる。そう、素戔嗚様はおっしゃった。今はその言葉を信じよう」
太郎は静かに頷いた。
(多重は、母上にとって香姉様が【目の上のこぶ】とでも思うておるのかもしれぬ。だが、断じてそのようなことはない。香姉様の命と四郞の命はこの私が守ってみせる)
太郎は一人決意を新たにした。その決意はやがて香姫の命運を、その先の武田の命運そのものを変えていくことになる。
七月に入り、いよいよ偏諱授与の使者が甲府へ遣わされるとの報が届く。
「いよいよですな!」
「もてなしの準備は抜かりないな?」
「この飯富兵部虎昌。若殿の為に事を進めて参りました。ご心配には及びませぬ」
虎昌の自信に満ちたその顔に晴信は安堵した。太郎は自身の偏諱授与に関する使者とあって落ち着かない。何度も妻の嶺に窘められている。
そして、二十三日。幕府の使者が甲府に到着した。すぐに通された大広間で使者は偏諱授与の書状を読み上げた。
「武田晴信が嫡男・太郎」
「はっ!」
「第十三代、征夷大将軍・足利義輝様より、その名から【義】の一字を与える。本日只今より、【武田義信】と名乗るがよい」
「!!!」
場内にどよめきが起きる。最前列に控える晴信と太郎も同様だ。それはそのはずである。【義】の一字は清和源氏及び足利将軍家の通字である。それを甲斐源氏の嫡流とはいえ、庶流の出である武田の嫡男に与えるというのだ。皆、驚かずにはいられない。
「上様は武田の働きに期待しておられる。これはその現れとお考え下され」
「ありがたき幸せ。この武田太郎、父・晴信と共に忠勤に励む所存!!」
太郎の言葉に使者は満足した様子である。その後は晴信が饗応役となりもてなした。
翌日、幕府の使者を見送る。晴信はこのたびの偏諱授与で、家中の士気が上がったのを感じていた。
「出陣の支度は出来ておるか?」
「いつ何時でも……」
虎昌の返事に晴信は頷く。
「勘助、皆に伝令せよ。明日、塩田に向け出陣する」
「はっ!」
勘助はいつものように消え去る。それを見届けてから自身も支度に入るのであった。
「父上、此度は私も……」
「ならぬ」
「何故です?!」
「村上のことだ。どのような罠を仕掛けてくるか分からぬ。一進一退となり、下手をすれば負ける」
「今の武田の士気ならば負けるはずなど!!」
「それが慢心を生むのだ。故に此度は連れて行かぬ」
晴信にそう言われては太郎は黙るより仕方ない。気落ちする太郎の肩に手を置き晴信は励ます。
「そなたには名乗りの披露の場を設けたい。初陣はそれからだ!」
「ですが……」
「これも親心だ。それに……」
晴信は声を潜め、太郎に耳打ちをする。
「俺がいない間、四郎と香のことを守ってくれ」
太郎は晴信の顔を見上げる。その瞳には家族を心配する父親の色が濃く浮かんでいた。それを見てしまっては太郎は頷くより他ない。
「良き日を選び、名乗りを上げ、華々しく初陣を飾る」
「はい」
「俺の初陣は【一夜で城を落とした】などと噂されるほどの完勝であった。出来ることなら、そなたの初陣もそのようでありたい」
晴信の優しげな眼差しに自分への慈しみを感じ、太郎はそれに素直に従うことにした。そして、父より任されたことを確実にこなすことを誓うのであった。
遂に、晴信率いる武田軍が村上に攻勢をかける。晴信は深志城から進み、苅屋原城を包囲する。
「早々に片を付ける。周辺に火を放て」
晴信はそう命じて城の近辺に火を放つ。それが功を奏し、四月初めに陥落させ、城主・太田長門守を生け捕りにしたのだった。同じ頃、塔原城も自落、塔原海野氏が降る。
「御館様、幸先ようございますな」
「ああ、これも例の軍旗のおかげかもしれんな」
晴信は本陣から遠く先を行く騎馬隊を見つめる。彼らに従う足軽には太郎が発案した【孫子の旗】を持たせた。黒地に金文字で箔押しされたその軍旗は敵味方に関係なく驚きを以て迎えられる。そして、馬蹄を響かせ怒濤の如く攻め上がる。その動きはまさしく【孫子の兵法】通りであった。
「兵たちにあの一文を説いて聞かせた甲斐がありましたな!」
先行させていた一門の於曾源八郎が満面の笑みを浮かべている。晴信はそれに対し、頷き返した。
「これも全ては飯富兄弟の賜物である」
「では、勝利の暁には彼の兄弟に秘蔵の酒を振る舞ってやらねばなりませぬな」
「では、葛尾城を落とした暁にはたんまり振る舞ったやろう」
晴信の言葉に源八郎は【御館様は太っ腹ですな!】と豪快に笑ったのであった。
その後、晴信は攻撃の手を緩めることなく、進軍する。その様子に恐れを成したのか、村上義清の家臣・屋代政国が武田に内通する。
「葛尾城を目指すのであれば、桑原辺りは安全にございます。こちらから攻めるのが宜しいかと……」
政国はそのように注進してきた。晴信はそれに従い、葛尾城攻略の最終準備に取りかかる。信繁を上使として遣わし、今福石見守を苅屋原城主に任じた。
「いよいよですな!」
信繁と共に葛尾城攻略の最後の詰めを行う晴信であった。
一方、葛尾城の村上義清は苛立ちを隠せずにいた。
「殿! 屋代政国が武田に内通した良し!」
「なんだと!!」
「そればかりではありませぬ。塩崎氏も武田に内通した、と……」
この報告には、信濃四大将の一人として【北信にこの人あり】と言わしめてきた義清にとって愕然となる注進であった。
「おのれぇぇぇぇ」
義清の地を這うような低い唸り声に家臣も後ずさる。義清は手にしていた鞭をへし折ると吐き捨てるように告げる。
「城を捨てる!」
葛尾城放棄の決定を下してからの義清の行動は早かった。城を捨てて逃亡を図ると、中野の高梨政頼と共に越後の長尾景虎を頼ったのである。
「景虎殿の噂はかねがね覗っております。先祖伝来の所領回復のため是非ともご助力いただきたい」
「心中、お察し申し上げる。この景虎、いくらでも力を貸しましょうぞ!」
「それは心強い!!」
景虎が義清の両手を取って励ます。義清は景虎の力強い眼差しに感謝を述べる。そして、捲土重来を誓うのであった。
後に残った村上旧臣たちに義清の思いが届くことはない。取り残された彼らはここで生きていくより他ないからである。そんな彼らが選ぶのは武田への降伏であった。石川氏を始め、更級郡の香坂氏も武田へと出仕してきた。
晴信は苅屋原城の城番に秋山虎繁を任じ、信繁と駒井にその心得などを指示した。小県郡の室賀信俊まで出仕してくると、いよいよ完全制覇へと動き始める。八幡方面に出陣させたのだ。
「これで信濃制覇は間違いございませぬな」
「そうだと良いのだが……」
晴信のその危惧は的中する。村上・北信濃国人衆の連合軍・五千が迫ってきているとのもうこくが入ったのだ。それにより、降っていた石川氏を始めとする村上旧臣が反旗を翻す。これにより葛尾城は奪還され、守備についていた於曾源八郎が戦死した。
「無闇に戦を仕掛けるは得策ではない」
「しかし、於曾殿が!!」
「今は体制を整えることを第一とせよ」
「御館様……」
「一旦、苅屋原へ戻る。源八郎の死を無駄にするな」
晴信は苅屋原城へと撤収する。その後、麻績・青柳・大岡の守備を固める。やがて戦況は好転する。大須賀久兵衛尉が内通し、孤落城の小島兵庫助らを討ち取ったのだ。
五月に入り晴信は深志城へと戻る。すると、屋代政国から更なる朗報がもたらされた。
「御館様、麻績氏も武田方に加えて欲しいと願い出てきました」
「それは願ってもない申し出。すぐに出仕いたすよう伝えてくれ」
政国は麻績氏へ晴信からの返事を以て深志城を後にする。これにより、晴信は一定の成果を得たとして甲府へと帰還した。
「麻績氏も武田に付いたとなれば随分と楽になりますな」
「うむ。これからどう攻めるかだが……」
六月に入り晴信は村上旧臣の仕置きを続ける。それと併せて軍議を開き、塩田へ進攻するこうすることを決めたのだった。
「そういえば……」
軍議が終わった後、何気なく口を開いたのは真田幸綱であった。晴信はその考え込むような仕草が気になり、視線を向ける。
「どうした?」
「いえ、麻績氏と言えば、諏訪の方様のご生母の実家ではなかったかと……」
「そうなのか?」
「人聞き故、不確かですが。確かそうであったはずです。一度、頼重殿のに確かめられては如何でしょう?」
「そうだな……」
晴信は幸綱の勧めに従うことにした。同時にあることを思いついたのだった。
(麻績氏が香の母の実家というのであれば、あの計画を実行する上で後ろ盾に出来るかもしれない)
そんな思いが晴信の頭によぎった。すぐに勘助を上原へと向かわせる。頼重を甲府に呼び、詳細を確認するためだ。
「確かに、香の母親は確かに麻績の出です。それが何か?」
「実は近々四郞共々、高遠に移そうと考えておりまして……」
晴信は頼重にあのとき素戔嗚尊に勧められた策を話す。頼重は驚き、動揺したのは言うまでもない。
「香を甲府から追い出すというのですか?!」
「そうではないのです」
「では、一体?!」
晴信は一度、大きく息を吐く。頼重の顔をしっかりと見つめ、事の次第を打ち明けた。
「実は香のことを快く思っていない者が家中にいるのです。それもかなり近いところに……」
「まさか、三条殿の……」
「頼重殿、声が大きい」
晴信がそう制すると、頼重は済まなそうにして辺りを見回した。
「恐らく、頼重殿の思われておる通りでしょう。ですが、相手は三条が幼い頃から仕えておる者。おいそれと追い出すわけには生きませぬ」
「だから、香たちを高遠へ移すというわけですか……」
晴信は頼重の言葉に頷いた。すると、頼重は顎に手を当て、何かしら考えを巡らし始めた。しばらく、眉間に皺を寄せ考え込んでいたが、顔を上げ笑みを向けてくれた。
「頼重殿?」
「麻績には私から話を付けておきましょう。ただし、そのためには知行の安堵などの見返りが必要ですが、宜しいか?」
「分相応のものであれば、かまいませぬ」
「では、早速話を付けます」
頼重はそう言い残し、上原へととって返したのだった。晴信は祈る気持ちで見つめたのだった。
一息ついたところで自分の背中に向けられる視線に気付いた晴信。振り返れば難しい顔をした太郎が立っていた。
「どうした?」
「父上……。四郞を高遠にやるというのは本当なのですか?!」
晴信は悲しげに眉根を寄せると静かに頷いた。すると、太郎が駆け寄り、胸ぐらを掴んで声を荒らげた。
「四郞はまだ八つです。同腹の兄弟もおらぬのに追い出すように高遠にやるなど!!」
「一人ではない。香も一緒だ」
「父上は母子共々甲府から追い出すのですか?!」
「……」
「あんなに父上のことを思うておられると言うに……」
太郎はそれまでが嘘のように力なく項垂れた。その様子に心を痛めるが毅然とした態度を取らねばと奮い立つ。と、懐から何かが落ち、ゴトリと音を立てて床に転がった先に気付きたたろうが拾い上げる。それは津島神社で素戔嗚尊から渡された濃紺の勾玉であった。
「これは?」
太郎はそれを手に取りまじまじと見つめている。晴信はこのときになって素戔嗚尊から告げられていたことを思い出す。
「それは津島神社で素戔嗚様からいただいた物だ」
「素戔嗚様から?」
「そうだ。村上のことですっかり忘れておった」
「父上!どうしてそんな大事なことを忘れるんですか?!」
「すまぬ……」
憤慨する太郎に対し、晴信は眉を下げてひたすら謝る。
「父上、四郞の高遠行きには何か理由があるのではないですか?」
「ああ……」
「私に話していただけますね?」
「わかった」
晴信は素戔嗚尊とのやりとりを太郎に話して聞かせる。自分がやり直しの人生を送っていることだけは伏せてではあるが、概ねあのときと同じ事を話した。
「香姉様が、二年のうちに亡くなるなど……」
「だが、心当たりがあるだけに否定は出来ぬ」
「それは、そうですが……」
「だが、素戔嗚様はそれを覆す方法を諏訪の建御名方様に探すように命じておられるそうだ」
「それだけが救い、というわけですか」
晴信は頷いた。太郎は手にした勾玉を握りしめながら、眉間に皺を寄せる。自分の無力さに悔しさを滲ませているようだ。
「それはお前が持っておけ」
「え?」
「素戔嗚様よりそれをお前に渡すように言われた。お前に降りかかる災いから守ってくれるそうだ。肌身離さず持っておくようい、と」
「はい……」
太郎はもう一度勾玉を強く握りしめた。そんな息子の肩を抱き寄せ、励ます晴信。無理矢理に笑みを作り、話題を変える。
「それより、間もなく偏諱授与の使者が参るそうだ」
「偏諱授与……」
「そうだ、その後はそなたの初陣のことも考えねばな」
「初陣?!」
「兵部から聞いておるぞ。そなた自ら騎馬隊を編制し、共に鍛えておるそうではないか」
「はい。あの軍旗を提案したのは私ですから、俺に見合う活躍をと思い……」
「それは良き心がけだ」
晴信の言葉に少し照れた笑みを浮かべる太郎。
「まずは己の出来ることからなすしかない。その先に未来があると信じて進むのみ」
「そうですね!」
「そのために四郞たちを高遠に移すのだ。あそこは下社に近い。下社の八坂刀売姫が守って下さる。そう、素戔嗚様はおっしゃった。今はその言葉を信じよう」
太郎は静かに頷いた。
(多重は、母上にとって香姉様が【目の上のこぶ】とでも思うておるのかもしれぬ。だが、断じてそのようなことはない。香姉様の命と四郞の命はこの私が守ってみせる)
太郎は一人決意を新たにした。その決意はやがて香姫の命運を、その先の武田の命運そのものを変えていくことになる。
七月に入り、いよいよ偏諱授与の使者が甲府へ遣わされるとの報が届く。
「いよいよですな!」
「もてなしの準備は抜かりないな?」
「この飯富兵部虎昌。若殿の為に事を進めて参りました。ご心配には及びませぬ」
虎昌の自信に満ちたその顔に晴信は安堵した。太郎は自身の偏諱授与に関する使者とあって落ち着かない。何度も妻の嶺に窘められている。
そして、二十三日。幕府の使者が甲府に到着した。すぐに通された大広間で使者は偏諱授与の書状を読み上げた。
「武田晴信が嫡男・太郎」
「はっ!」
「第十三代、征夷大将軍・足利義輝様より、その名から【義】の一字を与える。本日只今より、【武田義信】と名乗るがよい」
「!!!」
場内にどよめきが起きる。最前列に控える晴信と太郎も同様だ。それはそのはずである。【義】の一字は清和源氏及び足利将軍家の通字である。それを甲斐源氏の嫡流とはいえ、庶流の出である武田の嫡男に与えるというのだ。皆、驚かずにはいられない。
「上様は武田の働きに期待しておられる。これはその現れとお考え下され」
「ありがたき幸せ。この武田太郎、父・晴信と共に忠勤に励む所存!!」
太郎の言葉に使者は満足した様子である。その後は晴信が饗応役となりもてなした。
翌日、幕府の使者を見送る。晴信はこのたびの偏諱授与で、家中の士気が上がったのを感じていた。
「出陣の支度は出来ておるか?」
「いつ何時でも……」
虎昌の返事に晴信は頷く。
「勘助、皆に伝令せよ。明日、塩田に向け出陣する」
「はっ!」
勘助はいつものように消え去る。それを見届けてから自身も支度に入るのであった。
「父上、此度は私も……」
「ならぬ」
「何故です?!」
「村上のことだ。どのような罠を仕掛けてくるか分からぬ。一進一退となり、下手をすれば負ける」
「今の武田の士気ならば負けるはずなど!!」
「それが慢心を生むのだ。故に此度は連れて行かぬ」
晴信にそう言われては太郎は黙るより仕方ない。気落ちする太郎の肩に手を置き晴信は励ます。
「そなたには名乗りの披露の場を設けたい。初陣はそれからだ!」
「ですが……」
「これも親心だ。それに……」
晴信は声を潜め、太郎に耳打ちをする。
「俺がいない間、四郎と香のことを守ってくれ」
太郎は晴信の顔を見上げる。その瞳には家族を心配する父親の色が濃く浮かんでいた。それを見てしまっては太郎は頷くより他ない。
「良き日を選び、名乗りを上げ、華々しく初陣を飾る」
「はい」
「俺の初陣は【一夜で城を落とした】などと噂されるほどの完勝であった。出来ることなら、そなたの初陣もそのようでありたい」
晴信の優しげな眼差しに自分への慈しみを感じ、太郎はそれに素直に従うことにした。そして、父より任されたことを確実にこなすことを誓うのであった。
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