上 下
43 / 69
火の章

晴信の帰国と孫子の兵法

しおりを挟む
晴信は無事に帰国する。そのあいだの様子を太郎・信繁・信廉から報告を受けた。

「では、準備は抜かりないというのだな?」
「はい。いつでも村上を攻められます」

太郎の力強い返事に晴信は満足する。それと同時に息子の急激な成長に目を細める。信繁や信廉の力添えがあったればこそかもしれないが、それでも抜かりなく進められたことは評価に値する。

「ところで、兄上の方は如何でしたか?」
「うむ。信濃守護職についてはこれからの働き次第ということになった」
「左様にございますか!」

信繁・信廉はその返事にがぜん士気が上がる。二人の顔には笑顔が浮かんでいた。

「父上、私の偏諱へんきについて公方くぼう様は何かおっしゃっておられましたか?」

太郎は少し不安げな顔をしながら遠慮がちに聞いてくる。それに対して晴信は笑顔で応じた。

「安心いたせ。追って沙汰をするとのことであったが、夏までには偏諱授与の使者が参るであろう」
「まことですか?!」
「まことである」

晴信の応えに太郎の顔がパッと明るくなる。その喜びように信繁・信廉もつられて笑顔になる。あまりのはしゃぎように晴信がいさめるほどであった。

「それはさておき……」
「父上?」
「公方様よりお墨付きを賜った」
「お墨付きにございますか?」

訝しむ信繁に晴信は頷いた。そのただならぬ雰囲気に信廉と太郎は顔を見合わせて訝しむ。

「これはしばらくは他言無用。武田家の秘中の秘」
「そのように重要なことでございますか?」

晴信は勘助に合図を送り例の書状をもってこさせる。黒塗りの文箱に入れられたそれを三人の前に差し出し、ゆっくりと蓋を開ける。そして、その中の書状を手に取り、一度礼をしてから開いた。

「公方様より直々に渡されたものである。心して読むように……」

まずは信繁から読み、信廉・太郎へと回された。三人共に驚きの表情を浮かべ、放心したようであった。特に太郎はその内容に震えが止まらない。それはそうだ。将軍から直々に後継者として指名されたようなものである。

「ち、父上……」

そう従妹と漏らすのがようやくである。晴信は書状を受け取ると、丁寧にたたみ文箱へとしまい直す。その後、一度深呼吸をしてから話をし始めた。

「公方様は長らく京に上っては追われてを繰り返しておられる。また、自ら政を執り行いたいようだ」
「御親政を目指しておいでだと言うわけですな」
「そのようだ」

信繁・信廉は義輝の描く親政について思いを馳せる。それが如何に険しいものか容易に想像が付いてしまった。

「し、しかし、何故私を……」
「それは我が武田が甲斐源氏の嫡流、即ち源氏の名門であること。そなたの母が転法輪三条家の姫であること。先代将軍・義晴様が武田を頼りにしておられたこと。それらを吟味した上で公方様が判断されたのだ」

その言葉に皆が納得した。太郎は自分の両肩にかかった重責に冷や汗をかく。

(私にそのような技量があるのであろうか……)

その不安を晴信も感じ取る。少しでもそれを取り除いてやろうと、肩に手を置き微笑む。

「父上?」
「案ずるな。これはあくまでも【予防策】だ」
「予防策?」
「公方様にもしもの事があったときのためのもの。だから、すぐにどうこうと言うことはない」
「そうですか……」
「太郎、お前はこの【お墨付き】に叶う人物に成長すれば良い。天下人になるためには【天の時】【地の利】【人の輪】が必要であるという」
「天の時、地の利、人の輪……」
「この三つのうち、最も見極めが難しいのが【天の時】だ」

晴信の言葉に太郎が息を飲む。それは信繁・信廉も同じであり、二人とも拳を握りしめ晴信の次の言葉を待った。

「俺はまだ先だと思っている。何より【地の利】も【人の輪】もまだまだだ」
「それがそろってからの【天の時】と?」

信繁が口を挟めば、晴信は静かに頷いて肯定する。すかさず信廉が問いただす。

「具体的にどうなさるおつもりか?」
「まずは【地の利】だが、実はこれが最も難儀である」
「え?」
「甲斐は京より遠い。上洛して天下に号令するには時がかかりすぎる」
「確かに……」
「それを覆すほどのものを整えねばならぬ。幸い【金山】と【駿馬】が甲斐にはある。それを以てして【地の利】を得るのだ」

晴信は【金】を使って街道を整備し、商いを奨励する。その商いで手にした銭を使って治水や開墾を行い石高を増やす。石高が増えれば食うに困らなくなり、人が増える。人が増えれば百姓と足軽を分けることが出来る。百姓は農作業に専念し、足軽が兵役の一切を担う。
また、専門兵である足軽を雇うことは軍の統率を取る上で非常に有益であった。それは集団戦が主になりつつあった昨今の戦において勝敗を左右するものである。

「足軽として雇えば、訓練もしやすくなりますな」
「指揮系統が密になり、戦で有利に立てる!」
「その通りだ。かつて孫子はこう説いた」

故其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山 難知如陰 動如雷霆
(故に其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざる事山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆の如し)

「軍は移動するときは風のように速く、陣容は林のように静かに敵方近くでも見破られにくく、攻撃は火のように勢いに乗じて、敵方の奇策・陽動には惑わされず陣形を崩さないのは山のように、どのような動きに出るか分からない雰囲気には陰のように、攻撃の端は敵の無策・想定外を突いて雷のように敵方を混乱させながら策を実行すべし」

その言葉に三人は真剣に受け止め、聞き入っている。晴信は更に続けた。

「これは戦というものが敵を騙すことであり、有利になるように動き、分散・集合して変化していくものである。その前提があるからこそだ」
「なるほど……」

三人が深く頷いている。それに対して晴信は苦笑して後ろ頭を掻いた。

「全部、孫子の受け売りではあるがな」
「何を言われますか!【六韜りくとう】【三略】が好まれる昨今。【孫子】をたしなまれておられる兄上は武田の誇りでございます!」

恐縮気味の晴信に対し、信廉が興奮気味に目を輝かせている。チラリと視線を送れば信繁も同じようであった。
その中にあって太郎は一人考え込んでいた。その様子が気にかかり、晴信は声をかける。すると、太郎は顔を上げて一つの提案をしてきた。

「父上、この孫子の兵法を軍旗に染め上げては如何でしょう?」
「それは良い!武田は他家とは違うことを見せつけられましょう」
「それがしも賛成にございます」

太郎の提案に信繁もの部下ども賛同をする。

「しかし、全文を載せるは長過ぎるであろう」
「では、風と林と火と山の四つにとどめては?林と陰、火と雷は意味が似通っておりますので省いても差し支えないでしょう」
「ふむ。そういう手もあるか」

晴信はその提案に心が動く。すると、太郎意味ありげな笑みを浮かべる。

「太郎?」
「陰と雷は一門衆のみが知り得る秘策と……」
「一門衆の秘策か」
「つまり、叔父上方と我ら父上の子だけが知り得る秘策とするのです」
「ほう、それは面白い!」

太郎の提案に晴信は乗った。信繁・信廉も大いに賛同したのであった。

晴信はすぐに実行に移す。勘助を呼び、高名な僧侶に書を依頼するよう命じる。

「では、美濃の快川紹喜かいせんじょうき様に頼まれては如何でしょう?」
「快川紹喜殿なれば問題あるまい。すぐに使者を遣わせよ」
「はっ!」

こうして、後に【孫子の旗】として多くの書物に記される武田の軍旗が誕生する。やがてこの軍旗は武田の騎馬隊と共に全国に知れ渡ることになるのであった。
 
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

肥後の春を待ち望む

尾方佐羽
歴史・時代
秀吉の天下統一が目前になった天正の頃、肥後(熊本)の国主になった佐々成政に対して国人たちが次から次へと反旗を翻した。それを先導した国人の筆頭格が隈部親永(くまべちかなが)である。彼はなぜ、島津も退くほどの強大な敵に立ち向かったのか。国人たちはどのように戦ったのか。そして、九州人ながら秀吉に従い国人衆とあいまみえることになった若き立花統虎(宗茂)の胸中は……。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

摂政ナナム・マシャン・ドムパ・キェの失脚

りゅ・りくらむ
歴史・時代
8世紀中頃のボェの国(現チベット)。古い神々を信じる伝統派と仏教を信じる改革派が相争う宮殿で、改革派に与する国王ティデ・ツクツェンが暗殺された。首謀者は伝統派の首領、宰相バル・ドンツァプ。偶然事件を目撃してしまったナナム・ニャムサンは幼馴染で従兄弟の太子ナツォクを逃がそうとするが、ドンツァプと並ぶ伝統派の実力者である伯父ナナム・マシャンに捕らえられ、ナツォクを奪われる。王宮に幽閉されたナツォクを助けるためニャムサンは、亡き父の親友ゲンラム・タクラ・ルコン、南方元帥グー・ティサン、東方元帥チム・ゲルシクと協力し、ナツォクの救出に奔走する。 民間伝承のような勧善懲悪ストーリではなく出来るだけ史実に沿うよう努力しています。参考文献は自分のWebサイトで公開中です。

二十九の星 -後漢光武帝戦記-

真崎 雅樹
歴史・時代
三国志から遡ること、二百年―― 齢十三で父を亡くすも、その苦しみを乗り越えて政界で立身した男、王莽。 しかし、腐敗した国家は清廉高潔の士を求めず、王莽は政争に敗れて帝都を追われる。 失意の中、帝国を彷徨う王莽は、ある時、皇帝の血を引いた少年たちと出会い、彼らに一巻の書物を託す。 その直後、停滞していた時代が英雄を求めて激しく動き出す。 遥か西方、ローマの地にて、運命が偉大なカエサルを、アウグストゥスを求めたように。 シルクロードの西端でローマ帝国が内乱を経て成立した時代、 シルクロードの東端で起きた戦乱を描く歴史ファンタジー。

処理中です...