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火の章
晴信の帰国と孫子の兵法
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晴信は無事に帰国する。その間の様子を太郎・信繁・信廉から報告を受けた。
「では、準備は抜かりないというのだな?」
「はい。いつでも村上を攻められます」
太郎の力強い返事に晴信は満足する。それと同時に息子の急激な成長に目を細める。信繁や信廉の力添えがあったればこそかもしれないが、それでも抜かりなく進められたことは評価に値する。
「ところで、兄上の方は如何でしたか?」
「うむ。信濃守護職についてはこれからの働き次第ということになった」
「左様にございますか!」
信繁・信廉はその返事にがぜん士気が上がる。二人の顔には笑顔が浮かんでいた。
「父上、私の偏諱について公方様は何かおっしゃっておられましたか?」
太郎は少し不安げな顔をしながら遠慮がちに聞いてくる。それに対して晴信は笑顔で応じた。
「安心いたせ。追って沙汰をするとのことであったが、夏までには偏諱授与の使者が参るであろう」
「まことですか?!」
「まことである」
晴信の応えに太郎の顔がパッと明るくなる。その喜びように信繁・信廉もつられて笑顔になる。あまりのはしゃぎように晴信が窘めるほどであった。
「それはさておき……」
「父上?」
「公方様よりお墨付きを賜った」
「お墨付きにございますか?」
訝しむ信繁に晴信は頷いた。そのただならぬ雰囲気に信廉と太郎は顔を見合わせて訝しむ。
「これはしばらくは他言無用。武田家の秘中の秘」
「そのように重要なことでございますか?」
晴信は勘助に合図を送り例の書状をもってこさせる。黒塗りの文箱に入れられたそれを三人の前に差し出し、ゆっくりと蓋を開ける。そして、その中の書状を手に取り、一度礼をしてから開いた。
「公方様より直々に渡されたものである。心して読むように……」
まずは信繁から読み、信廉・太郎へと回された。三人共に驚きの表情を浮かべ、放心したようであった。特に太郎はその内容に震えが止まらない。それはそうだ。将軍から直々に後継者として指名されたようなものである。
「ち、父上……」
そう従妹と漏らすのがようやくである。晴信は書状を受け取ると、丁寧にたたみ文箱へとしまい直す。その後、一度深呼吸をしてから話をし始めた。
「公方様は長らく京に上っては追われてを繰り返しておられる。また、自ら政を執り行いたいようだ」
「御親政を目指しておいでだと言うわけですな」
「そのようだ」
信繁・信廉は義輝の描く親政について思いを馳せる。それが如何に険しいものか容易に想像が付いてしまった。
「し、しかし、何故私を……」
「それは我が武田が甲斐源氏の嫡流、即ち源氏の名門であること。そなたの母が転法輪三条家の姫であること。先代将軍・義晴様が武田を頼りにしておられたこと。それらを吟味した上で公方様が判断されたのだ」
その言葉に皆が納得した。太郎は自分の両肩にかかった重責に冷や汗をかく。
(私にそのような技量があるのであろうか……)
その不安を晴信も感じ取る。少しでもそれを取り除いてやろうと、肩に手を置き微笑む。
「父上?」
「案ずるな。これはあくまでも【予防策】だ」
「予防策?」
「公方様にもしもの事があったときのためのもの。だから、すぐにどうこうと言うことはない」
「そうですか……」
「太郎、お前はこの【お墨付き】に叶う人物に成長すれば良い。天下人になるためには【天の時】【地の利】【人の輪】が必要であるという」
「天の時、地の利、人の輪……」
「この三つのうち、最も見極めが難しいのが【天の時】だ」
晴信の言葉に太郎が息を飲む。それは信繁・信廉も同じであり、二人とも拳を握りしめ晴信の次の言葉を待った。
「俺はまだ先だと思っている。何より【地の利】も【人の輪】もまだまだだ」
「それがそろってからの【天の時】と?」
信繁が口を挟めば、晴信は静かに頷いて肯定する。すかさず信廉が問いただす。
「具体的にどうなさるおつもりか?」
「まずは【地の利】だが、実はこれが最も難儀である」
「え?」
「甲斐は京より遠い。上洛して天下に号令するには時がかかりすぎる」
「確かに……」
「それを覆すほどのものを整えねばならぬ。幸い【金山】と【駿馬】が甲斐にはある。それを以てして【地の利】を得るのだ」
晴信は【金】を使って街道を整備し、商いを奨励する。その商いで手にした銭を使って治水や開墾を行い石高を増やす。石高が増えれば食うに困らなくなり、人が増える。人が増えれば百姓と足軽を分けることが出来る。百姓は農作業に専念し、足軽が兵役の一切を担う。
また、専門兵である足軽を雇うことは軍の統率を取る上で非常に有益であった。それは集団戦が主になりつつあった昨今の戦において勝敗を左右するものである。
「足軽として雇えば、訓練もしやすくなりますな」
「指揮系統が密になり、戦で有利に立てる!」
「その通りだ。かつて孫子はこう説いた」
故其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山 難知如陰 動如雷霆
(故に其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざる事山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆の如し)
「軍は移動するときは風のように速く、陣容は林のように静かに敵方近くでも見破られにくく、攻撃は火のように勢いに乗じて、敵方の奇策・陽動には惑わされず陣形を崩さないのは山のように、どのような動きに出るか分からない雰囲気には陰のように、攻撃の端は敵の無策・想定外を突いて雷のように敵方を混乱させながら策を実行すべし」
その言葉に三人は真剣に受け止め、聞き入っている。晴信は更に続けた。
「これは戦というものが敵を騙すことであり、有利になるように動き、分散・集合して変化していくものである。その前提があるからこそだ」
「なるほど……」
三人が深く頷いている。それに対して晴信は苦笑して後ろ頭を掻いた。
「全部、孫子の受け売りではあるがな」
「何を言われますか!【六韜】【三略】が好まれる昨今。【孫子】を嗜まれておられる兄上は武田の誇りでございます!」
恐縮気味の晴信に対し、信廉が興奮気味に目を輝かせている。チラリと視線を送れば信繁も同じようであった。
その中にあって太郎は一人考え込んでいた。その様子が気にかかり、晴信は声をかける。すると、太郎は顔を上げて一つの提案をしてきた。
「父上、この孫子の兵法を軍旗に染め上げては如何でしょう?」
「それは良い!武田は他家とは違うことを見せつけられましょう」
「それがしも賛成にございます」
太郎の提案に信繁もの部下ども賛同をする。
「しかし、全文を載せるは長過ぎるであろう」
「では、風と林と火と山の四つにとどめては?林と陰、火と雷は意味が似通っておりますので省いても差し支えないでしょう」
「ふむ。そういう手もあるか」
晴信はその提案に心が動く。すると、太郎意味ありげな笑みを浮かべる。
「太郎?」
「陰と雷は一門衆のみが知り得る秘策と……」
「一門衆の秘策か」
「つまり、叔父上方と我ら父上の子だけが知り得る秘策とするのです」
「ほう、それは面白い!」
太郎の提案に晴信は乗った。信繁・信廉も大いに賛同したのであった。
晴信はすぐに実行に移す。勘助を呼び、高名な僧侶に書を依頼するよう命じる。
「では、美濃の快川紹喜様に頼まれては如何でしょう?」
「快川紹喜殿なれば問題あるまい。すぐに使者を遣わせよ」
「はっ!」
こうして、後に【孫子の旗】として多くの書物に記される武田の軍旗が誕生する。やがてこの軍旗は武田の騎馬隊と共に全国に知れ渡ることになるのであった。
「では、準備は抜かりないというのだな?」
「はい。いつでも村上を攻められます」
太郎の力強い返事に晴信は満足する。それと同時に息子の急激な成長に目を細める。信繁や信廉の力添えがあったればこそかもしれないが、それでも抜かりなく進められたことは評価に値する。
「ところで、兄上の方は如何でしたか?」
「うむ。信濃守護職についてはこれからの働き次第ということになった」
「左様にございますか!」
信繁・信廉はその返事にがぜん士気が上がる。二人の顔には笑顔が浮かんでいた。
「父上、私の偏諱について公方様は何かおっしゃっておられましたか?」
太郎は少し不安げな顔をしながら遠慮がちに聞いてくる。それに対して晴信は笑顔で応じた。
「安心いたせ。追って沙汰をするとのことであったが、夏までには偏諱授与の使者が参るであろう」
「まことですか?!」
「まことである」
晴信の応えに太郎の顔がパッと明るくなる。その喜びように信繁・信廉もつられて笑顔になる。あまりのはしゃぎように晴信が窘めるほどであった。
「それはさておき……」
「父上?」
「公方様よりお墨付きを賜った」
「お墨付きにございますか?」
訝しむ信繁に晴信は頷いた。そのただならぬ雰囲気に信廉と太郎は顔を見合わせて訝しむ。
「これはしばらくは他言無用。武田家の秘中の秘」
「そのように重要なことでございますか?」
晴信は勘助に合図を送り例の書状をもってこさせる。黒塗りの文箱に入れられたそれを三人の前に差し出し、ゆっくりと蓋を開ける。そして、その中の書状を手に取り、一度礼をしてから開いた。
「公方様より直々に渡されたものである。心して読むように……」
まずは信繁から読み、信廉・太郎へと回された。三人共に驚きの表情を浮かべ、放心したようであった。特に太郎はその内容に震えが止まらない。それはそうだ。将軍から直々に後継者として指名されたようなものである。
「ち、父上……」
そう従妹と漏らすのがようやくである。晴信は書状を受け取ると、丁寧にたたみ文箱へとしまい直す。その後、一度深呼吸をしてから話をし始めた。
「公方様は長らく京に上っては追われてを繰り返しておられる。また、自ら政を執り行いたいようだ」
「御親政を目指しておいでだと言うわけですな」
「そのようだ」
信繁・信廉は義輝の描く親政について思いを馳せる。それが如何に険しいものか容易に想像が付いてしまった。
「し、しかし、何故私を……」
「それは我が武田が甲斐源氏の嫡流、即ち源氏の名門であること。そなたの母が転法輪三条家の姫であること。先代将軍・義晴様が武田を頼りにしておられたこと。それらを吟味した上で公方様が判断されたのだ」
その言葉に皆が納得した。太郎は自分の両肩にかかった重責に冷や汗をかく。
(私にそのような技量があるのであろうか……)
その不安を晴信も感じ取る。少しでもそれを取り除いてやろうと、肩に手を置き微笑む。
「父上?」
「案ずるな。これはあくまでも【予防策】だ」
「予防策?」
「公方様にもしもの事があったときのためのもの。だから、すぐにどうこうと言うことはない」
「そうですか……」
「太郎、お前はこの【お墨付き】に叶う人物に成長すれば良い。天下人になるためには【天の時】【地の利】【人の輪】が必要であるという」
「天の時、地の利、人の輪……」
「この三つのうち、最も見極めが難しいのが【天の時】だ」
晴信の言葉に太郎が息を飲む。それは信繁・信廉も同じであり、二人とも拳を握りしめ晴信の次の言葉を待った。
「俺はまだ先だと思っている。何より【地の利】も【人の輪】もまだまだだ」
「それがそろってからの【天の時】と?」
信繁が口を挟めば、晴信は静かに頷いて肯定する。すかさず信廉が問いただす。
「具体的にどうなさるおつもりか?」
「まずは【地の利】だが、実はこれが最も難儀である」
「え?」
「甲斐は京より遠い。上洛して天下に号令するには時がかかりすぎる」
「確かに……」
「それを覆すほどのものを整えねばならぬ。幸い【金山】と【駿馬】が甲斐にはある。それを以てして【地の利】を得るのだ」
晴信は【金】を使って街道を整備し、商いを奨励する。その商いで手にした銭を使って治水や開墾を行い石高を増やす。石高が増えれば食うに困らなくなり、人が増える。人が増えれば百姓と足軽を分けることが出来る。百姓は農作業に専念し、足軽が兵役の一切を担う。
また、専門兵である足軽を雇うことは軍の統率を取る上で非常に有益であった。それは集団戦が主になりつつあった昨今の戦において勝敗を左右するものである。
「足軽として雇えば、訓練もしやすくなりますな」
「指揮系統が密になり、戦で有利に立てる!」
「その通りだ。かつて孫子はこう説いた」
故其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山 難知如陰 動如雷霆
(故に其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざる事山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆の如し)
「軍は移動するときは風のように速く、陣容は林のように静かに敵方近くでも見破られにくく、攻撃は火のように勢いに乗じて、敵方の奇策・陽動には惑わされず陣形を崩さないのは山のように、どのような動きに出るか分からない雰囲気には陰のように、攻撃の端は敵の無策・想定外を突いて雷のように敵方を混乱させながら策を実行すべし」
その言葉に三人は真剣に受け止め、聞き入っている。晴信は更に続けた。
「これは戦というものが敵を騙すことであり、有利になるように動き、分散・集合して変化していくものである。その前提があるからこそだ」
「なるほど……」
三人が深く頷いている。それに対して晴信は苦笑して後ろ頭を掻いた。
「全部、孫子の受け売りではあるがな」
「何を言われますか!【六韜】【三略】が好まれる昨今。【孫子】を嗜まれておられる兄上は武田の誇りでございます!」
恐縮気味の晴信に対し、信廉が興奮気味に目を輝かせている。チラリと視線を送れば信繁も同じようであった。
その中にあって太郎は一人考え込んでいた。その様子が気にかかり、晴信は声をかける。すると、太郎は顔を上げて一つの提案をしてきた。
「父上、この孫子の兵法を軍旗に染め上げては如何でしょう?」
「それは良い!武田は他家とは違うことを見せつけられましょう」
「それがしも賛成にございます」
太郎の提案に信繁もの部下ども賛同をする。
「しかし、全文を載せるは長過ぎるであろう」
「では、風と林と火と山の四つにとどめては?林と陰、火と雷は意味が似通っておりますので省いても差し支えないでしょう」
「ふむ。そういう手もあるか」
晴信はその提案に心が動く。すると、太郎意味ありげな笑みを浮かべる。
「太郎?」
「陰と雷は一門衆のみが知り得る秘策と……」
「一門衆の秘策か」
「つまり、叔父上方と我ら父上の子だけが知り得る秘策とするのです」
「ほう、それは面白い!」
太郎の提案に晴信は乗った。信繁・信廉も大いに賛同したのであった。
晴信はすぐに実行に移す。勘助を呼び、高名な僧侶に書を依頼するよう命じる。
「では、美濃の快川紹喜様に頼まれては如何でしょう?」
「快川紹喜殿なれば問題あるまい。すぐに使者を遣わせよ」
「はっ!」
こうして、後に【孫子の旗】として多くの書物に記される武田の軍旗が誕生する。やがてこの軍旗は武田の騎馬隊と共に全国に知れ渡ることになるのであった。
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