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火の章
太郎、華燭の典を挙げる
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天文二十一年(1552年)十一月。かねてより進められていた太郎と今川家の姫・嶺との婚礼が執り行われることになる。
駿府を発った嶺の輿は甲斐衆に迎えられ、内房・南部・下山・西郡を経て甲府に到着する。まずは穴山氏の屋敷に入り、その後武田の新屋敷へと入ったのである。
「今川義元が娘、嶺にございます」
到着して間もないというのに嶺は晴信や三条に挨拶にやってきた。嶺は今川の姫らしく、礼儀正しく凛としている。その顔は亡き姉によく似ており、晴信は懐かしさを覚えたのであった。
「駿府からの旅は如何であったか?」
「お迎えの方たちから良くしていただき、滞りなく……」
「左様であったか。早う武田の家風に馴染めると良いが」
「亡き母より色々と聞き及んでおります。それにお祖父様からも甲府は良いところだと」
嶺の口から父・信虎の事が出て内心焦る晴信。嶺にとっては外祖父(母方の祖父)である信虎が自分の事をどう評して語っていたか分からないからだ。信虎は外では【戦人】として峻烈な決断をする男であったが、家に入れば妻を愛とな子煩悩な男であった。そして、晴信に対しては【女の扱い】を説きたがる父でもあった。
「父上は何か言っておられたか?」
「そうですね。【晴信は無愛想なところがあるが情を表に出すのが不得手|ゆえ気にするな】と……」
「そ、そうか」
嶺の返事に晴信は複雑な思いであった。それを三条が扇で口元を隠していて見ている。その肩が小刻みに震えていることから笑いを堪えているのは明白だ。晴信は眉間に皺を寄せて憮然としている。その姿を不思議そうに首をかしげて嶺。それに気付いた太郎が咳払いをして注意を促す。
「嶺殿、お疲れでしょう。しばらく下がって旅の疲れを癒やすが宜しかろう」
「太郎様……」
「姫様、ここは若殿様のご厚意に甘えなさりませ」
後ろに控えた時からの助言に嶺は頷き、一礼をしてその場を後にしたのであった。
「そんなにおかしいか?」
「だって……」
晴信は酒を呷りながら顰めっ面をしている。それに付き合う三条はやはり笑いを堪えていた。
嶺が下がった後、三条は目に涙を浮かべて大笑いしたのである。それから、思い出す度にずっと笑っているので晴信は面白くない。それを紛らわすように酒を呷るのでその度に三条は酌をするのだった。
「父上……」
晴信が三条に文句を言ってやろうかと口お開きかけたところへ太郎が現れた。随分と神妙な面持ちに晴信は訝しむ。
「どうした?」
「嶺殿をお祖母様に引き合わせたいと思うのですが……」
「母上に?」
「はい。嶺殿はお祖母様にとって外孫。聞けば、亡き母君によく似ておると」
「ああ、そうだな」
晴信は合点がいった。実はこのところ母・大井の方の体調がおもわしくない。床に伏せりがちで、声をかけても遠くを見るばかりで返事をすることが少なくなった。いつものように返してくれる笑みは儚げで、いつ消えてもおかしくない様子だった。
薬師に診て貰ったところ、そう遠くない時期に鬼籍に入られるかもしれぬとのことであった。
(せめて、太郎の祝言までは……)
そんな思いが晴信の心によぎる。それを見て取った三条が目配せをしてくる。晴信は一度深呼吸をして太郎に向き直る。
「母上もお喜びになるだろう」
「ありがとうございます」
「だが、嶺殿の疲れも忘れるでないぞ」
「わ、わかっております」
太郎が顔を赤くして反論してくる。晴信は太郎が真面目で心優しい男であることをよく知っていた。そして、真面目すぎるが故に周りが見えなくなることも。だからこその忠告であったが、当の本人は分かっているとばかりに憤慨していた。
「太郎、女子とは実に複雑なのです」
「母上?」
「父上はそなたの思いやりが空回りせぬか危惧しておられるのです」
「あ……」
「そなたもこれからは【守られる者】から【守る者】へと変わるのです。そのこと、忘れぬよう精進なさい」
「わかりました」
太郎は母からの助言をしっかりと胸に刻んだ様子でその場を後にしたのだった。
祝言を翌日に控えた日の午後。太郎は嶺を伴い祖母・大井の方の住まう北の方を訪れる。その日は柔らかな日差しが降り注いでおり、そのおかげか大井の方の体調も良かった。
「お祖母様、このたび私の妻になる事になった嶺殿です」
「お初にお目にかかります。今川義元の娘、嶺にございます」
太郎に紹介されて嶺が挨拶を述べる。大井の方はその姿に息を飲む。遠い昔、駿河に嫁いでいった娘・定に瓜二つだったからだ。定の娘であるから似たところはあるだろうとは思っていた。それが、ここまで似ているとは思わなかった。それは嶺が定が嫁いだ頃と同じ年頃だったこともかかっているのかもしれない。
今目の前にいる嶺は大井の方の中に残る娘の姿と重なってい見える。そして、図らずも頬を涙が伝う。それを止めることは出来なかった。
「お祖母様……」
「ああ、ごめんなさいね。定が……、あの娘が帰ってきたのかと思って」
「お気になさらずに」
「本当にあの娘によく似て……」
大井の方はそろそろと手を差し出し、嶺の両頬を包み込んだ。見れば見るほど定に瓜二つ。気付けばしっかりと抱きしめていた。嶺は太郎に目配せしてどうすべきか尋ねる。太郎は静かに頷き、その瞳は【祖母を抱きしめて欲しい】と訴えかけていた。それを読み取った嶺は大井の方の背に腕を回し抱きしめる。優しく撫でれば大井の方に笑みが浮かんだのだった。
「母上との対面は如何であった?」
「はい。滞りなく」
「そうか」
「余程、伯母上に似ておるのですね。しばらく嶺のことを抱きしめておられました」
晴信は太郎から対面の様子を聞いて、母がどれほど姉に会いたかったのかを理解する。そして、もう一人会いたい人物がいるのではなかろうかと気付いた。
「父上?」
「あ、いや。何でもない」
心配そうにこちらを見やる太郎に【大丈夫だ】と笑みを浮かべてみせる晴信。太郎も半信半疑ではあったのだろうが翌日のこともあるのでそれ以上何も言わずに下がるのだった。
その夜、晴信は一人庭に出て月を見上げていた。晴信はどうすべきか悩みながらも決断する。それを分かっていたかのように人の気配がした。
「勘助か……」
「そろそろお声がかかるかと思いまかり越しました」
「さすがだ」
「して、ご命令は?」
「うむ。今から駿府に向かってくれぬか?」
勘助は主君の意図を読み切れず、顔を上げる。月明かりに照らされた晴信の顔はどこか悲しげであった。
「御館様?」
「駿府の父上に湯村の隠し湯まで来てもらえぬか伝えてくれ」
「訳をお聞きしても?」
「母上がお会いしたいのではと思ってな」
「北の方様が?」
「気丈に振る舞っておいでだが、本当は会いたいのではなかろうかと思ったのよ」
「なるほど」
勘助は晴信の言いたいことを理解した。恐らく、大井の方の死期が近いのであろう。息子として母の願いを叶えたいと思ったのかもしれない。
家族が離れて暮らすことの痛みがいかほどか、勘助はよく分かっていた。武田家でしっかりした禄を貰うまで駿河に家族を残していたからだ。勿論、それだけではない。義元からの密命で武田の内情を知らせる役目も負っていた。家族はそのために人質に取られていたのである。その任が漸く解かれ、妻子と再会したときの喜びは筆舌に尽くしがたい。
だからこそ、晴信のその思いに応えるべく、駿河に飛んだのであった。
翌日、太郎と嶺の華燭の典(結婚式)が催される。武田家臣団・嶺に付き添ってきた今川家臣団ともにきらびやかな衣装や装飾で居並ぶ。それは見事なまでに豪華なものであった。高井兵庫助・三浦内匠助ともに今川の権勢を誇ることが出来、鼻高々である。晴信たち武田側も名門今川からの輿入れに自分たちの家格が上がったと喜んだのはいうまでもない。
「若殿、おめでとうございます!」
「兵部、これからも私を導いてくれ」
「言われるまでもなく、この飯富兵部虎昌。粉骨砕身、若殿に仕える所存」
傅役の虎昌がそのように祝いを述べれば、皆次々に祝いを述べたのであった。その夜は大いに皆飲んで食べて歌い太郎の婚礼を祝ったのだった。
それを大井の方は離れた場所から静かに見つめる。見事な直垂姿の嫡孫とそれに寄り添いつつも頬を染めてはにかむ花嫁の孫娘。二人の幸せそうな姿に涙が伝い落ちる。それを袖でそっと拭った。
「母上……」
「晴信殿か。年を取ると涙もろくなっていけませぬ」
「それは仕方ないことでございましょう」
「長生きはしてみるものですね」
そう言って儚げに笑う大井の方に晴信は母の覚悟を見た気がした。
大井の方は己の死期を悟っている。それ故、最後にこれほどの喜びを得たことに満足しているのだ。晴信はそんな母の心の内を感じて暗く沈みそうになる。だが、それを母に窘められた。
「今宵は祝いの席ですよ。そのような顔はしてはなりませぬ」
「はは。そうでしたな」
晴信は無理をしても笑みを作った。それに対して母はニコリと笑って受け入れた。
太郎が華燭の典を挙げて数日後。大井の方は晴信の勧めで【湯村の隠し湯】の別邸へと移った。この時期に何故そのようなことをするのか訝しんだが、【ゆっくり湯に浸かるのも良いものです】と言われては従うより他なかった。
「ここは変わらないのですね」
「ああ、ここは昔のままじゃ」
答える者などないと思い独りごちたのに返されて驚く。振り返れば、そこには大井の方が愛して止まぬ男が立っていた。頭には随分と白いものが目立つようになったが、自分に向けられる笑顔は昔と変わらぬままであった。
「信虎殿……」
「随分長いこと呼ばれておらなんだのぉ」
「仕方がありませぬ。お互い立場が変わるのですから」
「確かに」
妻の言葉に納得する信虎。自分に向けられる笑顔の弱々しさに気付いたのか、抱き寄せる。その体は随分と細くなっており、信虎は心を痛める。
「信虎殿はお変わりないようで」
「そなたは随分と痩せたな」
それに対して大井の方は笑みを浮かべるだけだった。信虎は抱きしめる腕に力を入れる。それはまるで今にも消えてしまおうとする妻の魂を引き留めるかのようであった。
それを察したのか、大井の方は信虎にその身を預ける。そして、夫の放つ香りと温もりを確かめた。長年連れ添った二人は何も言わずただ寄り添い合う。やがて訪れる別れを惜しむように……。
それから、数日後。
大井の方は信虎の胸に抱かれながら世を去った。享年五十五。
夫の甲斐統一を支え、子供たちに的確な助言を与え続けた優しき母は黄泉の国へと旅立ったのである。
駿府を発った嶺の輿は甲斐衆に迎えられ、内房・南部・下山・西郡を経て甲府に到着する。まずは穴山氏の屋敷に入り、その後武田の新屋敷へと入ったのである。
「今川義元が娘、嶺にございます」
到着して間もないというのに嶺は晴信や三条に挨拶にやってきた。嶺は今川の姫らしく、礼儀正しく凛としている。その顔は亡き姉によく似ており、晴信は懐かしさを覚えたのであった。
「駿府からの旅は如何であったか?」
「お迎えの方たちから良くしていただき、滞りなく……」
「左様であったか。早う武田の家風に馴染めると良いが」
「亡き母より色々と聞き及んでおります。それにお祖父様からも甲府は良いところだと」
嶺の口から父・信虎の事が出て内心焦る晴信。嶺にとっては外祖父(母方の祖父)である信虎が自分の事をどう評して語っていたか分からないからだ。信虎は外では【戦人】として峻烈な決断をする男であったが、家に入れば妻を愛とな子煩悩な男であった。そして、晴信に対しては【女の扱い】を説きたがる父でもあった。
「父上は何か言っておられたか?」
「そうですね。【晴信は無愛想なところがあるが情を表に出すのが不得手|ゆえ気にするな】と……」
「そ、そうか」
嶺の返事に晴信は複雑な思いであった。それを三条が扇で口元を隠していて見ている。その肩が小刻みに震えていることから笑いを堪えているのは明白だ。晴信は眉間に皺を寄せて憮然としている。その姿を不思議そうに首をかしげて嶺。それに気付いた太郎が咳払いをして注意を促す。
「嶺殿、お疲れでしょう。しばらく下がって旅の疲れを癒やすが宜しかろう」
「太郎様……」
「姫様、ここは若殿様のご厚意に甘えなさりませ」
後ろに控えた時からの助言に嶺は頷き、一礼をしてその場を後にしたのであった。
「そんなにおかしいか?」
「だって……」
晴信は酒を呷りながら顰めっ面をしている。それに付き合う三条はやはり笑いを堪えていた。
嶺が下がった後、三条は目に涙を浮かべて大笑いしたのである。それから、思い出す度にずっと笑っているので晴信は面白くない。それを紛らわすように酒を呷るのでその度に三条は酌をするのだった。
「父上……」
晴信が三条に文句を言ってやろうかと口お開きかけたところへ太郎が現れた。随分と神妙な面持ちに晴信は訝しむ。
「どうした?」
「嶺殿をお祖母様に引き合わせたいと思うのですが……」
「母上に?」
「はい。嶺殿はお祖母様にとって外孫。聞けば、亡き母君によく似ておると」
「ああ、そうだな」
晴信は合点がいった。実はこのところ母・大井の方の体調がおもわしくない。床に伏せりがちで、声をかけても遠くを見るばかりで返事をすることが少なくなった。いつものように返してくれる笑みは儚げで、いつ消えてもおかしくない様子だった。
薬師に診て貰ったところ、そう遠くない時期に鬼籍に入られるかもしれぬとのことであった。
(せめて、太郎の祝言までは……)
そんな思いが晴信の心によぎる。それを見て取った三条が目配せをしてくる。晴信は一度深呼吸をして太郎に向き直る。
「母上もお喜びになるだろう」
「ありがとうございます」
「だが、嶺殿の疲れも忘れるでないぞ」
「わ、わかっております」
太郎が顔を赤くして反論してくる。晴信は太郎が真面目で心優しい男であることをよく知っていた。そして、真面目すぎるが故に周りが見えなくなることも。だからこその忠告であったが、当の本人は分かっているとばかりに憤慨していた。
「太郎、女子とは実に複雑なのです」
「母上?」
「父上はそなたの思いやりが空回りせぬか危惧しておられるのです」
「あ……」
「そなたもこれからは【守られる者】から【守る者】へと変わるのです。そのこと、忘れぬよう精進なさい」
「わかりました」
太郎は母からの助言をしっかりと胸に刻んだ様子でその場を後にしたのだった。
祝言を翌日に控えた日の午後。太郎は嶺を伴い祖母・大井の方の住まう北の方を訪れる。その日は柔らかな日差しが降り注いでおり、そのおかげか大井の方の体調も良かった。
「お祖母様、このたび私の妻になる事になった嶺殿です」
「お初にお目にかかります。今川義元の娘、嶺にございます」
太郎に紹介されて嶺が挨拶を述べる。大井の方はその姿に息を飲む。遠い昔、駿河に嫁いでいった娘・定に瓜二つだったからだ。定の娘であるから似たところはあるだろうとは思っていた。それが、ここまで似ているとは思わなかった。それは嶺が定が嫁いだ頃と同じ年頃だったこともかかっているのかもしれない。
今目の前にいる嶺は大井の方の中に残る娘の姿と重なってい見える。そして、図らずも頬を涙が伝う。それを止めることは出来なかった。
「お祖母様……」
「ああ、ごめんなさいね。定が……、あの娘が帰ってきたのかと思って」
「お気になさらずに」
「本当にあの娘によく似て……」
大井の方はそろそろと手を差し出し、嶺の両頬を包み込んだ。見れば見るほど定に瓜二つ。気付けばしっかりと抱きしめていた。嶺は太郎に目配せしてどうすべきか尋ねる。太郎は静かに頷き、その瞳は【祖母を抱きしめて欲しい】と訴えかけていた。それを読み取った嶺は大井の方の背に腕を回し抱きしめる。優しく撫でれば大井の方に笑みが浮かんだのだった。
「母上との対面は如何であった?」
「はい。滞りなく」
「そうか」
「余程、伯母上に似ておるのですね。しばらく嶺のことを抱きしめておられました」
晴信は太郎から対面の様子を聞いて、母がどれほど姉に会いたかったのかを理解する。そして、もう一人会いたい人物がいるのではなかろうかと気付いた。
「父上?」
「あ、いや。何でもない」
心配そうにこちらを見やる太郎に【大丈夫だ】と笑みを浮かべてみせる晴信。太郎も半信半疑ではあったのだろうが翌日のこともあるのでそれ以上何も言わずに下がるのだった。
その夜、晴信は一人庭に出て月を見上げていた。晴信はどうすべきか悩みながらも決断する。それを分かっていたかのように人の気配がした。
「勘助か……」
「そろそろお声がかかるかと思いまかり越しました」
「さすがだ」
「して、ご命令は?」
「うむ。今から駿府に向かってくれぬか?」
勘助は主君の意図を読み切れず、顔を上げる。月明かりに照らされた晴信の顔はどこか悲しげであった。
「御館様?」
「駿府の父上に湯村の隠し湯まで来てもらえぬか伝えてくれ」
「訳をお聞きしても?」
「母上がお会いしたいのではと思ってな」
「北の方様が?」
「気丈に振る舞っておいでだが、本当は会いたいのではなかろうかと思ったのよ」
「なるほど」
勘助は晴信の言いたいことを理解した。恐らく、大井の方の死期が近いのであろう。息子として母の願いを叶えたいと思ったのかもしれない。
家族が離れて暮らすことの痛みがいかほどか、勘助はよく分かっていた。武田家でしっかりした禄を貰うまで駿河に家族を残していたからだ。勿論、それだけではない。義元からの密命で武田の内情を知らせる役目も負っていた。家族はそのために人質に取られていたのである。その任が漸く解かれ、妻子と再会したときの喜びは筆舌に尽くしがたい。
だからこそ、晴信のその思いに応えるべく、駿河に飛んだのであった。
翌日、太郎と嶺の華燭の典(結婚式)が催される。武田家臣団・嶺に付き添ってきた今川家臣団ともにきらびやかな衣装や装飾で居並ぶ。それは見事なまでに豪華なものであった。高井兵庫助・三浦内匠助ともに今川の権勢を誇ることが出来、鼻高々である。晴信たち武田側も名門今川からの輿入れに自分たちの家格が上がったと喜んだのはいうまでもない。
「若殿、おめでとうございます!」
「兵部、これからも私を導いてくれ」
「言われるまでもなく、この飯富兵部虎昌。粉骨砕身、若殿に仕える所存」
傅役の虎昌がそのように祝いを述べれば、皆次々に祝いを述べたのであった。その夜は大いに皆飲んで食べて歌い太郎の婚礼を祝ったのだった。
それを大井の方は離れた場所から静かに見つめる。見事な直垂姿の嫡孫とそれに寄り添いつつも頬を染めてはにかむ花嫁の孫娘。二人の幸せそうな姿に涙が伝い落ちる。それを袖でそっと拭った。
「母上……」
「晴信殿か。年を取ると涙もろくなっていけませぬ」
「それは仕方ないことでございましょう」
「長生きはしてみるものですね」
そう言って儚げに笑う大井の方に晴信は母の覚悟を見た気がした。
大井の方は己の死期を悟っている。それ故、最後にこれほどの喜びを得たことに満足しているのだ。晴信はそんな母の心の内を感じて暗く沈みそうになる。だが、それを母に窘められた。
「今宵は祝いの席ですよ。そのような顔はしてはなりませぬ」
「はは。そうでしたな」
晴信は無理をしても笑みを作った。それに対して母はニコリと笑って受け入れた。
太郎が華燭の典を挙げて数日後。大井の方は晴信の勧めで【湯村の隠し湯】の別邸へと移った。この時期に何故そのようなことをするのか訝しんだが、【ゆっくり湯に浸かるのも良いものです】と言われては従うより他なかった。
「ここは変わらないのですね」
「ああ、ここは昔のままじゃ」
答える者などないと思い独りごちたのに返されて驚く。振り返れば、そこには大井の方が愛して止まぬ男が立っていた。頭には随分と白いものが目立つようになったが、自分に向けられる笑顔は昔と変わらぬままであった。
「信虎殿……」
「随分長いこと呼ばれておらなんだのぉ」
「仕方がありませぬ。お互い立場が変わるのですから」
「確かに」
妻の言葉に納得する信虎。自分に向けられる笑顔の弱々しさに気付いたのか、抱き寄せる。その体は随分と細くなっており、信虎は心を痛める。
「信虎殿はお変わりないようで」
「そなたは随分と痩せたな」
それに対して大井の方は笑みを浮かべるだけだった。信虎は抱きしめる腕に力を入れる。それはまるで今にも消えてしまおうとする妻の魂を引き留めるかのようであった。
それを察したのか、大井の方は信虎にその身を預ける。そして、夫の放つ香りと温もりを確かめた。長年連れ添った二人は何も言わずただ寄り添い合う。やがて訪れる別れを惜しむように……。
それから、数日後。
大井の方は信虎の胸に抱かれながら世を去った。享年五十五。
夫の甲斐統一を支え、子供たちに的確な助言を与え続けた優しき母は黄泉の国へと旅立ったのである。
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