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火の章

狐の恩返しと親子の絆

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天文二十年(1551年)、真田幸綱の活躍で戸石城を乗っ取った晴信。姉の死により今川との同盟に綻びが生じるのを避けるため、太郎と義元の息女・みねの婚儀を模索する。今川はこれに応じて婚儀の日取りの打ち合わせが始まった。


明けて天文二十一年(1552年)正月。太郎の具足ぐそく始めが執り行われる。傅役もりやくの飯富虎昌に伴われ、朱色に染め上げられた具足は勇猛果敢の証し。次代の武田家当主に相応しいものであった。

「若殿に相応しき色かと存じます」
兵部ひょうぶ(飯富虎昌)、これからも太郎のこと頼むぞ」

晴信は凜々しき息子の姿に目を細め、その成長を喜んだ。

「あとは嫁御か……」
「ち、父上!!」

太郎が顔を真っ赤にして慌てふためいている。昨年決まった今川義元の息女・嶺との婚儀に未だ戸惑っているようだった。既に西の御座の建設が始まっており、着々と婚儀に向けとの準備が進んでいる。

「今年は良き年になりそうだな」
「そうでございますな」

皆で大いに喜び合ったのだった。
二月に入ると嶺の輿入れの準備は大詰めを迎える。今川との間で詰めの協議が成されたのであった。



武田が喜びに沸き、慌ただしさを増す中で一つの懸念事項が発生した。
それは三男・三郎が床に伏せりがちになったことである。去年、夏を過ぎた辺りより咳き込むようになり、年を越す頃には起き上がれぬほどになっていた。

「三条……」

晴信は静かに声をかけた。夜通しの看病の影響であろうか、三条の顔色は悪く今にも倒れそうであった。

「晴信様、三郎は……」

三条は手にした数珠を握りしめ、必死に涙を堪える。晴信はそっと抱き寄せ【大丈夫だ】と背中をさすってやることしか出来ない。

(次郎に続き、三郎まで……。何故、子供たちばかりに……)

晴信は悔しさを滲ませ、三条を抱く腕に力を入れたのだった。

それを庭の影から見つめる者があった。それは一匹の老いた狐であった。彼は晴信たち親子の様子を目に焼き付けるとそっとその場を離れた。



大和国やまとのくに・桜井。
この地には三輪山をご神体とする大神神社おおみわじんじゃがあった。三輪山の山頂には人には見えぬ門があり、その先にはこの山の主である大物主おおものぬしの住まいがあった。

「むぅぅぅ……」
「そろそろ降参ですか?」
「な、何を言うか!まだまだこれからじゃ!!」

そこには白装束のおきなが美女を相手に碁を打っていた。どうやら、劣勢のようで眉間に皺を寄せて睨んでいる。美女は扇で口元を隠しつつも、自分の勝利を確信してか笑みを浮かべている。
そこへ翁に仕えるらしき下男が来客を知らてきた。

身延みのぶ太兵衛たへえなる者が信田しのだ葛葉くずのは様に目通り願いたいと申しております」
「身延の太兵衛?」
「はい。如何いたしましょう」

下男が美女・葛葉に伺いを立ててくる。葛葉は少し考え【身延の太兵衛】なる者のことを思い出そうとする。

「葛葉、知り合いか?」
「う~~ん、多分、富士野の長だったかしら?」
「随分、曖昧じゃのぉ」
「しばらく会ってないし、宇迦之御魂うかののみたま様ほど把握もしてないので」
「それなら仕方ないのぉ」

葛葉が困ったようにそう言うので翁も同調する。二人のやりとりを見つつ、下男が指示を仰ぐように視線を彷徨わせている。

「わかったわ。太兵衛をここに呼んで頂戴」
「御意」

下男は一礼をして下がっていった。

(それにしても、わらわに何の用かしら)

葛葉は太兵衛の要件に心当たりがないので首をひねるばかりだった。すると、先程の下男が狩衣姿の初老の男を連れて現れた。

「葛葉様。太兵衛を連れて参りました」
「ご苦労さま。下がって良いわ」

下男は再び一礼をして下がっていった。
葛葉は太兵衛の顔をまじまじと見やる。そして、思い出した。【富士野の玄狐げんこ(黒い狐のこと)】の二つ名を持つ東海一帯の狐の長である。今は甲斐の身延に本拠を置き、子や孫と悠々自適な生活を送っていたはずだ。近年は末娘の夏が子を産みその世話に追われていると風の便りに聞いていた。

「葛葉様、お久しゅうございます」
「太兵衛、富士野の皆は息災かしら?」
「はい……」

何やら太兵衛の返事は歯切れが悪い。葛葉は察して居住まいを正した。

「太兵衛、何があったの?」

太兵衛は一度目をつぶり、大きく息を吸うと話し始める。



事の起こりは一年前のこと。太兵衛の末娘・夏が餌を求めて人里に降りてしまったのだ。
ここ数年の疫病・飢饉は人間のみならず、獣たちにも悪影響を起こす。食べるものが見つからず、飢えに苦しんでいたのだ。夏のもとには五つ子が腹を空かせて待っており、このままでは皆餓死してしまう。そんなところまで追い込まれていた。
そして、とうとう家畜のにわとりに手を出してしまったのだ。夏は一羽を仕留めて必死に山に向かって走る。だが、自身も満足に餌を食えていない状況では簡単に追いつかれる。遂に夏は人間たちに取り込まれてしまったのだった。

「儂らの大事な鶏に手を出しおって!!」
「覚悟は出来とるんじゃろうな!」

人々はかまやらくわやら棒やらを振りかざして、今にも襲いかかろうとした。まさにそのとき、人間たちを止める者が現れた。

「そんなところでどうした?」

馬上から声をかけたのは武田の当主・晴信である。共に乗るのは三男・三郎と四男・四郞である。

「御館様の御前である。控えよ」
「ひっ」

鋭い目つきで百姓たちを一喝したのは春日虎綱である。百姓たちは慌てて平伏し、地に額をつけてブルブルと震えてた。

「虎綱、脅しすぎだぞ」
「これは失礼しました」

虎綱は肩をすくめて詫びる。そうというのもこの春日虎綱はもとは百姓の出。晴信にその才を見出され、召し抱えられたのだ。

「ちちうえ、狐が……」
「うん?」

三郎が馬上から指さす。その先には痩せ細った狐が鶏を咥え、ブルブルと震えていた。三郎が悲しげな瞳で見上げてくる。つられて、四郞も懇願するように目を潤ませている。

(むぅぅ、これは困ったな)

晴信は二人が何を言いたいのか分かる。恐らく、狐を助けてやって欲しいと言うのだろう。とはいえ、家畜の鶏に手を出した狐を許せば百姓が黙ってはいない。

「御館様、お耳を……」

虎綱は晴信に耳打ちして、一つの策を進言する。晴信は頷き、それを受け入れたのだった。

「皆の気持ちは分かるが、このところの悪天候で山も食べる物が少ないのであろう。今は子育ての時期。この狐は俺の顔に免じて許してやってくれ」
「で、ですが……」
「ただでとは言わぬ。少ないかもしれぬがこれでその鶏を買い取らせて貰おう」
「え?」

百姓たちが顔を上げると、晴信は懐から巾着を取り出し手渡した。その中にはずっしりと銭が入っていた。それを受け取った男が驚いて腰を抜かしてしまう。

「お、御館様!こんな大金いただくわけには!」
「受け取ってくれ」
「ですが……」
「なに、狐は商いの神たる稲荷神いなりのかみの使いだ。甲府の商いが盛んになることを祈願しての寄進と思えば安いものだ」
「御館様……」
「そなたらには苦労をかけてばかりだが、つつみを完成させて川の氾濫を減らすよう努める。今しばらく耐えてくれ」

百姓たちは顔を見合わせる。最終的には晴信の提案に従い、狐を見逃してやったのだった。

「もう大丈夫だよ」
「うん、父上はこの国で一番偉い人だから安心して山に帰ると良いよ」

三郎と四郞が狐に微笑みかける。狐は鶏を咥え直すと山へと向かって走り出す。その途中、何度も振り返る。それを三郎と四郞は手を振って見送るのだった。

「ちちうえ、狐さんは子供たちのところに戻れるかな……」
「大丈夫であろう」
「でも、あれだけで足りるのかなぁ」
「心配か?」

四郞が不安げに頷いた。三郎もつられてシュンとなる。晴信が困ったように眉を下げれば、虎綱が助け船を出す。

「若様方。ならば、館の一角にほこらを建てましょう。そこにあの狐たちのためのお供え物を捧げるのです。祠に捧げた物ならば他の者が取って食うたりはしませんでしょう」

その言葉に二人の顔がパッと明るくなる。
結局、北方の庭の奥に小さな祠を建てた。二人がそこにお供え物をすれば他の兄弟たちも一緒になってお供え物をした。そのお供え物は夜が明けると必ず無くなっていたので狐たちの元に届いたのだと皆喜んだのである。



「まぁ、そんなことが……」
「そのおかげで夏は一匹も欠けることなく育てることが出来ました」
「それはよかった」
「武田は我ら富士野の狐の恩人にございます。その恩人が今苦しんでおるのです」

太兵衛は三郎に襲いかかった病の話をする。そして、その病は三郎の両親である晴信と三条が心を痛めている。その痛みを取り除くことこそ恩に報いることと説いた。

「されど、私の力では遠く及びませぬ。信田の白狐びゃっこ・葛葉様のお力をお貸しいただけませぬでしょうか」
「う~~ん……」

葛葉がどうすべきかと悩んでいると、碁の相手である翁、この屋敷の主である大物主が扇を打って口出しをする。

「葛葉。あのような親不孝者、助けてやることなんぞない」
「大物主様?」
「武田晴信という男。聞けば父親を追い出し家督を簒奪さんだつしたとか。そのような親不孝者、罰が当たって当然じゃ」
「大物主様、それは違います」
「何が違う?」
「あれは家を守るための芝居だったと……」
「そんな証拠、どこにある?」
「そ、それは……」

太兵衛の言葉を遮って大物主が詰め寄る。そして、【この話は終わりだ】とばかりに追い払おうとした。だが、葛葉はそれを制して甲府へ行くことを承諾した。

「葛葉、そなた正気か?!」
「大物主様、【百聞は一見にしかず】と申しましょう。行って、我が目で確かめる。どうするかはそのとき決めても遅くはないでしょう」
「まぁ、そなたがそう言うのであれば……」
「あ、ありがとうございます!!」

太兵衛は喜び勇んで身延へと飛んで帰ったのである。



太兵衛が大神神社を後にして二日のち。葛葉は約束通り、甲府の躑躅ヶ崎つつじがさきやかたに現れた。姿を消し、気配を消して庭から部屋の中をジッとと覗う。

「葛葉様、しとねに横たわっているのが三郎君です」

太兵衛に耳打ちされて褥の方に目をやれば、息も荒く玉の汗を掻く幼子が横たわっていた。年の頃は十であろうか。譫言うわごとのように父と母を呼んでいる。その手を母親の三条がしっかりと握り、励まし続けている。

(私があの子と別れた頃と同じ年頃かしら……)

葛葉は自分の子と三郎を重ねていた。そして、三郎を看病する三条に自分自身を重ねる。胸が締め付けられ、見ているのが辛くその場を離れようとした。と、一人の男が部屋に入ってきた。

「あの男は?」
「はい。あの方が武田晴信様でございます」

葛葉からは後ろ姿しか見えぬが晴信がただ者ではないことは分かる。強い神気に守られ、自身も強い気を放っている。その気が一つの獣を形作る。

「!!!」

葛葉は驚き、一瞬後ずさる。それは竹林の王者・虎であった。だが、その虎は決して獰猛どうもうなだけではない。その瞳は慈愛じあいに満ちており、誰よりも子を思っていることが分かる。

(太兵衛の言う通り、親不孝者は偽りの姿のようじゃ)

葛葉は太兵衛の願いを聞き届けることにしたのだった。その姿を現そうとしたそのとき、別の者が自分の姿に気付いたのを悟る。

「貴女はどなたですか?」

振り返れば、金色こんじきの左目をした少年が立っていた。

「そなた、妾の姿が見えるのかえ?」

少年はこくりと頷いた。よく見れば少年の左目が神の目であることが分かった。どうやら、いずこかの神の加護を受けているらしい。

「二郎?そんなところで何をしておるか?」

声をかけたのは晴信であった。縁側まで出てきて二郎に声をかける。

「父上、こちらの方がお話があるようです」
「なんだと?」

次郎は晴信に葛葉の存在を知らせた。晴信は驚いて辺りを見回している。葛葉はため息を一つ吐いて、姿を現した。

「何者か?!」

晴信は置いてあった太刀に手をかけ構える。葛葉はどうしたものかと逡巡するが、二郎が晴信を制するように近づいた。

「父上、この方は三郎たちが助けた狐の知り合いのようです」
「狐の?」
「はい。わざわざ信田の森からいらしたようで……」
「信田の森だと?!」

晴信は驚いて目を瞠る。信田の森と申せば安倍晴明の母・葛葉が住んでいるという森である。

「まさか。貴女は葛葉様、なのか?」
「如何にも。妾が信田の葛葉じゃ」
「一体、どのようなご用があって……」
「昨年、そなたらが助けた狐がおろう。あの者の父親に頼まれたのよ」
「頼まれた?」
「武田は恩人ゆえ、今こその恩を返したいとな」

晴信は驚いた。確かに三郎と四郞に乞われて一匹の狐を助けた。まさか、それに恩義を感じて自分たちを助けようとしてくれるなど思ってもみなかった。

「上がらせて貰うわ」

葛葉はそのまま部屋に上がり、三郎の額に手を当てる。確かに命の灯火は小さくなっていた。だが、その灯火は消えてはいない。だから、葛葉は三郎の心に問いかけた。【そなたは生きたいか】と……。三郎の返事は【是】であった。【強くなり父や兄の助けとなる】と返したのである。
葛葉はニコリと微笑むとかざした手から光の気を放つ。その光は三郎を包み、やがて吸い込まれるように消えていく。するとどうであろう。荒かった呼吸は落ち着き、玉のように浮かんでいた汗はスッと引いたのである。

「これでもう大丈夫」
「三郎!!」

三条が抱きつきその温もりを確かめる。泣いて喜ぶ姿に皆が安堵したのはいうまでもない。

「武田晴信、これを……」

葛葉は懐から薬籠やくろうを取り出し、晴信に手渡した。晴信はそれを受け取るとしっかりと握りしめた。

「中の丸薬を週に一度与えれば良い。しばらくは熱を出すこともあろうがその丸薬さえあれば生きながられる」
「左様でございますか?」
「丸薬が切れたならば、その薬籠を祠に供えなさい。すぐに丸薬を足しておきましょう」

晴信と三条はその言葉に何度も礼を言う。その姿は葛葉の心に暖かなものを呼び込んだ。

「何とお礼を申して良いのやら」
「構わぬ。妾はそなたらが助けた狐の頼みを聞いたまで」
「ですが、それでは我らの気が収まりませぬ」

見返りなど望んでいない葛葉は少し困るがあることを思い出し、それを晴信たちに告げる。

「その子が無事に成人した暁に信田稲荷に桔梗ききょうの花といなり寿司を納めてくれれば良い」
「それだけで良いのですか?」
「その子が元気であることを告げに来るが妾への恩返しと思うておくれ」

その言葉に【必ず返礼に参ります】と約束した二人であった。

こうして、三郎は命の危機を脱したのであった。



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