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林の章

志賀城攻めと上田原の大敗

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天文十六年(1547年)七月。晴信は再び佐久郡さくぐんへと出陣する。郡内で唯一武田に抵抗する志賀しが城主・笠原かさはら清繁きよしげの討伐のためである。
武田方に多くの信濃武士が加勢をするが、笠原方も関東管領・上杉憲政に援軍を求めるなどして徹底抗戦を貫く。武田は十日たっても城を落とせないでいた。
八月に入り、一旦方針を変更する。先に援軍に駆けつけた上杉勢を退けることにした。晴信は板垣信方・甘利虎泰らに命じて小田井原に陣取る上杉勢に攻撃を仕掛けさせる。

「武田の底力、見せてくれるわ!!」
「それ、皆の者! かかれぇ!!!」

信方、虎泰の号令一下。武田の軍勢が上杉に襲い掛かる。卯の刻うのこく(午前六時ごろ)に始まった攻撃は申の刻さるのこく(午後四時ごろ)まで続く激戦となった。武田の勝利で終わり、上杉憲政は大将十四~十五名、雑兵三千人を討ち取られる。戦意を喪失した上杉勢は本拠のある上野国こうずけのくにへと敗走したのだった。

「討ち取った大将首は城兵から見える位置にさらせ!」

晴信はそう命じて、討ち取った首を晒した。それを見た城兵たちの戦意喪失を狙ったのである。その効果はすぐに現れ、遠目に見ても場内が動揺しているのが分かった。それを確認した武田勢は攻城戦を再開。外曲輪そとくるわ、次いで二の曲輪にのくるわを攻め落とし焼き払う。
八月十一日、遂に志賀城は陥落。城主・笠原清繁をはじめとした城兵三百人余りが討ち死したのだった。

「これで佐久郡も静かになりましょう」

晴信は伊那郡いなぐんに続いて佐久郡も領国化に成功したのである。



年が明けた天文十七年(1548年)。佐久郡を抑えたことにより北信濃に勢力を張る村上義清と境を接することになる。

「いよいよ、村上殿と対決ですな」

晴信は上原城の諏訪頼重の元を訪れていた。諏訪大社への戦勝祈願と禰々ねねの出産祝いに駆けつけたのだ。諏訪もこの頃になると落ち着きを取り戻し、晴信の指示を頼重が忠実にこなし、それを信方が補佐していた。

「兄上!」
「おお、禰々。息災のようで何よりだ」

赤子を抱いて現れたのは妹の禰々である。頼重の隣に座り、赤子をあやす。頼重の膝には嫡子の寅王丸がちょこんと座って収まる。父の顔を見上げては満面の笑みを浮かべている。

(あのときの俺の決断は間違っていなかった……)

晴信は諏訪の親子の姿を見て、そう実感する。何より、禰々の幸せそうな顔が見られて晴信の心には温かなものが広がる。

「そういえば、香はどうしております?」
「確か、香姫様もご出産なされたと聞き及びましたが」

二人から香姫のことを聞かれて、晴信は押し黙ってしまう。その様子に頼重と禰々は顔を見合わせては首をかしげた。

「産後の肥立ちが悪いのですか?」

禰々が心配そうに声をかけてきたので、晴信は慌てて手を振って否定した。頼重も心配そうにこちらを見ているので晴信は観念して話し始める。

「香は元気にしております。四郞……。子も乳をしっかり飲んで元気に育っておる」
「では、何が……」

その問いかけに晴信は恥ずかしそうに後ろ頭を掻きながら、ぼそりと呟いた。

「俺は一度も触れておらぬのだ」
「は?」
「子供たちに香を取られてから、一度も閨を共にしておらぬのだ!」

晴信の叫びに頼重も禰々も呆気にとられる。刹那、二人は声を上げて笑い始めた。両親につられて寅王も笑い始める。

「笑い事ではない!!」
「で、ですが。兄上……」

必死で笑いを堪えようとするが、如何せん止められぬものではない。晴信は眉間に皺を寄せて憮然としている。何やら、ブツブツと愚痴まで始まった。

「この頃は佐保まで混じって、俺を香に近づけまいとするのだ」
「お子たちは香のことを受け入れてくれておるのですな」

頼重の顔に安堵の色が浮かぶ。そんな夫に寄り添う禰々。二人が固い絆で結ばれた夫婦であることを証明していた。

「香だけでなく、四郞のことも受け入れてくれるのは有り難いが……」
「触れれぬのはちと寂しいですな」
「全くだ」
「もう、殿方はどうしてそうなのですか?!」

禰々の憤慨をよそに晴信と頼重は女子の良さを語り合う。終いに禰々は呆れて子供たちを引き連れ奥へと下がったのだった。



「それで、いつ出陣なさるおつもりか?」
「二月には出馬するつもりでおります」
「そうですか……」

頼重は浮かぬ顔をして広げた地図に視線を落とす。晴信が【何か気になることでもあるのか?】と問えば頼重はある一点を指し示す。

「恐らくここが戦場となりましょう」

そこは上田原という地であった。晴信は大門峠を越えて進軍するつもりであったからそこに陣を構えるつもりでいたので当然と思えた。だが、頼重は渋い顔のままである。

「この辺りは雪が深い。それでも出陣なさるのか?」
「出陣いたす。雪解けを待っておれば百姓に負担がかかる。それならば士気の高い今向かうべきでしょう」
「負けまするぞ」
「勝敗は兵家の常。負けを恐れては何も手に入りませぬ!」

頼重は年下の義兄・晴信の決意が固い事を知り、考えを改める。

(如何にして被害を抑えるか。私はそれに注力することにしよう)

頼重はそれ以上反論することはしなかった。代わりに、如何に有利な布陣を敷くべきか。それに関する助言をしたのだった。



二月、晴信は予定通り大門峠を越えて深雪の上田原に布陣する。小山田信有率いる佐久郡郡内勢も到着した。
対する村上義清は居城・葛尾城かつらおじょうから打って出る。千曲川ちくまがわを挟んで武田と対峙した。

「ふん! 武田の小倅こせがれが志賀を取って増長したか!!」
「そのようですな」
「我が村上の強さ、思い知らせてくれるわ!」


 村上義清は絶対的な自信を持っていた。何故なら地の利があるのは自分たちだ。地理も熟知しておれば、雪にも慣れている。対して、武田勢はこの辺りの地理に疎い。それだけではない。これほどの深雪での戦など皆無に等しい。そこに村上の勝機があると読んでいた。そして、その読みは的中したのである。

二月十四日、戦いの火蓋は切って落とされた。両軍が激突し激しい戦となる。

「戦況はどうだ?!」
「我が軍勢は雪に足を取られ、進軍もままならぬ様子」
「押されておるか……」
「御意」

武田の士気は下がりに下がっていた。何より佐久郡勢は度重なる出兵に悲鳴を上げる中での出陣。いつ、脱走者が現れてもおかしくない状況であった。

「御館様。最早、戦になりませぬ」
「信方の言う通りです。撤退いたしましょう」

晴信は決断を迫られる。悔しさを滲ませるが、これ以上引き延ばせば全滅は免れない。それならば傷の浅い内に撤退するが上策。

「分かった。陣払いをいたせ。上原まで撤退する」

晴信はそう決断して早々に軍を引き上げさせる。
だが、そう簡単に引かせる村上ではなかった。撤退を始めた武田勢に追い打ちをかけてきたのだ。

「この地は我らの土地じゃ。父を追い出す親不孝者などにくれてやるものか!!」

義清の嘲る笑い声が聞こえてくるような村上勢の勢いに晴信は俯き加減で馬を走らせる。そんななか、一本の矢が晴信の右肩を打ち抜いた。

「ぐっ!!」

ちょうど鎧の継ぎ目に矢が刺さり、晴信は鞍から転げ落ちた。

「御館様!!」
「晴信殿、無事か?!」

晴信は立ち上がり、矢を引き抜くと手綱を取ろうとする。だが、傷が疼き、とてもではないが一人で馬に乗れそうにない。

「御館様。それがしに殿しんがりをお命じ下され」
「信方?!」
「この場に留まり、村上勢を食い止めます」
「馬鹿を申せ! そんなことをすれば……」
「先代・信虎様よりお仕えして早数十年。そろそろ潮時でございましょう」
「信方……」
「頼重様、御館様を頼みます」

頼重は黙って頷く。その様に信方は笑みを浮かべる。背を向け、愛馬に跨がると大音声で宣言する。

板垣いたがき駿河守するがのかみ信方のぶかた殿しんがり承った! 共に戦わん者あらば我に続け!!」

信方が馬首を返して村上勢に突っ込んでいく。それに付き従うは板垣の兵たちだ。晴信は涙を堪えて彼らを見送った。

「信方、すまぬ……」



晴信が戦場を抜けたのを確認して信方は一息ついた。が、すぐに気配を感じ、太刀に手をかける。

「抜け駆けとは随分ではないか……」
「虎康」

若き日から共に武田を支えてきた甘利あまり虎康とらやすであった。

「御館様なら無事に脱した」
「そうか……」
「だが、もう一息じゃ。一人でも多く、甲斐に返さねばのぉ」
「虎康、そなた……」
「水くさいことを言うな。そなたと儂の仲であろう」
「すまぬ」
「今頃、虎胤が地団駄じだんだを踏んでおるかもしれぬわ。何故儂も誘わなんだのじゃ、とな」
「そうだのぉ。あの男なら言いそうだわ」
「だが、死ぬのは我らだけで良い」

虎康の言葉に信方は頷いた。若い晴信には虎胤のような古参の将が必要である。今ここでくつわを並べて討ち死にするわけにはいかないのだ。

(許せ、虎胤。いつか分かってくれると信じておる)

信方は心で虎胤に詫びた。そして、最後の力を振り絞り、手綱を引き絞る。虎康と頷き合い、村上勢のまっただ中に突っ込んだのである。

「板垣信方、最後の戦働きじゃ! しっかと目に焼き付けよ!!」
「甘利虎康、死に花を飾ってみせようぞ!!」

二人は雄叫びと共に戦場に消えたのだった。



比較的雪に慣れていた小山田勢の奮戦のおかげで晴信はどうにか危機を脱した。だが、そこへ届けられたのは板垣信方・甘利虎康ら有力武将の討ち死にの報であった。

「信方……、虎康……」

晴信は悔しさに涙を滲ませる。左肩の傷が疼くがそんなことは構っていられない。晴信はすぐさま弔い合戦をするべく軍を再編しようとした。駒井政武らが帰陣を薦めるも聞く耳を持たない。政武は大井の方に相談し、説得を試みるが聞き入れようとしなかった。

「晴信殿! いい加減になさりませ!!」

そう言って晴信の頬を殴っていさめたのは頼重だ。この中にあって武田の内情を把握していたのが頼重であった。何より頼重は雪の中での戦がどれほど危険な者か熟知している。だからこそ、力ずくで止めようとしたのだ。

「だが、このままでは……」
「晴信殿、お気持ちは分かる。だが、今ここでそなたまで倒れたら誰が武田を率いるのだ?」
「頼重殿……」
「このまま長引けば板垣殿も甘利殿も犬死にじゃ」

その言葉に晴信は拳を握りしめる。やり場のない怒りをぶつけるかの如く、木の幹を殴りつけた。そして、ぼそりと呟くように命じたのである。

「分かり申した。甲府へ帰陣いたす……」

晴信は力なく項垂れる。その後の指揮は頼重が引き継ぎ、速やかに撤退が行われた。

三月二十六日。晴信は失意の中、甲府に帰還した。上田原での戦いは人生初の大敗でその幕を閉じたのであった。



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