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林の章
次郎、病に倒れる
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天文十四年(1545年)。先年より北条との講和を模索するも遅々として進まず、辛抱強く交渉を続ける日々が続く。
同時進行で伊那郡の制圧に動いていた。伊那郡には高遠城があり、未だ高遠頼継の死に納得いかぬ者も多く反抗が続いていた。更に福予城の藤沢頼親が反旗を翻したためその制圧にも乗り出していた。
「昨年は逃げられましたが、今年こそは討ち果たします」
「頼むぞ」
信繁の力強い答えに晴信は満足していた。既に上原城も落成しており、体制は整っている。あとは伊那郡の制圧のみといった状態であった。それ故、晴信は伊那郡の制圧を信じて疑わなかった。
私生活においても三条との間に長女・梅、三男・三郎、次女・佐保が相次いで誕生し躑躅ヶ崎館は賑やかになっていた。
だが、気掛かりもある。このところ熱を出しては寝込むようになった次郎のことである。特に二十五歳になった晴信は厄年だ。子供たちにその厄災が降りかかるのではないかと心配したのだった。
「近江の多賀大社に厄除け祈願をしようと思うがどうであろうか」
「良きお考えかと思います」
「この際、伊那のことや北条の交渉のことも含めて願文を奉じられては如何ですか?」
「御館様は甲斐の国主であり、武田の当主。それがしも信方に同意いたします」
信方ら重臣たちも厄除けに同意する。晴信は早速多賀大社に願文を捧げ、黄金二両を奉献したのだった。更に窪八幡神社には三十六歌仙図の奉納を約束して、立願したのであった。
だが、晴信の案じたとおり、厄災は息子に降りかかった。寝込みがちな次郎が高熱にうなされたのである。晴信は駿河の今川に薬師を送って貰うよう使者を送り、寺社には病気平癒の祈祷を命じたのだった。
「父上、次郎は……」
「大丈夫だ。今川から良き薬師を呼び寄せたのだ。次郎はすぐに良くなる」
「はい……」
弟の身を案じる太郎を励ますように微笑みかける晴信。だが、その心は嵐が吹き荒れていた。
(何故、俺に苦難を与えて下さらぬのだ……)
晴信は拳を握りしめ天を見上げる。雲一つ無い晴天に恨み言を漏らさずにはいられなかった。
その姿を沈痛な面持ちで見つめている者があった。側室の香姫である。明るく天真爛漫であった少女は才色兼備の姫へと成長を遂げていた。そして、それと共に晴信への思いも強くなっていく。だからこそ、我が子の病に心痛める晴信をなんとかしたいと思わずにはいられなかった。
「姫様?」
「諏訪へ……」
「え?」
「建御名方神ならば、きっとお救い下さるはず」
「姫様?」
香姫は滝の制止を振り切り、廊下を進む。途中、三条の侍女・多重から不穏な視線を向けられるが、それを跳ね返し毅然とした態度で通り過ぎる。その姿を忌々しく思われようが香姫は屈することなく己を貫く。
香姫は青毛(濃い青味を帯びている黒色の毛色)の駿馬を駆って諏訪大社へと向かった。それに付き従うは山本勘助である。滝は先年産まれた娘の世話もあるため同行させなかった。その代わりを買って出たのが勘助である。隻眼とはいえ、馬の扱いには慣れた様子で手綱を操る。
「香姫様。あまり飛ばすと馬が潰れますぞ」
「あら?甲斐の黒駒はこの程度で潰れたりはしないわ」
「ですが……」
「この【絶影】はその中でも最も優れているのだから心配は無用よ!」
勘助の心配をよそに香姫は【絶影】を走らせた。付いた先は諏訪上社である。香姫の実家である諏訪家は代々上社の大祝を務めていた。香姫にとっては幼い頃から通い慣れた社である。香姫はこの社の主神・建御名方神に病気平癒の願掛けに参拝したのだった。
(どうか、次郎様が無事に回復なされますように……)
香姫は強く念じる。そのことで愛する晴信の心労が除かれることを切に願った。
一方、躑躅ヶ崎館では騒ぎになっていた。香姫が諏訪へ向かったと報告を受けたからだ。
「何故、すぐに報告しなかった!!」
「申し訳ございません」
晴信はギリギリと奥歯を噛みしめる。香姫に何かがあってはと、気が気ではなかった。
「山本殿が供を買って出てくれました」
「そういうことではない!!」
「御館様?」
晴信は柱の一つを拳で強く叩く。その様子にさすがの滝も驚きを隠せない。どうしたものかとオロオロしていると、三条が現れた。
「大きな声がした思えば何事でございますか?」
「三条……」
晴信が視線を逸らす。その様子に何かを察したのか、三条はため息をこぼした。
「そんなに心配なら追いかければ宜しいでしょう?」
呆れ顔の三条がきっぱりと言い切る。それに面食らった晴信は口をぽかんと開けて突っ立っていた。滝はそんな二人の顔を見比べるのに忙しい。
「お方様!そのような……」
「黙りなさい! 香姫は次郎のために諏訪へ向かったのです」
三条はいつになく強い口調で多重を窘めた。多重は手にした扇を握りしめ、顔に怒りを滲ませながらもそれに従い下がる。
「三条……」
「何をなさっております。急いで後を追いなされませ」
三条の言葉に晴信は頷くとすぐに厩に向かう。その姿を複雑な表情で見送る三条であった。
晴信が厩に着くと待っていましたとばかりに工藤源左衛門昌秀が二頭を馬房から出しているところであった。
「昌秀、お前……」
「御館様。話は滝より聞き及んでおります」
「そうか……」
「お供いたします。諏訪へ参りましょう!」
昌秀から手綱を受け取ると愛馬に跨がり鞭を入れる。昌秀もそれに続いたのだった。二人の乗った馬が正門から出て行く。それを見送る三条は晴信が無事に香姫を連れ帰ってくるのを祈る。
三条は晴信が烈火の如く怒っていた訳に気付いていた。香姫は【晴信の側室】であると同時に【頼重の一人娘】なのだ。藤沢頼親にとって格好の人質になり得た。
「お方様、私には理解出来ませぬ」
「然もあらん。そなたは私のことしか見えておらぬようですからね」
多重の声に悔しさの滲むのを感じながらも、三条は敢えて気付かぬフリをした。幼き日から付き従うこの侍女をどうしても切り捨てることが出来ない。だから、三条は敢えてそのように振る舞う。だが、その心にはいずれ多重を切り捨てねばならぬ事が起きると予感していた。
(そのとき、私は容赦なく切り捨てねば……)
その日が来ないことを願いながらも三条は決意したのだった。
どのくらい馬を飛ばしたであろうか。晴信と昌秀は上原の城下を過ぎ、諏訪上社へとたどり着いた。
「御館様……」
突然、声をかけられ振り向くと、そこには黒装束の勘助がいた。その姿に安堵の息をつく晴信。だが、香姫の姿がないことに気付き、顔つきが一変する。
「山本殿、香姫様はいずこにおられる」
「頼高殿の案内で禊ぎをなされ、そのまま祈りを捧げておいでです」
「それは我らに踏み入るな、ということか?」
「御意」
晴信は勘助の返事に悔しさを滲ませる。祈りを捧げているということは強引に連れ帰ることが出来ぬということだ。そのようなことをすれば建御名方神の怒りを買う。香姫の祈りが終わるまで待つより仕方ない。
「御館様、如何いたします?」
「俺は本宮に留まる。勘助、そなたは信繁に伊那郡への出陣の支度を急ぐように伝えろ」
「はっ!」
勘助は一礼するといつものように煙のようにその場から姿を消した。それを見届けてから晴信は昌秀に上原城に使いを頼んだ。
少し渋るような素振りを見せた昌秀であったが、主君の有無を言わせぬ眼光に肩をすくめ、上原城へと向かったのだった。
一人残った晴信は本宮の拝殿の前に胡座を掻いて座った。そして、一人祈りを捧げた。
(南無諏訪大明神。どうか香の願い、聞き届けくだされ)
晴信は香姫の願いが届くことを祈る。するとどうであろう。辺り一面が濃い霧に包まれたのである。
「こ、これは?!」
晴信は驚き、立ち上がろうとする。だが、見えない力に押さえつけられているのか、立ち上がる事が出来ない。
「くっ」
「ほう。儂の神通力に挑む者がおるとはのぉ」
どこからともなく響く男の声。晴信は視線を走らせる。だが、視界に男の姿を捉えることは出来ない。晴信は全神経を研ぎ澄まし、男の正体を探ろうとする。
「なるほどなぁ。諏訪の小娘が入れ込むわけだ」
「!!!」
突然、目の前が晴れるとそこには衣袴姿の壮年の男が立っていた。腰には直険を携え、首には黒曜石で作られた勾玉がさげられている。更に矢筒を背負っており、左手には強弓が持たれていた。
「そなたが武田晴信か?」
男は晴信の目の前に座ると名を聞いてきた。値踏みするような視線を真っ向からはじき返し、【そうだ】と伝える。
男は顎に手をやって楽しそうに微笑んでいる。そこから問答が始まった。
「ここへ何をしに来た」
「香姫を連れ戻しに来ました」
「あの娘は祈りを捧げておる。それを妨げて連れ帰るつもりか?」
「いえ、そのようなことはいたしませぬ」
「では、なんとする?」
「待ちまする」
「待つ?ここでか?」
晴信の答えに男は目を丸くして驚く。だが、晴信はそれに揺らぐことなくこの上社のご神体である守屋山を見上げる。男はその姿に何かを感じたようでフッと笑みをこぼすと問答を続けた。
「あの娘の願いは知っておるのか?」
「はい。それがしの子の病気平癒でしょう」
「その子はあの娘が産んだ子か?」
「いえ、違います」
「我が子でもないのに祈りを捧げるか……。何のためかのぉ」
「恐らくは、それがしの為でしょう」
「何故そう思う?」
「常日頃からそれがしへの思いを伝えてくれておる故……」
「ハハハ。随分と惚れ込まれたものよのぉ」
男は豪快に笑う。晴信は恥ずかしさにいたたまれなくなるがそれでも引く気はない。男もそれは分かっているようで、それ以上茶化すことはなかった。
「もし、そなたの子が助からぬ運命であるとしたらどうする?」
「そ、それは……」
それだけは断じて受け入れることが出来ない。晴信はギュッと両の拳を握りしめる。
「では、問いを変えよう」
「?」
「もし、その子を助けるためになにがしかの【犠牲】が必要だとする。そなた、何を差し出す」
その問いに晴信は即答出来なかった。我が子のためになら命を差し出しても良いと思っている。だが、自分の力を信じて託された父の思い・信義の願い・義光の悲願を鑑みれば容易く答えることが出来ない。
(確かに俺は【悲願を叶える男】として武田の命運を託された。だが、その託された思いを引き継ぐのは子供たちだ。その子供たちを見捨てて何が悲願達成か!)
そう思い至った晴信は顔を上げきっぱりと言い切った。
「なればこの晴信の命、差し上げまする!」
晴信は脇差を取り出し、目の前に置く。その瞳には決意の色が浮かんでいる。男は目を細め、晴信の心の奥底を図ろうとする。と、突然立ち上がり、大声を上げて笑い出した。ひとしきり笑い終わると、腰に下げ袋から小さな巾着を取り出し晴信の目の前に投げ落とした。
「持って行け」
「え?」
「そなたの子に効く薬じゃ」
晴信は驚きのあまり男を見上げた。男は満面の笑みを向けている。だが、すぐに鋭い視線を向けてくる。
「だが、何の見返りもなくやるわけには行かぬ」
「それがしが差し出せる物なら、何なりとお申し出下され!」
「そうか。では……」
すると男は晴信の顔をのぞき込み告げる。
「ならば、その左の眼をよこせ」
「その程度で宜しいのか?」
「構わぬ」
男がニヤリと笑う。晴信は目の前に置いた脇差を手に取り、引き抜く。そして、一つ大きく息をして、己の左目めがけて振り下ろした。その刃が刺し貫く直前、晴信の手首は男につかまれそれ以上動かすことが出来なかった。
「武田晴信、そなたの覚悟のほどしかと見届けた!」
「し、しかし、それでは……」
「眼はそなたの息子からいただくこととしよう。命を失うよりはマシであろう?」
晴信は言い返せなかった。左目一つで助かるならと己の左目を差しだそうとしたのは他でもない自分だ。
「もともと、あの子は失明する運命だった訳だし」
男がぼそりと呟いたのを晴信は聞き逃さなかった。顔を上げ、どういうことかと目で訴えかける。男は苦笑いを浮かべ、答える。
「そなたは時を遡り、生き直しておるのだろう?」
「な、何故、それを……」
「それは儂が神の一人だからよ」
「なんと!」
「そなたの覚悟と諏訪の小娘の祈りに免じて、その子を失明の運命から救ってやろう」
「そ、それはまことでございますか?」
「二言はない。代わりといってはなんだが……」
男は悪戯っぽい笑みを浮かべて晴信に提案した。
「その子の左の眼と儂の左の眼を入れ替える。人の目に映る物は見えぬが、代わりに目に見えぬ物を見ることが出来るようになる。いうなれば、儂の神通力の一部を使えるようになるということだ」
「何故、そのような力を授けて下さるのですか?」
「気まぐれだ」
「気まぐれ?」
「それに儂もそなたが目指すものを見とうなったからよ」
「それがしの目指すもの、でございますか?」
「そうだ。儂はそなたが見るものを見たい。だが、忌々しい事に信濃から出ること叶わぬ。よって、そなたの息子に儂の眼を授け、代わりに見て貰うことにした。そういうわけよ」
「な、なるほど……」
晴信は納得した。ふと気付けば男の姿が少しずつ形をなくしてゆく。そして、眩い光を放ったかと思うと雷のような咆哮が上がる。目を見開いた晴信の眼前に現れたのは黄金に輝く竜であった。
「晴信、必ずや天下をものにし、その御代を子々孫々へと伝えよ。儂はこの地で見守っておるぞ!!」
「お、お待ち下さい。貴方様は一体……」
「儂はそなたらの申す【諏訪大明神】。建御名方神である!!」
「ええ?!」
「晴信、あの諏訪の小娘を大事にいたせ。さすれば、永久に儂の加護を授けてやろう!!」
竜はそう言い残し、今一度咆哮を上げると守屋山山頂へと飛び去ったのであった。
それを呆然と見送り、しばらくその場に立ち続けていた。
「晴信様?」
不意に呼ばれて我に返るとそこには巫女装束を纏った香姫が立っていた。香姫は晴信の足元に落ちた巾着を拾い上げると目を見開いた。
「これは諏訪の御神紋。晴信様、これをどこで手に入れられたのですか?!」
「香、何をそんなに驚いている」
「この巾着には諏訪の御神紋【梶の葉】が描かれております。これを持つ事を許されるのは……」
「諏訪大明神のみか?」
「はい」
晴信はその答えに今見たものが……。今行ったものが現実であると悟る。
(そうか。諏訪大明神は我が武田に加護を下されたか……)
「晴信様?」
「諏訪大明神より加護をいただいた」
「まあ!」
「この巾着の中の薬を飲ませれば次郎は助かるそうじゃ」
「それはようございました」
こうして晴信は香姫と共に甲府へと戻ったのである。その後、次郎は与えられた薬の力で熱は下がり、元気になったのはいうまでもない。ただ、その左目は決して開くことはなかった。
それを見た、長延寺実了は【とてつもなく大きな神力が込められております」と伝えた。これを聞いた晴信は建御名方神の加護を確信したのであった。
同時進行で伊那郡の制圧に動いていた。伊那郡には高遠城があり、未だ高遠頼継の死に納得いかぬ者も多く反抗が続いていた。更に福予城の藤沢頼親が反旗を翻したためその制圧にも乗り出していた。
「昨年は逃げられましたが、今年こそは討ち果たします」
「頼むぞ」
信繁の力強い答えに晴信は満足していた。既に上原城も落成しており、体制は整っている。あとは伊那郡の制圧のみといった状態であった。それ故、晴信は伊那郡の制圧を信じて疑わなかった。
私生活においても三条との間に長女・梅、三男・三郎、次女・佐保が相次いで誕生し躑躅ヶ崎館は賑やかになっていた。
だが、気掛かりもある。このところ熱を出しては寝込むようになった次郎のことである。特に二十五歳になった晴信は厄年だ。子供たちにその厄災が降りかかるのではないかと心配したのだった。
「近江の多賀大社に厄除け祈願をしようと思うがどうであろうか」
「良きお考えかと思います」
「この際、伊那のことや北条の交渉のことも含めて願文を奉じられては如何ですか?」
「御館様は甲斐の国主であり、武田の当主。それがしも信方に同意いたします」
信方ら重臣たちも厄除けに同意する。晴信は早速多賀大社に願文を捧げ、黄金二両を奉献したのだった。更に窪八幡神社には三十六歌仙図の奉納を約束して、立願したのであった。
だが、晴信の案じたとおり、厄災は息子に降りかかった。寝込みがちな次郎が高熱にうなされたのである。晴信は駿河の今川に薬師を送って貰うよう使者を送り、寺社には病気平癒の祈祷を命じたのだった。
「父上、次郎は……」
「大丈夫だ。今川から良き薬師を呼び寄せたのだ。次郎はすぐに良くなる」
「はい……」
弟の身を案じる太郎を励ますように微笑みかける晴信。だが、その心は嵐が吹き荒れていた。
(何故、俺に苦難を与えて下さらぬのだ……)
晴信は拳を握りしめ天を見上げる。雲一つ無い晴天に恨み言を漏らさずにはいられなかった。
その姿を沈痛な面持ちで見つめている者があった。側室の香姫である。明るく天真爛漫であった少女は才色兼備の姫へと成長を遂げていた。そして、それと共に晴信への思いも強くなっていく。だからこそ、我が子の病に心痛める晴信をなんとかしたいと思わずにはいられなかった。
「姫様?」
「諏訪へ……」
「え?」
「建御名方神ならば、きっとお救い下さるはず」
「姫様?」
香姫は滝の制止を振り切り、廊下を進む。途中、三条の侍女・多重から不穏な視線を向けられるが、それを跳ね返し毅然とした態度で通り過ぎる。その姿を忌々しく思われようが香姫は屈することなく己を貫く。
香姫は青毛(濃い青味を帯びている黒色の毛色)の駿馬を駆って諏訪大社へと向かった。それに付き従うは山本勘助である。滝は先年産まれた娘の世話もあるため同行させなかった。その代わりを買って出たのが勘助である。隻眼とはいえ、馬の扱いには慣れた様子で手綱を操る。
「香姫様。あまり飛ばすと馬が潰れますぞ」
「あら?甲斐の黒駒はこの程度で潰れたりはしないわ」
「ですが……」
「この【絶影】はその中でも最も優れているのだから心配は無用よ!」
勘助の心配をよそに香姫は【絶影】を走らせた。付いた先は諏訪上社である。香姫の実家である諏訪家は代々上社の大祝を務めていた。香姫にとっては幼い頃から通い慣れた社である。香姫はこの社の主神・建御名方神に病気平癒の願掛けに参拝したのだった。
(どうか、次郎様が無事に回復なされますように……)
香姫は強く念じる。そのことで愛する晴信の心労が除かれることを切に願った。
一方、躑躅ヶ崎館では騒ぎになっていた。香姫が諏訪へ向かったと報告を受けたからだ。
「何故、すぐに報告しなかった!!」
「申し訳ございません」
晴信はギリギリと奥歯を噛みしめる。香姫に何かがあってはと、気が気ではなかった。
「山本殿が供を買って出てくれました」
「そういうことではない!!」
「御館様?」
晴信は柱の一つを拳で強く叩く。その様子にさすがの滝も驚きを隠せない。どうしたものかとオロオロしていると、三条が現れた。
「大きな声がした思えば何事でございますか?」
「三条……」
晴信が視線を逸らす。その様子に何かを察したのか、三条はため息をこぼした。
「そんなに心配なら追いかければ宜しいでしょう?」
呆れ顔の三条がきっぱりと言い切る。それに面食らった晴信は口をぽかんと開けて突っ立っていた。滝はそんな二人の顔を見比べるのに忙しい。
「お方様!そのような……」
「黙りなさい! 香姫は次郎のために諏訪へ向かったのです」
三条はいつになく強い口調で多重を窘めた。多重は手にした扇を握りしめ、顔に怒りを滲ませながらもそれに従い下がる。
「三条……」
「何をなさっております。急いで後を追いなされませ」
三条の言葉に晴信は頷くとすぐに厩に向かう。その姿を複雑な表情で見送る三条であった。
晴信が厩に着くと待っていましたとばかりに工藤源左衛門昌秀が二頭を馬房から出しているところであった。
「昌秀、お前……」
「御館様。話は滝より聞き及んでおります」
「そうか……」
「お供いたします。諏訪へ参りましょう!」
昌秀から手綱を受け取ると愛馬に跨がり鞭を入れる。昌秀もそれに続いたのだった。二人の乗った馬が正門から出て行く。それを見送る三条は晴信が無事に香姫を連れ帰ってくるのを祈る。
三条は晴信が烈火の如く怒っていた訳に気付いていた。香姫は【晴信の側室】であると同時に【頼重の一人娘】なのだ。藤沢頼親にとって格好の人質になり得た。
「お方様、私には理解出来ませぬ」
「然もあらん。そなたは私のことしか見えておらぬようですからね」
多重の声に悔しさの滲むのを感じながらも、三条は敢えて気付かぬフリをした。幼き日から付き従うこの侍女をどうしても切り捨てることが出来ない。だから、三条は敢えてそのように振る舞う。だが、その心にはいずれ多重を切り捨てねばならぬ事が起きると予感していた。
(そのとき、私は容赦なく切り捨てねば……)
その日が来ないことを願いながらも三条は決意したのだった。
どのくらい馬を飛ばしたであろうか。晴信と昌秀は上原の城下を過ぎ、諏訪上社へとたどり着いた。
「御館様……」
突然、声をかけられ振り向くと、そこには黒装束の勘助がいた。その姿に安堵の息をつく晴信。だが、香姫の姿がないことに気付き、顔つきが一変する。
「山本殿、香姫様はいずこにおられる」
「頼高殿の案内で禊ぎをなされ、そのまま祈りを捧げておいでです」
「それは我らに踏み入るな、ということか?」
「御意」
晴信は勘助の返事に悔しさを滲ませる。祈りを捧げているということは強引に連れ帰ることが出来ぬということだ。そのようなことをすれば建御名方神の怒りを買う。香姫の祈りが終わるまで待つより仕方ない。
「御館様、如何いたします?」
「俺は本宮に留まる。勘助、そなたは信繁に伊那郡への出陣の支度を急ぐように伝えろ」
「はっ!」
勘助は一礼するといつものように煙のようにその場から姿を消した。それを見届けてから晴信は昌秀に上原城に使いを頼んだ。
少し渋るような素振りを見せた昌秀であったが、主君の有無を言わせぬ眼光に肩をすくめ、上原城へと向かったのだった。
一人残った晴信は本宮の拝殿の前に胡座を掻いて座った。そして、一人祈りを捧げた。
(南無諏訪大明神。どうか香の願い、聞き届けくだされ)
晴信は香姫の願いが届くことを祈る。するとどうであろう。辺り一面が濃い霧に包まれたのである。
「こ、これは?!」
晴信は驚き、立ち上がろうとする。だが、見えない力に押さえつけられているのか、立ち上がる事が出来ない。
「くっ」
「ほう。儂の神通力に挑む者がおるとはのぉ」
どこからともなく響く男の声。晴信は視線を走らせる。だが、視界に男の姿を捉えることは出来ない。晴信は全神経を研ぎ澄まし、男の正体を探ろうとする。
「なるほどなぁ。諏訪の小娘が入れ込むわけだ」
「!!!」
突然、目の前が晴れるとそこには衣袴姿の壮年の男が立っていた。腰には直険を携え、首には黒曜石で作られた勾玉がさげられている。更に矢筒を背負っており、左手には強弓が持たれていた。
「そなたが武田晴信か?」
男は晴信の目の前に座ると名を聞いてきた。値踏みするような視線を真っ向からはじき返し、【そうだ】と伝える。
男は顎に手をやって楽しそうに微笑んでいる。そこから問答が始まった。
「ここへ何をしに来た」
「香姫を連れ戻しに来ました」
「あの娘は祈りを捧げておる。それを妨げて連れ帰るつもりか?」
「いえ、そのようなことはいたしませぬ」
「では、なんとする?」
「待ちまする」
「待つ?ここでか?」
晴信の答えに男は目を丸くして驚く。だが、晴信はそれに揺らぐことなくこの上社のご神体である守屋山を見上げる。男はその姿に何かを感じたようでフッと笑みをこぼすと問答を続けた。
「あの娘の願いは知っておるのか?」
「はい。それがしの子の病気平癒でしょう」
「その子はあの娘が産んだ子か?」
「いえ、違います」
「我が子でもないのに祈りを捧げるか……。何のためかのぉ」
「恐らくは、それがしの為でしょう」
「何故そう思う?」
「常日頃からそれがしへの思いを伝えてくれておる故……」
「ハハハ。随分と惚れ込まれたものよのぉ」
男は豪快に笑う。晴信は恥ずかしさにいたたまれなくなるがそれでも引く気はない。男もそれは分かっているようで、それ以上茶化すことはなかった。
「もし、そなたの子が助からぬ運命であるとしたらどうする?」
「そ、それは……」
それだけは断じて受け入れることが出来ない。晴信はギュッと両の拳を握りしめる。
「では、問いを変えよう」
「?」
「もし、その子を助けるためになにがしかの【犠牲】が必要だとする。そなた、何を差し出す」
その問いに晴信は即答出来なかった。我が子のためになら命を差し出しても良いと思っている。だが、自分の力を信じて託された父の思い・信義の願い・義光の悲願を鑑みれば容易く答えることが出来ない。
(確かに俺は【悲願を叶える男】として武田の命運を託された。だが、その託された思いを引き継ぐのは子供たちだ。その子供たちを見捨てて何が悲願達成か!)
そう思い至った晴信は顔を上げきっぱりと言い切った。
「なればこの晴信の命、差し上げまする!」
晴信は脇差を取り出し、目の前に置く。その瞳には決意の色が浮かんでいる。男は目を細め、晴信の心の奥底を図ろうとする。と、突然立ち上がり、大声を上げて笑い出した。ひとしきり笑い終わると、腰に下げ袋から小さな巾着を取り出し晴信の目の前に投げ落とした。
「持って行け」
「え?」
「そなたの子に効く薬じゃ」
晴信は驚きのあまり男を見上げた。男は満面の笑みを向けている。だが、すぐに鋭い視線を向けてくる。
「だが、何の見返りもなくやるわけには行かぬ」
「それがしが差し出せる物なら、何なりとお申し出下され!」
「そうか。では……」
すると男は晴信の顔をのぞき込み告げる。
「ならば、その左の眼をよこせ」
「その程度で宜しいのか?」
「構わぬ」
男がニヤリと笑う。晴信は目の前に置いた脇差を手に取り、引き抜く。そして、一つ大きく息をして、己の左目めがけて振り下ろした。その刃が刺し貫く直前、晴信の手首は男につかまれそれ以上動かすことが出来なかった。
「武田晴信、そなたの覚悟のほどしかと見届けた!」
「し、しかし、それでは……」
「眼はそなたの息子からいただくこととしよう。命を失うよりはマシであろう?」
晴信は言い返せなかった。左目一つで助かるならと己の左目を差しだそうとしたのは他でもない自分だ。
「もともと、あの子は失明する運命だった訳だし」
男がぼそりと呟いたのを晴信は聞き逃さなかった。顔を上げ、どういうことかと目で訴えかける。男は苦笑いを浮かべ、答える。
「そなたは時を遡り、生き直しておるのだろう?」
「な、何故、それを……」
「それは儂が神の一人だからよ」
「なんと!」
「そなたの覚悟と諏訪の小娘の祈りに免じて、その子を失明の運命から救ってやろう」
「そ、それはまことでございますか?」
「二言はない。代わりといってはなんだが……」
男は悪戯っぽい笑みを浮かべて晴信に提案した。
「その子の左の眼と儂の左の眼を入れ替える。人の目に映る物は見えぬが、代わりに目に見えぬ物を見ることが出来るようになる。いうなれば、儂の神通力の一部を使えるようになるということだ」
「何故、そのような力を授けて下さるのですか?」
「気まぐれだ」
「気まぐれ?」
「それに儂もそなたが目指すものを見とうなったからよ」
「それがしの目指すもの、でございますか?」
「そうだ。儂はそなたが見るものを見たい。だが、忌々しい事に信濃から出ること叶わぬ。よって、そなたの息子に儂の眼を授け、代わりに見て貰うことにした。そういうわけよ」
「な、なるほど……」
晴信は納得した。ふと気付けば男の姿が少しずつ形をなくしてゆく。そして、眩い光を放ったかと思うと雷のような咆哮が上がる。目を見開いた晴信の眼前に現れたのは黄金に輝く竜であった。
「晴信、必ずや天下をものにし、その御代を子々孫々へと伝えよ。儂はこの地で見守っておるぞ!!」
「お、お待ち下さい。貴方様は一体……」
「儂はそなたらの申す【諏訪大明神】。建御名方神である!!」
「ええ?!」
「晴信、あの諏訪の小娘を大事にいたせ。さすれば、永久に儂の加護を授けてやろう!!」
竜はそう言い残し、今一度咆哮を上げると守屋山山頂へと飛び去ったのであった。
それを呆然と見送り、しばらくその場に立ち続けていた。
「晴信様?」
不意に呼ばれて我に返るとそこには巫女装束を纏った香姫が立っていた。香姫は晴信の足元に落ちた巾着を拾い上げると目を見開いた。
「これは諏訪の御神紋。晴信様、これをどこで手に入れられたのですか?!」
「香、何をそんなに驚いている」
「この巾着には諏訪の御神紋【梶の葉】が描かれております。これを持つ事を許されるのは……」
「諏訪大明神のみか?」
「はい」
晴信はその答えに今見たものが……。今行ったものが現実であると悟る。
(そうか。諏訪大明神は我が武田に加護を下されたか……)
「晴信様?」
「諏訪大明神より加護をいただいた」
「まあ!」
「この巾着の中の薬を飲ませれば次郎は助かるそうじゃ」
「それはようございました」
こうして晴信は香姫と共に甲府へと戻ったのである。その後、次郎は与えられた薬の力で熱は下がり、元気になったのはいうまでもない。ただ、その左目は決して開くことはなかった。
それを見た、長延寺実了は【とてつもなく大きな神力が込められております」と伝えた。これを聞いた晴信は建御名方神の加護を確信したのであった。
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