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林の章

信虎の畿内周遊と新たな決意

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諏訪の施政しせい体制が着々整おうとしている六月半ば。晴信の元に駿河から父・信虎に関しても知らせが届く。それによると信虎は数ヶ月をかけて畿内きない(現在の近畿地方)を巡るというものであった。

「畿内各所を回られるとは気力が有り余っておいでのようですな」
「若い側室を連れ立っているとか、いないとか」

頼重や信繁の話を聞きながら晴信は内心ため息をつきたくなる。

(意地を張らずに母上をお呼びになれば良いものを……)

父の母への思いを知る晴信は【若い側室と連れ立っての旅行】というのが母をやきもきさせようとしているとしか思えなかった。もっとも、そのくらいのことであの母が動揺することなどあり得ないのだが。

本願寺ほんがんじ南都なんと(現在の奈良県)、高野山へも参るつもりのようですな」
「京周辺も回られるようだ」
「なるほど……」

晴信は届いた書状を置きながら、父の思惑がなんなのか推し量る。隠棲いんせいして退屈をしているのであろうが、遊興に耽るような男ではない。なにがしら思惑があって動いているように思えてならなかった。特に足利将軍家との結びつきを重視していたあの父ならば、何か意図があってのことではないかと思えたからだ。

「そのうち土産話でもして参りましょう」
「そうだな」

晴信は苦笑して肩をすくめる。
晴信には父・信虎のことを詮索するより先にやらねばならないことがあった。頼重の居城・上原城の普請である。前年の攻防で改築が必要となったこともあるが、中信・北信への進出も視野に入れての普請である。先月には鍬立くわだて(地鎮祭)もすませ、月が変わり次第着工したのである。
晴信は自ら陣頭指揮を執り、進行具合を確認していた。それに合わせて施政を円滑にするために頼重や板垣信方のほか、上原在城衆、高遠の城主となった信繁との連携なども詰めの話し合いがもたれた。

「兄上!」
禰々ねねか……」

図面に目を通していた晴信の元に寅王丸を抱きかかえた禰々が現れる。その表情は明るく、頼重との仲が円満であることを示していた。

「息災であったか?」
「はい。おかげさまで」

そう言って微笑む妹の姿に晴信の心は軽くなる。先年、高遠を排除し諏訪を領国化するためとはいえ、禰々に辛い思いをさせた。故に晴信は諏訪へ戻った後のことを気にかけていたのだ。

「上原城の普請が終わればいよいよ村上と対決だ」
「左様でございますね」
「頼重殿にも戦働きして貰うことになる」

晴信の言葉に禰々の表情が曇る。だが、それも一瞬のこと。決意の籠もった瞳で晴信を見上げてきた。何があっても夫を支えていくという決意が見て取れた。

「また一段と大きゅうなったようだな」

晴信は禰々に抱かれ、すやすやと眠る甥・寅王丸の顔をのぞき込み微笑む。禰々も笑みを返す。

「兄上、この子のためにも早う信濃を平定して下され」
「言われるまでもない」

力強く答える晴信。その瞳に宿る強い意志は信濃平定の先にあるものを見ているようであった。



七月に入り、下宮城の普請も始まる。晴信はそれを見届けた後、甲府へと帰ったのである。帰着した早々、勘助より渡されたのは父・信虎からの密書であった。
そこには将軍・義晴の惨状が書き記されていた。

公方くぼう様の権威も無きに等しいか……」
「御館様。【腐っても鯛】との言葉もあります。手を差し伸べておけば、いずれ武田にかえって参りましょう」
「そうであるな」

勘助の言葉に頷きながら、晴信は甲州金の手配をするように指示を出す。昨今、京の窮状を考えれば、金を送るのが一番である。なにせ、官位も銭で買い取る時代だ。喜ばれることはあっても嫌がられることはない。

「他に何か言ってきておるか?」

晴信がそう促せば、勘助の隻眼が怪しく光る。晴信は勘助を側近くに呼び、子細を聞き出す。

「【寿桂尼じゅけいにには気を許すな】と……」

その言葉に晴信は眉をひそめた。
寿桂尼は今川家当主・義元の実母である。その尼僧を恐れるなど、父・信虎の豪胆さからは信じられなかった。

「勘助、寿桂尼様とはどのような方であるか?」

勘助が掻い摘まんで説明する。
寿桂尼は義元の父である氏親の正室で中御門宣胤の娘である。先代・氏輝の急死の折、仏門に入っていた義元を還俗させ跡継ぎとするために暗躍していたらしい。その後も影から今川を支えている。まさに【女傑】という言葉が相応しかった。

「寿桂尼様とはそのような方であられたか……」
「今川との同盟を維持するのであれば義元様だけでなく寿桂尼様とも懇意にしておく方が得策でしょう」
「うむ。父上もそれに気付かれこのような密書を送ってきたのであろうな」
「恐らく……」

晴信は父からの忠告に感謝しつつ、多方面に渡り策を講じねばならないことを思い知る。

(それが出来て初めて天下人の道が開ける、か……)

そこに思い至り、晴信は自分がまだまだ小さな存在であると思わざるを得ない。だが、大風呂敷を広げることも危険である。優先順位を決めて、取り組むことを決意した瞬間であった。



その夜のこと。晴信は夢を見る。一人白い世界に立つ。初代・信義や始祖・義光より助言を受けたあの世界である。

「俺はまた呼ばれたのか?」

辺りを見回しながら晴信は一人呟く。すると、遠くに人影が見える。ゆらゆらと揺れるそれは徐々に大きくなる。その姿を確認出来たところで晴信は膝をつく。

「堅苦しい挨拶は良い」
「初代様……」
「諏訪攻略、祝着しゅうちゃくである」
「はっ!」

信義の祝いの言葉に晴信は平伏する。信義は頭を上げるように言い、二人は対面する形でその場に胡座あぐらを掻く。

「さて、此度の一件でそなたのめいは大きくあらたまり、諏訪の行く末も変わった」
「はい」
「この先は息子と絆を変えていくこととなる」

信義の言葉に唾を飲み込む晴信。息子との絆。それは即ち嫡男・義信との絆である。晴信が母の腹に戻る直前、最も強く望んだこと。それが義信とのことであった。
義信は実直で曲がったことが大嫌いだった。それ故、父である晴信に対しても噛み付くこともあった。その最たるものが駿河侵攻への反対だった。
晴信は義信の言を無視し、強引に駿河進攻を推し進めようとした。その結果、親今川派に持ち上げられ、謀反を計画させてしまった。それにより、親今川派の筆頭でもあった義信の傅役・飯富おぶ兵部ひょうぶ虎昌とらまさに切腹を命じる事となったばかりか、義信の廃嫡。それに伴う自害を引き起こしてしまったのだ。
この事件は晴信の人生の中で一番の後悔である。そのことによる妻・三条の心労はいかばかりであったか。更に嫁であるおねの悲しみは忘れることは出来ない。

「何やら悲壮感が漂っておるぞ」
「あ……」

信義に指摘されてハッとなる。晴信は苦笑いを浮かべてやり過ごした。

「まぁ、それほど気に病むことは無い。そなたの命は既に大きく変わっておるからのぉ」
「左様ですか?!」
「うむ。ただし!」

喜んだもつかの間。信義の鋭い声に晴信は身を固くした。
信義はその姿をまるで品定めするかのようにじっと見つめる。その様子に晴信は背筋を冷たい汗が流れる感覚に襲われた。

「そなたには【女難じょなんの相】があるから女子おなごにはくれぐれも注意せよ」
「え?」
「まったく。今世の女子はこのような朴念仁ぼくねんじんのどこが良いのか……」

【それはこちらの台詞だ!】と叫びたいのをグッとと堪え、晴信は神妙そうな顔を作る。下手な反論は信義の怒りを誘うことは間違いない。ここは黙ってやり過ごすが得策である。
だが、その考えはすっかり見抜かれているようでギロリと睨まれてしまう。最早、笑って誤魔化すより他はなかった。

「まぁ、良いわ。その女子おなごらは幸運をもたらす【女神】だからの」
「幸運をもたらす?」
「そうじゃ。これより武田家中が纏まるにはその女子おなごらの協力が必要不可欠。であるから、そなたは等しく接するのだぞ!」
「はぁ」
「なんだ、その府抜けた返事は!」
「そのように言われましても、それがしには何をどうすれば良いのかさっぱり……」

その返事に信義はガックリと項垂れる。

(まぁ、なるようになるだろうて……)

そう諦める信義だった。

「ところでこれよりはどのように動くが上策でございましょう?」
「おお、そうであった。ここからが肝心である」

信義は思い出したように手を打つ。晴信はその様子にため息をつきたくなった。そんな気持ちなど気づきもせずに信義は話を続けた。

「晴信、これよりは北条との講和を目指すのじゃ」
「北条と……」
「だが、ただ和すれば良いわけではない」
「それはどういうことにございますか?」

信義の話はこうであった。
晴信が武田の家督継いだ天文十年。北条にも変化が起きていた。それは当主氏綱の死である。その後を継いだのは嫡男・氏康。今は支配体制を確立するために奔走しているようであった。

「北条は今川が武田と結んだことでそれまでのよしみ反故ほごにして敵対しておる。それは知っておるな」
「はい」
「それを逆手に取るのだ」
「と、言われますと?」
「そなたが今川と北条の講和を仲介するのだ。それにより両家とよしみを結べ。さすれば、南のみならず東の危機も遠のく」
「なるほど!」

晴信はそう考えて三国で同盟を結ぶことにしたことを思い出した。だが、今は諏訪を存続させたことでその情勢も変わりつつある。何より先刻【寿桂尼には気を許すな】との父の助言も届いた。
両家との同盟は必要不可欠であるが、晴信が目指す先は【武家の棟梁】である。以前と同じではダメだと感じる。ならば、どうすべきか。それが今後の課題である。

「儂から言えるのはそなた一人で背負い込みすぎるなと言うことかのぉ」
「一人で?」
「武田が【武家の棟梁】となるはそなた一人の悲願ではなく、武田家の悲願だということを忘れるな」
「武田家の悲願……」

その言葉に晴信は目からうろこが落ちるようであった。
【武田家の悲願】と言うことは晴信によってのみ成されるということではなく、晴信の後を継ぐ太郎やその子供たちによって成されるべき事である。
信義はそう言いたいのだと気づいたのだ。
自分が倒れたとしても、太郎が御旗みはたを立て、天下に号令すれば悲願は達成される。その布石となる同盟にせよ。信義が促しているのはそういうことである。

「早速、取りかかりましょう!」
「うむ。まぁ、険しい道のりではあるがそなたなら問題なかろう」

信義はカラカラと小気味よく笑う。晴信もそれにつられて笑顔となった。
今一度、背中を押され晴信は意気揚々と現実の世界へと戻っていったのだった。



夢から覚めると自分をのぞき込む息子の顔があった。

「太郎?」
「おはようございます、父上!」

元気の良い挨拶に晴信の方が緩む。褒めるように太郎の頭を撫でてやれば殊の外嬉しそうな笑みを浮かべる太郎。

朝餉あさげの支度が出来ております。早う支度なさりませ」
「わかった。皆にはすぐに参ると伝えてくれ」
「はい!」

元気よく返事をしたかと思えば、太郎は駆け出していた。その背中を見送りつつ、晴信は決意を新たにする。

(これからはあの子の未来も守らねばならぬな)

それが訪れるであろう悲劇を覆す唯一のことであると思えた。晴信は両頬を叩き、気合いを入れる。そして、新たな未来に向けて一歩を踏み出すことを決意したのだった。



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