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林の章
【閑話】工藤源左衛門、滝を口説き落とす
しおりを挟む時は香姫の祝言から一月程前。甘利虎康の新屋普請と今川からの祝意の使者訪問とで慌ただしくなっていた頃の話。
香姫の侍女である滝は自分に向けられる視線を強く感じるようになった。向けられる視線の先を辿るがどうしても見つけられない。そうこうしているうちに祝言の準備に追われ気にとめることなく時は過ぎていった。
十二月に入り、婚礼衣装も整い香姫は祝言の日を指折り数えて待ったのである。
「やっと、晴信様の元に上がれる」
「姫様、はしたのうございます」
「だって、嬉しいんですもの」
何を言っても聞きそうにない香姫を前にしてため息しか出てこない。だが、次の瞬間滝の顔つきが変わる。例の読唇術の合図を出す。
≪どうしたの?≫
≪怪しげな気配があります≫
滝の言葉に香姫の顔色が瞬時に変わる。幼いながらも気配を辿ろうとしている。だが、全てを感じ取ることは出来ない。
≪姫様、私が合図するまで決して声を発してはなりませぬ≫
滝の言葉に香姫は頷く。滝は音も立てず戸の側に寄り、そっと開ける。辺りを目配せして気配の主を探ろうとするが見つけることが出来ない。だが、その気配はしばらくすると霧が晴れるかの如く消え去ったのだった。
「滝?」
滝の気の変化に気付いた香姫はその名を呼ぶ。滝は振り返り、微笑む。それを見て危機が去ったことを悟り、一息を着いた。
「気配が消えました」
「そうみたいね」
「今宵はもう大丈夫でしょう」
「うん……」
とはいえ、不安は拭えない。香姫は滝の袖を強く握り、その顔を見上げる。その仕草は香姫が添い寝を求めるときのものであった。
「仕方がありませぬ。今宵は私が共におります故」
「ありがとう」
滝の言葉に安堵した香姫はパッと笑顔になり抱きついたのだった。
(それにしても、さっきの気配は一体……)
香姫を抱きしめながらも滝は気配の主の思惑を図りかねたのだった。
それから数日後。滝は意外な形で例の気配の主と出会うことになる。晴信が新たに加えた武将の一人、工藤源左衛門尉昌秀である。
信虎の重臣であった工藤下総守虎豊の次男だという。父が信虎に反旗を翻すも敗れ、伊勢宗瑞(北条早雲)を頼って伊豆に逃れた後に産まれたのだった。信虎が駿河に隠遁したのを機に甲斐へと戻ってきたという訳である。
「滝、この男が工藤源左衛門だ」
「工藤殿、お初にお目にかかります。香姫様の侍女で滝と申します。以後、お見知りおきを」
「それがしは工藤源左衛門昌秀だ。よろしく頼みます」
工藤は礼儀正しく頭を下げる。だが、滝はその目に獲物を狙う鷹の如き光を見つけ、気を引き締めた。
「源左衛門、あまりキツく睨むと女子に嫌われるぞ」
「この目つきは生まれつきでございます」
「そうであったか」
「ですが、女子に嫌われるは良いものではありませぬな。気をつけることにします」
「ああ、それが良い。折角の美丈夫が台無しだからな」
晴信は楽しそうに笑ってそう言う。源左衛門は少し困った風に肩をすくめてその後をついて行くのだった。
祝言を三日後に控えたある日。滝は晴信に一条小山の隠れ家に呼び出された。それは当日の素波たちの配置を確認するためだ。
「それでは抜かりはないのだな」
「はい。諏訪の殿からの口添えで真田の忍びが城下に潜んでおります。妙な動きがあればすぐに知らせるとのことです」
「そうか。それは心強い」
「恐らく、祝言には当主の幸綱殿もおいでになるかと……」
「そうか」
滝からの報告に顔を綻ばせる晴信。何と言っても勘助が【味方に率いるべし】と言っていた真田幸綱が甲府に来るとあっては喜びはひとしおである。
「幸綱殿は海野棟綱の婿になります。北信濃へ侵攻なさる上で重きを成す方と思われます」
「そうであるな。これを機に臣従してくれれば良いが……」
晴信はそう願わずにはいられなかった。それも全ては香姫を守るためである。未だ【女狐】は尻尾を掴めていないだけに味方になり得る者は多いに越したことはない。そのためにも何としても真田の力はものにしたい。
「話は変わるが、滝は今年でいくつだ?」
「十八ですが。藪から棒にどうされました?」
「いや、その……」
「?」
晴信は話すべきかどうかと迷っている様子で滝は訝しむ。さすがにまずいと思ったのか、観念したように告げる。
「先日引き合わせた源左衛門のことだ」
「お父上が譜代の家臣であったとおっしゃっていた、あの方ですね」
「そうだ。皆が言うにはそなたに気があるのではないかと……」
「は?」
「信繁や昌景がそなたのことをいつも見つめているというのだ」
「それで?」
「源左衛門は独り身だ。決まった相手もいない」
晴信が口を濁す。滝は何が言いたいのか分かった。晴信は【源左衛門は滝に気がある】と聞きつけ、娶せようと考えたようだ。
「お気持ちは嬉しいですが、今は姫様の祝言が控えております」
「うむ」
「私は姫様をお守りするよう、諏訪の殿からキツく申しつけられております。すから、このお話、承るわけには参りません」
「そうか。そなたがそう言うのであれば無理には勧めぬ」
「申し訳ありません」
晴信は少し申し訳なさそうな顔をする。そして、【他に行くところがある】と言い残し、去って行った。
その姿を見送りながら滝は一人ため息をつく。
(工藤源左衛門。あの夜、感じた気配の持ち主は彼に間違いない)
滝は一人物思いに耽る。あの夜、感じた気配は源左衛門で間違いない。だが、何の用があって自分たちに近づいたのか分からない。しかも、霧が晴れるように気配を消した男だ。自分に気があるだけではないような気がしてならなかった。
その頃、当の工藤源左衛門は信繁の私室にいた。渋い顔で座り込んでおり、相対する信繁は如何したものかと頭を悩ませている。
「信繁様。まこと、御館様と滝殿はそのような間柄ではないと?」
「源左衛門、そなたもくどいな。兄上はそのような男ではない」
「左様ですか……」
だが、一向に納得した様子のない源左衛門。信繁は気付かれぬようにため息をつく。
「そんなに気になるのなら、自分で聞けば良かろう」
そんな心の声が漏れてしまったようで、源左衛門の片眉がピクリと上がる。後悔先に立たず、とはよく言ったもので信繁は睨まれてしまう。
「それが出来ればこのようなことはしてはおりませぬ」
「あ、いや、その、なんだ」
「御館様が寵を与えておられるかもしれぬ女子のことを……」
「源左衛門。お前、何か勘違いしておらぬか?」
「御館様に聞け。そういうことにございましょう?」
源左衛門が真顔で答えたので信繁はガックリと項垂れる。その様子に源左衛門は首をかしげる。
「お前、滝に子細を確かめようという気はないのか?」
「おお、なるほど!」
そこで漸く信繁の言う意味を理解出来たようで膝を打つ。すると、何やらブツブツと算段し始めた。しばらく眺めていると源左衛門は何やら決意したようで立ち上がり、【御前、失礼します】とだけ言い残し去ったのだった。
「あいつ、大丈夫か?」
信繁は少しばかり心配になるのであった。
迎えた祝言当日。滝は勘助と共に異常が無いか見て回る。こういう祝いの席では無礼講というのもあり、隙が出来やすい。客に紛れて不審者が侵入することなどままあることである。
それを未然に防ぐために滝や勘助がいる。勘助は主に警備に目を光らせ、滝は香姫の身の回りに目を光らせる。
(今のところ問題は無いわね)
結局、祝言は滞りなく進み、滝は安堵のため息をつく。だが、その気の緩みが滝に隙を作ってしまった。突然、後ろから腕を捕まれてしまったのだ。とはいえ、幼い頃から鍛練を積んできた体は即座に反応する。相手の力を利用して投げ飛ばしたのだ。
投げ飛ばされた拍子に側の部屋の戸にぶつかり相手はうめき声を漏らす。滝は懐から短刀を取り出し構える。そして、ゆっくりと相手に近づいた。
「イタタ……」
頭をさすりながら起き上がってきたのは工藤源左衛門だった。滝は短刀をしまうと駆け寄る。
「工藤殿、申し訳ございません」
「あー、いや。アレはそれがしが悪い」
「ですが……」
滝は内心焦る。この工藤源左衛門という男は当主である晴信の宿老たちを除けば全幅の信頼を置いている家臣だ。その源左衛門を投げ飛ばしたとあってはどんなお咎めがあるか。そう思うと焦らずにはいられなかった。
だが、源左衛門は【自分が悪い】と言って逆に詫びる。滝は混乱せざるを得なかった。すると、【騒ぎが大きくなるのはまずい】源左衛門に手をひかれ適当な部屋に連れ込まれてしまった。
「あ、あの!」
「え?」
「手当を……」
滝は源左衛門が怪我をしていないか確認しようと声をかけるが、【たいしたことは無い】と返された。
「ですが……」
「投げ飛ばされて当然の真似をしたのはそれがしです。お気になさらず」
眉を下げて謝られては滝も返す言葉がない。冬のキンと張り詰めた空気のせなのか、二人の間に沈黙が流れる。どちらも間合いを計るかのように声を上げる機会をうかがったいる。だが、なかなか切り出せない。結局、先に折れたのは源左衛門のほうであった。
「滝殿は……」
「え?」
「滝殿には心に決めた方はおられるのか?」
唐突に聞かれて滝は混乱し、源左衛門の意図をくみ取れず目を丸くした。当の源左衛門は困ったように眉を下げ、滝の返事を待つ。
「えっと……」
「やはり、決めた方がおられるのか?!」
「なっ」
源左衛門が打ちひしがれたように項垂れる。その様子は悲壮感が漂っていた。それにどう答えて良いものか悩む滝。
(ここは正直に話した方が良いのかしら?)
そう思い至り、一つ深呼吸をして語り始める。
「そのような方はいませんよ」
「まことですか?!」
「ええ。第一、そんな方がいたらここにはいませんから……」
「それはどういうことか。聞いても良いですか?」
自分を真っ直ぐ見つめる源左衛門に滝は頷く。そして、自分の出自を含めて話し始めた。
滝は元々戸隠の【山の民】と呼ばれる【素波】の一族の出である。幼い頃、諏訪の御大・頼満に見込まれ上原城に出仕。その後、当代・頼重はその愛らしさから【傾国の美女】となるのではと香姫の身を案じ、滝を侍女に選んだのだった。滝は一族の秘技を用いて影から守ることとなった訳である。
「そうだったのですか」
「諏訪にいた頃はさほど危機は感じませんでしたが、今は……」
「身の危険を感じると?」
「御館様が【女狐】と呼ぶ存在。その者が姫様を害すために虎視眈々と爪を研いでおります」
「御館様はご存じなのですか?」
滝は静かに頷いた。源左衛門は得心する。恐らく、その【女狐】はこの館の中心にいて、いつでも滝や香姫を狙える場所にいる。そのことを主君・晴信も気付いている。
(だか、【外】で落ち合っていたのか……)
源左衛門は滝と主君の関係が自分が想像していたようなものでない事に安堵する。と、同時にそのような邪推をした自分を恥じた。
「滝殿、それがしは酷い勘違いをしておったようだ」
「まぁ!」
「すまぬ」
源左衛門は頭を下げた。滝は驚きを隠せなかったが、好感が持てた。
「そうですね。知らぬ人が見れば邪推も致し方ないです」
「滝殿……」
滝は微笑みを浮かべて源左衛門を許す。それだけで源左衛門は舞い上がったのだった。滝の手を取り、喜びを伝える。あまりにも大仰なので滝は面食らってしまった。そうこうしているうちに、源左衛門は何やら考え出し、真顔で滝に迫る。
「滝殿はいずれ香姫様がお産みになった若子の乳母を務められるのか?」
「そう、ですね。いずれはそうなりましょう」
「ですが、ご自身は子はおありではないのですよな?」
「ええ、まぁ。お相手もいませんので……」
「では、それがしなど如何か?」
「へ?」
源左衛門は更ににじり寄り、自分を滝の夫にしてもらえぬか訴えた。
「わ、私は工藤殿の妻となるような出自では……」
「心配はいりませぬ。工藤の家は確かに武田の譜代。されど、父は一度は伊豆に逃げた身。何よりそれがしは気楽な次男。出自など気にしませぬ」
「で、でも……」
「それがし、一目見たときから滝殿と夫婦になれたらどれほど幸せであるか思うておりました」
「工藤殿?!」
「御館様が言うには香姫様と子を成すはしばらく先との事。それまでに我らが子を成しておけば安心でしょう」
「ちょっ」
滝は反論しようとするが源左衛門は全く聞いていない。それどころか横抱きに滝を抱えると厩に向かい、愛馬に乗せて自身の館に連れ去ったのだった。
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