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林の章

香姫の祝言

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季節は冬となり、激動の天文十一年(1542年)は暮れようとしていた。
秋口、高遠たかとうで小さな反乱が起きたが、駒井こまい政武まさたけの働きもあり即座に鎮圧された。これをもって諏訪の領国化は完了したのだった。
だが、ここに来て一つ問題が浮上する。それは香姫の処遇である。それは香姫が【人質】として差し出していたことに原因があった。

「この際、兄上の側室に成されれば宜しいのでは?」
「それはそうなのだが……」

もともと香姫は【いずれは側室に】との約定やくじょうで受け入れていた。実際、香姫自身も晴信の子を産むことを望んでいる。ならば、何の問題も無いはずであるのに晴信は渋ったのである。

「側室にあげるはも少し後でもよかろう」

晴信はその一点張りである。初めは三条の方を気遣って遠慮しているのであろうと重臣たちは思っていた。だが、諏訪から再三再四さいさんさいし【香姫を側室に】との願い出が続くようになるとさすがに首をかしげる者が多くなった。ただ、一人。弟の信繁を除いては……。



ある日、信繁は晴信を遠乗りに誘い、武田の隠し湯に向かう。兄弟水入らずで温泉に浸かり、腹を割って話そうと考えたからである。

「兄上は何をそんなに心配しておるのですか?」

信繁は単刀直入に聞く。一瞬、顔を強ばらせた晴信だったがため息を一つつくと心の内を話し始める。

「香はまだ十一だ」
「左様でございますな。それが何か?」
「俺はあのくらいの頃に阿佐を娶った……」

それは晴信にとって忘れがたいものであった。初めて心を通わせた女子、それが阿佐姫である。だが、その幼い体は出産に耐えることが出来なかった。その事実が香姫を迎えることを渋らせている。

「香を阿佐の二の舞にはさせぬ」
「兄上……」
「この話は終いだ」

晴信は湯から上がり、立ち去ろうとした。それに対して信繁は不敵な笑みを浮かべる。

「抱かなければよいのではありませぬか?」
「なに?」
「香姫が兄上を受け入れるようになるまでは、ね」

晴信はギロリと睨みつけるがどこ吹く風。信繁は一向に堪えた様子はない。むしろ、嬉々として兄の反応を楽しんでいるようだ。晴信は腹立たしく思い、黙って湯から上がったのだった。



その夜、褥に大の字に寝転がった晴信はただじっと天井を見つめていた。何かを考えているようであり、ただ見つめているようであるその様に三条は声をかけずにはいられなかった。

「晴信様、何をそんなに悩んでおいでなのです?」
「俺は別に……」
「当てて差し上げましょうか?」

三条は晴信の顔をのぞき込みクスリと笑う。その仕草に居心地の悪さを感じ、起き上がった。晴信は三条の瞳を覗くがその奥に隠された感情を読み取ることは出来ない。いぶかしみ、眉をひそめる。

「香姫のことでございましょう?」

晴信の片眉がピクリと上がる。と、すぐに目を逸らし、黙り込む。

「側室にしてしまいなされ」
「だが……」

晴信はゴニョゴニョと口籠くちごもる。そのいつになく自信なさげな姿に三条は苛つく。そして、その背を思いっきり叩いたのだった。

「しっかりなさいませ。父君を追い出し、娘婿も殺そうとなされた冷酷非情な武田の当主はどこに行かれましたか!!」
「ごふっ」

手加減なしに叩かれたせいで晴信はむせる。視線を戻せば、腰に手をやり自分を睨みつける妻の姿があった。
三条は一つため息をつくと、晴信の頬を思いっきり引っ張った。

「いっ!」
「何をそんなに恐れておいでなのです」
「それは……」
「阿佐姫様のことでございますか?」

痛いところを突かれて晴信はまた目を逸らす。

「晴信様は【源氏物語】をご存じですか?」
「知ってはおるが……」
「光源氏の君は藤壷に似た紫の上を囲って自分好みの妻に育て上げた、というお話は?」
「聞いた覚えがあるな」
「では、私の言わんとすることもおわかりですか?」
「……」

晴信は答えに窮してしまう。それは三条の言わんとしていることが分かっているからだ。
そう、三条は香姫を晴信の望むとおりの女に育て上げればよいと言っているのだ。

「私の望みを叶えて下さると誓っていただけるのでしたら、側室の一人や二人目を瞑りましょう」
「それでよいのか?」
「一人で産める子の数には限りがありまする故」

晴信の元に嫁いでから既に六年。三条も武田の方針を熟知していた。我が子を旧族に入嗣させ懐柔していく。その重要性を理解していたのだ。だから、子は多いに越したことはない。とはいえ、一人で産める数には限界がある。そのために香姫を自分好みに育て愛でることにも目を瞑り、側室として娶ることに異議も唱えぬと言うのである。

「それで、そなたの願いというのはなんだ?」
「難しいことではありませぬ」

三条は笑みを向けるが、その目は決して笑ってなどいない。空恐ろしい物を感じ晴信は背筋を伸ばさざるを得なかった。

「今後、いかなる事が起きようとも私の産む子だけが武田の跡継ぎとお約束いただきたいのです」
「何かと思えば……」
「晴信様!!」
「な、なんだ?」
「子が親を追い落とし、親が子を切り捨てる。それが今の世ではございませぬか?!」
「そ、それは……」
「ですから、はっきりとお決めいただきたいのです」
「わかった」
「口約束では信用出来ませぬ。誓詞せいしをお書き下さい」

晴信はそこまでしなくともと思ったが三条の有無を言わせぬ迫力に負けてしまう。
翌日、誓詞をしたため三条に手渡したのである。

「安堵いたしました」
「そ、そうか」

三条の心からの笑顔に晴信はホッと息をつく。とはいえ、その笑顔には圧力のようなものが込められているようで少しばかり肝が冷えた。

「では、あとは晴信様のご随意ずいいに……」

そう言い残して北の方へと引っ込む。かくして香姫は晴信側室に迎えられることが決まったのである。

(本当にこれで良かったのであろうか……)

釈然としない晴信は首をひねるばかりであった。だが、その思いはすぐに消え去る。何故なら、喜びに溢れた香姫が自分の胸に飛び込んできたからだ。

「晴信様、見ーつけた!」
「香?!」

振り返ればその顔には満面の笑みが浮かんでいる。どうやら、晴信の側室になることが正式に決まったことを知らされたようである。後ろを見やれば、侍女の滝が済まなそうに眉を下げていた。

(まぁ、これはこれで良いか)

晴信は自分にまとわりつくこの愛らしい少女を自分好みの女に育てることに決めたのだった。

十二月十五日。この日晴信は香姫と祝言を挙げたのであった。



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