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林の章
諏訪制圧と高遠討伐
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晴信率いる武田の軍勢に温井衆や駒井政武も加わり、大井森御陣所に着陣する。その知らせが上原城にもたらされたのは金刺からの密告であった。頼重はすぐに招集をかけるが、集まったのは騎馬三百五十騎、徒士八百ほどに過ぎなかった。
「馬鹿な! これほどしか集まらぬとは……」
宿老の一人が呆然とその場に膝を折る。だが状況は変わらない。続々と届く武田の動きに動揺は酷くなる一方であった。
七月に入り、物見を放った頼重は武田が騎馬二千騎・総勢二万人との報告を受けた。勝ち目はないことは明白であったが、頼重は出馬して武田と対峙した。しかし、高遠の進攻を聞き、形勢の悪さを悟る。頼重は桑原城まで後退することにしたのだった。
「諏訪はどう出ますかな?」
「打って出てくるか。はたまた籠城するか……」
武田の本陣では信方・虎康らが中心となって軍議がすすめられていた。諏訪の寡兵に【勝利間違いなし】との機運が高まるが、決して手を抜くことはない。それが晴信の指示である。
「頼重殿とて諏訪の当主。意地もあろう」
「では、打って出てきますか?」
「恐らくな」
晴信の言葉に皆が頷く。晴信が目配せをすると信方は立ち上がり、夜明けと共に桑原城に攻め入るように下知を出す。それを晴信はただ黙って見つめるだけであった。
軍議が終わった後も晴信はその場に留まる。一人、瞑想し己を叱咤する。そこへ近づく者があった。晴信は目を開け、その者の姿を確認する。篝火に照らされたその顔は弟の信繁だった。
「兄上……」
「わかっておる」
「ここが正念場ですぞ」
「信繁、そなたこそ抜かるなよ」
「お任せ下さい」
信繁の顔には自信の色が浮かんでいた。その姿に自然と晴信の報も緩む。だが、すぐに引き締めると信繁に告げる。
「匙加減が難しいが、適度に切り上げろ。その後、頼重殿に和睦を申し入れるのだ」
「御意」
信繁は一礼してその場をあとにした。
(いよいよだ。諏訪の……。そして、禰々の運命を変えてみせる!!)
晴信は手にした軍配を握りしめ、夜空に掲げる。そして、満天の星に誓うのだった。
桑原城での攻防は諏訪の気持ちを揺るがすに十分であった。
「晴信殿に【和睦を受け入れる】とお伝え下され」
頼重は武田の使者にそう返事をすると開城し、武田に降ったのであった。
その後、弟の頼高と共に頼重は甲府に護送される。そのまま東光寺に幽閉されて沙汰を待つこととなった。
七月九日深夜、甲府に帰還した晴信は東光寺を訪れる。最後の仕上げのため頼重と話す必要があったからだ。
「禰々と寅王は……」
「躑躅ヶ崎館の北の方におりまする」
「そうですか」
晴信の言葉に頼重は安堵のため息を漏らす。その顔には疲労が色濃く出ており、無精髭に覆われていた。
「さて、これからのことですが……」
「頼高共々自害を命じなされ」
「しかし!」
「もとより、その約束。迷うことなく大鉈を振るいなされ」
頼重の力なく笑う姿に晴信の心は揺れた。それを悟られぬように拳を握りしめる。
「晴信殿、私はこのような場所で死ぬつもりはありませぬぞ」
「そ、そうでした」
「まずは切腹の日取りを決め、その触れを出されませ」
「高遠は誘いに乗ると?」
「頼継の欲しいものは諏訪全郡です。私のみならず、弟・頼高も自害を命じれば喜びましょう。それに首実検を打診されては一も二もなく甲府に現れることは必定」
「あとはこちらの真の目的を悟られぬようにすれば万事上手くいくというわけですな」
「左様。その辺りは晴信殿にお任せすることになりますが……」
頼重の意味ありげな視線に臆することなく晴信は力強く頷く。その姿に安堵した頼重であった。
二人は夜を徹して策を煮詰める。納得いくものになったのは空が白み始めた頃であった。
「晴信殿、あとはそちらに委ねます」
「此度の件、成功の暁には諏訪全郡を武田の領内といたす。それでも構いませぬな」
「異存はござらん」
晴信はそれを聞き、より一層気を引き締め東光寺をあとにしたのだった。
頼重はその姿をただ静かに見送る。
「兄上」
「頼高、いつぞやの話を覚えておるか?」
「何のことでしょう」
「どちらが竜となり雲となるか……」
「ああ。そのような話をいたしましたな」
「どうやら、【天】に愛され【竜】となるは晴信殿のようだ」
「では……」
「うむ。我らは【雲】となって晴信殿が駆け上がるのを支えて参ろう」
兄の言葉に頼高は静かに頷いたのであった。
その日、朝議の場で頼重の切腹が七月二十一日に決まったことがと言い渡される。当然のこととして納得する者、妹婿を死に追いやる事を批判する者、苛烈な決断に狼狽える者、まさに多種多様の反応である。だが、晴信は眉一つ動かすことなく、決定事項であると告げたのだった。
「兄上!!」
「禰々様、お待ち下さい!!」
侍女の制止を振り切って現れたのは頼重の妻であり妹である禰々だ。北の方から走ってきたのであろう、息を切らして晴信に詰め寄る。
「殿が切腹とはどういうことですか?!」
「頼重殿は武田を裏切った」
「ですが、城を明け渡し降伏したではありませぬか!」
「それだけで、収まるとでも思っていたのか?」
禰々は晴信の顔を見上げる。そこにはかつて自分を慈しんでいた兄ではなく、冷酷非情な為政者が立っていた。禰々はふらふらと後ずさりその場にへたり込む。夫の自害が決して覆ることがないと悟ったのであろう。嗚咽を漏らし始めたのだった。
晴信は感情の消え失せた顔で一瞥すると去る。無表情を貼り付け、心の中で涙を流しひたすらに妹に詫びるのであった。
七月二十一日。高遠頼継が東光寺に乗り込んできた。惣領家兄弟の首実検のためだ。
「遂に惣領家も滅びの時を迎えたか!」
諏訪の全てが自分のものになると信じて疑わない頼継は意気揚々と現れたのは言うまでも無い。だが、通された部屋には頼重はおろか頼高の姿もなかった。
「武田殿、これは一体どういうことであるか?」
晴信は無表情を貼り付けたままただじっと頼継の顔を見つめる。その瞳が細くすがめられ、手にした扇を振り上げる。すると、四方八方から黒装束の集団が現れた。
「!!!」
このときになって初めて頼継は自分がはめられたことに思い至る。時既に遅く、逃げ場はない。晴信は冷酷に告げる。
「やれ」
その言葉に黒装束の集団は一斉に斬りかかった。
「晴信、謀ったなぁ!!!!」
頼継はそう吐き捨てると最後の力を振り絞り、晴信に斬りかかった。だが、その太刀は空を切る。そして、晴信が目にもとまらぬ速さで薙いだ太刀によって事切れたのであった。
「御館様……」
「すぐに片付けろ」
「はっ」
側に控えていた勘助に遺体を始末するように命じる。晴信は頼継の返り血で汚れた顔を拭うこともなく庭に降りた。すると、そこに禰々が現れる。晴信は悪態をつきたくなった。一番見せたくない姿を見られてしまったからである。間が悪いことは続くものでちょうど頼継の遺体を運ばせている最中であった。
「殿!!」
禰々は布をかけられ運ばれようとしているその遺体にしがみつこうとした。晴信はどうすることも出来ず、ただその場に立ち尽くす。
「兄上は人でなしじゃ。いや、鬼じゃ!」
目に涙を浮かべ、夫の敵と睨みつけてくる。その姿に晴信の心が痛まないわけはない。それでも何も言わず、黙って立っている。その姿を禰々はどう取ったのであろうか。怒りと共に手にしていた扇を晴信の顔めがけて投げつけた。
「兄上など、地獄に落ちてしまわれるがよいのじゃ!!!」
「禰々……」
晴信は禰々に手を差し伸べようとする。だが、その手を払いのけた禰々はただひたすらに晴信を罵った。その胸を己の拳で叩き続ける。
「返して……。頼重様を返してぇぇぇぇ!!!」
晴信はその手を払いのけることなく禰々の怒りと悲しみを甘んじて受けた。それが自分への罰だと分かっていたからだ。
「頼重様のいない世など、生きる意味は無い……」
「!!!」
禰々が懐剣を取り出すと迷うことなく自身の胸を貫こうとした。だが、刃がその身を傷つけることはなかった。
「え?」
強い力で止められたその刃に血が滴り落ちる。それは禰々我が目を疑う。懐剣を握りしめていたのは夫・頼重だったからだ。
「より、しげ、様?」
「早まるな。アレは私ではない」
「ど、どういう、事ですか?」
禰々の手にしていた懐剣を投げ捨てると頼重は微笑みかける。
「晴信殿、少しくらいは説明してやっても宜しいのでは?」
「すまない。まさか、こうなるとは思わなかったので……」
「おかげで痛い思いをいたしました」
「返す言葉もない」
頼重は懐から手ぬぐいを取り出すと傷ついた左手に巻き付けた。何が何だか分からぬ禰々は未だ呆けたままであった。
「禰々、すまなかった」
「兄上?」
「頼重殿の切腹は高遠を呼び出すための罠だ」
「え?」
晴信は掻い摘まんで状況を説明する。諏訪全郡を欲した頼継を除くために頼重と綿密な打ち合わせの元、【芝居】をしていたこと。それが一年も前から行われていたこと。海野との和睦もそのための布石であったこと。それらを包み隠さず話して聞かせる。
「兄上も、頼重様もお人が悪うございます!」
禰々は泣きはらした目元を拭い、唇をとがらせる。それまで冷酷無比を貫いていた晴信はどこへ行ったか。眉を下げ、ひたすら詫びる。その姿に禰々の溜飲も下がったようで【仕方ないので許して差し上げます】と言うのだった。
そのあとは夫婦水入らずがよかろうと頼重と禰々を武田の隠し湯へ案内し、しばらく逗留するように促した。
「寅王丸のことは母上に任せれば心配ない」
「そうですか……」
「そなたには随分と辛い思いをさせた。頼重殿に甘えてくると良い」
「はい」
優しく微笑む兄の姿に安堵した禰々は頬を赤く染める。その姿に晴信は安堵するのであった。
晴信はすぐさま事後処理に当たる。早々に諏訪全郡を武田領内に組み込むためだ。
まず、上原城はそのまま頼重が城主を務め、板垣信方を補佐として付ける。【これよりは何事も信方と相談されたし】としたのであった。
高遠の城主には弟・信繁を派遣する。これは反武田の機運を摘み取るためのものだ。頼継がだまし討ち同然に排除されたのであるから当然のことである。
そして、下社の大祝・金刺は武田への臣従を強いられたが、本領は安堵された。
一連の騒動は高遠頼継の排除、諏訪惣領家および金刺の臣従という結果で幕引きとなり、諏訪全郡は武田の領内と化したのであった。
「馬鹿な! これほどしか集まらぬとは……」
宿老の一人が呆然とその場に膝を折る。だが状況は変わらない。続々と届く武田の動きに動揺は酷くなる一方であった。
七月に入り、物見を放った頼重は武田が騎馬二千騎・総勢二万人との報告を受けた。勝ち目はないことは明白であったが、頼重は出馬して武田と対峙した。しかし、高遠の進攻を聞き、形勢の悪さを悟る。頼重は桑原城まで後退することにしたのだった。
「諏訪はどう出ますかな?」
「打って出てくるか。はたまた籠城するか……」
武田の本陣では信方・虎康らが中心となって軍議がすすめられていた。諏訪の寡兵に【勝利間違いなし】との機運が高まるが、決して手を抜くことはない。それが晴信の指示である。
「頼重殿とて諏訪の当主。意地もあろう」
「では、打って出てきますか?」
「恐らくな」
晴信の言葉に皆が頷く。晴信が目配せをすると信方は立ち上がり、夜明けと共に桑原城に攻め入るように下知を出す。それを晴信はただ黙って見つめるだけであった。
軍議が終わった後も晴信はその場に留まる。一人、瞑想し己を叱咤する。そこへ近づく者があった。晴信は目を開け、その者の姿を確認する。篝火に照らされたその顔は弟の信繁だった。
「兄上……」
「わかっておる」
「ここが正念場ですぞ」
「信繁、そなたこそ抜かるなよ」
「お任せ下さい」
信繁の顔には自信の色が浮かんでいた。その姿に自然と晴信の報も緩む。だが、すぐに引き締めると信繁に告げる。
「匙加減が難しいが、適度に切り上げろ。その後、頼重殿に和睦を申し入れるのだ」
「御意」
信繁は一礼してその場をあとにした。
(いよいよだ。諏訪の……。そして、禰々の運命を変えてみせる!!)
晴信は手にした軍配を握りしめ、夜空に掲げる。そして、満天の星に誓うのだった。
桑原城での攻防は諏訪の気持ちを揺るがすに十分であった。
「晴信殿に【和睦を受け入れる】とお伝え下され」
頼重は武田の使者にそう返事をすると開城し、武田に降ったのであった。
その後、弟の頼高と共に頼重は甲府に護送される。そのまま東光寺に幽閉されて沙汰を待つこととなった。
七月九日深夜、甲府に帰還した晴信は東光寺を訪れる。最後の仕上げのため頼重と話す必要があったからだ。
「禰々と寅王は……」
「躑躅ヶ崎館の北の方におりまする」
「そうですか」
晴信の言葉に頼重は安堵のため息を漏らす。その顔には疲労が色濃く出ており、無精髭に覆われていた。
「さて、これからのことですが……」
「頼高共々自害を命じなされ」
「しかし!」
「もとより、その約束。迷うことなく大鉈を振るいなされ」
頼重の力なく笑う姿に晴信の心は揺れた。それを悟られぬように拳を握りしめる。
「晴信殿、私はこのような場所で死ぬつもりはありませぬぞ」
「そ、そうでした」
「まずは切腹の日取りを決め、その触れを出されませ」
「高遠は誘いに乗ると?」
「頼継の欲しいものは諏訪全郡です。私のみならず、弟・頼高も自害を命じれば喜びましょう。それに首実検を打診されては一も二もなく甲府に現れることは必定」
「あとはこちらの真の目的を悟られぬようにすれば万事上手くいくというわけですな」
「左様。その辺りは晴信殿にお任せすることになりますが……」
頼重の意味ありげな視線に臆することなく晴信は力強く頷く。その姿に安堵した頼重であった。
二人は夜を徹して策を煮詰める。納得いくものになったのは空が白み始めた頃であった。
「晴信殿、あとはそちらに委ねます」
「此度の件、成功の暁には諏訪全郡を武田の領内といたす。それでも構いませぬな」
「異存はござらん」
晴信はそれを聞き、より一層気を引き締め東光寺をあとにしたのだった。
頼重はその姿をただ静かに見送る。
「兄上」
「頼高、いつぞやの話を覚えておるか?」
「何のことでしょう」
「どちらが竜となり雲となるか……」
「ああ。そのような話をいたしましたな」
「どうやら、【天】に愛され【竜】となるは晴信殿のようだ」
「では……」
「うむ。我らは【雲】となって晴信殿が駆け上がるのを支えて参ろう」
兄の言葉に頼高は静かに頷いたのであった。
その日、朝議の場で頼重の切腹が七月二十一日に決まったことがと言い渡される。当然のこととして納得する者、妹婿を死に追いやる事を批判する者、苛烈な決断に狼狽える者、まさに多種多様の反応である。だが、晴信は眉一つ動かすことなく、決定事項であると告げたのだった。
「兄上!!」
「禰々様、お待ち下さい!!」
侍女の制止を振り切って現れたのは頼重の妻であり妹である禰々だ。北の方から走ってきたのであろう、息を切らして晴信に詰め寄る。
「殿が切腹とはどういうことですか?!」
「頼重殿は武田を裏切った」
「ですが、城を明け渡し降伏したではありませぬか!」
「それだけで、収まるとでも思っていたのか?」
禰々は晴信の顔を見上げる。そこにはかつて自分を慈しんでいた兄ではなく、冷酷非情な為政者が立っていた。禰々はふらふらと後ずさりその場にへたり込む。夫の自害が決して覆ることがないと悟ったのであろう。嗚咽を漏らし始めたのだった。
晴信は感情の消え失せた顔で一瞥すると去る。無表情を貼り付け、心の中で涙を流しひたすらに妹に詫びるのであった。
七月二十一日。高遠頼継が東光寺に乗り込んできた。惣領家兄弟の首実検のためだ。
「遂に惣領家も滅びの時を迎えたか!」
諏訪の全てが自分のものになると信じて疑わない頼継は意気揚々と現れたのは言うまでも無い。だが、通された部屋には頼重はおろか頼高の姿もなかった。
「武田殿、これは一体どういうことであるか?」
晴信は無表情を貼り付けたままただじっと頼継の顔を見つめる。その瞳が細くすがめられ、手にした扇を振り上げる。すると、四方八方から黒装束の集団が現れた。
「!!!」
このときになって初めて頼継は自分がはめられたことに思い至る。時既に遅く、逃げ場はない。晴信は冷酷に告げる。
「やれ」
その言葉に黒装束の集団は一斉に斬りかかった。
「晴信、謀ったなぁ!!!!」
頼継はそう吐き捨てると最後の力を振り絞り、晴信に斬りかかった。だが、その太刀は空を切る。そして、晴信が目にもとまらぬ速さで薙いだ太刀によって事切れたのであった。
「御館様……」
「すぐに片付けろ」
「はっ」
側に控えていた勘助に遺体を始末するように命じる。晴信は頼継の返り血で汚れた顔を拭うこともなく庭に降りた。すると、そこに禰々が現れる。晴信は悪態をつきたくなった。一番見せたくない姿を見られてしまったからである。間が悪いことは続くものでちょうど頼継の遺体を運ばせている最中であった。
「殿!!」
禰々は布をかけられ運ばれようとしているその遺体にしがみつこうとした。晴信はどうすることも出来ず、ただその場に立ち尽くす。
「兄上は人でなしじゃ。いや、鬼じゃ!」
目に涙を浮かべ、夫の敵と睨みつけてくる。その姿に晴信の心が痛まないわけはない。それでも何も言わず、黙って立っている。その姿を禰々はどう取ったのであろうか。怒りと共に手にしていた扇を晴信の顔めがけて投げつけた。
「兄上など、地獄に落ちてしまわれるがよいのじゃ!!!」
「禰々……」
晴信は禰々に手を差し伸べようとする。だが、その手を払いのけた禰々はただひたすらに晴信を罵った。その胸を己の拳で叩き続ける。
「返して……。頼重様を返してぇぇぇぇ!!!」
晴信はその手を払いのけることなく禰々の怒りと悲しみを甘んじて受けた。それが自分への罰だと分かっていたからだ。
「頼重様のいない世など、生きる意味は無い……」
「!!!」
禰々が懐剣を取り出すと迷うことなく自身の胸を貫こうとした。だが、刃がその身を傷つけることはなかった。
「え?」
強い力で止められたその刃に血が滴り落ちる。それは禰々我が目を疑う。懐剣を握りしめていたのは夫・頼重だったからだ。
「より、しげ、様?」
「早まるな。アレは私ではない」
「ど、どういう、事ですか?」
禰々の手にしていた懐剣を投げ捨てると頼重は微笑みかける。
「晴信殿、少しくらいは説明してやっても宜しいのでは?」
「すまない。まさか、こうなるとは思わなかったので……」
「おかげで痛い思いをいたしました」
「返す言葉もない」
頼重は懐から手ぬぐいを取り出すと傷ついた左手に巻き付けた。何が何だか分からぬ禰々は未だ呆けたままであった。
「禰々、すまなかった」
「兄上?」
「頼重殿の切腹は高遠を呼び出すための罠だ」
「え?」
晴信は掻い摘まんで状況を説明する。諏訪全郡を欲した頼継を除くために頼重と綿密な打ち合わせの元、【芝居】をしていたこと。それが一年も前から行われていたこと。海野との和睦もそのための布石であったこと。それらを包み隠さず話して聞かせる。
「兄上も、頼重様もお人が悪うございます!」
禰々は泣きはらした目元を拭い、唇をとがらせる。それまで冷酷無比を貫いていた晴信はどこへ行ったか。眉を下げ、ひたすら詫びる。その姿に禰々の溜飲も下がったようで【仕方ないので許して差し上げます】と言うのだった。
そのあとは夫婦水入らずがよかろうと頼重と禰々を武田の隠し湯へ案内し、しばらく逗留するように促した。
「寅王丸のことは母上に任せれば心配ない」
「そうですか……」
「そなたには随分と辛い思いをさせた。頼重殿に甘えてくると良い」
「はい」
優しく微笑む兄の姿に安堵した禰々は頬を赤く染める。その姿に晴信は安堵するのであった。
晴信はすぐさま事後処理に当たる。早々に諏訪全郡を武田領内に組み込むためだ。
まず、上原城はそのまま頼重が城主を務め、板垣信方を補佐として付ける。【これよりは何事も信方と相談されたし】としたのであった。
高遠の城主には弟・信繁を派遣する。これは反武田の機運を摘み取るためのものだ。頼継がだまし討ち同然に排除されたのであるから当然のことである。
そして、下社の大祝・金刺は武田への臣従を強いられたが、本領は安堵された。
一連の騒動は高遠頼継の排除、諏訪惣領家および金刺の臣従という結果で幕引きとなり、諏訪全郡は武田の領内と化したのであった。
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