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林の章
諏訪侵攻と寅王丸の誕生
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天文十一年(1542年)。晴信は正月から月次会、連歌会、尊躰寺の花見会、法楽千句発句と五月まで精力的に歌会をこなした。それと平行して奉行衆定めなどの軍事的な取り決めも行い、着々と諏訪進攻に向けた準備を進めていた。
そんな不穏な動きが増す四月四日。禰々は頼重との第一子となる男児を産む。この年が寅年であったため、その男児は【寅王丸】と名付けられたのだった。
「おうおう、元気な子であるな」
「殿……」
「禰々、ご苦労であった」
夫のねぎらいの言葉に禰々は微笑みを返すも不安は拭えない。母から届いた手紙からは兄・晴信がどう思っているのか全く読めない。何より夫が独断で海野と和睦したばかりか、領地も割譲したと聞いては不安は募る一方であった。
一方、甲府にも寅王丸誕生の知らせは届けられる。母子共に健康との報に安堵したのは言うまでもない。
「無事の誕生、めでたいですな」
「だが、これで益々慎重に運ばねばならなくなりましたが……」
「して、首尾は如何か?」
「高遠も金刺も上原攻めには賛同しております」
「では、諏訪に気付かれる前に攻め入るか」
宿老たちの会話をただ黙って聞く晴信は瞑想するかの如く目を閉じている。その様子を皆が固唾を飲んで見守る。
「戦の支度は抜かりなくすすめよ」
「「「はっ!」」」
虎康、虎胤が意気揚々と広間を出て行く。信方はそれに続くが晴信の様子に違和感を覚え振り返る。だが、その表情からは何も読み取れず、諦めてその場をあとにしたのだった。
自室に下がった晴信はは金刺からの書状を読み返す。そこには諏訪惣領家への不満よりも高遠への不信が書かれていた。
(高遠頼継、余程の野心家と見える……)
高遠城の城主である高遠頼継は諏訪の庶流である。禰々が輿入れする前より惣領家への不満を少なからず持っていると漏れ聞こえてきていた。そのため、勘助に監視の目を怠らぬよう申しつけていたのが、まさか下社の大祝・金刺からも同様の知らせが来るとは思ってもみなかった。
「どうしたものか……」
晴信の口からは自然とため息がこぼれたのだった。
「そのようにため息をこぼされておいでだと幸せが逃げまする」
鈴の音のような美しい声にハッとして振り返ると三条が微笑んでいた。三条は寄り添うように晴信の隣へ座る。
「禰々様に若子がお生まれになったとか……」
「ああ」
「その割には嬉しゅうなさそうですなぁ」
「世は思いのほか複雑だ」
「左様でございますか」
「複雑であるが故、ため息しか出てこぬよ」
「まあ!」
「何というか。あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たず」
「それは、頭の痛いことで……」
「全くだ」
「ですが、晴信様は既にお決めになっておられるのでしょう?」
核心を突く三条の言葉に晴信はグッと拳を握りしめた。その瞳には確固たる決意の色が見える。三条は一服の茶を差し出した。
「三条?」
「晴信様に必要なのではないかと思いまして」
「そなたが立てたのか?」
「はい」
「そうか。では、いただくとしよう」
晴信は茶碗を手に取ると、作法などお構いなしに一気に飲み干す。三条はその姿に目を瞠るが、それはそれで【らしい】と思い微笑んだ。
「苦い……」
「そうでございましょう。少し濃いめにしておきましたので」
口をへの字に曲げる晴信は眉間に皺を寄せ何か言いたげにしている。三条はその眉間に指を当てて皺を伸ばそうとした。
「ご自分を信じなさいませ」
「三条?」
「漢の石虎将軍のお話をご存じですか?」
「聞いたような気もするが、なんであったか……」
唐突に始まった三条の話に晴信は先を促した。
それは海を渡った向こうにある大国・明がその昔【漢】と呼ばれていた頃の話。
李広という一人の将軍がいたという。彼の将軍は勇猛果敢で知られ、向かうところ敵なしであった。また、親孝行者で知られ父母を敬うことを忘れぬ人でもあった。
そんな彼に悲報が届く。実家のある村が大虎に襲われ、彼の母親がその犠牲になったというのだ。李広は悲しみに暮れ、やがて敵である大虎への復讐を誓うようになる。弓矢を手に何日も山を歩き回る。どれほど歩き回ったであろうか。なかなか見つからぬ敵に李広も諦めかけた。
まさにそのとき!
茂みの中に憎き大虎の姿を見つけたのである。李広は息を潜め、矢を番い、弓を引き絞る。そして、矢を放った。放たれた矢は虎の首の付け根辺りに深々と突き刺さる。
(やった!遂に母上の敵を取ったぞ!!)
李広は母の敵を取ったと喜び、近づいた。
するとどうであろう。大虎と思うていたのは何と巨大な岩であった。驚きのあまり、李広は数本矢を射かけてみる。だが、矢は刺さることはなく弾かれただけであった。
混乱する李広は村の長老に事の顛末を語る。
「それは将軍の思いが矢に宿り、岩をも貫き通したのでございましょう」
「我が思いが?」
「左様。強き思いは時として人智を越えた力を生むのでございます」
この後、李広は岩に矢を通した将軍【石虎将軍】と人々から尊敬の念を込めて呼ばれるようになったのだという。
「ですから、晴信様も己を信じ、貫き通せばそれが【真】となりましょう」
「そうか」
「はい」
三条の微笑みに晴信は心が救われた気がした。決意も新たに次の策を練る。その顔には最早迷いはなかった。
数日後、晴信は信繁を伴い鷹狩りと称して甲府を離れた。無論、それは隠れ蓑であり、金刺の使者と落ち合うためであった。
「我々が説得して、頼重様に上原の城を明け渡すように説得いたします」
「無傷で、か?」
「左様でございます」
「では、その見返りはなんだ?」
「諏訪惣領家の安泰……」
尻すぼみになる使者を更に追い詰めるが如く冷たい視線を向ける晴信。その瞳に使者の男は肝を冷やしたに違いない。顔を俯かせ、両拳を握りしめている。よく見れば、体が小刻みに震えていた。
(脅すのはこのくらいでよいか……)
その思考は信繁にも伝わったようで肩をすくめて苦笑いを浮かべている。
「わかった」
「ありがとうございます」
使者は安堵のため息と共に体を弛緩させる。それもつかの間、晴信は一言釘を刺すのを忘れなかった。
「その代わり、この一件が片付いたら諏訪郡は武田の領内といたす。金刺や高遠も含めてな」
使者はその言葉に恐れ戦いた。だが、既に賽は投げられた。そして、投げたのは自分たちである。最早、後には引けぬ。故に晴信の言葉に黙って従うより他なかったのであった。
夏も盛りに迫った六月。頼重は諏訪上社に嫡子・寅王丸を伴って参詣する。諏訪家は喜びに溢れていた。
だが、その喜びを引き裂く報がもたらされたのはそのすぐ後のこと。
「殿! 武田が高遠・金刺と結託して諏訪領内へ進攻を目論んでおると」
「なんだと!!」
その一報は家臣たちは動揺し、狼狽える。だが、その姿を頼重は冷静に見つめる。
(晴信殿、遂に動かれますか……)
頼重は遠く南の空を見上げ、義弟である晴信の心中を察した。そして、己の果たすべき【役】を演じきるために確固たる決意をもって皆に檄を飛ばすのであった。
そんな不穏な動きが増す四月四日。禰々は頼重との第一子となる男児を産む。この年が寅年であったため、その男児は【寅王丸】と名付けられたのだった。
「おうおう、元気な子であるな」
「殿……」
「禰々、ご苦労であった」
夫のねぎらいの言葉に禰々は微笑みを返すも不安は拭えない。母から届いた手紙からは兄・晴信がどう思っているのか全く読めない。何より夫が独断で海野と和睦したばかりか、領地も割譲したと聞いては不安は募る一方であった。
一方、甲府にも寅王丸誕生の知らせは届けられる。母子共に健康との報に安堵したのは言うまでもない。
「無事の誕生、めでたいですな」
「だが、これで益々慎重に運ばねばならなくなりましたが……」
「して、首尾は如何か?」
「高遠も金刺も上原攻めには賛同しております」
「では、諏訪に気付かれる前に攻め入るか」
宿老たちの会話をただ黙って聞く晴信は瞑想するかの如く目を閉じている。その様子を皆が固唾を飲んで見守る。
「戦の支度は抜かりなくすすめよ」
「「「はっ!」」」
虎康、虎胤が意気揚々と広間を出て行く。信方はそれに続くが晴信の様子に違和感を覚え振り返る。だが、その表情からは何も読み取れず、諦めてその場をあとにしたのだった。
自室に下がった晴信はは金刺からの書状を読み返す。そこには諏訪惣領家への不満よりも高遠への不信が書かれていた。
(高遠頼継、余程の野心家と見える……)
高遠城の城主である高遠頼継は諏訪の庶流である。禰々が輿入れする前より惣領家への不満を少なからず持っていると漏れ聞こえてきていた。そのため、勘助に監視の目を怠らぬよう申しつけていたのが、まさか下社の大祝・金刺からも同様の知らせが来るとは思ってもみなかった。
「どうしたものか……」
晴信の口からは自然とため息がこぼれたのだった。
「そのようにため息をこぼされておいでだと幸せが逃げまする」
鈴の音のような美しい声にハッとして振り返ると三条が微笑んでいた。三条は寄り添うように晴信の隣へ座る。
「禰々様に若子がお生まれになったとか……」
「ああ」
「その割には嬉しゅうなさそうですなぁ」
「世は思いのほか複雑だ」
「左様でございますか」
「複雑であるが故、ため息しか出てこぬよ」
「まあ!」
「何というか。あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たず」
「それは、頭の痛いことで……」
「全くだ」
「ですが、晴信様は既にお決めになっておられるのでしょう?」
核心を突く三条の言葉に晴信はグッと拳を握りしめた。その瞳には確固たる決意の色が見える。三条は一服の茶を差し出した。
「三条?」
「晴信様に必要なのではないかと思いまして」
「そなたが立てたのか?」
「はい」
「そうか。では、いただくとしよう」
晴信は茶碗を手に取ると、作法などお構いなしに一気に飲み干す。三条はその姿に目を瞠るが、それはそれで【らしい】と思い微笑んだ。
「苦い……」
「そうでございましょう。少し濃いめにしておきましたので」
口をへの字に曲げる晴信は眉間に皺を寄せ何か言いたげにしている。三条はその眉間に指を当てて皺を伸ばそうとした。
「ご自分を信じなさいませ」
「三条?」
「漢の石虎将軍のお話をご存じですか?」
「聞いたような気もするが、なんであったか……」
唐突に始まった三条の話に晴信は先を促した。
それは海を渡った向こうにある大国・明がその昔【漢】と呼ばれていた頃の話。
李広という一人の将軍がいたという。彼の将軍は勇猛果敢で知られ、向かうところ敵なしであった。また、親孝行者で知られ父母を敬うことを忘れぬ人でもあった。
そんな彼に悲報が届く。実家のある村が大虎に襲われ、彼の母親がその犠牲になったというのだ。李広は悲しみに暮れ、やがて敵である大虎への復讐を誓うようになる。弓矢を手に何日も山を歩き回る。どれほど歩き回ったであろうか。なかなか見つからぬ敵に李広も諦めかけた。
まさにそのとき!
茂みの中に憎き大虎の姿を見つけたのである。李広は息を潜め、矢を番い、弓を引き絞る。そして、矢を放った。放たれた矢は虎の首の付け根辺りに深々と突き刺さる。
(やった!遂に母上の敵を取ったぞ!!)
李広は母の敵を取ったと喜び、近づいた。
するとどうであろう。大虎と思うていたのは何と巨大な岩であった。驚きのあまり、李広は数本矢を射かけてみる。だが、矢は刺さることはなく弾かれただけであった。
混乱する李広は村の長老に事の顛末を語る。
「それは将軍の思いが矢に宿り、岩をも貫き通したのでございましょう」
「我が思いが?」
「左様。強き思いは時として人智を越えた力を生むのでございます」
この後、李広は岩に矢を通した将軍【石虎将軍】と人々から尊敬の念を込めて呼ばれるようになったのだという。
「ですから、晴信様も己を信じ、貫き通せばそれが【真】となりましょう」
「そうか」
「はい」
三条の微笑みに晴信は心が救われた気がした。決意も新たに次の策を練る。その顔には最早迷いはなかった。
数日後、晴信は信繁を伴い鷹狩りと称して甲府を離れた。無論、それは隠れ蓑であり、金刺の使者と落ち合うためであった。
「我々が説得して、頼重様に上原の城を明け渡すように説得いたします」
「無傷で、か?」
「左様でございます」
「では、その見返りはなんだ?」
「諏訪惣領家の安泰……」
尻すぼみになる使者を更に追い詰めるが如く冷たい視線を向ける晴信。その瞳に使者の男は肝を冷やしたに違いない。顔を俯かせ、両拳を握りしめている。よく見れば、体が小刻みに震えていた。
(脅すのはこのくらいでよいか……)
その思考は信繁にも伝わったようで肩をすくめて苦笑いを浮かべている。
「わかった」
「ありがとうございます」
使者は安堵のため息と共に体を弛緩させる。それもつかの間、晴信は一言釘を刺すのを忘れなかった。
「その代わり、この一件が片付いたら諏訪郡は武田の領内といたす。金刺や高遠も含めてな」
使者はその言葉に恐れ戦いた。だが、既に賽は投げられた。そして、投げたのは自分たちである。最早、後には引けぬ。故に晴信の言葉に黙って従うより他なかったのであった。
夏も盛りに迫った六月。頼重は諏訪上社に嫡子・寅王丸を伴って参詣する。諏訪家は喜びに溢れていた。
だが、その喜びを引き裂く報がもたらされたのはそのすぐ後のこと。
「殿! 武田が高遠・金刺と結託して諏訪領内へ進攻を目論んでおると」
「なんだと!!」
その一報は家臣たちは動揺し、狼狽える。だが、その姿を頼重は冷静に見つめる。
(晴信殿、遂に動かれますか……)
頼重は遠く南の空を見上げ、義弟である晴信の心中を察した。そして、己の果たすべき【役】を演じきるために確固たる決意をもって皆に檄を飛ばすのであった。
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