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林の章

御旗楯無、御照覧あれ!!

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天文十年(1541年)六月、晴信は父・信虎を駿河に追放する。そして、第十九代武田家当主として家督を継いだのである。

晴信は傅役もりやく板垣信方いたがきのぶかた、宿老・甘利虎康あまりとらやす原虎胤はらとらたね。猛将・飯富虎昌おぶとらまさ、その弟・昌景まさかげ。彼ら主立った譜代ふだい衆を引き連れて大広間へと向かう。床の間には既に御旗と楯無たてなしの鎧が飾られていた。晴信はその目の前に座る。家臣たちはその後ろに整列し、座った。

御旗楯無みはたてなし御照覧ごしょうらんあれ!!」

晴信の力強い言上に皆が習い、ときの声さながらの大音声が響き渡る。それは空気が震え、庭木の葉をも震わせた。
晴信はすっくと立ち上がり、振り返ると宣言した。

「父・信虎はこの晴信が駿河に追いやった」

その言葉に下座でどよめきが起きる。それを沈めるかの如く、晴信は床を踏みならす。その鬼気迫る姿に場はあっという間に静まりかえった。

「本日只今をもって武田はこの晴信が継ぐことになった。至らぬ事もあろうが俺についてきてくれ!」

晴信の宣言に戸惑いながらも多くの者が賛同を示したのである。



その夜、晴信は一人御旗楯無の前で一人酒を呷る。昼間、家臣たちに酒を振る舞い、明日より忠勤に励むよう言い渡し、帰路に就かせた。

(これよりは全て俺の判断で事が決まる。皆の生き死は全て俺の手の中だ。気を引き締めなくては……)

晴信は家督を継いだ事による重圧を一身に受け止める。だが、自ら選んだ道。引き返すことなどあり得ない。そう言い聞かせては己を鼓舞した。そうするとどうしても酒量が増えてしまう。気付けば晴信はうとうととし始め、とうとう杯を落としてしまったのだった。



「……のぶ、……る、のぶ、晴信!!」

大声で名を呼ばれ、一気に目が覚める。するとそこにはいつぞや見た夢に出てきた初代・信義ともう一人、立烏帽子に狩衣姿の人物が立っている。

(初代様と……)

晴信がその人物の名を思い出そうと首をかしげていると、盛大なため息が聞こえてきた。

「そなた、やはり覚えておらぬのか?」
「ハハハ……」

晴信が笑って誤魔化し、頭を掻く。と、違和感に気付く。そう、髪がない。まさかと思い顎を触ればたっぷりと蓄えられた髭があった。

(と、いうことは、これは夢の中?)

などと呆けていると、頭を扇ではたかれた。痛む頭を撫でていると目の前の二人は【やれやれ】といった風に肩をすくめる。

「儂の時と同じか……」
「あ!!!」

信義の言葉に晴信はもう一人の人物が何者なのか思い出した。狩衣姿の人物は始祖・義光公だ。それを思い出すと晴信は居住まいを正して平伏する。

「頭を上げよ」
「よ、宜しいのですか?」
「信義から前回のことは聞いておる」

義光の言葉に晴信は恐る恐る頭を上げた。正面に義光が座り、左前に信義が座る。二人とも何やら言いたげな様子だ。

「まずは家督相続、祝着しゅうちゃくである」
「はっ!」
「だが、これからが正念場ぞ!」
「心得ております」

信義が懐から地図を取り出した。それは信濃を中心とした地図である。南に晴信の甲斐、西は斉藤の美濃みの、南西は今川の駿河、東は山内上杉の上野こうずけ、東南に北条の相模さがみ、そして北は守護代・長尾が治める越後だ。

「信濃は大きく分けると北信の村上、中信の小笠原、南信の木曽、そして、そなたの妹婿である諏訪。この四氏で分割統治しておる」
「名目上、小笠原が【信濃守護】を拝命しておるが武力では圧倒的に村上が上。とはいえ、木曽や諏訪も負けてはおらぬ」
「【筍の背比べ】と言ったところじゃな」

義光の例えに信義も晴信も頷く。

「現時点で諏訪は姻戚関係にあり、最も信頼が置ける相手と言ったところだが……」
「初代様?」
「ここが引っかかるのぉ」

信義の指し示したのは上野の山内上杉氏である。
山内上杉氏は晴信の亡妻・阿佐姫の扇谷上杉氏と同じく【関東管領】の家柄である。鎌倉公方の補佐役で交互に職に就いていた。扇谷は北条の躍進で徐々に力を失い、山内がなんとか関東管領の職を務めていた。

「先の海野平の戦いで海野棟綱うんのむねつなは上野へ逃げ込んだと聞いておるが」
「はい、上杉憲政の元に逃げ込んだようです」
「それはちとまずいのぉ」
「義光公、それは……」

信義の言葉を遮るように義光は諏訪領を指した。そこで晴信は義光が何を危惧しているのか察する。
上野と領地を接しているのは諏訪である。諏訪は婚姻関係にあるといえどそれは父・信虎の代に交わされたもの。晴信が新たな当主となった今、それがいつまで有効かは不透明である。
史実、頼重は独断で海野と和睦し、領地を割譲してしまったのだ。

「このまま海野と和睦されてしまってはそなたの【やり直し】の意味がのうなる」
「そなたの運命も少しずつ変わってきておる。今度は頼重の運命を変え、そなたの妹の運命をも変えるのだ」
「禰々の運命も……」

晴信は二人の言葉に強ばる。頼重を自刃に追い込んだ記憶が戻ってきたからだ。それにより禰々ねねは自分を恨みながら死んでいった。そして、諏訪を懐柔するために頼重の娘・香姫を側室として手に入れた。

「既に香姫はそなたの手の中にある。諏訪も迂闊には動けぬであろう」
「とはいえ、こちらも手をこまねいているわけにはいかぬぞ」
「では、どうすれば……」
「そなたの妹は懐妊しておったよの?」
「はい。頼重を捕らえる少し前に寅王丸とらおうまるを産んでおりましたので恐らく懐妊している頃でしょう」
「それを上手く使うのだ」

義光は禰々と密に文を交わすことを促した。ただ、晴信からでは怪しまれることも考えられる。そこで甲府に残った母・大井の方から文を出すようにと。母親からの文なれば某ら本音を語り、その中に頼重の動向を知る手がかりがあるはずだというのだ。

「あとは頼重の動きをどう制するかですな」
「諏訪の動きを上手く利用して配下に加え、尚且つ海野も従わせる。更には反諏訪勢力を潰して武田に取り込む」
「それを同時に行うと?」
「晴信、そなたが頼重と共に立ち回れば出来ぬ事はない。それなりに覚悟はいるがな」
「覚悟……」
「そうよ。妹より【鬼】じゃ【修羅】じゃと憎まれる覚悟が、のぉ」

晴信の脳裏に頼重の首を抱きかかえ、泣きわめき憎しみの籠もった瞳を向ける禰々の姿が蘇る。

「兄上は鬼じゃ!!地獄に落ちてしまえば良いのじゃ!!!」

その後、禰々は寅王丸と甲府に留まったが、【夫を死に追いやった敵の施しは受けぬ】と一切の食事を拒み、衰弱していった。美しく、笑顔の可愛らしかった妹は最後まで自分への恨み言を漏らしながら死んでいった。
その声に耳を塞ぎ、前だけを見て戦場を駆け抜けた。その結果は道半ばでの病死。それを覆すためにも何としてでも頼重と禰々を生かさなくてはならない。
晴信は腹をくくり、顔を上げる。その様子を信義も義光も満足げに見ていた。

「晴信、儂らが授けてやれるのはこの程度だ」
「だが、そなたは一人ではない。頼りになる者がおる。その者らに力を借りよ」
「そなたは賢い漢じゃ。何せ敵を欺くために長年父親と大芝居をうってきたのだからな」
「!!!」

その言葉に晴信は一つ閃いた。

(そうだ。俺は甲斐を……。武田を守るために父上と芝居をしておった。ならば、此度も頼重殿の動きを利用して芝居をしてみるのはどうか?)

晴信の頭の中に一つの策が浮かんできた。それは危険が潜む。恐らく、もう一度禰々から【鬼】と罵られることになるだろう。それでも変えられる未来ならばそちらを選びたいと強く思った。

「どうやら腹が決まったようじゃな」
「はい!」
「ならば、現世に戻るが良い」
「義光様、初代様。この晴信、必ずや天下に躍り出て見せまする」

それだけ言うと晴信は立ち上がり、意気揚々と光の中へと駆けだしたのだった。



晴信はゆさゆさと揺られるのに合わせて瞼を開ける。そこにいたのは香姫であった。晴信はゆっくりとその身を起こす。体のあちこちが痛い。恐らくは板の間に寝転がっていたせいであろう。晴信は大きく伸びをする。

「イタタ」
「こんなところで寝てるからです」
「そうだな」

香姫は腰に手を当て、顔を膨らませている。それを苦笑して受け流す晴信。ふと、ここに香姫がいることに違和感をおぼえ、視線を戻した。

「香。そなた、俺に何か用があるのか?」

晴信の問いかけに香姫が満面の笑みを返してくる。その笑みはどこか禰々に似ていた。

「北の方様が晴信様を探してた」
「母上が?」
「うん。何か心配事があるみたい……」

今にも泣き出しそうな香姫を労るように晴信はその頭を撫でてやった。

「心配するな。俺がおる限り心配事などすぐに片付く」
「うん!!」
「さぁ、そなたも腹が減ったであろう。朝餉あさげにしよう」

晴信は香姫を抱き上げ、広間をあとにした。この先に待ち受ける運命の歯車を感じながら……。

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