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風の章
回り始める運命の歯車
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天文十年(1541年)五月。信虎は村上義清、娘婿・諏訪頼重らと連携して信濃国小県郡へと進攻する。
「ハッハッハッ、さすがは武田自慢の騎馬隊ですな!」
信虎の隣で豪快に笑う虎髭の武将。この男こそ、北信にその人ありといわれる信濃四大将の一人、村上義清である。熊をも思わせるような立派な体躯に噂通りの勇猛果敢さを伺わせた。
信虎はこの男と組むことは【心強い】と喜んでいたが、晴信は好きになれなかった。これからの時代、剥き出しの力だけでは変えることが出来ないと感じていたからである。
「ん? 何じゃ、若いくせに辛気くさい顔をしおって……」
「あ、いえ……」
突然声を掛けられ、晴信が戸惑っていると義清はバンバンと背中を叩いてくる。どうやら活を入れてくれたつもりのようだ。もっとも晴信にとっては迷惑以外の何物でもない。そんな姿を見るに見かねてか頼重が間に入り、軍議が始まることを告げるのだった。
「晴信殿、あまり気になされるな」
「頼重殿……」
「晴信殿は村上殿が苦手か?」
晴信は無言で頷く。頼重は苦笑いを浮かべるのだった。
「何より海野に真田が付いている事も気になる」
「真田? ああ、上田の知恵者か」
「勘助から……、新しく仕官してきた者から真田を引き入れるが上策と」
「なるほど」
頼重は感心したように頷いた。だが、次の瞬間には表情を険しくし【今は目の前の戦場に集中するように】と助言を残したのだった。
五月二十三日、武田・村上の率いる軍勢は海野平で海野棟綱・真田幸綱の軍勢と対決する。結果は武田・村上方の大勝となった。
「いやはや、勝利のあとの酒は格別ですな!」
「確かに」
その夜、勝ち戦に沸いたのは言うまでもない。信虎たちは兵を労い酒を振る舞った。本陣でも簡単な酒宴が催されたのである。だが、晴信はその輪に加わることなく陣幕を離れ、一人物思いに耽る。それに気付いたのは傅役の信方だ。
「若殿、如何されましたか」
「信方か……」
「此度の戦、若殿は喜べませぬか」
信方は核心を突いてくる。その瞳は鋭く、嘘や誤魔化しは通じぬことは明白だ。晴信はため息をついて、夜空を見上げる。
信方はそれを責めるでもなく、ただじっと見つめている。晴信はこの男には勝てぬと思ったようで心の内を吐露した。
「結局、我ら武田は何も手に入れておらぬ」
「左様にございますな」
「俺は父上が信濃を手中に収めるつもりだと思っていた」
晴信はやりきれない思いと共に拳を握りしめる。それは信方も同じようであった。重苦しい空気が二人を包む。それを打ち破るように現れたのは虎康であった。手には徳利と杯を持っている。
「若殿、探しましたぞ」
「虎康……」
「ここには儂と信方しかおりませぬ。腹にため込んでおることあればお話しなされ!」
古参の宿将は晴信の心を見抜いているようだ。篝火の近くに腰を下ろし三人で酒を酌み交わす。晴信はしばし考え込む様子であったが、意を決し顔を上げて二人に告げる。
「父上のやり方では武田が【武家の棟梁】に立つのは夢のまた夢……」
「若殿……」
「父上には武田の当主の座、降りて貰う」
その言葉に信方も虎康も杯を置く。二人は静かに晴信の顔を見つめ、晴信の決意のほどを確かめようとする。そして、二人はこの若き主君の目指す先を見てみたいと思った。それだけの情熱を晴信の瞳の奥に見たのだ。
「幸い、俺は父と不仲であると他国には思われておる。甲府から追い出したところで不審に思われることもあるまい」
晴信の確固たる口調に二人は言葉を挟めない。すると、そこへ近づく足音が聞こえてきた。信方と虎康は輿の獲物に手を掛けいつでも斬りかかれるように構える。だが、それを晴信が手で制す。
「若殿?!」
「そこにおられるのは頼重殿であろう?」
篝火に照らし出された人影は確かに諏訪頼重であった。それに安堵したのか二人は刀の柄から手を離し、再びその場に座る。頼重は苦笑して腰を下ろすと晴信を見やった。
「腹心と密談ですかな?」
「そんなところか」
「して、結論は?」
頼重は既に晴信の心づもりを見透かしているようである。晴信は己の意志を曲げることはないと決めており、頼重を睨むが如く視線を返す。
頼重は一瞬目をそらし、笑みをこぼすと晴信の肩を叩き告げる。
「この頼重。晴信殿の決断に従いまする」
「頼信殿?!」
「確か、駿河に輿入れされた姉君に若子が産まれたそうですな」
「ああ」
「会いに行かれることを進められると宜しいかと」
頼重の進言に信方と虎康は妙案とばかりに頷き合う。晴信がその真意を測りかね、訝しむと頼重はにこりと笑って続ける。
「今川との関係も落ち着いておる今であれば、何の心配もなく行き来出来ましょう。その間にこちらも準備を整えるべきです」
「そのあとはどうせよと?」
「舅殿を甲府に入れねば良いのです」
「駿河に追い返せと言うわけですかな?」
晴信の代わりに答えたのは信方だ。その目はいつになく鋭い。だが、頼重は臆することなく【そうだ】と返した。張り詰めた空気が場を凍り付かせる。それを打ち破ったのは虎康だった。
「それがしも賛同いたす」
「虎康……」
「此度、武田は何も得るものはございませなんだ。小県郡を手に入れたのは村上ですからのぉ」
「そうだ。納得いかぬ者も多くいるはずだ」
「なるべく早く賛同する者を増やしましょう」
晴信たちは頼重の意見に同調し、これからの方針をその場で話し始める。甲斐国人衆を纏め上げ、晴信こそが当主に相応しいと説き伏せて回ることを決めた。
「御館様には気付かれぬよう注意せねば」
「秘密の連絡役が必要ですな」
「それならば心配には及ばぬ」
「若殿?」
晴信は勘助を呼んだ。すると、どこからともなく闇の中から勘助が現れる。先程まで全く気配を感じなかっただけに信方も虎康も驚いている。
「若殿、この者は?」
「山本勘助だ。駿河を経て武田に仕官してまいった」
「山本勘助にございます。以後、お見知りおきを」
晴信は勘助が素波であり、諜報能力だけでなく、軍略にも長けていることを明かす。そして、勘助の元新たな足軽軍団を密かに組織させていることも明かした。
「なるほど、この者なれば面も割れておりませぬから勧め易うございますな」
「そうだ。これから新しき武田を作る」
晴信の決意に信方・虎康だけでなく頼重も頷く。
晴信はまずは飯富の兄弟を口説くことから始めることを決め、勘助に指示を出した。勘助は拝命すると共に再び闇の中へと消えていく。
「俺の力で武田を……。そして、日の本を変えるのだ!」
晴信は強い決意と共に野望に燃えるのだった。
「ハッハッハッ、さすがは武田自慢の騎馬隊ですな!」
信虎の隣で豪快に笑う虎髭の武将。この男こそ、北信にその人ありといわれる信濃四大将の一人、村上義清である。熊をも思わせるような立派な体躯に噂通りの勇猛果敢さを伺わせた。
信虎はこの男と組むことは【心強い】と喜んでいたが、晴信は好きになれなかった。これからの時代、剥き出しの力だけでは変えることが出来ないと感じていたからである。
「ん? 何じゃ、若いくせに辛気くさい顔をしおって……」
「あ、いえ……」
突然声を掛けられ、晴信が戸惑っていると義清はバンバンと背中を叩いてくる。どうやら活を入れてくれたつもりのようだ。もっとも晴信にとっては迷惑以外の何物でもない。そんな姿を見るに見かねてか頼重が間に入り、軍議が始まることを告げるのだった。
「晴信殿、あまり気になされるな」
「頼重殿……」
「晴信殿は村上殿が苦手か?」
晴信は無言で頷く。頼重は苦笑いを浮かべるのだった。
「何より海野に真田が付いている事も気になる」
「真田? ああ、上田の知恵者か」
「勘助から……、新しく仕官してきた者から真田を引き入れるが上策と」
「なるほど」
頼重は感心したように頷いた。だが、次の瞬間には表情を険しくし【今は目の前の戦場に集中するように】と助言を残したのだった。
五月二十三日、武田・村上の率いる軍勢は海野平で海野棟綱・真田幸綱の軍勢と対決する。結果は武田・村上方の大勝となった。
「いやはや、勝利のあとの酒は格別ですな!」
「確かに」
その夜、勝ち戦に沸いたのは言うまでもない。信虎たちは兵を労い酒を振る舞った。本陣でも簡単な酒宴が催されたのである。だが、晴信はその輪に加わることなく陣幕を離れ、一人物思いに耽る。それに気付いたのは傅役の信方だ。
「若殿、如何されましたか」
「信方か……」
「此度の戦、若殿は喜べませぬか」
信方は核心を突いてくる。その瞳は鋭く、嘘や誤魔化しは通じぬことは明白だ。晴信はため息をついて、夜空を見上げる。
信方はそれを責めるでもなく、ただじっと見つめている。晴信はこの男には勝てぬと思ったようで心の内を吐露した。
「結局、我ら武田は何も手に入れておらぬ」
「左様にございますな」
「俺は父上が信濃を手中に収めるつもりだと思っていた」
晴信はやりきれない思いと共に拳を握りしめる。それは信方も同じようであった。重苦しい空気が二人を包む。それを打ち破るように現れたのは虎康であった。手には徳利と杯を持っている。
「若殿、探しましたぞ」
「虎康……」
「ここには儂と信方しかおりませぬ。腹にため込んでおることあればお話しなされ!」
古参の宿将は晴信の心を見抜いているようだ。篝火の近くに腰を下ろし三人で酒を酌み交わす。晴信はしばし考え込む様子であったが、意を決し顔を上げて二人に告げる。
「父上のやり方では武田が【武家の棟梁】に立つのは夢のまた夢……」
「若殿……」
「父上には武田の当主の座、降りて貰う」
その言葉に信方も虎康も杯を置く。二人は静かに晴信の顔を見つめ、晴信の決意のほどを確かめようとする。そして、二人はこの若き主君の目指す先を見てみたいと思った。それだけの情熱を晴信の瞳の奥に見たのだ。
「幸い、俺は父と不仲であると他国には思われておる。甲府から追い出したところで不審に思われることもあるまい」
晴信の確固たる口調に二人は言葉を挟めない。すると、そこへ近づく足音が聞こえてきた。信方と虎康は輿の獲物に手を掛けいつでも斬りかかれるように構える。だが、それを晴信が手で制す。
「若殿?!」
「そこにおられるのは頼重殿であろう?」
篝火に照らし出された人影は確かに諏訪頼重であった。それに安堵したのか二人は刀の柄から手を離し、再びその場に座る。頼重は苦笑して腰を下ろすと晴信を見やった。
「腹心と密談ですかな?」
「そんなところか」
「して、結論は?」
頼重は既に晴信の心づもりを見透かしているようである。晴信は己の意志を曲げることはないと決めており、頼重を睨むが如く視線を返す。
頼重は一瞬目をそらし、笑みをこぼすと晴信の肩を叩き告げる。
「この頼重。晴信殿の決断に従いまする」
「頼信殿?!」
「確か、駿河に輿入れされた姉君に若子が産まれたそうですな」
「ああ」
「会いに行かれることを進められると宜しいかと」
頼重の進言に信方と虎康は妙案とばかりに頷き合う。晴信がその真意を測りかね、訝しむと頼重はにこりと笑って続ける。
「今川との関係も落ち着いておる今であれば、何の心配もなく行き来出来ましょう。その間にこちらも準備を整えるべきです」
「そのあとはどうせよと?」
「舅殿を甲府に入れねば良いのです」
「駿河に追い返せと言うわけですかな?」
晴信の代わりに答えたのは信方だ。その目はいつになく鋭い。だが、頼重は臆することなく【そうだ】と返した。張り詰めた空気が場を凍り付かせる。それを打ち破ったのは虎康だった。
「それがしも賛同いたす」
「虎康……」
「此度、武田は何も得るものはございませなんだ。小県郡を手に入れたのは村上ですからのぉ」
「そうだ。納得いかぬ者も多くいるはずだ」
「なるべく早く賛同する者を増やしましょう」
晴信たちは頼重の意見に同調し、これからの方針をその場で話し始める。甲斐国人衆を纏め上げ、晴信こそが当主に相応しいと説き伏せて回ることを決めた。
「御館様には気付かれぬよう注意せねば」
「秘密の連絡役が必要ですな」
「それならば心配には及ばぬ」
「若殿?」
晴信は勘助を呼んだ。すると、どこからともなく闇の中から勘助が現れる。先程まで全く気配を感じなかっただけに信方も虎康も驚いている。
「若殿、この者は?」
「山本勘助だ。駿河を経て武田に仕官してまいった」
「山本勘助にございます。以後、お見知りおきを」
晴信は勘助が素波であり、諜報能力だけでなく、軍略にも長けていることを明かす。そして、勘助の元新たな足軽軍団を密かに組織させていることも明かした。
「なるほど、この者なれば面も割れておりませぬから勧め易うございますな」
「そうだ。これから新しき武田を作る」
晴信の決意に信方・虎康だけでなく頼重も頷く。
晴信はまずは飯富の兄弟を口説くことから始めることを決め、勘助に指示を出した。勘助は拝命すると共に再び闇の中へと消えていく。
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