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風の章

妹の輿入れと諏訪の姫

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天文九年(1540年)十一月。
信虎の三女であり晴信の妹である禰々ねねが諏訪頼重に輿入れする。禰々は不安をおくびにも出さず甲府を発った。国境までは晴信も同行する。

「兄上、ここから先は信濃でございます。お戻り下さい」
「禰々……」
「心配には及びませぬ。必ずや諏訪との架け橋となりまする」
「わかった。皆にはそう伝える」
「兄上も御達者で……」
「そなたもな……」

禰々は気丈に笑って見せた。晴信はその意思をくみ取り、自身も笑って別れを告げた。それでも名残惜しく、妹の乗せた輿が見えなくなるまでその場に留まったのである。



それから数日後。入れ替わるように諏訪からは頼重の娘である香姫が甲府へと人質として差し出された。

「滝、あれが富士の御山なんですって!」
「左様でございますね」

興味津々といった感じの香姫に侍女である滝はため息交じりに応えている。諏訪から出たことのなかった香姫にとって道中は珍しいものばかりであった。そのため見るもの全てに興味を示したのである。
そんな中、香姫と滝は甲府の躑躅ヶ崎つつじがさき館へと入る。まず、案内されたのは信虎の正室・大井の方が住まう北の方であった。

「諏訪頼重の娘、香にございます」
「遠いところ、よう参られました。これよりはこの館がそなたのうち。気兼ねのう過ごされませ」
「はい。お気遣い痛み入ります」
「まずは旅の疲れを癒やされるとよろしかろう。甲府は良き湯がありますから」
「ありがとうございます」

それから香姫は晴信の正室・三条の方にも目通りする。父の義兄となった晴信の奥方とあって香姫は気を張っていた。

「香姫、そのように気を張っては疲れましょう」
「ですが、お方様は若殿様の奥方で……」
「私も遠く京より輿入れしましたので心細く思うたものです」

三条が懐かしそうに遠い目をする。その姿に香姫が驚いていると後ろに控えていた滝が小声で「お方様は左大臣家の姫君であらせられます」と教えてくれた。

「諏訪とはしきたりも違うでしょうから、肩肘など張らず慣れるから始められると良いでしょう」

そう言って三条は柔らかく笑う。香姫もつられて笑顔になったが、射すくめられるような視線を感じて表情を消す。そして、そのまま宛がわれた自室へと上がったのだった。



自室に下がった香姫は大きく息を吐くと両足を投げ出す。その姿に眉を顰めて滝が窘めると、ふて腐れたような顔になった。今度は滝が大きなため息をつき、周囲を探るように目を細める。そして、香姫に向き直り、人差し指で唇を二度叩いた。
それは二人で決めた合図である。誰にも気付かれないように意思の疎通を図るために編み出した方法で会話をすることを意味していた。
滝は戸隠の生まれで乱波と呼ばれる忍びであった。頼重が娘の行く末を案じ、彼女の知り得る知識を与えるようにと命じていたのである。
その一つが唇を読んで意思の疎通を図る術、読唇術である。

<姫様、お気づきになりましたか?>
<あの視線のこと?>
<はい。あれは危険にございます>
<一体誰が……>
<奥に控えていた年嵩の侍女がおりましたでしょう?>

滝の言葉に香姫は一人の侍女の姿を思い出す。香姫は本能的にあの侍女が危険な存在だと察していた。それを滝も感じたようである。

<お気を付けなさいませ>
<大丈夫よ>
<何を言われますか!>
<だって、私はまだまだ【子供】だもの>

香姫はクスリと笑ってやり過ごす。その緊張感のなさに滝は再びため息をこぼした。確かに香姫は十歳である。皆が子供と侮って用心するなどといったことはないであろう。だが、あの三条に仕える年嵩の侍女だけは【女】としてみていたのは間違いない。滝はそう確信していた。それをなんとかしてこの幼い主に分からせねばと思うのだが、どうにも伝わりそうになかった。



数日後、信虎は信方・虎康などの主立った家臣に晴信も加え、軍議を開いていた。

「諏訪殿を引き入れたのであればやはり村上とも手を結びますか……」
「儂はそのつもりでおるが、皆はどうだ?」
「異論はありませぬ」

皆が賛同する中、晴信だけが難しい顔をしている。

「晴信、そなたは乗り気ではないといった表情だのぉ」
「正直に申しても?」
「言うてみよ」

晴信は信虎と向き合い、確固たる決意を持って己の意見を述べることに迷いはなかった。

「父上、信濃全土を武田領内とするべきです」
「何?」
「我らは【武家の棟梁】を目指すのでありましょう?このようなところで足踏みをしているわけには参りませぬ」
「どうしろと?」
「村上や上杉と結ぶのではなく、北条と……」
「ならぬ!」
「父上!!」

信虎は激高した。それでも晴信は食い下がろうとしたが、信虎の一睨みに靴をつむらざるを得ない。それほどまでの勢いが信虎にはあったのだ。信虎は村上と結んで海野一族を責めることを決めたのだった。



晴信は【頭を冷やしてくる】とだけ言い残して遠乗りに出かけた。ただならぬ様子に弟・信繁もついてきた。二人は甲府の城下町を見下ろす丘で馬を下り、その場に座り込んだ。

「兄上、父上と何かありましたか?」
「何故そう思う?」
「父上が随分怒っておいででしたので……」

信繁の困ったような表情に晴信は肩をすくめた。

「父上を怒らせた」
「やはりそうでしたか」
「俺は北条と結ぶべきだと思っている。信繁はどう思う?」
「さぁ、それがしにはまだなんとも……」
「そうか……」

まだ、年若い信繁には難しい話のようであった。晴信は深いため息と供にその場に寝転がる。見上げる空は青く、どこまでも高い。そんな晴信の視界を塞いだのは幼い少女の顔だった。

「晴信様、みーつけた」
「!!」

晴信は驚きのあまり起き上がろうとしてその少女のおでこに頭をぶつけてしまう。ゴチン、と大きな音が頭に響き、晴信は頭を押さえてしまう。

「痛ーい!」
「ぐぅぅ」

自分と同じようにおでこを押さえているのは香姫であった。

「兄上、大丈夫ですか?」
「あ、ああ」

信繁の心配する声はどこか笑いを堪えていうように聞こえる。晴信はムッとして睨みつけると信繁はサッと視線を逸らしたのだった。

「香姫、どうしてここにいる?」
「えっと……」
「私がお連れしました」
「勘助?」

晴信は香姫の迎えにやったのが勘助であったことを思い出す。初めて会ったときもそうであったが、この少女は兎に角好奇心旺盛だ。【甲府の街を見たい】とでもいったのであろう。
勘助に目をやれば、申し訳なさそうに眉を下げている。確か、勘助の妻子は未だ駿河にいると聞いている。きっと、我が子のことを思い出し、この少女の願いを叶えたくなったのであろう。

「香姫は館を出て何をしているのだ?」
「息抜きです」
「息抜き?」

香姫の言葉に晴信の眉が不機嫌に寄る。その様子に信繁も何か違和感を感を覚え晴信の隣に腰を下ろした。

「香姫、息抜きとはどういうことだ?」
「えっと……」

晴信の反論を許さぬ強い眼差しに香姫は正座をして項垂れる。その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいるようだった。それを見かねた信繁が間に入ろうと言葉を掛ける。

「香姫は甲府に来て間もないのです。諏訪との違いに戸惑っているということでしょう」
「だが、息抜きというのはいささか気になる」
「兄上」

晴信は某ら心当たりがあるかのような物言いに信繁はどうしたものかと困惑する。それを見ていた勘助が口を開いた。

「恐れながら申し上げます」
「なんだ?」
「躑躅ヶ崎館には姫様を快く思わぬ女狐がおるようです」
「女狐と?」
「はい……」

信繁はその意味を理解出来ぬようで困惑しきりである。だが、晴信は思い当たることがあるのだろうか、目を伏せため息をつく。

「兄上?」
「信繁、ここでのことは他言無用だ」
「え?」
「晴信様も気付いておいででしたか」

勘助の言葉に晴信は黙って頷く。三条が輿入れした頃からその気配には気付いていた。そして、それは太郎が産まれた頃からその気配は強く、そして禍々しくなっていた。その気配の主は三条輿入れの時から付き従う侍女・多重である。
多重は終始女子たちに目を光らせていた。特に晴信に近づこうとするものには容赦がなかったのである。

「確かに多重殿は厳しくはありますな」
「ただ厳しいだけではない。俺に近づかぬように見張っているのだ」
「何故、そのようなことを」
「三条のためであろう」
「義姉上のため?」

その言葉に勘助も頷く。
多重は幼い頃から三条に仕えている。恐らくは晴信の寵愛が失われるのを最も恐れているのだ。そして、その危険因子を芽吹かぬうちに摘み取ることに終始しているのである。

「まさか、兄上が香姫に心変わりするとでも?」
「香姫様もあと五年もすれば美しく成長なさいましょう」
「ああ、なるほど……」
「信繁、そこで感心するな」
「あ、あの!」

それまで黙っていた香姫が顔を上げる。その瞳には懇願の色が色濃く出ていた。

「香姫?」
「しばらくは何もしないで……」
「しかし」
「私には滝もいるから」

香姫は儚げに笑う。その笑顔は悲しみを奥に隠しているのは言うまでもない。晴信は抱きしめてやりたくなったが、それより先に信繁が抱き寄せ自分の膝の上にのせた。

「香姫は何も心配せずとも良い。我らが味方だ」
「信繁様?」
「勿論、兄上や勘助も、な」

信繁は優しげな眼差しを向け、香姫を励ます。それに応えるように香姫は花が咲いたような明るい笑みを浮かべたのだった。

「姫様、こんなところにいらしたのですか!」
「滝……」
「山本様、勝手に連れ出すのはおやめ下さいと前にも申したでしょう」
「面目ない」

息を切らせて現れたのは香姫の侍女・滝である。滝は勘助をキッと睨みつけ、香姫に対しては拳骨を落としかねない勢いである。

「それくらいで許してやってくれ」
「若殿様?」
「どうやら、香姫にはあの館は息苦しいようだ」

晴信のその言葉に滝は思い当たったのであろう。申し訳なさそうな顔をしている。

「さて、そろそろ帰りましょう。皆も心配するでしょうから」
「そうだな」

信繁の提案に晴信も賛同し腰を上げた。信繁が馬を捕りに行っている間に晴信は滝に耳打ちした。

「香に何かあれば遠慮なく勘助に申せ」
「え?」
「そなた、知っておるのだろう? 香がいずれ俺の側室に上がること」
「!!」
「頼重殿が香をどれほど大事に思うておるかは知っておる」

晴信のその言葉に滝は安堵する。晴信は苦笑いを浮かべ、今しばらくは香姫を側室にあげるつもりがない旨を伝えた。そして、その間に香姫を守る算段を勘助と供に付けておくように供。

「若殿様……」
「勘助は新参者ゆえ、表立っては軍議に加わらぬ。だが、逆にそれは腹心を作りやすいということだ」
「なにを……」
「香を陰から支えるものを作れ。俺が許す」
「それは殿はご存じなのでしょうか?」
「無論だ」

滝は表情を引き締め、頷いた。晴信はそれでいいといわんばかりに笑顔を向けたのだった。ちょうどそこへ信繁が馬を連れてくる。晴信は愛馬に跨がると香たちに告げる。

「俺たちは急ぎ戻るが、お前たちはもう少し城下を見て回るといい」
「よろしいのですか?」
「滝殿、ここは兄上の言葉に甘えておきなされ」
「信繁、参るぞ!」
「はいはい」

晴信は馬首を返し、鞭を入れると館へ向けて走らせた。信繁もそれに続くように馬の腹をけり走らせる。その姿を見送る香姫たち三人だった。


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